日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『柳橋物語』    山本周五郎 著

2019年09月29日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

*『柳橋物語』『樅ノ木は残った』のネタバレ、あらすじが

書いてあります。

名作です。私のつたない文章であらすじを知るより

先に原作を読まれる事を強くお薦めします。

ご承知おき下さい。

 

小さい頃から時代劇は好きだった。

NHK大河ドラマ、金曜時代劇、水戸黄門、大岡越前、銭形平次、

時代が下り、

木枯らし紋次郎、必殺仕掛人、子連れ狼、破れ傘刀州、大江戸捜査網

少し思い出そうとしただけでもこれだから、

私の子供の頃はTV時代劇の黄金期であった。

 

中学生の頃好きで必ず観ていた時代劇があった。

『ぶらり信兵衛道場破り』という

道場破りを生業としている、長屋住みの浪人信兵衛が主人公で

高橋英樹さんが演じられていた。

 

チャンバラが見せ場の時代劇には珍しく

圧倒的な実力を持ちながらも、最後は道場主に

華を持たせて見事な負け方をしてお金をせしめるという

殺陣さえ人情喜劇の演出にしてしまった面白い時代劇であった。

 

本当は2クール半年で終わるはずだったのが人気が出て

もう2クール延長され一年放送されたのだけど、

ヒロインのお文役の武原英子さんと

お文のお爺さん役の大宮敏充さんがスケジュールがつかず

延長後交代された。

 

私は当時、武原英子さんのお文が気にいっていたので、

けっこう残念だったが、

それでも『ぶらり信兵衛道場破り』が続いてくれたのはうれしかった。

 

とても、気ににいっていたので、

自然とエンドロールで原作を知りたいと思い、

この作品が山本周五郎氏の『人情裏長屋』という

作品が原作だと知った。

 

*この作品は2015、2016年とBS時代劇にて『子連れ信兵衛』

というタイトルで信兵衛を高橋克典さんが演じて再ドラマ化された。

 

山本周五郎という名前をいつ知ったかは記憶は定かではないが

私が子供の頃の昭和30年代から40年代、時代劇の原作に

山本周五郎氏の作品は多数使われていた。

その中で多分私が氏の作品ではっきりとストーリまで

覚えていた最初の作品は

NHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』だろう。

 

江戸時代の伊達藩のお家騒動を扱った作品を

 平幹二朗さん田中絹代さん、栗原小巻さん、吉永小百合さんと

昭和を代表するような俳優さんが演じられていた。

とにかくドラマの最後が印象的で、

主役の平幹二朗さん演じる原田甲斐のお家の為に

泥を被り死んでゆく武士の美学が

子供であった私にも沁みるような余韻を残した作品だった。

 

子供の頃も成人してからも、

山本周五郎氏の原作と知らずに多くのテレビ番組や映画を観ていた。

有名なところでは、映画監督、黒澤 明氏の映画の原作とされいる

『椿 三十郎』』、『赤ひげ』、『どですかでん』、

がある。後、脚本が残され、後に映画化された『雨あがる』もある。

(どですかでん、は現代劇)

 

確かに映画の脚本は原作とはかなり違うものもあるが、

山本周五郎氏の作品から黒澤 明監督が多くの

インスピレーションを受けたのは間違いないだろう。

 

時代劇TVドラマにいたっては、これは氏の原作を元に作られているなと

思える作品は本当に数限りない。

日本の戦後の時代劇が山本周五郎という作家から受けた影響は

本当に大きかったのではないかと思う。

 

 

そんな山本周五郎氏の文学作品に

19歳の私は孤独な日々の中でもう一度出会った。

 

通り魔事件・親殺し子殺し・引きこもり・子供部屋おじさん             メメントモリ ・生死の対話  

の中で下記のように書いた。


私は人に関わる事が怖くなり、部屋に閉じこもった。

芸術に対する情熱も失い、インターネットのないあの時代

現実から逃避する為にひたすら本を読んだ。

本を読んでいる間は現実を忘れる事が出来た。

 

人と全く会話のない孤独な時間の中で、ある小説家の作品との出会いが

私にもう一度、人を信じ、前に進む勇気を与えてくれた。

 

このある小説家とは山本周五郎氏の事だ。

 

