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日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『柳橋物語』    山本周五郎 著

2019年09月29日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

*『柳橋物語』『樅ノ木は残った』のネタバレ、あらすじが

書いてあります。

名作です。私のつたない文章であらすじを知るより

先に原作を読まれる事を強くお薦めします。

ご承知おき下さい。

 

小さい頃から時代劇は好きだった。

NHK大河ドラマ、金曜時代劇、水戸黄門、大岡越前、銭形平次、

時代が下り、

木枯らし紋次郎、必殺仕掛人、子連れ狼、破れ傘刀州、大江戸捜査網

少し思い出そうとしただけでもこれだから、

私の子供の頃はTV時代劇の黄金期であった。

 

中学生の頃好きで必ず観ていた時代劇があった。

『ぶらり信兵衛道場破り』という

道場破りを生業としている、長屋住みの浪人信兵衛が主人公で

高橋英樹さんが演じられていた。

 

チャンバラが見せ場の時代劇には珍しく

圧倒的な実力を持ちながらも、最後は道場主に

華を持たせて見事な負け方をしてお金をせしめるという

殺陣さえ人情喜劇の演出にしてしまった面白い時代劇であった。

 

本当は2クール半年で終わるはずだったのが人気が出て

もう2クール延長され一年放送されたのだけど、

ヒロインのお文役の武原英子さんと

お文のお爺さん役の大宮敏充さんがスケジュールがつかず

延長後交代された。

 

私は当時、武原英子さんのお文が気にいっていたので、

けっこう残念だったが、

それでも『ぶらり信兵衛道場破り』が続いてくれたのはうれしかった。

 

とても、気ににいっていたので、

自然とエンドロールで原作を知りたいと思い、

この作品が山本周五郎氏の『人情裏長屋』という

作品が原作だと知った。

 

*この作品は2015、2016年とBS時代劇にて『子連れ信兵衛』

というタイトルで信兵衛を高橋克典さんが演じて再ドラマ化された。

 

山本周五郎という名前をいつ知ったかは記憶は定かではないが

私が子供の頃の昭和30年代から40年代、時代劇の原作に

山本周五郎氏の作品は多数使われていた。

その中で多分私が氏の作品ではっきりとストーリまで

覚えていた最初の作品は

NHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』だろう。

 

江戸時代の伊達藩のお家騒動を扱った作品を

 平幹二朗さん田中絹代さん、栗原小巻さん、吉永小百合さんと

昭和を代表するような俳優さんが演じられていた。

とにかくドラマの最後が印象的で、

主役の平幹二朗さん演じる原田甲斐のお家の為に

泥を被り死んでゆく武士の美学が

子供であった私にも沁みるような余韻を残した作品だった。

 

子供の頃も成人してからも、

山本周五郎氏の原作と知らずに多くのテレビ番組や映画を観ていた。

有名なところでは、映画監督、黒澤 明氏の映画の原作とされいる

『椿 三十郎』』、『赤ひげ』、『どですかでん』、

がある。後、脚本が残され、後に映画化された『雨あがる』もある。

(どですかでん、は現代劇)

 

確かに映画の脚本は原作とはかなり違うものもあるが、

山本周五郎氏の作品から黒澤 明監督が多くの

インスピレーションを受けたのは間違いないだろう。

 

時代劇TVドラマにいたっては、これは氏の原作を元に作られているなと

思える作品は本当に数限りない。

日本の戦後の時代劇が山本周五郎という作家から受けた影響は

本当に大きかったのではないかと思う。

 

 

そんな山本周五郎氏の文学作品に

19歳の私は孤独な日々の中でもう一度出会った。

 

通り魔事件・親殺し子殺し・引きこもり・子供部屋おじさん             メメントモリ ・生死の対話  

の中で下記のように書いた。


私は人に関わる事が怖くなり、部屋に閉じこもった。

芸術に対する情熱も失い、インターネットのないあの時代

現実から逃避する為にひたすら本を読んだ。

本を読んでいる間は現実を忘れる事が出来た。

 

人と全く会話のない孤独な時間の中で、ある小説家の作品との出会いが

私にもう一度、人を信じ、前に進む勇気を与えてくれた。

 

このある小説家とは山本周五郎氏の事だ。

 

私は父の影響(小学生の私に『『坂の上の雲』を読ませた。)も有り、

小学生の頃から司馬遼太郎氏の歴史小説を好んで読んでいた。

 

だが、思春期に突入し三島由起夫氏の作品を読んでからは

純文学一辺倒になっていった。

私の世代は十代の半ばに村上龍氏が『限りなく透明に近いブルー』で

華々しくデビューした頃にあたり、TVでも何かと話題となり

読まないわけにはいけないような雰囲気があった。

私は村上氏より、その次の芥川賞を受賞した中上健次氏の作品が好きで

『岬』『枯れ木灘』などの作品を貪るように読んでいた。

それ故、当時の読書の対象もまたそのような文学作品ばかりであった。

 

当時、受験仲間の自殺した街から逃げ出し、

新しく住み着いた街で、

外に出るのは食料調達か、図書館か本屋だった。

ある時たまたま立ち寄った本屋で

平積されている文庫本が目に入った。

それは、表紙に日本の古いに合わせ鏡がシルエットのように

配置され、その中に白抜きで蒔絵の柄のように草が描かれていた。

手に取って見るとそこには

『小説 日本婦道記』 山本周五郎 と記されていた。

裏表紙の紹介文には、厳しい武家の定めの中で生きた

女性たちの短編集である事が書かれていた。

 

当時よほどの事がなければ新刊本を買わなかった私は

その和モダンの印象的な表紙につられ、迷わずレジに向かった。

 

帰宅し、一気に

 『小説 日本婦道記』を読み終えると

すごく長い吐息が漏れた。

長らく、胸の中に貯まっていた、もやもやしたものがなくなり

一陣の風が胸の中を通り過ぎて、若草の香りがわずかにするような

清涼感が残った。

 

 

彼の死以後、私は自分の二十歳の誕生日を迎えるのがたまらなく

怖かった。

彼は二十歳にならずに自らの命を絶った。

私は自分が十六の時に自身の精神の虚無と死の淵を経験しながらも

彼の悩みに全く気づく事が出来なかった自分もまた

二十歳になる資格がないのではないかと

誰も知らない街のアパートの一室で、一人怯えていた。

 

それは、私が二十歳になる夜に、

クリスマスイブの夜に

クリスマスキャロルのスクルージの前に現れた精霊のように、

死神が私の前に現れ、有無を言わせず連れ出して

彼の前に立たされるという恐怖であった。

 

当時の私は死んだ彼の前に立ったら、何と語り掛ける事が出来るのか

その答えをさがし求めていた。

 

受験や芸術で悩み死んでいった彼に対して

私なりの納得のゆく返答をする事ができなければ、

とても顔上げ、前を向いて彼の前に立てないと思えた。

 

『小説 日本婦道記』はそんな私の心を

厳しい定めの中にあってなお、凛として生きてゆく女性たちの姿

を描き切る事で、

風の祓いのように一時、吹き清めてくれたのだった。

 

それ以後、私は山本周五郎氏の時代小説の世界に魅入られ

やがて『柳橋物語』に出会った。

 

『柳橋物語』

 

この作品は江戸の下町が舞台だが、

物語は、今もどこにでもある庶民が暮らす街の夕暮れから始まる。

 

主人公の十七歳の娘「おせん」は祖父と暮らしている。

おせんが夕食の支度をしていると、店の方から

幼なじみの庄吉と祖父とのやり取りの声が聞こえてくる。

どうやら会話から庄吉が旅に出るように聞こえる。

庄吉は店を出た後に勝手口に回り、

窓を開け、おせんに柳河岸で待っていると告げ

思い詰めた顔をして去ってゆく。

 

夕暮れの墨田川の河岸、柳の木の下でおせんは

庄吉から、江戸を出る理由は

大工の棟梁の杉田屋で共に育った、

おせんにとっても、もう一人の幼なじみの幸太が

棟梁の跡継ぎとして養子になる事がきまったからだと告げられる。

 

庄吉に、幸太と同格になる為に、上方にいって稼いで親方の株を手に入れるから

それまで、誰とも結婚せず待っていてくれるように頼まれ、

おせんは夕暮れに照らされた河岸の雰囲気に飲まれるように、

庄吉の言葉どうり待っていると約束する。

 

おせんの激流のような人生の運命は結果からいえば

この夕暮れ時の河岸での、

わずかな時間での約束によって決まってしまった。

 

おせん、幸太、庄吉は幼なじみであった。

おせんも両親に死に別れ、杉田屋に住み込みで働く幸太と庄吉に

幼き日に出会い、成長した。

幸太は小さい頃は、口の利き方が乱暴で大人と達者に口喧嘩をするようなふうで

庄吉はおとなしく、ひ弱で見た目は女の子のようであった。

 

幸太、庄吉共に

おせんが好きであったがおせん自身は

庄吉に河岸で告白されるまでは

そのような特別な思いをどちらかにも抱いた事はない。

二人ともそれぞれに近しい幼なじみであった。

だが告白された事によって、おせんの熱情は庄吉に傾いてゆく。

 

十七歳のおせんにこれ以後、様々な不幸が襲いかかる。

幸太郎が跡継ぎと決まった杉田屋から、おせんへの縁談の話があるが

祖父がおせんの亡くなった母親との因縁を理由に幸太との縁談を断る。

その話を詳しく聞いて、おせんは杉田屋と自分との関係を祖父が嫌っていた理由知る。

庄吉との約束の事もあり、杉田屋と幸太とは疎遠になろうと決めたのだが、

縁談が破談になった後も幸太は祖父に話しに来るのをやめず、何かにつけおせんの所に

顔を出して世話を焼こうとする。だが祖父もきっぱりと幸太にもう来ないよう告げる。

そうこうするうちに、祖父が病で倒れ仕事が出来なくなり、

おせんはお金に困り内職をはじめるが

そんなおせんを幸太はほっておけず、お金を渡し、手助けをしようとする。

 

おせんは庄吉との約束を守る為と、幸太が煩雑に来た事で

おせんが幸太の妾であるかのような噂が流れている事を理由に

幸太の申し出をきっぱりと断り、手をつけていなかったお金もつき返す。

それ以後、幸太はおせんの前にはあらわれなくなる。

 

その事があってしばらくしたある夜、江戸の街に火事が起こる。

火事は想像以上の大火となり、おせんの街にも迫ってくる。

幸太はおせんの元にかけつけ、身動きが出来ない祖父を担いで

火事の江戸の町をおせんと共に逃げまどう。

 

火事に行く手を遮られ、また木戸が閉められ、

橋のない墨田川の河岸におせんたちをはじめ

多くの人々が追い詰められてしまう。

 

地獄絵図のような光景の中

幸太はおせんと祖父を布団をかぶせ守ろうとするが、

火の勢いは益々増してゆく。やがて、幸太は

祖父が息をしていない事に気づき、おせんにわびる。

おせんは、

祖父を連れて逃げてくれた事の礼を幸太に告げる。

炎は河岸の家を焼き燃え盛る瓦礫が落ちて来る中、

おせんは赤ん坊の泣き声を聞きつけて

焦げてくすぶっている、ねんねこにくるまった赤ん坊を見つけ抱き上げる。

ほっておくように幸太に言われるがおせんは赤ん坊を離さない。

燃えさかる炎の下で幸太は

おせんへの告げることが出来なかった切ない想いをついに告げる。

そして、おせんと赤ん坊を守る為に、河に降りても足がつくように

石材を川底に積み上がるようにいくつも落としてから、

赤ん坊を抱いたおせんを河に降ろし、流されないように石垣にしがみつかせる。

幸太はおせんの上に布団をかけて、火から守ろうと手で布団に水をかけていたが

流れてくる手桶が目に入り、それを取ろうとして水に入ったが、

すでに力を使い切ってしまい、「おせんちゃん」と声を残し

川面に消えてゆく。

 

その後のおせんの記憶はお救い小屋から始まる。

命を救われたのは、おせんと、

おせんが拾った誰が親ともしれない赤ん坊だけであった。

 

祖父と誰かが死んだ事は朧気ながら覚えているが、

夢の中の事のようではっきりしない。

 おせんは記憶が混濁し火事以前の記憶が無くなり

自分がどこの誰で何故赤ん坊を

連れているかさえ、思い出せなくなってしまう。

その事で拾われた赤ん坊はおせんの子供とみなされる。

最初の内は赤ん坊の為に乳をわけてもらったりしていたが、

日がたつとそれもなくなり、小屋を押し出されてしましい

乳飲み子を抱えふらふらしているところを声をかけられ

その声をかけてくれた勘助夫婦の世話になるようになる。

 

やがて火事で焼けた街が再び活気を取り戻してゆくように

新たな暮らしの中でおせんの記憶は段々と蘇ってゆく。

 

物語は、庄吉が帰ってき、おせんが育ている赤ん坊を

幸太の子供と勘違いした事から、おせんが再び追い詰められてゆく。

 

様々な不幸に見舞われるが、おせんの回りには

世の人情や縁によって助けてくれる人々もいて、

人の世の巡り合わせの不思議さを感じさせる。

運命に翻弄されたおせんは、多くの不幸を経験したが、

その事によって、真実の愛とはどのようなものなのか、

苦難の果てに気づいてゆく。

 

物語の最後

おせんの、死んだ幸太への語りかけの言葉が胸を打つ。

大火の折り、そこに橋があれば多くの人が助かったという理由でかけられた

柳橋の完成を祝う人々の賑わいや、お囃子の音が聞こえてくるかのような

結びが、心にいいしれぬ余韻となって残る名作である。

 

 

私は、『柳橋物語』を読み進めてゆくうちに    

「おせん」に起きた事がまるで自分に起きた事のように思えた。

そして、涙が溢れて、途中何度も読む事が出来なくなった。

 

特に、火事の後おせんが記憶を無くし、彷徨う場面では

自身の十六歳の片頭痛の際に経験した記憶の欠落や混濁を思い出し

胸が押しつぶされそうになり、その先を読み進む事が中々出来なかった。

当時の私も外界の出来事が遠くに感じられ

おせんと同じように、どこか夢をみているような

そんな精神状態で何ヶ月かを過ごした。

 

庄吉が戻りはしても、おせんは赤ん坊の事で誤解されたまま

その事が引き金になり、精神の平行を何度も失いそうになる。

おせんの回りの人々も浮世の容赦ない運命に翻弄されて

死んだり、離れたりしてゆく。

そんな苦難の末に、ついに幸太の声はおせんに届き、

真実の愛とはどのようなものかを悟らせる。

 

読み終えて

私はおせんの人生の中にようやく、探し求めていた答えが見つかった気がした。

 

人間とは運命に翻弄される宿命にあり、

その事を拒む事などできない。

そして、人間はいつか必ず死ぬ。

 

そのある種の『諦め』をまずは受け入れる事から始めようと。

 

そして、人生とは不条理で矛盾だらけの世界を生きる事であり、

肉体の死は平等に誰にも訪れる。

だが、人間は肉体が消え去ったとしても、

消す事ができない真実を残す事は出来うるはずだと。

 

物語の最後、おせんが、幸太の位牌に向かって呼びかけをすると

幸太の満足そうな顔が浮かびあがる。

 

その瞬間、私の前に笑顔の彼が立っている姿が目に浮かんだ。

 

「もう一度顔を上げ、前を向いて生きてゆこう」

 

柳橋物語は

運命を受け入れ、人を信じ、人の海に漕ぎ出す勇気を再び与えてくれた

私にとって、人生のかけがえのない一部となった珠玉の物語である。

 

 

 

 

 

 

 

柳橋物語・むかしも今も (新潮文庫)
山本 周五郎
新潮社

映画  『砂の器』  と 『生きがいについて』

2018年05月30日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ
守護神ハイヤーセルフと共に生きるフライウェイ - 人生・家族・スピリチュアル 運命を信じた男の病の果て (MyISBN - デザインエッグ社)
 源 現 著

デザインエッグ社

 

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*映画『砂の器』と『生きがいについて』神谷恵美子 著 のネタバレがありますので

どちらも観たり読んだりされてない方は

観賞後、読了後に読む事をお勧めします。

 

 

 

ハンセン病(らい病)の歴史は古い。

西洋も日本も古文書(聖書、日本書記など)に

この病を指したと推測できる記述が多数みられる。

 

日本でも座敷牢に押し込められたり、家族に迷惑をかけまいとして、

放浪癩』となって故郷を捨て彷徨うような過酷な歴史があった。


明治40年「癩予防に関する件」制定  放浪患者の隔離

明治42年 全国五か所で公立療養所開設

昭和6年 「癩予防法」成立     この法律の制定により日本中の全てのハンセン病患者が

                  療養所に隔離できるようになる。

                  この法律に前後して行われた「無らい県運動」により

                  ハンセン病を全てなくそうという

                 「強制隔離によるハンセン病絶滅政策」が広まる

昭和18年 アメリカで、ファヂニー、プロミンの治らい効果を発表。

昭和28年  「らい予防法」制定  「癩予防法」の一部を作り直した法律。

                 「強制隔離」 「懲戒検束権」などはそのまま残る。

                 患者の働くことの禁止、療養所入所者の外出禁止を規定。

平成8年  「らい予防法」廃止  「らい予防法」の見直しが遅れた事を

                  厚生労働大臣が謝罪。

                                 厚生労働省HPより。


松本清張原作、野村芳太郎監督 映画『砂の器』は

昭和48年に蒲田で起きた手がかりの少ない殺人事件を捜査してゆくうちに

犯人のピアニストで作曲家の動機が隠された出自に関連している事が

解き明かされてゆく物語だ。

 

物語の発端である、殺人事件捜査の現在進行形の刑事ドラマと

犯人の過去を重ねるように

回想部分として昭和17年頃の「無らい県運動」が一番激しかった頃が描かれ

『放浪癩』の親子と、その歴史的な差別と人間の宿命や業

親子の愛情を美しい日本の風景を織り交ぜながら

劇中のオーケストラの演奏曲がサウンドトラックと重なり

邦画の名作の一つとされている。

 

『砂の器』の原作は昭和31年から約一年に渡り読売新聞夕刊に連載された。

私は今だにこの『砂の器』の原作小説を読んでいない。

私にとっての『砂の器』は中学生の時に観た野村芳太郎監督の映画が全てである。

それ故これは、映画の『砂の器』を元にした文章である事をご容赦願いたい。

 

原作の発表から映画化まで約13年の時を経たのは、ハンセン病というテーマが

当時でさえ社会的タブーに近く、実際差別の助長に繋がるとして制作反対の運動まで

あった事なども、これだけの時間がかかった理由の一つであろう。

 

 数日前、何十年ぶりにこの映画を観なおした。

中学生の時に見た時の印象と大きな違いはなかったが、

歳を重ねて観ると、特に後半の親子の放浪を描いたシーンは

芥川也寸志氏の名曲と相まって

50を過ぎてから涙腺が弱くなった私には

ティシュなしでは観る事が出来ない映画であった。

 

中学の時に映画館で観た時はそのドラマチックな演出方法に驚き

親子の境遇に同情しても、泣くまではいかず

その劇中の犯人である主人公の作曲家が弾き振りをする

『宿命』という曲の演奏と、親子の放浪のシーンを重ねる演出。

演奏会終了と共に犯人逮捕を予感させ、クライマックスを迎える手法に

いい映画を観たという満足感が残った作品であった。

 

たった一度映画館で観たにも関わず

丹波哲郎さんが演じる刑事が、犯人の親である療養所に隔離され生きていた

加藤嘉さん演じる父親に面会するシーンで

車椅子に座り年老いた父親が、生き別れた息子の成人した写真を観て

自分の息子で有る事を直感で感じながらも

『こんな人は知らない』と言って号泣する姿は

『砂の器』の名場面としてはもちろん

私のようなものにはおもんぱかる事ができない究極の悲しみの象徴として

脳裏にずっと残っていた。

 

改めて観た『砂の器』には昭和40年代の日本の風景が見事に映し撮られていて

その風景描写を観るだけでも価値があると思えるほど、懐かしく、また美しかった。

特に、丹波哲郎さんが演じる刑事が、捜査の為に東北や、中国地方の田舎を巡る描写や

父と子が放浪の旅をする後半の風景は古き良き日本の記録として

永久保存しておきたいと思えるほどのものであった。

また、出演されている俳優の方々も豪華で、

映画館の場面で、渥美清さんと丹波哲郎さんという

まるで違うジャンルの映画で勇名をはせた二人が共演するシーンはとても珍しく

感慨深いなんとも言えない気持ちになった。

 

また後半の回想部分で、殺人事件の被害者で幼き頃の犯人の世話をした警察官を

緒形挙さんが演じられていて、

(緒形さんは最初、加藤嘉さんが演じた、父親役を熱望して監督にお願いしたが、

 加藤さんの配役は最初から決まっていたので、この役となったらしい。 )

あまりの豪華さにそれだけでお腹いっぱいになってしまう感じであった。

他にも森田健作さん、山口果林さん、島田陽子さん、

渋いところで佐分利信さん,笠智衆さんなど

有名な俳優さんが多数出られていてまさに昭和を感じる映画であった。

 

偶然としか思えない事による証拠の確保や、

犯人のクラッシック音楽家としての成功が

あまりにもリアリティーがない

(原作では前衛作曲家であり、クラッシック音楽の高レベルの習得には

幼少時からの絶体音感などの教育が不可欠であり

犯人がそのような事が出来ない状況であり、

かなりの年齢に達してから苦学して才能を認められただけでは納得がとても出来ない)など

 今観ると確かにいくつかのツッコミどころはあり

また公開当初から後半の親子の放浪シーンが長すぎるとか、色々批評されたらしいが、

それでも直

このように長く評価され続け、残ったのは、

抗う事の出来ない極限的状況に置かれた人間と

その事象に関わった、個人、社会それぞれの向き合い方を描く事によって

人間の精神の奥底にある光と影

宿命、業などを見事に浮かび上がらせているからだろう。

 

再び『砂の器』を観て最初に思い浮かんだのは

今月TV番組で紹介された『生きがいについて』の著者神谷恵美子氏が

若き女子医専時代の夏休みに国立療養所長島愛生園をたずね時の体験から記した

『癩者に』という詩の中の

 

「なぜ私たちではなく、あなたが?  あなたは代わって下さったのだ」

 

 という一節であった。

 

 NHKEテレ『100分de名著』という番組が好きでいつも楽しみにしている。

若い頃に読まなければと思っても、結局この歳まで読む事ができずにいた本が

取りあげられると、それを良い機会だと思って今度こそ読んで見ようと

思わせてくれる、良い番組だ。

『中二病』という言葉の発案者とされる伊集院光氏のコメントも

自身の体験に落とし込んだ実感の伴うものが多く、

専門家の解説の補足として、理解をおおいにに助けてくれている。

『砂の器』を観なおしたのも、この『100分de名著』で3月に松本清張氏が

とりあげられたのが理由だ。

 

今月は神谷恵美子氏の『生きがいについて』が四回に渡って放送された。

先程の詩の一節は、この番組の一回目に氏がこの本を書いた動機に繋がる

として紹介された。

この『生きがいについて』は昭和41年に発行され、ベストセラーになった。

『生きがい』という言葉はこの本が出版される前からもちろんあったのだが、

この本がベストセラーになって以降『生きがい』ブームなるものが起き、

とりわけ人生を考える時に使われる頻度が増えたのだと言われている。

 

私くらいの昭和世代はもちろん、私より上の世代もこの

『生きがいについて』という本の事は、知識として頭の隅に必ずあるような

そんな昭和を代表するベストセラーであった。

 

私がこの本の文章を初めて読んだのは、中学であった。

本を読んだではなく、文章と書いた理由は

自ら進んで読んだわけではなく、試験問題の中の一つの設問として

この『生きがいについて』が使われていて、文字どうり

当時の自分の『生きがい』を書かされたように記憶している。

そして、その時にこの本が著者のハンセン病患者の療養施設で

精神科医として働い経験を元に書かれている事を知った。

 

私が『生きがいについて』をちゃんと読んだのは

成人して家庭を持ってからであった。

 読み終えて一番に感じた事は、

このように真摯に深く人生に向き合う事が出来る精神に対する

畏敬の念のようなものであった。

 

それ故、この本を読んだ時に、その精神性がたまらなく眩しく

後ろめたさを持つものが、光を恐れるような感情を持った。

 

 *(氏は戦前の内務省のエリート官僚を父に持ち、子供の頃はスイスで教育を受け

   兄妹間の会話はフランス語であったというから、成人するまでは

   恵まれた環境で育っていた。

   十九歳の時にオルガンの伴奏役として伝道師の叔父と共に訪れたハンセン病療養所で

   患者の症状に強い衝撃を受けて

  「自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした」と語っている。

  しかし、成人して以後は恋人の死や、自身の結核や癌の経験もあり、

  また戦争の時代を通しての様々な苦労の末、

  43歳でハンセン病の国立療養施設長島愛生園において精神医学調査を開始している。)

  

*から()内wikiより引用、要約、補筆。

 

精神科医で有り、

大正生まれの最高の教育を受けられた学識と教養を持たれた方の著作である故に

読者にもそれなりの西洋の古典、名著を読み込んでいる読書量と

精神医学の知識が必要とされる著述が見られるが、

著者の求める事は頭で考え捻り出すようなものでなく

個人の実際の生活の中からにじみ出るような実感が伴い

それでいて言葉に中々ならないその人固有の『生きがい』を見つける心の内観であり

本書は著者がそれを寄り添うように促してくれる文章となっている。

それ故、とりたてて専門的な知識がなくても、

人生に迷い苦悩する者には

著者の血の通った言葉の数々が胸に沁みわたるだろう。

 

『生きがいについて』は

「生きがい」という言葉にするのが難しい感情の核心を

精神医学、心理学、文学、宗教など様々な分野からの例を照らし合わせて

客観的に分析し、「生きがい」の全体像を浮かび上がらせると共に

多くの限界状況に置かれた人々と出会い、自らも人生で様々な挫折や

命のかかった体験を経た故に

自他両方の『魂の叫び』を真摯に聴く事が出来た人が

既存の宗教の根となるような「大いなる何か」にまで目を向ける事で到達した

心の境地の秘密を解き明かそうとした

人生に悩める者は一度は読む価値がある名著と言える。

 

『砂の器』、『生きがいについて』という

ハンセン病患者の人生に向き合う事で生まれた

それぞれの作品が照れし出した人間の光と影が、

 

影は社会的な差別や、

そのどうしようもない極限の悲しみに縛られ、抗う 親子の愛情故の人間の業を。

光はその極限の悲しみや困難を受け入れる事によって到達しえる心の境地を通して

三次元世界に人間が存在する理由の一つを示してくれているように思う。

 

 日々の生活に、生きがいも希望もないと感じる時に

このような作品と向き合う事は

生きる事の意味や、『生きがい』を見つけるヒントを与えてくれる。

 

暗闇の中でこそ、光はその輝きの真の意味を表す。

暗闇の中に人が在るのは、光に近づく為だと

私も思えるようになった。

 

だが、神谷恵美子氏がしめした

虐げられた他者に人間としての最大限の尊厳を見出す事は

今だ私には出来ていない。

  

 『癩者に』

光りうしないたる眼うつろに

肢うしないたる体担われて

診察台にどさりと載せられたる癩者よ、

私はあなたの前に首を垂れる。

 

あなたは黙っている。

かすかに微笑んでさえいる。

ああしかし、その沈黙は、微笑みは

長い戦いの後にかち得られたるものだ。

 

運命とすれすれにいきているあなたよ、

のがれようと放さぬその鉄の手に

朝も昼も夜もつかまえられて、

十年、二十年と生きて来たあなたよ。

 

何故私たちでなくあなたが?