私は父の影響(小学生の私に『『坂の上の雲』を読ませた。)も有り、

小学生の頃から司馬遼太郎氏の歴史小説を好んで読んでいた。

 

だが、思春期に突入し三島由起夫氏の作品を読んでからは

純文学一辺倒になっていった。

私の世代は十代の半ばに村上龍氏が『限りなく透明に近いブルー』で

華々しくデビューした頃にあたり、TVでも何かと話題となり

読まないわけにはいけないような雰囲気があった。

私は村上氏より、その次の芥川賞を受賞した中上健次氏の作品が好きで

『岬』『枯れ木灘』などの作品を貪るように読んでいた。

それ故、当時の読書の対象もまたそのような文学作品ばかりであった。

 

当時、受験仲間の自殺した街から逃げ出し、

新しく住み着いた街で、

外に出るのは食料調達か、図書館か本屋だった。

ある時たまたま立ち寄った本屋で

平積されている文庫本が目に入った。

それは、表紙に日本の古いに合わせ鏡がシルエットのように

配置され、その中に白抜きで蒔絵の柄のように草が描かれていた。

手に取って見るとそこには

『小説 日本婦道記』 山本周五郎 と記されていた。

裏表紙の紹介文には、厳しい武家の定めの中で生きた

女性たちの短編集である事が書かれていた。

 

当時よほどの事がなければ新刊本を買わなかった私は

その和モダンの印象的な表紙につられ、迷わずレジに向かった。

 

帰宅し、一気に

 『小説 日本婦道記』を読み終えると

すごく長い吐息が漏れた。

長らく、胸の中に貯まっていた、もやもやしたものがなくなり

一陣の風が胸の中を通り過ぎて、若草の香りがわずかにするような

清涼感が残った。

 

 

彼の死以後、私は自分の二十歳の誕生日を迎えるのがたまらなく

怖かった。

彼は二十歳にならずに自らの命を絶った。

私は自分が十六の時に自身の精神の虚無と死の淵を経験しながらも

彼の悩みに全く気づく事が出来なかった自分もまた

二十歳になる資格がないのではないかと

誰も知らない街のアパートの一室で、一人怯えていた。

 

それは、私が二十歳になる夜に、

クリスマスイブの夜に

クリスマスキャロルのスクルージの前に現れた精霊のように、

死神が私の前に現れ、有無を言わせず連れ出して

彼の前に立たされるという恐怖であった。

 

当時の私は死んだ彼の前に立ったら、何と語り掛ける事が出来るのか

その答えをさがし求めていた。

 

受験や芸術で悩み死んでいった彼に対して

私なりの納得のゆく返答をする事ができなければ、

とても顔上げ、前を向いて彼の前に立てないと思えた。

 

『小説 日本婦道記』はそんな私の心を

厳しい定めの中にあってなお、凛として生きてゆく女性たちの姿

を描き切る事で、

風の祓いのように一時、吹き清めてくれたのだった。

 

それ以後、私は山本周五郎氏の時代小説の世界に魅入られ

やがて『柳橋物語』に出会った。

 

『柳橋物語』

 

この作品は江戸の下町が舞台だが、

物語は、今もどこにでもある庶民が暮らす街の夕暮れから始まる。

 

主人公の十七歳の娘「おせん」は祖父と暮らしている。

おせんが夕食の支度をしていると、店の方から

幼なじみの庄吉と祖父とのやり取りの声が聞こえてくる。

どうやら会話から庄吉が旅に出るように聞こえる。

庄吉は店を出た後に勝手口に回り、

窓を開け、おせんに柳河岸で待っていると告げ

思い詰めた顔をして去ってゆく。

 

夕暮れの墨田川の河岸、柳の木の下でおせんは

庄吉から、江戸を出る理由は

大工の棟梁の杉田屋で共に育った、

おせんにとっても、もう一人の幼なじみの幸太が

棟梁の跡継ぎとして養子になる事がきまったからだと告げられる。

 

庄吉に、幸太と同格になる為に、上方にいって稼いで親方の株を手に入れるから

それまで、誰とも結婚せず待っていてくれるように頼まれ、

おせんは夕暮れに照らされた河岸の雰囲気に飲まれるように、

庄吉の言葉どうり待っていると約束する。

 

おせんの激流のような人生の運命は結果からいえば

この夕暮れ時の河岸での、

わずかな時間での約束によって決まってしまった。

 

おせん、幸太、庄吉は幼なじみであった。

おせんも両親に死に別れ、杉田屋に住み込みで働く幸太と庄吉に

幼き日に出会い、成長した。

幸太は小さい頃は、口の利き方が乱暴で大人と達者に口喧嘩をするようなふうで

庄吉はおとなしく、ひ弱で見た目は女の子のようであった。

 

幸太、庄吉共に

おせんが好きであったがおせん自身は

庄吉に河岸で告白されるまでは

そのような特別な思いをどちらかにも抱いた事はない。

二人ともそれぞれに近しい幼なじみであった。

だが告白された事によって、おせんの熱情は庄吉に傾いてゆく。

 

十七歳のおせんにこれ以後、様々な不幸が襲いかかる。

幸太郎が跡継ぎと決まった杉田屋から、おせんへの縁談の話があるが

祖父がおせんの亡くなった母親との因縁を理由に幸太との縁談を断る。

その話を詳しく聞いて、おせんは杉田屋と自分との関係を祖父が嫌っていた理由知る。

庄吉との約束の事もあり、杉田屋と幸太とは疎遠になろうと決めたのだが、

縁談が破談になった後も幸太は祖父に話しに来るのをやめず、何かにつけおせんの所に

顔を出して世話を焼こうとする。だが祖父もきっぱりと幸太にもう来ないよう告げる。

そうこうするうちに、祖父が病で倒れ仕事が出来なくなり、

おせんはお金に困り内職をはじめるが

そんなおせんを幸太はほっておけず、お金を渡し、手助けをしようとする。

 

おせんは庄吉との約束を守る為と、幸太が煩雑に来た事で

おせんが幸太の妾であるかのような噂が流れている事を理由に

幸太の申し出をきっぱりと断り、手をつけていなかったお金もつき返す。

それ以後、幸太はおせんの前にはあらわれなくなる。

 

その事があってしばらくしたある夜、江戸の街に火事が起こる。

火事は想像以上の大火となり、おせんの街にも迫ってくる。

幸太はおせんの元にかけつけ、身動きが出来ない祖父を担いで

火事の江戸の町をおせんと共に逃げまどう。

 

火事に行く手を遮られ、また木戸が閉められ、

橋のない墨田川の河岸におせんたちをはじめ

多くの人々が追い詰められてしまう。

 

地獄絵図のような光景の中

幸太はおせんと祖父を布団をかぶせ守ろうとするが、

火の勢いは益々増してゆく。やがて、幸太は

祖父が息をしていない事に気づき、おせんにわびる。

おせんは、

祖父を連れて逃げてくれた事の礼を幸太に告げる。

炎は河岸の家を焼き燃え盛る瓦礫が落ちて来る中、

おせんは赤ん坊の泣き声を聞きつけて

焦げてくすぶっている、ねんねこにくるまった赤ん坊を見つけ抱き上げる。

ほっておくように幸太に言われるがおせんは赤ん坊を離さない。

燃えさかる炎の下で幸太は

おせんへの告げることが出来なかった切ない想いをついに告げる。

そして、おせんと赤ん坊を守る為に、河に降りても足がつくように

石材を川底に積み上がるようにいくつも落としてから、

赤ん坊を抱いたおせんを河に降ろし、流されないように石垣にしがみつかせる。

幸太はおせんの上に布団をかけて、火から守ろうと手で布団に水をかけていたが

流れてくる手桶が目に入り、それを取ろうとして水に入ったが、

すでに力を使い切ってしまい、「おせんちゃん」と声を残し

川面に消えてゆく。

 

その後のおせんの記憶はお救い小屋から始まる。

命を救われたのは、おせんと、

おせんが拾った誰が親ともしれない赤ん坊だけであった。

 

祖父と誰かが死んだ事は朧気ながら覚えているが、

夢の中の事のようではっきりしない。

 おせんは記憶が混濁し火事以前の記憶が無くなり

自分がどこの誰で何故赤ん坊を

連れているかさえ、思い出せなくなってしまう。

その事で拾われた赤ん坊はおせんの子供とみなされる。

最初の内は赤ん坊の為に乳をわけてもらったりしていたが、

日がたつとそれもなくなり、小屋を押し出されてしましい

乳飲み子を抱えふらふらしているところを声をかけられ

その声をかけてくれた勘助夫婦の世話になるようになる。

 