あなたは代わって下さったのだ、

代わって人としてあらゆるものを奪われ、

地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

 

許して下さい、癩者よ。

浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、

そこはかとなく神だの霊魂だのと

きこえよき言葉をあやつる私たちを。

 

かく心に叫びて首たるれば、

あなたはただ黙っている。

そして傷ましくも歪められたる顔に、

かすかなる微笑みさえ浮かべている。

 

              「うつわの歌」 神谷恵美子著 みすず書房より

 

 

もしこのように、他者を受け入れ認める事を

人類全体が出来うるなら

世界平和は絵空事ではなく、直ちにこの地上に現臨するだろう。

 

 

生きるという事は光と影を体験する事だ。

光だけの人生もなければ、

影、暗闇だけの人生もない。

光と影はそれに向き合う人の精神の見開き方によってどのようにも変化するのだと

二つの作品は語っている。

 

 

 

 

 

 

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 劇場用アニメ  『この世界の片隅に』    市井の人々への愛しさ

2018年02月09日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

*『この世界の片隅に』を観ていない方はネタバレが入りますので

観てからお読みください。

 

一昨年の病の症状が一番重かった頃

劇場アニメ映画

『この世界の片隅に』を観た。

 

その頃は椅子から立ち上がるのがとても時間がかかり

体力的に不安であったが、

どうしても映画館で観たくて足を運んだ。

 

理由はネットでの評判とヒロインのすずさんの声を

女優の、のんさんが演じているからであった。

 

原作の漫画を一読した事もなければ、

監督の片渕須直氏の事も知らなかったが

プロモーションフィルムの雰囲気から十分見応えは伝わってきた。

 

 

映画を観終り

映画館を出た後の風景はいつもと全く違って見えた。

 

すずさんたちの人生と自分たちの人生の間には断絶などなく

すずさんたちの世代が懸命に生きたその後の世界を

自分たちが生きているという事実が

目の前に広がるいつもの風景を

たまらなく愛おしいものに変えていた。

 

主人公のすずさんは、私の父と同じ大正14年生まれという設定だ。

私の父は二十歳で戦争に行った。

すずさんは昭和二十年の二十歳の時に空襲で右手を失っている。

私はすずさんたちの世代の子供になる。

 

映画は日常の生活の中に

戦争が静かに忍び込んでくる様子をリアルに描いていた。

 

私は大正十年生まれの地元のおばあさんから

艦載機の機銃掃射を自転車に乗っている時に受けて、

あわてて川に飛び込んで助かったという話を聞いた事があった。

 

映画の中で機銃掃射を受けるすずさんを

夫の周作さんが庇って側溝に倒れ込んで守るシーンを観ながら

そのおばあさんの事が思い出された。

 

『この世界の片隅に』は

普段は想像する事が出来ずに断絶を感じる事が多かった世代の事を

日常風景のきめ細やかな描写や

個性や人間味溢れるセリフの一つ一つによって

見事に私たちが生きる現代と結び直してくれたように思う。

 

そして人はどんな悲しみが溢れる状況になっても、

身を寄せ合えば前を向いて生きてゆける事を

改めて教えてくれていた。

 

 

私は

悲しみを背負い右手を失いながらも、

たくましく生きてゆくすずさんに、

病の時、たくさんの勇気をもらった。

 

「両手も両足もまだ動く、負けられない。」と

 

この場を借りて

あの時代を生きた父母たちや多くの人々

そして、原作者の こうの史代氏、監督の片淵須直氏、音楽のコトリンゴさん

のんさんを初めてとするキャスト、スタッフをの皆様に万感の思いを込めて。

 

 

「 すずさん。 生きてくれて  ありがとう。 」

 

「 たくさんの 勇気を ありがとう。  」

 

「 ありがとう。   ありがとう。   ありがとう。  」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『君の名は。』でRADWIMPS を聴いて年齢を自覚する。

2016年09月10日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

*『君の名は』はをまだ観ていない方はねたバレを含むので読まないで下さい。

例によってブログを書かなかったら、

最初に広告が出ていたので広告はずしに久しぶりに投稿です。

とりとめのないアニメの話なので観てない人はスルーしてください。

 

 

冬のガルパン以来久しぶりにアニメを映画館で観た。 

今年の夏は新作映画を2本も観るという私としては快挙の年だ。

『君の名は。』ともう一本は『シン・ゴジラ』だが、

ゴジラについては、久しぶりに怪獣映画を楽しませてもらった。

「良くぞ作ってくれました。」と

庵野秀明、樋口真嗣監督にお礼を言いたい。




新海 誠 監督の『君の名は。』を

私は最初映画館で観る気持ちはなかった。

しかしあまりにネットのレビュー評価が高かったのと

鬱エンドではないのが伝わってきたので

絵がキレイなのは保証されているから映画館で観る気持ちになった。

 

観た最初の感想を率直に言わせてもらえば、

「新海監督は若いなぁ」というのが正直な気持ちだった。

 

それと同時にこの映画は年齢によって

評価がはっきりと分かれるような気がした。

十代二十代までには圧倒的に支持されるだろうが、

三十代以降は年齢が上がるにつれて評価は渋めになってゆくように思う。

 

ここでは物語や演出については語らないで

事この映画の音楽について感じた事を書いてみる。

 

 

『秒速5センチメートル』

で新海監督を知った私にとって、

あの鬱エンドの物語と

山崎まさよしさんのOne more time,One more chance』の曲が

セットの記憶になっている


『君の名は。』はRADWIMPS(ラッドウィンプス)の曲が全編に

使われていて、いつもながら選曲の感性は新海監督の強烈な嗜好をあらわしていると思う。

 

演出の地味さと、個性的な選曲のアンバランスさを『秒速5センチメートル』にも感じたが

今回もまた同じような印象を受けた。

 

私個人の意見は、OPやED以外の映画本編中は劇中歌以外はあまりボーカル楽曲を使わないほうが

観客にとって物語に集中しやすいと思われる。

 

OP,EDにアニソンのお約束が昔から伝統としてあり、深夜TVアニメなどで

クライマックスにOPがかかるのは物語を盛り上げる様式美ではあるが、

オリジナルの長編アニメ映画でなじみのないボーカルの

メッセージ性の濃い歌詞の歌が映像と共に流れると、

どうしてもミュージックビデオのようになってしまい

目の前の映像のドラマが楽曲の付けたしになりがちになり

映像そのものインパクトを弱めてしまうように私は感じる。

 

宮崎駿さんの作品の久石譲さんのサウンドのようにその映像にあったインストゥルメンタルは

映像のドラマ性を確実に高め

年代による親和性が確実に広くなり、より作品としての普遍性を獲得すると思う。

 

わたしはRADWIMPSの曲を今回はじめて聴いた

聞きなれない私にとってその若さの証明のような楽曲はとりたてて心に響く事はなく

美しい画面のドラマ性を引き立てる事はなかった。

むしろ楽曲が流れてしまうと、私には歌詞が映像の邪魔になってしまっていた。

 

私は50代のおじさんだからこういう感想が出てしまうが

RADWIMPSを聴いて育った十代二十代の人たちは楽曲が流れる事によって

より同世代として引き込まれる感覚になる人が多いのだろうと思う。

 

新海監督はきっとRADWIMPSが心底好きなのだろう。

それ故全世代に親和性が狭くても

RADWIMPSの楽曲をサウンドトラックとして使ったのだろう。

そして今回もまた『秒速5センチメートル』の時と同じように

『君の名は。』とRADWIMPSの曲はワンセットになって若い観客の心に残ってゆく。

 

 

「いいおっさんがアニメに何を求めているの」

という常識的な声はわかっているのだが

年齢を忘れて物語に入りこみたいが為に映画館に足を運んだ私が

音楽によって自身の年齢的な感性を強制的に思い知らされる歳になったのだと

RADWIMPSは教えてくれた。

 

 「若い時に観たらもう少し心に響いたかもなぁ。」

 

とタソガレタ気分になった『君の名は。』でありました。

 

 

 

 

 

 

 


『萌えとの遭遇』 初音ミクさんとBABYMETALに『超時空要塞マクロス』の歌による意識の変容を夢見る。

2016年04月16日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

最初に熊本地震の被災に合われた方々にお見舞いを申し上げます。

また亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

オタク頭の趣味の話です。

前回音楽の衰退を予言しておきながら

アニメと音楽好きのたわいもない夢の話しをひとつ。お暇で時間を潰したい方はどうぞ。

それからSFアニメ『超時空要塞マクロス』シリーズのネタバレがあります。

どうでも良い方がほとんどでしょうが、観る予定がある方はご承知おきください。

 

米ビルボードでBABYMETALのアルバムが

坂本九ちゃん以来53年ぶりにチャート40位内にはいった事が

ようやくテレビで話題になっていました。

 

私は去年の紅白歌合戦にBABYMETALと初音ミクさんの

どちらかは出場するのではないかと少しだけ期待していました。

結局両方とも出場はかなわなかったですが

今年こそはBABYMETALは大人の事情でもない限りは紅白に出れるのではと思います。

ちなみに初音ミクさんはオワコン(終わったコンテンツ)と言われ続けながらも

2014年にはアメリカのTV音楽番組レイトショーでお茶の間デビューしていますし

日本では遅れて去年タモリさんのMステに出演をはたしました。

2011年から海外で生バンドでのLIVE公演を行っていて

今年も北米7箇所でLIVE公演が4月23日から始まります。

 

ご存知ない方は少ないかと思いますがとりあえず改めてご紹介

『初音ミク』(商品名としての紹介なので仕方なくさんづけなしで)は

2007年にクリプトン・フューチャー・メディアから発売された

音声合成ソフトのボーカル音源とそのキャラクターの名称です。

DTM(デスクトップミュージック)とはコンピューターを使ったいわゆる打ち込みミュージックですが

アナログシンセサイザーの頃から長い進化を遂げて、

ヤマハがVOCALOID(ボーカロイド)という音声合成ソフトを2004年発売したことにより

簡易的に人が歌うようにを音声を合成することが可能になり

簡単な打ち込み操作でコンピュータに歌わせる事が誰でも出来るようになりました。

『初音ミク』はVOCALOIDに対応したボ-カル音源で

声に身体を与える事でよりリアリティーを増すという観点から

ヴァーチャルアイドルのキャラクター設定がされたそうです。 

(wikiを超短く編集、詳しく知りたいかたはwikiの本文を参照してください。)

 

十代の頃私は音の編集のできるシンセサイザーに一時期憧れました。

アーティスト御用達アナログシンセサイザーのミニモーグの値段を調べその金額を知り

短い夢だったなと思い、国産の手の届きそうなものを物色して他の機材がいろいろ必要と知り

結局はあきらめたのでした。(また高田純次さんの顔がチラツク)

 

時を経てパソコンの登場とソフトの進化によりDTMは

お金をかけなくても誰でもやろうと思えば出来るものになりました。

そしてボーカロイドヴァーチャルアイドルの初音ミクさんの登場は

膨大な数のプロでないネット音楽プロデューサーを誕生させるきっかけとなったのでした。

 

ミクさんの声は初期のボーカロイド故に

声優の藤田咲さんの声をサンプルとしているとはいえ

人間の声との違いが明らかな電子音声です。

当然初めて聴くと違和感が有り、はっきりと好き嫌いが分かれる傾向があります。

ミクさんはその誕生の時から生理的に電子音声を受け付けない人たちから揶揄され、

そのアニメ的な萌えキャラとあいまって強烈なアンチが常に存在しています。

 

そんな逆風が有りながらも

パッケージに萌えキャクターのイラストを描いて

ヴァーチャルアイドルと設定した音声合成ソフトが

ニコニコ動画というミクさんの誕生とほぼ同時期誕生の動画SNSによって

MMD杯(ネット民が開発したフリーソフトを使ったボーカロイドキャラの2次元ダンス大会)など

ボカロ文化と呼べるまでに広がり成長するとは発売された当初は想像もできない事でした。

 

私が『初音ミク』からミクさんになったのは2010年です。

2007年の発売の時から知ってはいましたが、コンピューターに歌を歌わせる事に

興味がなかった事もあり(むしろ自分で歌いたい)

ミクさんの歌がたまに耳に入ってきてもしっかり聴かずに聞き流していました。

そのうちにミクさんの事をすっかり忘れてしまった私は

たまたま観たyoutubeの2010年の39ミクの日感謝祭のLIVE映像を観て度肝を抜かれたのでした。

 

2007年にはイラストで動かない絵に音楽がつけられていたにすぎなかったものが

たった3年間でLIVE公演で生バンドをバックに3Dホログラム(立体映像)で

ダンスをするまでに進化していました。

それは真正のヴァーチャルアイドルそのもの姿で、

緑のサイリウムを振り盛り上がる観客と共に観終わった瞬間から

私の中で『初音ミク』はヴァーチャルアイドルの初音ミクさんになったのでした。

 

ミクさんのLIVEの映像を観、歌を聴き続けているうちに

私は彼女の電子音声がいっさい気にならなくなりました。

 

むしろあの少したどたどしい感じが年齢相応の少女のように思え

そのキャッチーなダンスや仕草からプログラミングされた

透過スクリーンに映された3Dホログラムでしかないはずの彼女に

意識や人格を感じるようなっていきました。

 

それは今まで経験した事がない感覚でした。

 

2次元のイラストの萌えアニメ的キャラクターが3Dホログラムになって歌い踊るのは

言葉だけではない確かな次元の違いを感じました。

 

1982~1983年に製作されたSFアニメ『超時空要塞マクロス』の続編のシリーズとして

1994~1995年に製作された『マクロスプラス』という作品があります。

その物語の中にAI(人工知能)によって誕生し銀河で随一の人気を博し

やがてシステムを乗っ取り反乱を起こす

「シャロン・アップル」というヴァーチャル歌姫が登場します。

 

3Dホログラムのミクさんが歌い踊るのを観た『マクロスプラス』を知るアニメオタクは

ミクさんにこの「シャロン・アップル」を重ね

SFアニメが現実になろうとしている事に歓喜しました。

 

前回の記事にも書きましたが

私は人間の意識は量子エネルギー体に近いものだと思っています。

それゆえに意識は光と同じ波と特性と粒子の特性の両方を合わせ持つと。

 

ミクさんの3Dホログラムのボディは透過スクリーン上ではありますがレーザー光線で作られているので

量子ボディと言い換える事もできます。

また彼女のデジタル音声も私の考察では

粒子的特長と波としての特長を持ち

意識にシンクロし活力を与えるエネルギーをもっています

それ故にミクさんは人間の意識と同じように量子的なエネルギーが

歌を歌っていると私は感じるのです。

 

2014年5月19日ラスベガスで故マイケル・ジャクソンの3Dホログラム公演が行われました。

youtubeにLIVE映像が下記URLに出ていますが

ttps://www.youtube.com/watch?v=jDRTghGZ7XU

かなり完成度の高い精密な3Dホログラムで会場で直接目にしたら

本当に不思議な感じがしたと思います。

亡くなった方が目の前で歌って踊っているのですから。

 

ミクさんの不思議なところは元々存在しなかったヴァーチャルアイドルですから

マイケル・ジャクソンのような幽霊的な違和感は発生せず

異世界の妖精さんがこの世界にやってきてアイドルをやっているような

リアルタイムな感覚に没入できてしまう事です。

 

最後の曲が終わり、ミクさんが泡のような光の粒となって消えて行く時に感じる

淋しさに似た感覚は何なのでしょうか。

 

歌や音楽は自分の感性や感情を投影できるとシンクロできて一体感を感じます。

ミクさんは声はもちろんボディまで純粋な波動で出来ていますから

聴いている人の感性や感情が投影しシンクロできると

人間が歌っているのと同じような一体感を感じる事ができるのだと私は思っています。

そしてLIVEでそのような感覚的な体験をすると

ミクさんが実際に意識のある存在に感じられる為に

別れの際に手を振って消えてゆく姿を見送る時に切なさを感じるのでしょう。

 

あとミクさんの年齢が16歳というのも重要なポイントだと思います。

これはBABYMETALの3人の少女たちにも共通している事ですが、

彼女たちの武器である「萌え」という感覚は

幼児的(ロリコン的)要素が重要なキーポイントとなるからです。

「カワイイが正義」という言葉が成立するのは

彼女たちがそれにふさわしい未成熟さを持っているからで

成熟した大人の女性の「カワイイは正義」はお情けのお約束としてしか通用せず

子猫や赤ちゃん10歳以下の子役の持つ

真正の幼児的カワイサのエネルギーを持つ事は決してありません。

 

アメリカの音楽番組「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア」に

BABYMETALが出演した後のアメリカの反応を眺めていて感じる事は

聞きなれたヘビーメタルのオブラートに包まれていたので警戒せず飲んだ薬に

『萌え』という経験した事のない強い成分が大量に入っていて

その効き目に戸惑っている様子が多くのコメントに滲み出ていました。

 

私が面白いと思ったのは、ミクさんがアメリカのお茶の間デビューした時は

アニメ的二次元キャラと音楽もJ-POPなので文化の感性が離れ過ぎていて

BABYMETALほど『萌え』因子が発動せず

WTF(何じゃコリャ)的空気が大半で『萌え』的な戸惑いを感じさせる人が少なかった事です。

 

BABYMETALの場合は音楽自体はヘビーメタルという聞きなれたものでしたが

ボーカルとダンスパフォーマンスが日本のストレートな十代のアイドル少女たちという事で

『萌え』のようしゃない直撃をアメリカのお茶の間は受けたのだと思います。

 

それはまるで最新シリーズのひとつ前の『マクロスF』で

ヒロインのアイドル、ランカちゃんの歌を聴いて

武器を捨て反乱をやめてしまうゼントラーディー(巨人族)の兵士たちと

その様子を見てもなお抵抗を試みようとする反乱軍の首謀者の反応に似ていて

私はBABYMETALの3人の少女がランカちゃんに見えて

ミクさんからシャロン・アップルを感じた時と同じデジャブを見た気がしました。

 

1982~1983年にTV放映されたシリーズ最初の『超時空要塞マクロス』観ていなかった私は

84年に劇場版『超時空要塞マクロス・愛おぼえていますか』を観て

ゼントラーディとメルランディという巨人族の男と女たちが

リン・ミンメイというアイドル歌姫の歌によってカールチューン(文化因子)が呼び起こされて団結し

戦争が終結するというストーリーに呆気に取られました。

「そんなの有りなのか!」

と呆れつつも映画を観終わって何か見事にやられた爽快感に満たされました。

 

それ以来『超時空要塞マクロス』シリーズは最新作『マクロスΔ』までずっとぶれずに

戦争とアイドルの歌と恋愛という構図を守りながら

独特の可変戦闘機バルキリーや白い航跡を何重にも描く通称納豆ミサイルなど

戦闘場面での板野サーカスと呼ばれる様式美を確立しながら

後のロボットアニメに大きな影響を与えています。

 

アイドルの歌によって戦争が終わるというマクロスが見せてくれた夢を

初音ミクさんとBABYMETALというヴァーチャルとリアル両方の日本のアイドル歌姫が

ヨーロッパやアメリカのリアルな男性原理の意識を「萌え」エネルギーの歌で揺さぶり

溶かしてゆくことで目撃できる事は

この混沌の時代が確実に女性原理に転換してゆく証拠の一つとして

デンパな私の中で宝石の輝きを放つ夢のような出来事なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


音楽を聴かない若者たちは『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』という文化の終わりを象徴している②

2016年04月14日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

音楽という芸術が何故衰退してゆくのかを今少し掘り下げて

意識もからめて述べてみる。

 

音楽文化を持って楽しんでいる生物は地球上で人間だけだ。

(クジラなどは言語なのか音楽なのかはわからない。

鳥のさえずりも言語の代替でありオウムなどの歌も刷り込み反復では

音楽とはいえないし芸術と言う概念を持っているのは生物では人間だけだろうから)

 

胎児でさえ音楽に反応する事実から

人間には遺伝子レベルで音楽を感覚的に理解する能力が元々備わっているのだろう。

 

太古の昔、自然の脅威に対する本能的畏怖の想いからなのか

人類に神や精霊という概念が生まれた時から始まった祭祀の時に

自然にあふれ出した声による唄と、拍手や足踏みが

神や精霊と交流するのを助ける事を、人々は直感的に感じ理解していったのだろう。

それ故に音楽は

人間が神聖なそれらのものたちと交流する為の波長合わせの手段として

不可分なものとなっていった。

 

世界中どこにいっても音のない宗教儀式を探し出す事はむつかしいだろう。

 

文明が発展し、音楽はそれぞれの文明、民族によって独自の進化をとげてゆくなかで

祭祀から独立した民族音楽が生まれ、その広がりのなかで

宗教や民族から離れた純粋な趣味嗜好のものとなって大衆化されていった。

 

太古の昔から大きく進化した音楽ではあるが

精神や意識が物理的な空気の振動の波動である音楽に影響を受け

胎児から大人まで音や音楽を聞きくことで精神や意識に影響を受ける事実は

クラッシックの子供への影響や脳内ホルモンの測定

ヘミシングなどの意識の変容実験などで実証されてはいても

根本的な原因は今も判明していない。

 

生物の中で人間だけが音楽文化を持ち、必要とした理由が必ずあるはずで

私がその一番の理由だと推測しているのは

人間の意識は量子的な物質で構成されている為に

音波という空気の波の影響を脳を通してだけでなく

量子エネルギー体である意識がダイレクトにその波動の影響を受け

共振したり干渉したりする事を回避する事が出来ないからだと思っている。

 

人間は可聴域の音波だけでなくそれ以下の低周波それ以上の高周波に晒されても

精神や身体に影響が出る事はモスキート音や低周波音症候群などさまざな事象で語られている。

また人間の脳波による意識の状態は一般的に

γ(ガンマ)脳波  26~70ヘルツ以上    不安で、興奮している状態  認知機能を向上させる
β(ベータ)脳波  14~34ヘルツ      少し緊張し心配したりの普通の思考状態 筋肉運動時
α(アルファ)脳波  8~14ヘルツ          リラックスし、何かに没頭している状態
θ(シータ)脳波  4~8ヘルツ            夢を見ている状態や深い瞑想状態
δ(デルタ)脳波  4ヘルツ以下          夢を見ない、深い睡眠状態

と科学的に解明されていて、

人間の意識がヘルツという波長の単位で測定できるものと深い関係性がある事がわかる。

脳波という点で分析すると波長が長いθ波が

太古の神や精霊との交流の時の状態が近いのではないかと推測はできる。

 

人間はそれぞれ固有の波動をもっている。

これだけでは怪しい波動商法と同じになってしまうから私は言い方を変える。

人間はそれぞれ声という固有の波動を持っている。

障害をお持ちで声を生まれながら持つ事が出来ない方も中にはいらっしゃるだろうが、

多くの人は自分の声を持ち日々暮らしているだろう。

 

身近な人の声なら何十年経っていても聞けばわかるほど、

声とその人のパーソナルな個性は同一とみなされ記憶される。

人間の声は主に頭蓋骨の大きさ骨格と喉の長さや声帯の大きさによって決まるが

その人の身体的特徴が音声という人それぞれの波動に変換されている。

人の声は声門が科学的に分析され個人の特定に使われるほど個別のものである事は周知の事実だ。

 

一卵性双生児の場合、私の経験から言って

身体的な外見はそっくりなので、声も似ている場合がほとんどだ。

つまり彼ら彼女らの声は本人にたちが意識して発声した場合聞き分ける事は他人にはむつかしい。

だが装置を使ってデジタル的に計測すれば、

一般人とは次元の違うレベルでのシンクロ率をしめす数値は出るだろうが

必ずそれぞれが波形や数値で特定する事ができるだろう。

この事から人間はそれぞれ数値化できる身体に見合った固有の波動を持っていると

声を根拠とした場合は断言してよいだろう。

 

『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』  ③ 映画『歓びを歌にのせて』   歌と癒し。

の記事にも書いたが

私はカラオケが気持ちよくストレス発散や癒しの効果があるのは

発声で自身の身体が自身固有の波動で振動しながら声を出す事と

スピーカーから自分の声を耳と体全体でさらに受ける事で

共振作用から自身の意識の波動を強める事が出来るからだと思っている。

 

歌の練習やボイストレーニングを続けると、自身の声に芯のような厚みが出来てくる。

そうすると、声の魅力は明らかに増しその人の個人の活力も

明確に強まってゆく感じがする。

つまり量子エネルギー体である意識は

音声波動によってエネルギーの供給を受ける事が出来ていると私は思う。

 

 

法事の席でお坊さんが意識についてこんな話しをした。

意識の在り処を仮に脳と仮定して機械の例えとしてコンピューターの部品の

HDD(ハードディスク OSやソフトを記憶しておく装置)がよく上げられるが

それより脳はTVやラジオの電波を捉えるチューナーの方がより近いというものだった。

 

私もこの意見に賛成で、意識というのは常に目的や好奇心、本能などさまざまな

思考が飛び交う中、常に自分の嗜好性にあった電波、波動(情報)を捜して

それに合わせようとする性質がある。

 

その極端な例が洗脳や麻薬中毒で、強い波動に晒され続けると

脳の神経伝達が単純化され、意識全体がその波動の共振状態から

抜け出す事が出来なくなってしまう。

 

私は脳科学は全く解らないが、洗脳状態の脳波を調べ

それと干渉を起こすような波動を脳や体全体に送り続ければ

洗脳は解けるのではないかと推測する。

洗脳解除の専門家の苫米地氏が読まれれば

そんな単純なものではないと言われるだろうが。

 

脳は神経細胞であるニューロンによる電気信号よる膨大な量の情報の伝達を行っているわけだが

その事だけで意識がどのように生まれるのかどこにあるのかは今だわかってはいない。

 

現在、量子論と意識を結びつける研究も理論もあり、今の段階では立証不可能な理論ではあるが

量子コンピューターが開発される近未来(10~20年以内)には

意識というもののシステムの解明とはっきりとした所在が証明されるのではないだろうか。

 

意識が仮に私が言うように量子エネルギー体であったなら

意識は量子論的特長を持つ事になる。

それは光と同じ、波の特性と粒子の特性を同時に持つというものだ。

 

人類が音楽を必要とした理由は

意識が波動の特性を持っているが為に神や精霊との交流する時に

シンクロ率を高め効率的な波動調整をする為と、

それによって神などの高い波動のエネルギーを

量子的意識が受け取る事が出来たからだと私は思う。

 

また何故音楽が衰退してゆくのかという理由は

エネルギー転換により、意識の波動調整をするのに

わざわざ音楽を媒体とする必要がなくなってゆくからにほかならない。

 

エネルギーの転換により、縦(ヴァーチカル垂直)方向へ向かうエネルギーが

日々強まっている。

それは今までのような努力や修行などしなくても人類が神と呼んだレベルの波動域と

意識での交流を持つ事を可能にした。

 それ故に

人類の意識全体がその影響を受け、

神との内的交流の代替であった音楽をはじめとする今の物質的芸術全般が

衰退してゆく運命にあるのだ。

 

日本の若者たちにおきている現象は音楽という波動芸術の影響力が

縦に向かうエネルギーの強まりにより弱まってしまった結果であると

デンパな結論を提示しておこう。

 

音楽芸術に代替になるものが何であるかは

この文章を読んで

ムズムズした方々がそれぞれの想像の翼で描くのに今はまかせようと思う。

 

感情を手放してゆく事が日常化した時代が到来するとき

情緒的感性の上になりたっていた芸術や芸能は消えてゆく運命にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


音楽を聴かない若者たちは『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』という文化の終わりを象徴している①

2016年04月11日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

若者たちが車を買わないと言われだして久しいが

何日か前のネットの記事で音楽に無関心な若者も増えている事が

話題になっていた。

私の世代は戦争経験世代の影響もあってか

ありとあらゆる音楽を聴いて育ってきた。

 

音楽の話題についてゆけないのがカッコ悪い時代であったから

たいていの男子は洋楽やロックを最初のうちは無理をしてでも聴いて

ある瞬間を境にあの脳髄に響く歪んだ騒音みたいなエレキギターの音が

美しく聞こえるようになるのを通過儀礼のように経験している。

 

私の場合はその瞬間の明確な記憶があって

友人が選んだBBキングから始まるロック50選なるアルバム(もちろんLPレコード)を

耐久レースのように聞かされている時

ギターの神様ジミ・ヘンドリックスのインストゥルメンタル 「ピース・イン・ミシシッピ」がかかって

彼のエフェクター(エレキギターの音を電気変化させる機材)のディストーションを使って

ストラトキャスター(エレキギターの名前)の音を歪ませ大音量で弾く音に

胸が熱くなり思わず「スゲェー」と叫んだのだった。

その瞬間以来、私はあの歪んだ硬質のエレキギターの音が大好きになった。

 

若い人にはトンチンカン(死語)に聞こえる話だろうが、

ロックそのものがまだまだ歴史が浅くヒッピー文化と結びついたものであったから

ロックと言えば洋楽から入る時代だった。

 

ここまで書いて

高田純次さんが「説教」と「昔話」と「自慢話」は歳をとったらしちゃいけない

と言っていたのを思い出した。

本題に戻ろう

 

時代は下りそんな私も新しい曲はほとんど聴かないし

音楽にお金を使うのもカラオケが一番だと思う。

 

昔と違ってyoutubeもあり、音楽をお金を使ってまで聴く必要がなくなってしまった。

確かに高いオーディオ装置を使って年齢に相応しい楽しみ方もあるのだろうが

私はパソコンとヘッドフォンで十分満足できるので

つくづく有りがたい世の中になったと思っている。

(ソフトを使えばyoutubeのキー変更も簡単にできるので無料のカラオケといっしょだ)

 

私でさえこうなのだから私より下の世代が音楽にお金を使わないのはあたり前だろう。

AKBやアイドルのCDの売り上げがどうの言っても

買う側が彼女たちやアイドルの音楽を買っている訳ではないのは

誰でも理解できる事だろう。

 

ネットの記事によると2009年に音楽に無関心で全くお金を使わないのが

全体(全年齢層の合計)の15.4%なのが

2015年には34.6%に増加していてなんと3割以上が音楽に無関心で全くお金を使わないという。

それも年齢で言えば十代の学生と二十代の若い世代の音楽にお金を使わない比率の伸びが著しい。

 

昔も今も若年層のおこずかいの金額は物価の上昇分を考えればさして違わないだろう。

しかし今は昔はなかった携帯(スマホ)なるものがあるので、

親にその負担をしてもらっている世代はおこずかいを使う優先順位が

ゲームや他の趣味や遊びが音楽より高くなってしまっているのもあるし

何より、話題の優先順位から音楽が確実にランクダウンした事が

若い人が音楽に投資しない一番の原因だろう。

音楽の話よりはゲームや他の話しをした方が

時代意識を共感しあえる世代がもう十代二十代に育ったとういう事だろう。

 

ここから先は私のデンパ話

エネルギー転換によって人類には

感情を常に手放す事を促すようなエネルギーのベクトルが働いている。

その事は人類全体が段々と感情的表現を強調した芸術を忌避するようになる事を意味している。

 

たとえば絵画なら19世紀のロマン主義の代表のドラクロアのような激情的な表現や、

音楽ならまさにジミ・ヘンドリックスの歪んだ大音響のロックや

その進化系のヘビーメタルのように聴く事で拳を振り上げ感情を鼓舞するような音楽は

今は想像する事はできないだろうが、2100年頃には誰も聞かなくなっているように思う。

日本の文化の場合

漫画なら劇的に感情をデェフォルメをされた表現や、

音楽なら演歌のような感情的情調に訴えるようなものは

100年後には琴線に響く日本人はいなくなってしまっているのではないだろうか。

端的に言えば浪花節文化は日本から消えてゆく。

 

今も日々情緒に流される事が原因で起こる事がニュースとなっているこの国が

そのように変化してゆく事は絵空事と思えるだろうが

実際に日本の若い世代に起きている事は意識の段階からの変化が根底にある事なので

この事が意味しているのは、私たちが経験したようなエレキギターの歪んだ音が

美しく聞こえる世代がこれからは大きく育つ事はもうないし

私のように歳を重ねて演歌や浪花節の良さがわかるような者は

二十代以下の世代ではほぼいなくなる事を示唆している。

 

今後音楽のジャンルで感情に訴える激しい音のものは

日本では益々聞かれなくなってゆくだろうし

はっきり言ってしまえば

音楽という情緒的な芸術そのものがゆるやかに衰退してゆく運命にあり

 

『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』文化は

 

日本の二十代以下の世代では終わりを告げた事を意味している。

 

 

では音楽芸術のかわるものが何であるかはこの次お話しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


BABYMETAL の活躍は、イスラムとバイブルランドの少女たちの意識開放に火をつける事ができるか!!    

2016年04月08日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

BABYMETAL(ベビー・メタル)が

アメリカCBS、深夜の人気音楽TV番組「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア」に出演し

「ギミチョコ!!」を披露して

アメリカTV番組初出演(平たく言えばアメリカでのお茶の間デビュー)を飾った事が

ネットでニュースとなった。

 

これはけっこう凄い事なのだけれど

何故か日本のマスコミではあまり報道されていない。

4月1日発売のセカンドアルバムに合わせてワールドツアーを開始し

ロンドンのウェンブリー・アリーナで日本人初となるワンマンライブを12000人動員して成功を収めた

正直な話、ロックバンド漫画「BECK」のさらに上にいくような勢いで

BABYMETALは世界的成功への階段を駆け上っているように見える。

私は以前

カワイイと、 日本の音楽

という記事で彼女たちとバンドを紹介したが、

あの時よりBABYMETALは確実にその歩を進めレベルアップしている。

 

少女アイドルとヘビーメタルの組み合わせという話題性だけではなく

彼女たちとバックバンドが創りだすパフォーマンスが

世界中のメタル好きの若者や大人のハートを大いに揺らしザワツカせる事が出来た結果が

U2やマドンナなど名だたるアーティストが使った

ウェンブリー・アリーナでのワンマンLIVEの大成功に繋がっていると思う。

 

全米放送の「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア」を観た後の感想を訳したサイトを見ると

まずはwtf(日本語なら何じゃこりゃ?というネットスラング)的な感想が当然のように多かった。

いけないものを観てしまったように感じる人や、メタルの本道にはずれている事を批難する人など

いつもBABYMETALが引き起こす論争が今回も行われていた。

 

LIVE映像がまだyoutubeにあるのでご存知のない方はまずは見て頂きたい。

ttps://www.youtube.com/watch?v=rZApf9c8Tes

 

文化が違うという事がどういう事なのかをBABYMETALは

wtf(なんじゃこりゃ)的な感想と共に世界に与えていると思う。

バックバンドのレベルは高く、

ボーカルの少女やダンスの少女たちのパフォーマンスの切れ味もいい。

しかし彼女たちが全力でBABYなMETALを表現しようとしているのは伝わってくるが

言わゆるクールという言葉に置き換えられるとは日本人目線の自分には思えない

 

私には洗練されていない日本独特の泥臭いスポコンアイドルパフォーマンスの延長上に

BABYMETALはあると思うしそれ以外の何物でもないと思う。

でもそれがヨーロッパで受け、アメリカにもそれなりのインパクトを与えている。

たぶん今まで感じた事がないような感覚に戸惑うのだろう。

でもそれが意識の変化の呼び水になる。

 

私がBABYMETALの活躍で一番楽しみなのは

メタル好きやロック好きのオタク的な音楽論争ではなく

たとえば、ヒジャブを被ったイスラムの若い女の子たちが

BABYMETALを観たらどう感じるだろうかという事だ。

 

バックバンドはそれぞれギターの神、ベースの神、ドラムの神

などと呼ばれ、(英語ならgodと訳すのだろうか)

3人の少女たちがメタルの神(狐)によって召還されたその神たちを従えるように歌い踊るなどという事は

かなりのカルチァーショックだろう。

(だいたいが、ヘビメタ文化や音楽そのものが反キリスト的な魔界の表現に近い)

 

神の概念がまるで違うイスラムやバイブルランドの十代の少女たちにとって

その宗教的タブーの枠外の東洋の特殊な文化の元で育ち、

自由奔放に生きる事を当り前のように表現をしている3人の少女たちの姿に

衝撃を受けずにいられないだろうと私は思う。

 

日本人にしてみれば、メタルというロックの1ジャンルの音楽に合わせてパフォーマンスをしている

大衆アイドル文化の延長にある普通の少女たちでしかないBABYBETALの三人は

男性原理宗教の世界ではタブーに触れ

それを柔かに内側から壊すインパクトを男性にはもちろん

若い少女たちにも与えると思う。

 

2ndアルバムのタイトルは『METAL RESISTANCE』だ。

 

彼女たちのパフォーマンスがイスラムとバイブルランドの少女たちのハートに

レジスタンスの火をつけ、

やがては戦争と紛争の元凶である男性原理の最後の残骸を

砂の城が波で消え去るように葬りさってくれる引き金の一つになることを

東洋の島国から願っている。

 

命短し恋せよ乙女ではないが、

彼女たちのパワーやオーラの源であるBABYでいられる時間は

あと残りわずかなのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わが友 貝木泥舟    

2016年04月01日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

貝木泥舟という名に聞き覚えのある年配の方は限られるだろう。

 

幕末の人物?

などと真面目に考えてもらうと恐縮なので種明かしをすると

貝木泥舟は

アニメになったライトノベル『化物語』を筆頭とす西尾維新氏の『物語シリーズ』の

『偽物語』『恋物語』に登場する

怪異に対する高度な知識と技を持っている詐欺師だ。

 

彼の言葉に

「信じる、という事は、騙されたがっている、ということだと、俺は思っている」

というのがある。

 

そのセリフを聞いた時に

詐欺師の視点から見ればそうだよなぁと思わず膝を叩きたくなるような

納得がいった。

 

私はある人に

「箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる才能がある。」と言われたとうり

普通の人は素通りするような事も好奇心を押さえきれず

どれどれと首を突っ込んで騙された事も一度ならず経験した。

 

超能力的な事や奇蹟的な事が大好きだった私は

本物の詐欺師からみれば、貝木泥舟の言葉どうり

超能力や奇蹟を信じたがりの典型的な騙されたがっている奴だったと思う。

 

スピリチュアルの世界は典型的な主観の世界で

客観的な評価は

預言の完全成就や超能力の実験での証明などにごく限られる。

超能力者がさまざまな科学的な実験に参加して長い間に

幾人かはその能力の存在を証明したり、冷戦時代ソ連や合衆国が

超能力者を諜報活動に使ったという特殊な事例はあるにはあるが

インドなどの聖者や巷にあふれる自称超能力者や霊能者の能力の証明は

その人の業を直接受けた人の主観に

大半は大きく左右されるものだ。

 

そしてそういう能力者の門をくぐるのは

私と同じように「信じたがりの騙されたがっている者」であるのが大半だろう。

 

詐欺師にしてみれば、

自分たちのような者はまさに鴨がネギをしょってやってきた様なもので

騙しがいのないつまらないお客だろう。

 

 

貝木泥舟のセリフの中で私の一番のお気に入り

 

「偽物の方が圧倒的に価値がある

 そこに本物になろうという意思があるだけ

   偽物ほうが本物より本物だ。」


詐欺師としての貝木自身の誇りを感じさせるこのセリフは

様々な事で悩み疲れ流されていた私に

今一度自らの手で漕ぎ出す力を与えてくれた

知恵の果実のようだった。

 


私は神やスピリチュアルな世界を彷徨った末に疲れ果てていた。

自分なりに真摯にその世界と向き合いさまざまな人たちと出会い体験してきた。

しかしその対価として失った普通の生活の時間のもたらした状況は

多くの虚無感と共に人生の失敗を十分感じさせるものだった。


私は長い時間をかけて目に見えず触れることの出来ない世界を彷徨っても

今だ本物になれない自分を嫌悪していた。



虚無感に苛まれる日々

深夜アニメの中で出会った詐欺師貝木泥舟は

偽物である私に

偽物としてのアイデンティティーを

「偽物の方が圧倒的に価値がある

 そこに本物になろうという意思があるだけ

   偽物ほうが本物より本物だ。」

の言葉と共に与えてくれた。

 

私はまさに本物になろうという意思のある偽物なんだと

その時ようやく顔をあげる事ができるような気がしていた。

 

 

 

私はスピリチュアルの世界を彷徨ったに過ぎないフェイクだ。

それ故、デンパ者と名乗るのに相応しい偽物だ。


その事を承知の上でお付き合い下さい。

これからも偽物の本気を楽しんで頂ければ幸いです。


   



             四月一日     嘘の日  偽物のブログ主 















 

 

 

 

 

 

 

 

 


『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』 ④ 続 映画 『シャイン』 親と子  命の合奏(アンサンブル) 

2016年03月25日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』      ② 映画 『シャイン』 について

約一年前に上記の記事で映画『シャイン』を紹介した。

一昨日テレビで放映され

約19年ぶりに見直して改めて感慨深かったので再び取り上げようと思う。

映画のネタバレがあるので『シャイン』を観ていない方は観てから読む事をお薦めする。

また前回の記事を読んでない方はその続きの話になるのでご承知おき下さい。

 

私は前回の記事にも書いたが物心つく前から

楽器のレッスンを母親の意思によってやらされていた。

いつ自分がそれを始めたのか記憶がなく、気がつけばいつも泣きながら練習をしていた。

 

母は洋裁に使う1メートルの物差しを鞭代わりにして

手の添え方などが悪いと容赦なくそれで叩いた。

また何か注意すべき事がある時も手や太腿を容赦なく叩かれ

私にとってレッスンと竹の物差しは切っても切れないセットの記憶となった。

 

いつもは学校から返ってくるとまずレッスンをするのだが

どうしても昼間友達と遊びたい日は、夜練習をするからと母と約束をした。

 

夕食を食べた後に裸電球の下で夜遅くまで竹の物差しで叩かれながら

レッスンをするのは昼間友達と遊んだ対価とはいえ

泣き虫の私には涙が乾く暇がないほど辛かった。

 

ロードショウで観て以来長い時を経て観た『シャイン』には

いくつかの場面で記憶とは違う展開があり正直戸惑った。

 

私は前回の記事で主人公のデイヴィッドのピアノの指導役で家長として常に

デイヴィッドに厳しく接する父親を自身の母親と置き換えて

当時観た時感じた想いをそのまま綴った。

 

一昨日観てまず驚いたのは、

デイヴィッドが夜、電球の下で一人でピアノに向かって音を出している所に

父親がやってきて横に座り、ラフマニノフを弾きたいというデイヴィッドに優しそうに目を細め

自身の技量では息子を教える事ができないと決断する場面が

私には、母と同じように父親がデイヴィッドを厳しく指導しているように記憶されていた事だ。

 

その時劇場で観ていた感覚を想い出すと、あの夜の場面を観ているのが辛くて

映画館を出ようと思った場面だった。

私にとって薄暗いオレンジ色の灯りの下でレッスンをするのは辛い記憶でしかなかったので

脳はそのトラウマからそのようにしか受け取ることができなかったのだろう。

 

だが実際の映画では父親はラフマニノフを弾きたいと言うデイヴィッドを引き寄せ

抱きしめていた。

私にはそれが見えず

電球の下で竹の物差しで叩かれている自分をそこに見ていた。

 

また浴槽の中でデイヴィットが大便をし父親にタオルで叩かれる場面は

アメリカ留学が決まりホームステイ先から歓迎の手紙が届いた日のデイヴィッドがはしゃぐ様子から

父親が彼を手放す事を突然こばみ留学を断ってしまった事のショックによるものであった。

私が前回書いたように父親にプライドを傷つけられたわけではなく

夢を奪われた事に対する彼のせめてもの反抗であった。

 

母の厳しい練習に「トイレに行きたい」と言い出せずに

その場でお漏らしをしてプライドをズタズタにされたのは幼い日の私だった。

私はその場面を観ながら、まさに子供の頃の母との厳しいレッスンを追体験して

その場を離れる事もできず

こみ上げてくる嗚咽に思わず口を押さえ座席でむせび泣いた。

 

人は強い心的外傷(トラウマ)を受けた場合、フラッシュバックと呼ばれ

後になってその記憶が突然鮮明に甦る事がある。

私もオレンジ色の薄暗い灯りの下のレッスンやお漏らしをする描写がきっかけで

それに近い事が起きたのだった。

 

私の母は頑固で厳しい人だった。

レッスンにおいて褒めてもらった記憶はない。

いっしょに習っていた四つ年上の兄は、片耳が聞こえずらく

母によれば私よりよっぽど厳しいレッスンに耐えたのだとよく言われた。

そして私は忍耐力のたりない甘えん坊だと言われ続けた。

 

デイヴィッドの父と私の母は自身の正しさや愛情を微塵も疑わないところがそっくりだった。

それ故私はデイヴィッドの気持ちが手に取るようにわかるような気がした。

 

またデイヴィッドの父がそうであったように

私もまた母が自身の満たされなかった子供時代の復讐や生き直しの為に

厳しいレッスンを課した事を『シャイン』がきっかけとなってやがて知る事となった。

 

私にはデイヴィットのような芸術の極限にふれるほどの才能などどこにもなく

思春期の挫折の折、幼い日の当然の帰結として母を強く憎んだ。

 音を楽しむという音楽の本質を子供の私から奪った事を含め

近所の子供たちと同じような子供時代をわずかしか過せず

厳しいレッッスンが徒労でしかなかったと母に憎しみをぶつけた。

 

ある時友人が、一番最初にピアノを習った時の事を話してくれた

それはレッスン最初の日

その先生は優しく彼に話しかけ、ピアノの前に一緒に座って

彼に好きなように弾いてごらんと言ってくてたというものだった。

 

彼はかなりの時間戸惑って鍵盤に指を置くことができなかったが、

先生は辛抱強く彼が自分で弾きだすのを待ってくれた。

やがて彼が思い切って人差し指で一音一音、音を探るようにして弾いてみると

横で見ていた先生がとても褒めてくれて

その時にピアノを好きになれそうだと思ったという事だった。

 

私はその話を聞いた時本当にうらやましかった。

子供の私の回りには

友人の先生のように音楽を好きになる事を教えくれる大人は

母はもちろんの事、レッスンの先生や学校の先生を含めいなかった

 

成長するにつれ音楽の才能なるものがどのくらいシビアなものか

理解できるようなった私は

母が望んだものが子供の器や才能に合っていない事が

不幸の元凶である事に気づいていった。

そして何より、母自身が音楽や芸術の真髄を知るという事が

どういう事かを体験も理解もできていないのに

子供たちにそれを求めたという理不尽さに

気づきもしていない事を嫌悪した。

 

結局私は物心つく前から楽器のレッスンに長い時間をかけてはいたが

文字どうりの音を楽しむ事を習い覚える事がその時はできなかった。

そしてそれ故に親を憎み音楽という芸術の素晴らしさに気づくのが

遅れた事を後悔する人生を歩んだ。

 

 

だが人生を生きてゆくうちに、そういった徒労や負の体験と思えていた事も

それがあったが為に出会える人の存在や理解できる事象があるという

事に気づけるようにやがてなっていった。

 

音楽の楽しみを知り、

成人して結婚し子供を持ったタイミングで私は『シャイン』を観る事が出来た。

 

だからこそ忘れていた子供の頃の厳しいレッスンを思い出して追体験した後に

人生での出会いの不思議さや

人生で遠回りしたりする事にもちゃんと何がしらの「はからい」が働いていて

デイヴィッドのように障害があり、

純粋だがピアノを弾くこと以外は他者の助けを必要とするような人生を生きていたとしても

その「はからい」の導く先には思いもかけない出会いや未来が待っているというストーリーが

私自身の人生と重なり

ジェフリー・キャッシュの素晴らしい演技と

デイヴィッド・ヘルフゴット本人の素晴らしい演奏と共に

私を癒してくれたのだった。

 

 

音楽や芸術の深遠はデイヴィッドのような天賦の才があり

全てを対価に捧げても尚それを求める者のみが知りえるものだと私は思う。

 

だが親と子の愛情の深遠の本質を知るチャンスは

誰もが平等に人の親になった時に与えられる。

 

そして多くの人は意識、無意識の両方で

自身の親を基準として自分にとって初めての子育てをする事になる。

 

子供の成長を感じながら、自分の親もこんな気持ちを体験したのだろうかと想いを馳せたり、

自分が嫌だったり、寂しかったりした事を思い出しながら

親との関係を見つめ直すことを子育ては促してくれる。

 

それは子供の視点でしか捉える事が出来なかった自身の人生を

親の視点から見直し、さらに客観的な視点から分析を深める助けになってくれる。

 

子は親を選ぶ事が出来ない。

お金持ちや、または虐待する親を選んで生まれてきたわけではないと

普通の人は思うだろう。

だが、人生での出会いに偶然などないというのがスピリチュアル的な考え方の中心にある。

 

「はからい」呼び方を変えれば「神の摂理や法則」とは

そういう事全てを含み人間の善悪の概念を超えて営まれていると。

 

「はからい」を信じている私からすれば

親と子という人生において最初の重要な関係に生まれる者は

あらかじめ決めて生まれて来ていると思っている。

それ故、デイヴィットも私もそれぞれ、厳しい父と厳しい母を選んでうまれてきたのだろうと。

 

 

この時代若い人たちが親になるのを躊躇うのはもっともだと思う。

しかし、答えはいつも子供たちの中にある。

 

親の役目はその事を忘れないで、愛情と束縛を誤認する間違いを

注意深く自己点検する客観性を失わないようにして

子供自身の意志と手と足で自ら選び取り生きてゆくレッスンを

日々続ける手伝いをしてあげることだと私は思う。

 

子は親の所有物でもコワモテの神からの授かりものでもなく

彼らの道は彼ら自身が知っているのだから。

 

親となり子供を育てる事は

芸術で深遠を覗くのとは違う角度で生命の深遠に迫る愛情芸術だと私は思う。

 

人生のある時期共に生き、

いずれは別れて行くことが決まっているのは

時間の五線譜を彩る命の合奏(アンサンブル)のようだ。

 

 

 

 

wikiによれば

映画化に当って、ヘルフゴット家族や幼少期の関係者たちへの取材はまったくなく

公開後、映画を観た家族や関係者から、映画は事実に反したでっちあげであると抗議の声が上がった。

姉のマーガレットは1998年に関係者の証言を集めた抗議の本を出版し

父親は映画に描かれたような暴君ではなく、デイヴィッドともうまくいっており、

デイヴィッドの精神的な病気は家系的なものであると主張した。

また父親はホロコースト時にオーストラリアにいたこと、

デイヴィツドは精神病院に入る前に別の女性と結婚していたこと

バーのピアノ弾きの仕事は姉が紹介した事などを明らかにしたとの事であった。

 

しかしこの事実は私にとっては『シャイン』という映画の評価には何ら影響を与えない。

 

あの時『シャイン』を観た事によって忘れていた大事な記憶が

私の人生の掛けがいのない一部になったのは

紛れもない事実であったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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天才 と 『シュレディンガーのパンツ』  と 『アヴェ・ヴェルム・コルプス』

2016年03月13日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

暇な人向けのオタク的非生産的デンパ話です。

頭を柔らかく(アホに)したくて時間が有り余っている方はお付き合いください。

 

「シュレディンガーのパンツ」とは

量子論の育ての親ニールス・ボーアが提唱した「コペンハーゲン解釈」の拡張主張である

フォン・ノイマン=ウィグナー理論を

批判する為に物理学者のエルヴィン・シュレディンガーが

提唱した有名な思考実験「シュレディンガーの猫」のパロディで


見えないスカートの中を妄想し

その小宇宙の中が観測(スカートめくりやのぞきなどで)され確定されるまでは

無数の可能性(ノーパンを含め)のそれぞれのパンツが重なって存在しているという

アニメ上のお約束パンチラを使った妄想嗜好実験である

 

健全な女子や常識的な大人には

「馬鹿じゃないの!」  とか  「きも~い」 という生理的嫌悪の反応を招く

キモオタという侮蔑の呼び名にふさわしい、明るい安村的妄想プレイの1つ。

 

今期放送された京都アニメーションの『無彩限のファントムワールド』の七話の冒頭で

その「シュレディンガーの猫」と「シュレディンガーのパンツ」の解説がされていたが

中二病的サブカルチャーであるアニメはこの手の話が大好物なので

手を変え品を変え昔からよくネタにされる。

 

量子論は

今世紀  自我の意識構造の科学的な解明が、宗教やイデオロギーの呪縛からの開放を加速させる。

の記事にも書いたが、

19世紀最後の12月に産声を上げ20世紀のテクノロジーの爆発的な進化の土台になった。

それは光が波の性質と粒子の性質を同時に併せ持つという観測結果が

従来の古典物理学で説明できなかった為に生み出されたミクロ世界の理論だ。

 

量子論を覆す為に

世界中の研究者がその時代の出来る限り精度の高い装置で実験を試みたが

結局波動方程式の導き出す数値と多くの観測結果が一致した為

波動方程式の正しさをより証明する結果になってしまった。

それは事実は小説より奇なりを地で行くみたいな話だ。

 

量子論のフォン・ノイマン=ウィグナー理論のぶっ飛んでいるところは

ミクロの世界では物質は観測されるまでは、不確定なモヤモヤした状態のままで

観測者が意識を向けた時に「波束の収縮」がおき現象が固定化するという

およそ常識では納得できないような理論だという事だ

 

『無彩限のファントムワールド」の7話で

ファントムのルルが「シュレンディガーのパンツ」の軽い説明をして

主人公に「おまえはノイマン先生かよ」と言われていたが

そのノイマン先生こそフォン・ノイマン=ウィグナー理論の

ジョン・フォン・ノイマン博士で

量子力学の基礎理論であるシュレディンガー波動方程式を徹底的に計算しつくして

物質はあくまでもあいまいな可能性の中にあって

特定の位置とか状態を確定するような答えを導き出せないという事を

証明した数学者だ。

 

ノイマン博士はこんな現象は今までの物理学の概念範疇のルールでは

説明(数学的に)出来ないのだから

『抽象的自我』という今までの物理学にない概念を創り

観測者の意識が「波束の収縮」を決定づけ物質の状態を決めると主張して

天才科学者で有名だったにもかかわらず

当時から多くの学者から

「そんなの従来の物理学のルールからあまりにも逸脱してるじゃないですか」と猛反発をくらい

今でも『射影仮説』と呼ばれるそれは多くの学者がスルーしようとするらしい。

平たく言えば既成概念から外れたがらない常識的科学者に

ずっとトンデモ扱いされているという事らしい。

 

また波動方程式の産みの親で結果的に量子論の基礎を作った本人のシュレディンガー博士は

その常識的科学者で量子理論の非常識さそのものに嫌気がさして、

ノイマン博士たちの考え方に疑義を唱えその例として

「シュレディンガーの猫」という思考実験を提示した。

 

「箱の中に生きた猫 放射性同位体、

そしてその同位体のアルファ崩壊を観測する装置、

同位体のアルファ崩壊が起きると毒ガスを発生する装置を入れるフタをする。

箱の中の猫の生死は

放射性同位体のアルファ崩壊の量子的(波動方程式によって記述される)

ランダムな動きによってのみ決定すると仮定する。

一定の時間経過した後、猫は生きているか死んでいるかどちらでしょう。」というもの。

 

ノイマン博士たちの考え方が正しいとするなら

同位体がアルファ崩壊しているかしていないかが決定され波束の収縮が起きるのは

箱を開けた時でなければならず

それまでは死んでいる猫と、生きている猫が重ね合わせて同時に箱の中に存在する事になる。

そんな生死を重ね合わせるのは現実の現象を説明するのには非常識だし説得力ないよね。」

とシュレディンガー博士は主張したわけです。

 

だからと言ってノイマン博士の証明した

波動方程式による物質はあいまい可能性の中にあって状態を特定できない

という数学的証明が崩された訳でもミクロ観測実験で否定された訳ではないのですから

シュレディンガーの猫が誕生した1935年から81年もの間

猫は箱の中で重ねあわせの半死半生の状態で未解決の論争を眺めている事になります。

 

そろそろ「パンツはどうしたんだ」という声が聞こえてきそうですが

ようはこの「シュレディンガーの猫」といい、観測者による波束の収縮の「射影仮説」といい

人類の最高峰の頭脳によって到達した科学的学説が

無味乾燥ではなく、神秘に満ち

好奇心や妄想を限りなく掻き立ててくれる上

今だ未解決である事がとても素敵だという事です。

 

この観測者によって物質の状態が決定ずけられるという解釈は

スピ系の引き寄せの法則なんかの根拠の一つにされていて、

現在も中二病的トンデモ度を増幅させています。

 

ちなみに八桁の割り算を暗算でき、初期のコンピューターに計算の早さで勝ったとか

中二的な逸話にここ欠かない天才数学者の名にふさわしいノイマン博士は

やはり独特な方であったらしく、下品なジョークや会話でヒンシュクを買ったり

日常的に秘書のスカートを覗くセクハラを繰り返すヘンタイおやじだったようです。

 

第二次大戦の時は原爆開発である「マンハッタン計画」に積極的に携わって

「日本の精神をへし折るには

京都に原爆を落とすべき」と極端な超タカ派の主張をしています。

 

でもその逸話から飛びっきり中二的なキャクターだったと思える博士なら

終戦から70年経ってかつての敵国日本から

「シュレディンガーのパンツ」というジョークが生まれたと知ったら

さぞ大笑いしてくれるだろうなと

思わずクスッとなってしまいます。

 

 

「下品な天才」 と言えば

最初に思い浮かぶのはあのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだと思います。

 

モーツァルトのいたずらや下ネタのエピソードは山のようにあって

とくに、ウ〇コは妻に宛てた手紙はもちろん

普段の会話に何度も登場するほど好きだったらしく、まるでウ〇コが登場すると

祭りになる幼稚園児のようです。

 

『僕のお尻を舐めてよ』なんてタイトルの曲もあるくらいですし

日常的にスカートめくりをしていたようなので

モーツァルトは「シュレディンガーのパンツ」的妄想を実行に移し毎日楽しんでいた

愛すべき下品なお馬鹿さんだったようです。

 

もちろんモーツァルトの音楽の天才性の逸話は数限りなく有ります。

よく語られるのは

彼の残した楽譜には逡巡や迷いを連想させるものがあまりないというのがあります。

また妻と食事と会話を普通にしながら、空中にある見えない楽譜を

手元の紙にものすごいスピードで書き写していったという

漫画みたいな場面を映画「アマデウス」で描いていたように記憶しています。

 

まあそれは極端な比喩的表現でしょうが

モーツァルトの音楽は曲名や作曲者を思い出せなくても

『トルコ行進曲』など多くの曲が誰もがメロディーを覚え安く、時を経ても色褪せていません。

 

私は会社員で中間管理職をしていた頃

袋小路から出られなくなってもがいていた時期がありました。

 

ある時気分転換に散歩をして歩いていると近くの中学から

ミサ曲のような合唱が聞こえてきました。

それは下校用の放送で流されていたのですが

聞き覚えはあるけれど曲名のわからない美しい調べでした。

 

私は立ち止まって目を閉じ

しばらくその調べに身をまかせるよう聞き入りました。

 

曲が終わりゆっくと目をあけると

心が洗われて体が軽くなったような気がしました。

 

youtubeもない時代ですから、メロディーで曲名を調べるのはむつかしく

結局なんという曲かはその時はわかりませんでした。

 

時が経ちスピ系が縁でグレゴリオ聖歌やさまざまな作曲家のアヴェ・マリアを

唄う機会がありました。

その時知り合いの人からアヴェ・ヴェルム・コルプスも加えたらどうかと言われ

どんな曲か知らないというと

「youtubeで調べればいくらでも出てくるし絶対聞いた事があるから。」と言われました。

 

早速帰宅して調べるとそれはモーツァルトの最晩年のミサ曲だと知りました。

そしてyoutubeで探し聞いてみると

それはあの散歩中に聞き私を癒してくれた曲だったのでした。

 

アヴェ・ヴェルム・コルプスはモーツァルトが死ぬ約半年前に作曲されたものです。

その旋律とハーモニーはこの世のものとは思えず

すべての魂を昇華させてくれるように私は感じます。

 

普段は下品で下ネタやおふざけが大好きで、浪費家でギャンブル好きであったモーツァルトは

音楽に関しては天才と呼ぶにふさわしい芸術家であったと

その調べに意図せず救われた私は思います。

 

 

『シュレディンガーのパンツ』をモーツァルトにも話たら

きっとあの映画のように高笑いをして

「私はノーパンに賭ける!」

などと言って喜んでくれるように思います。

 

才能というのは人格や性格とは無関係だという事を二人の天才の人生から感じます。

 

それはまた

我々凡人にも一人一人きっと

役割を果たす為に与えられた才能と呼べるものが有り

その事と人格や性格は無関係に存在していることを示唆しているように思います。

そしてその才能を見つけるこつは

努力を必要としないで成果を上げる事ができる分野という事になるのではと。

 

しかしそれは、その分野が好きでない可能性を多々含むものであるでしょう。

皆がノイマン博士やモーツァルトではないのですから。

その二つが多くの人は重なり合わないからこそ

凡人の人生は複雑で生きにくく

だからこそ生きる価値が有り

醍醐味のあるものになっていると私は思います。

 

天才のノイマン博士やモーツァルトのように

「シュレディンガーのパンツ」を思考実験のままに終わらせず

観測まで実行する勇気は

凡人の私にはなくて良かったという結論と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

*量子論、「シュレディンガーの猫」の説明に関しては

 あくまで簡易的な解釈で厳密で正確な理解を元に記述したものではありません。

 相対性理論にしろ、量子論にしろ、高等数学が完全に理解できる人間でしか

 真の理解は得られないものだと思います。

 私のような根っから文系の人間はその概念の部分を言葉で理解するしか方法がないので、

 数式の凄さ完全性、美しさを理解できないのが残念でなりません。

 その事を了解の上で話を楽しんで頂ければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おそ松腐女子」 と 「ガルパンメンズ」は交わらない。  その②

2016年02月27日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

ガルパン とは 2012年にTV放映されたオリジナルアニメ「ガールズ&パンツァー」の略である。

 

今現在も、去年11月に公開された劇場版は好評でロングランの後今月からは

全国でまた4DX特殊音響による拡大上映がはじまっている。

お時間が有り萌えアニメ耐性のある方で理屈抜きで映画を楽しみたい方は

是非劇場に足を運ばれる事をお薦めする。

できれば、ネットでTV版を全部視聴してから観たほうがより楽しめるが

簡単な前説が本編前についているので、それをみればとりあえず大丈夫です。

 

私はTV放映を見ていてガルパンは十分楽しめたから

見ていない劇場版が好評でロングランしているのがうれしかった。

 

年初めに

西尾維新氏原作のアニメ「傷物語」の劇場版3部作最初の鉄血編が公開された。

「化物語」を最初とする物語シリーズはアニメスタジオ「シャフト」が

「化物語」以降ずっと続編を製作してTVで放映し続けている。

 

「傷物語」は『化物語」の前日譚にあたりアニメ「化物語」の初回の導入部に

カットとして挿入されていた為、原作ファンはシャフトが発表した映画製作の完成を

首を長くして約五年以上待っていた。

 

何故ガルパンと関係ない「傷物語」の映画の話なのかと言えば、

「化物語」を息子に教えてもらった事が私がアニメを再び観、

深夜アニメにはまるきっかけになったからだ。

「化物語」を観なければ、ガルパンも数々の深夜アニメやエヴァ以降観ていなかった

アニメを見直すこともしていなかっただろう。

 

シャフトの作った「化物語」のアニメは私が見てきたアニメとは違い

独特のスタイルをもっていて、視覚的に面白かったのと、

ヒロインの戦場ヶ原さんをはじめとする強烈な個性とキャラクターたちの会話が新鮮で

いろんな意味で煮詰まっていた私の頭を柔らかくしてくれた。

そしてそれはどこか色眼鏡でみて遠巻きにしていたラノベ(ライトノベル)と呼ばれるジャンルの本を

素直に楽しむきっかけを作ってくれたのだった。

 

「傷物語」は原作の物語シリーズの中では一番完成度が高く面白いとファンの間では評判で

私も原作の中で一番面白かった作品だった。

それ故にファンは2010年の「傷物語」の映画化発表以後首を長くして待ち続け

2016年に念願がようやく果たされたのだった。

 

私は3部作になる事が発表された時点で、嫌な感じがしていたが、

それは私と同じように長い間待ち、期待をして観にいった息子ががっかりして帰ってきたことで的中した。

私は息子のアニメの評価を信頼しているので、

予想はしていたが残念な評価に終わった事で映画館で「傷物語」を観るのをやめてしまった。

 

TVの放映で楽しませてもらい後日譚を期待して観にいった

シャフトの劇場映画『魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』が

私は一本の映画として面白かったので

なおの事劇場版『傷物語鉄血編』への息子の落胆ぶりには共感できた。

 

そこでいよいよガルパンである。

口直しに評判が高くロングランを続けていたガルパンの劇場版を立川で観てきた息子は

『傷物語』での傷を『ガルパン』で癒されテンションMAXで帰ってきて

「母さんと二人で観ににゆくなら代金を出すから」とまで言って押しに押した。

 

私はその言葉にのっかり何年かぶりに妻と二人で

『ガールズ&パンツァー』の劇場版を立川の映画館に観に行った。

妻はアクション映画が好きで、子供に付き合ってアニメも見続けてきたので

一時期はアニメを全く観なくなった私よりは深夜アニメのキャリアは長かった。

 

立川の映画館は劇場版の製作スタッフがオリジナルで音響設定をした

極上爆裂上映と銘打たれているとおりの、凄い音響効果であった。

私たち二人は十二分に『ガールズ&パンツァー』劇場版を堪能した。

 

「映画はこうでなくちゃ。」というのが、私たち二人の共通の感想だった。

 

オリジナルアニメでの世界設定や、アニメ独特のお約束を飲み込んだ上でなければ

荒唐無稽すぎて頭の固い大の大人には幼稚に感じてしまうだろうが、

そういう事を割り引いてみても、若い頃の宮崎アニメのアクションで観たような

アニメならではの虚構をうまく使いながら、見るものを強引に引き込んで楽しませてしまう

水島努監督の力量に改めて脱帽した。

 

『ガールズ&パンツァー』劇場版は

深夜のTVアニメを見事に萌えアクションエンターテイメントに仕上げた

大満足の長編アニメ映画であった。

 

映画館に入る前から予想はしていたが、満員の観客の99%は20代から上の若い男性であった。

当然アニオタがほとんどだろうが、

私たち熟年夫婦が目立ってしまうほどメンズオタのオフ会のようであった。

 

これがもし『おそ松さん』の劇場版が上映されたら、腐であるかはともかく

99.9%女子で埋め尽くされるのは間違いないだろうと思った。

(残りの0.1%は男の娘)おふざけがすぎるか失礼(--)

 

「ガルパンメンズ」も「おそ松腐女子」もその心の中に熱いパトス(残酷な天使的な)を持っているだろうに

その想像と妄想の対象が違う事で、

この二組の熱い男女の集団が交わる事がコミケ以外では永遠にないだろうと思えてしまう事が

何かすごくもったいない気持ちになった。

 

まあ、アニオタにリアルの彼氏彼女がいないと思うのはただの偏見で

実はそれぞれの趣味は趣味で若いカップルで観に来るような無作法をしないという

空気を読んでいるというのが本当なのかもしれない。

 

彼氏彼女らの、趣味に向ける熱いパトスは腐や草食と揶揄されようが

私たちが想像する未来とは確実に違い、彼らの理想の延長上にあるものに必然的になってゆくだろう。

 

それは老人たちや今の大半の大人たちの価値感である

善悪や富や名声や物質的経済的な繫栄の尺度で計れば違うものであるかもしれない。

だが私は、彼女彼氏たちの多くが『おそ松さん』や『ガールズ&パンツァー』に向ける情熱と同じ真摯さで

自身の人生に向き合う正直さを持っているのを自分の子供たちと同じように信じている。

だからこそこれから迎える激変の時代に

正々堂々と彼女彼氏たちのやり方で伸びやかに立ち向かってゆけるだろうと。

 

「ゆとり」と言われ、我慢ができず、他人とのコミニケーションが全体として不器用と言われ続けているが

彼女彼氏らが日本の未来の希望である現実は揺るぎない事実だ。

 

おそ松腐女子もガルパンメンズも、老人たちのいう事を無視して

自分たちの先にある現実の未来をよりいっそう妥協なく楽しむようにしてもらいたい。

その事に妥協し、我慢や忍耐や努力を是とするブラックな社会の未来を肯定するようなら

ゆとり世代の名が泣くと思ってもらいたい。

 

我慢や忍耐や努力を是とする社会から決別し

ひたすら自身の楽しみを追求することでそれを凌駕する事こそが

あなた方の世代が託された未来なのですから。

 

あなた方の親の世代のデンパで変なおじさんの代表として

ものすごい急ハンドルを切ったような

斜め上のエールを勝手に送くりこの趣味の話を終わりとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おそ松腐女子」 と 「ガルパンメンズ」 は交わらない。   その①

2016年02月26日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

サブタイトル 永遠の妄想に耽溺する腐女子パワーは世界の既成概念を内側から溶かしてゆく

 

私のデンパブログを読むような方には

今日のタイトルの意味を一瞥で理解できるようなアニメオタクが一人くらいはいらっしゃると思う。

趣味に特化したどうでもよい記事なので

いつもみたいなのをご所望の方はスルーしてください。

頭が柔らかく(馬鹿に)なりたい人や暇をつぶしたい方はどうぞどうぞ。

 

私は手塚治虫先生の鉄腕アトムからのアニメを幼少の頃見て育ち

10代でヤマトやガンダムを見ていた俗に言うアニメ第二世代だ。

ちなみに私はTV放映のエヴァンゲリオンまではほぼライブで観ていて

劇場版「Air/まごころを君に」を観て

庵野秀明監督の思惑どうり

アスカの捨て台詞がとどめとなり

気持ち悪くなってしばらくアニメから遠ざかった。

 

アニメはいつか世界文化遺産になるか。  

 

の記事に書いたようにその後子供の影響もあり今は深夜アニメにもはまり

立派なアニメオタクと言って良いレベルまで中毒になってしまっている。

 

春夏秋冬の各期のアニメをできるだけチェックし、

今期の覇権はどれで、円盤(BDとDVD)がどれだけ売れたとか、

ダークホースがどうのなどと、アニメ好きな息子とのクソアニメ語りや

掲示板の辛らつなコメント、ニコ動などの実況をいっしょに楽しんでいる。

 

私が子供の頃と違い、アニメの主な放映時間帯は深夜帯だ。

ジャンプなどの大手漫画のアニメ作品やプリキュアやガンダムのように

プラモやおもちゃを売る為に子供が起きている時間帯に放映しているものもあるが、

圧倒的に深夜枠のアニメが多く、大きなお友達の

それぞれのジャンルや嗜好に特化した作品が

王道の「萌え」を中心に飽くこともなく作り続けられている。

 

ここのところの話題と言えば、前期から2クールで放映されている

「おそ松さん」の予想外の盛り上がりだろう。

 

私は「おそ松くん」を少年サンデーで読み赤塚先生のギャグ漫画やアニメを見て育った小学生だったので

「おそ松さん」の六つ子を20代の設定にして現代風にアレンジした赤塚ギャグアニメが

「銀魂」の悪乗りで有名な藤田陽一監督がどんなものに仕上げるのかと興味を抱いていた。

 

子供の頃の私はダヨーンのおじさん、デカパンなどの狂気に満ちたキャラクターが大好きだった。

特にダヨーンのおじさんはバカボンのおやじさんと同じくらい好きで

広告の裏に真似て描いて楽しませてもらった。

 

ニャロメやウナギ犬を見てもらうとわかりやすいが

赤塚先生のキャラクターは単純な図形で構成されていて、子供でも容易に似せて描く事が出来た

キャラクターを似せて描く事は現在隆盛を極めている同人誌やpixivを見るまでもなく

子供にとっては二次創作の歓びの原点と言えるもので昔も今も何ら変わっていない。

 

当時日本中で子供が赤塚漫画に熱狂した理由のひとつはあの人間臭く強烈なキャラクターたちを

子供たちが容易に真似して描く事が出来たのが大きかったと私は思う。

 

私は過激だけれど憎めなくて、時に狂気に満ちたダメな大人のキャラクターたちが

子供心にとても親近感が持て

自分の周りにはどうしてああいうハチャメチャで面白い大人がいなのかなぁと思ったりもしていた。

 

しかし私のようなノスタルジックな思い入れのある者とは違い

現在の嗜好(まんが、ラノベ、ゲーム)をベースにそれぞれの売り

(萌え、パンツ、ロボ、アイドル、キラキラ、ユリ、BL、)などに特化されたアニオタたちが

三話切りどころか最初から観ないと思えた深夜アニメ帯でのギャクアニメである「おそ松さん」は

盛大に爆死する予想を覆し

なんと前期ぶっちぎりの覇権(期ごとの円盤の最高売り上げ)アニメとなってしまった。

 

確かにおそ松たち六つ子の声優さんたちは、

超有名な売れっ子男性声優さんたちが名を連ねてはいるが、

それだけであの売り上げになるとは思えない。

 

私のつたない分析でも、買う理由のほぼない男のアニオタが

円盤売り上げに貢献していないのはわかる。

どの層が買ったのか。

本当に今噂されいる腐女子層が動いたから、アイドルアニメの売り上げを超えるほど売れたのだろうか。

 

確かにpixivを覗いてみるとBL松でタグがあるほどの盛り上がりを見せている。

(アニメやオタクの知識が疎い正常な大人の方にはわからない単語が多いと思いますが、

こんな無駄話に興味がある方は検索するとすぐに解説は出てきますのでお調べ下さい。

最低限 腐女子のwikiはコピペしておきます)

 

腐女子(ふじょし)とは男性同士の恋愛を扱った小説や漫画などを好む女性のこと。

「婦女子」(ふじょし)をもじった呼称である。ヤオラーともいう

年齢の高い腐女子をさす派生語として貴腐人(きふじん)もある

同様の趣味を持つ男性は、腐男子あるいは「父兄」をもじって腐兄(ふけい)などと呼ばれる。

腐女子という言葉は、ヤオイ・ボーイズラブ(BL)物を好む女性に限らず、

おたく趣味を持つ女性全般を指す言葉として用いられたり、

女性のおたく趣味への罵倒語(蔑称)として使用されることもある。

但し、女性おたくで軽々しく腐女子と呼ばれたり、

一緒くたにされる事を忌み嫌う場合も多々あるので細心の注意が必要である。 wikiより

 

年末のコミケC89でもおそ松さんのコスプレで賑わっていたという写真が上がっていた。

 

はたして「おそ松さん」に腐女子は動いたのか?

 

私の世代は女性が書いた女性向け少女マンガを読んでいた男性読者の最初らへんに当ると思う。

私は十代に、別冊マーガレットやLaLa、花とゆめ、りぼん、を漫画好きが講じて読むようになっていた。

一条ゆかりさん、大和和紀さん、陸奥A子さん、槙村さとるさん、田淵由美子さん、大島弓子さんなどの

作品を後ろめたさを感じながら少年漫画にはない繊細でセンチメンタルな表現や

乙女チックなラブコメに惹かれて読みふけっていた。

 

そんな私がBLの洗礼を受けたのは竹宮恵子さんの「風と木の詩」によってだった

それは少年愛をストレートに描き「禁断の」という修飾語がぴったりの衝撃作だった。

だがノンケ(異性愛者)で思春期真っ最中だった私には

あたりまえの拒絶感を与え物語に没入できずに一歩引いて鑑賞する作品だった。

確かに性は記号でしかなく、読み手が性を入れ替えて読めばいつもと同じように楽しめるはずなのに

思春期でホルモン全開だった私にはどうしてもそれができなかった。

 

BL (ボーイズラブ)は女性が妄想に耽溺する世界だ。

美しい少年や男性どうしの恋愛は女性にとっては想像するしかない手の届かないものだからこそ

おもいきり妄想の世界で翼を広げ楽しむ事ができるのだろう。

 

よく腐女子がどこまで腐れるか(想像の翼を広げられる領域)の表現として

東京タワーとエッフェル塔はどっちが攻めでどっちが受けという例題があるが

私は最初にこの話を読んだ時に眩暈に似た感じがした事を覚えている。

まあそれくらい、腐女子は妄想力が豊かだという事が実感できる話だ。

 

「おそ松さん」のアニメの中身にBL要素があるかと言えば

全くといって良い程ない。

1話や3話は有名漫画のパロディーの悪乗りでテレ東の社長からお叱りがあったらしく

BD,DVDでは一部差し替えになると話題になっていたが

放映全般の内容は赤塚先生の切れ味があってブラックな社会風刺を織り交ぜたギャグを

現代風に表現していると私は思う。

だが単純に中身だけを見れば覇権アニメになる要素は皆無だというのが私の率直な感想だ。

 

間違いなく男のオタクはよほどのギャグアニメファンでもないか限りは絶対に円盤を買わないアニメだ。

それゆえやはり、男性声優ファン女子に加えて、

腐海に沈んだ女子が円盤を買ったことによるブレイクだという

大方の分析は当っているように感じる。

 

2月22日がニャンニャンにかけて猫の日といってTVが取り上げていた。

猫の関連の売り上げが2兆円以上で現在では猫ノミクスと呼べる規模に成長したとういう。

その例えで言うならば、

「おそ松さん」のブレイクは腐女ノミクスの前兆と呼んでも差し支えのないものなのかもしれない。

 

私はアニメ自体のもつ萌えやロリや癒しの直接な効用にお金を払う男性とは違い、

作品それ自体ではない妄想の耽溺の為に大金をつぎ込む腐女子こそ

文化による内需拡大を生み出す可能性のリアルな姿のひとつだと思っている。

 

また去年、北米で有名なコメディアニメの「サウスパーク」が

腐女子をテーマにした作品を放映して話題になっていた。

ネットでは腐女子世界デビューと揶揄するような言葉が飛び交っていたが

これこそ日本から発信する大衆文明が

世界の既成宗教や概念を内側から溶かし崩してゆくウィルスの役目を果たして行く良い例だと思う。

 

日本の腐女子たちよ、

これからも腐の極点をめざして

日本には妄想パワーによる腐女ノミクスの経済的恩恵を

世界には大衆文明の精神の自由さの斜め上度を見せつけてやってください。

 

私は交ざれないガルパン男子の一人としてこれからも応援しています。

 

                                            ②に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『海辺のカフカ』 と 蛭子さん  と  愛の枠外へ向かう魂へのモノローグ   

2015年02月22日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

毒だらけのただのデンパ記事です。

この記事も政治、時事ネタではありません。

全くのジャンル違いですから、その方面の方はスルーしてください。

また生理的にグロかったり非常に個人的で不快な表現があると思いますので、

そういうのが苦手な方も決して読まないでください。

死や殺人にまつわる話なので、

気の弱い方、流血表現が駄目な方も絶対に読んではいけません。

この文章は毒ですから。毒と知った上でも読む事が出来る方のみお読みください。

ご承知おきください。

 

私はずっと村上春樹氏の小説を読んでいなかった。

正確には『羊をめぐる冒険』を読んで以来、氏の作品が生理的に合わず

もっと正確に言うなら嫌いになったので

以来ずっと氏の作品はどんな話題作も遠巻きにして読んだ事もなかった。

 

しかし去年ある事件をきっかけに『海辺のカフカ』を読んだ。

その切っ掛けは長崎の同級生殺害事件だ。

 

私は事件の直近に

冷血   闇が生むもの.  

サクリファイス   (犠牲)

『午後の曳航』

のタイトルで事件に関して記事を書いている。

 

私は昔からどうしても「死」という事象に引き寄せられてしまう。

その為にこのブログでも死者への呼びかけや

自殺を思い浮かべている人たちへ

生や死について今一度考えるように促すような記事が自然と多くなってしまった。

 

それは過去の記事に書いた事があるが、

もしかしたら結果として自殺として扱われたような事象を自身が経験したせいもあるし

毎年年間3万人も自殺者が出ていた真っ只中に、

中間管理職をしていて、部下がうつ病で自殺の危険があるようなケースが

身近にあったせいでもあった。

 

また10代の頃に突然受験仲間に自殺をされるという事もあり

近くでは働き盛りの兄を癌で亡くしている。

それ故に人の死を考えない事が

人生上あまりなかったせいからかもしれない。

 

死への考察と、殺人への考察は根本的に違うものだ。

しかし、どうしてもその結果である『死』に対して

殺した者と生と、殺された者の死について

思いを馳せる事をやめる事ができない自分がいる。

 

そういう意味で私は『死』という事象に長い間とり憑かれている

異常者の一人なのだと思う。

 

『午後の曳航』の記事に書いたとうり、中学2年の時に

私は自身の中に蠢いている心の闇を見つけ恐れるともに歓喜した。

それは理性では制御できない、

強烈なホルモンに晒されて脳がしびれるような感覚のようだった。

 

長崎の事件の加害少女の部屋の冷蔵庫から

猫の切断した頭部が証拠資料として押収されている。

 

私はそれをネットの記事で初めて読んだ同じ掲示板で

村上春樹氏の小説『海辺のカフカ』に猫の頭部収集家が登場するのを知った。

そして、加害少女の動機の手がかりを掴めるかもしれないという不順な動機で

『海辺のカフカ』を読んだのだった。

 

読んだ結果として、『海辺のカフカ』に登場する猫の頭部召集家と

加害少女は私の中では直接は結びつかなかった。

 

彼の行為と彼女の行為は行為は似ていても動機がまるで違うと感じた。

私にとっては加害少女の動機の闇のほうが遥かに深く

救いようの無いものに感じた。

 

村上春樹氏の小説からは、血の臭いをあまり感じられなかったが、

彼女が犯した凄惨なマンションでの事件の記事は

読むだけで部屋中に立ち込めた血の臭いがし

その臭いに全身で包まれながら歓喜に浸っている

彼女が見えるようだった。

 

それは残念ながら、私がかつて経験した歓喜に似ているように思え

胃の奥から苦いものがこみ上げて口に広がるのを感じた。

それは幼少時鼻血が止まらない体質であった私が

溢れる血を何度も飲んだあげく

我慢できなくなって吐いた時に感じた

口いっぱいに広がった死を連想させる臭いだった。

 

何故こんな醜い文章を書いているのかと言えば

それは自己確認にほかならないと思う。

 

私は恋愛もし結婚もし子供を持ち、無事育て終えたと言える歳になった。

しかし何歳になっても

胸の最深部にある血の臭いのするような闇をどうしても忘れる事も

消し去る事もできなかった。

 

今も闇を覗く誘惑を抑える事が出来ない自分がいる。

それ故、『海辺のカフカ』を読んだのだ。

 

しかし『海辺のカフカ』は読む前に想像したものとは全く別の何かを

私に残してくれた。

 

それはナカタさんとして登場する人物のなんともいえない味わいだった。

そして闇として蠢く猫の頭部収集家との対比に

不思議な救いを与えてくれた。

 

私の脳内ではナカタさんは蛭子能収さんで再生され、

蠢く闇を異次元に葬りさってくれた

たのもしいお地蔵さんのようであった。

 

私は兄の余命が後幾ばくかになった時に

藁にも縋る思いで信頼していた超能力者に奇蹟は起きないか尋ねにいった。

 

結果はもちろんNOであった。

 

その超能力者は私に

「この人の生まれてきたテーマのひとつは愛の拒絶だ。」と言った。

 

私と正反対で交友関係が物凄くひろかった兄が

病を境に家族以外誰とも会わなくなっていた。

幼馴染から、高校、大学、社会に出た後もそれぞれに

たくさんの親友や友達を持っていた兄が、

尋ねてくる誰とも決して会おうとしなかった。

 

唯一の例外は兄弟の私であった。

 

死後、

私の知らなかったを兄を、残された記録から知らされた。

 

兄は結局死ぬまで自身の奥底の気持ちを自分以外の誰かに

打ち明けるような事はなかったのだった。

 

兄の死は愛を拒絶しているようだった。

 

「この世界は素晴らしい。!」

と心の底から誰しもが叫びたい思ってうまれてくる事を

私はまだ信じたい。

 

だが、愛の拒絶や愛の枠外を生きるようとする事を

目的として生まれて来る魂が存在する事も私は否定できない。

 

愛と命の源である極点から対極まではなれようとする魂の存在は

白金の光から漆黒の虚無の間を生きる事を確認する為の

究極の道標の一つとして

この3次元世界が終わるまで存在し続けるように私は思う。

 

彼らの存在は無くならない。

私の中にも漆黒の虚無は今だ存在している。

でもそれでもいいと思える。

 

私はナカタさんの姿を蛭子さんに重ねながら、

ローカルバスの停留所にむかって泣き言をいいながらも走っている姿に

救われている自分を感じている。

 

 

 

 

 

 

 

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
 村上春樹 著
新潮社

『クラバート』  と  『千と千尋の神隠し』     そして宮崎 駿さん。

2015年02月22日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

最近政治ネタを書くと頭が疲れてしまう

老化現象のあらわれだろう。

ので、気分転換でまた違うジャンルのお話を。

前回の記事みたいなのがお好きな方には関係ないので

スルーして下さい。

また『クラバート』を読んだ事がない方は必ず読んでからお読みください。

本好き、物語好きな方は一生悔やみます。

また読む際は文庫版ではなく

色鮮やかな装填で上下巻に分かれていない単行本をお薦めします。

 

 

『クラバート』

オトフリート・プロイスラーによる児童文学の名作。

 

プロイスラーの『小さいお化け』や『おおどろぼうホッツェンプロッツ』を

子供の頃に読んで楽しませもらった記憶のあった私にとって

20才の頃に読んだ『クラバート』は

読み終えた瞬間から宝物になり

私の本棚の中で今も特別な輝きを放っている。

 

内容は魔法学校に迷い込んだ少年の話である。

 

こう書くとまるで『ハリーポッター』を想像する方が多いだろうが

『クラバート』 は『ハリーポッター』とはまるで色合いが違い

派手な魔法描写はあまりない。

 

その代わり、細やかな風景の描写と

ゆっくりとして落ち着いて流れてゆく時間が

少年といっしょに生活をしているような感覚を読み手に与え

同時に大人でも十分すぎるほどの真に迫る恐怖を創りだしている。

 

物語は少年の魔法学校入学から少女との出会い

そして少女による命を掛けた少年の救出劇の結末に向かって

見事に凝縮されてゆき

最終章のクライマックスは読み手を

一生虜にするほど素晴らしいものだ。

 

私は最初に読んで以来『クラバート』を何冊も買い

この人には読んでもらいたいという人に出会うと配っていた。

そんな本は私の中では後にも先にも『クラバート』だけだった。

残念ながら、人はそれぞれ趣味があるので、

描写の暗さが苦手とか、歴史的な背景がよく分からないから

いまいちピンとこなかったという人もいたが

それでも、読んでもらえた事だけで満足できるほど

『クラバート』は私にとって子供のような存在になっていった。

 

年月が経ち、私は宮崎駿さん

(氏と書くべきだが、失礼と知りつつ親しみを込めてさんと書かせて頂く。)

の『千と千尋の神隠し』が『クラバート』を原作の一部としている事を知った。

 

宮崎駿さんについて説明の必要もないだろう。

今では黒澤明氏と並び最高の映画監督の一人として日本を代表する誰もが知っている

アニメ映画監督である。

 

私は子供の頃からアニメが好きであったが

自身のハートを根底から揺さぶられるような経験をしたアニメ映画は

23才の時に観た『風の谷のナウシカ』がはじめてであった。

 

それ以来『風の谷のナウシカ』は私の中では『クラバート』と同じく特別な輝きを放つ作品になった。

(ナウシカについては語りきれないのでまた改めて書かせて頂くことがあるとおもう。)

 

ある時『クラバート』をあげた人から、家族に「これ千チヒの原作じゃん。」と告げられた事を聞いた。

私はその当時仕事が忙しかった事もあるが

『千と千尋の神隠し』を見ていなかったから、その言葉の意味するところがわからなかった。

また、あれほど熱中していた宮崎アニメを『紅の豚』を観てからは

進んで観る気がおこらなくなっていた。(これも詳細はいつか書くと思う。)

 

私は『風の谷のナウシカ』を観た後、宮崎駿さんがどんな方か知りたくて

当時いろいろ調べ、観られる限りの作品を観た。

その中には子供の頃に熱中したルパン三世のファーストシーズン、未来少年コナン

ルパン三世カリオストロの城、(私はこの最初の宮崎さんの長編アニメをライブで観ていない。何故なら

ルパンのその前の長編映画マモー編が私にとってはとても残念な映画だったので、

2作目を見る気になれなかったのだ、痛恨の極みである。)

またもっと小さい頃に便所の臭いのする田舎の映画館で観て熱中した

東映映画『太陽の王子ホルスの大冒険』も氏が参加している事を知り歓喜したりしていた。

また氏が外国の児童文学が大好きで多くの影響を受けている事も知った。

 

それ故に氏の最大のヒット作となった『千と千尋の神隠し』が『クラバート』を

原作の一部としている事を聞いて腹が立って仕方がなかった。

 

宮崎駿さんほどの人なら、

偽『ゲド戦記』(ゲド戦記の原作を一度でも読んだ事がある方は氏の息子吾郎氏が

鈴木敏夫氏によって作らされたあの映画がいかにひどい代物かご理解頂けると思う。)

のようではなく、『クラバート』そのものをそのまま最高のアニメ映画化出来たであろうにと。

 

 

また『千と千尋の神隠し』のエンドクレジットに原作脚本 宮崎駿とあるだけで

どこにも『クラバート』の文字がない事が

私が長い間『千と千尋の神隠し』を素直に評価できない理由になっていた。

ただ、映画のパンフレットには『クラバート』への言及が載っていて、

氏もインタビューで『クラバート』からの影響を否定していない事を後に知った。

 

『クラバート』と『千と千尋の神隠し』は確かにまるで違う物語だ。

まして、『クラバート』という物語を知らない人には私の話はどうでも良い話だろう

しかし、氏が大学時代にのめり込んだ児童文学の世界へのリスペクトが

その程度かと当時思えてしまえた狭量な私には、

過去にあれほど心酔した宮崎アニメを当時素直に楽しむ事ができなかった。

 

私の怒りはジブリ映画大好きな家族にも、もちろん理解してもらえなかった。

 

『千と千尋の神隠し』の公開からもう12年以上たった。

去年久しぶりにTVで再放送を見た。

 

さすがに『クラバート』の事での怒りも忘れた私は

改めて宮崎駿という人の作り出した世界を十二分に堪能した。

 

『クラバート』という名作が『千と千尋の神隠し』という名作を生むきっかけの一つになった事は

世界の子供たちにはもちろん

少年少女の頃を思い出す事が出来た大人たちにも

素晴らしい事であったなあと、

観終わった後しみじみ思ったのだった。

 

 

 

 

  

 

 

 

クラバート  オトフリート・プロイスラ― 偕成社