やがて火事で焼けた街が再び活気を取り戻してゆくように

新たな暮らしの中でおせんの記憶は段々と蘇ってゆく。

 

物語は、庄吉が帰ってき、おせんが育ている赤ん坊を

幸太の子供と勘違いした事から、おせんが再び追い詰められてゆく。

 

様々な不幸に見舞われるが、おせんの回りには

世の人情や縁によって助けてくれる人々もいて、

人の世の巡り合わせの不思議さを感じさせる。

運命に翻弄されたおせんは、多くの不幸を経験したが、

その事によって、真実の愛とはどのようなものなのか、

苦難の果てに気づいてゆく。

 

物語の最後

おせんの、死んだ幸太への語りかけの言葉が胸を打つ。

大火の折り、そこに橋があれば多くの人が助かったという理由でかけられた

柳橋の完成を祝う人々の賑わいや、お囃子の音が聞こえてくるかのような

結びが、心にいいしれぬ余韻となって残る名作である。

 

 

私は、『柳橋物語』を読み進めてゆくうちに    

「おせん」に起きた事がまるで自分に起きた事のように思えた。

そして、涙が溢れて、途中何度も読む事が出来なくなった。

 

特に、火事の後おせんが記憶を無くし、彷徨う場面では

自身の十六歳の片頭痛の際に経験した記憶の欠落や混濁を思い出し

胸が押しつぶされそうになり、その先を読み進む事が中々出来なかった。

当時の私も外界の出来事が遠くに感じられ

おせんと同じように、どこか夢をみているような

そんな精神状態で何ヶ月かを過ごした。

 

庄吉が戻りはしても、おせんは赤ん坊の事で誤解されたまま

その事が引き金になり、精神の平行を何度も失いそうになる。

おせんの回りの人々も浮世の容赦ない運命に翻弄されて

死んだり、離れたりしてゆく。

そんな苦難の末に、ついに幸太の声はおせんに届き、

真実の愛とはどのようなものかを悟らせる。

 

読み終えて

私はおせんの人生の中にようやく、探し求めていた答えが見つかった気がした。

 

人間とは運命に翻弄される宿命にあり、

その事を拒む事などできない。

そして、人間はいつか必ず死ぬ。

 

そのある種の『諦め』をまずは受け入れる事から始めようと。

 

そして、人生とは不条理で矛盾だらけの世界を生きる事であり、

肉体の死は平等に誰にも訪れる。

だが、人間は肉体が消え去ったとしても、

消す事ができない真実を残す事は出来うるはずだと。

 

物語の最後、おせんが、幸太の位牌に向かって呼びかけをすると

幸太の満足そうな顔が浮かびあがる。

 

その瞬間、私の前に笑顔の彼が立っている姿が目に浮かんだ。

 

「もう一度顔を上げ、前を向いて生きてゆこう」

 

柳橋物語は

運命を受け入れ、人を信じ、人の海に漕ぎ出す勇気を再び与えてくれた

私にとって、人生のかけがえのない一部となった珠玉の物語である。

 

 

 

 

 

 

 

柳橋物語・むかしも今も (新潮文庫)
山本 周五郎
新潮社

感情衝突の世界からの離脱と フライウェイ ②

2019年09月23日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

引き続き 

右回転螺旋エネルギーについて。

 

この左卍で表される天から地に向かう右回転螺旋エネルギーは

ただ回転しているのではなく、内側に向かっている。

これはエネルギーが右回転をしながら

プラズマ→気体→液体→固体と収縮してゆく原動力となっている。

また前回物資化エネルギーは感情エネルギーとイコールだと書いた。

 

これは何度も書いてきたが、

天究極の一点 主極Ⓢ 神(天)界から→幽(霊)界→現 (人間)界の

ベクトルで感情エネルギーは増大し、

現(人間)界では物質の中に感情エネルギーを蓄積する事が出来る。

逆に、神界ではエネルギーはプラズマ化されているので、固体に近い波動の

感情エネルギーはバラバラになり保持してゆく事は難しい。

 

幽(霊)界にいるこの世に未練を残し感情のエネルギーの塊として存在している

幽霊はその感情エネルギーの重さ故に神(天)界に上昇してゆく事が出来ない。

彼ら、彼女らは、地に向かう感情エネルギーの存在である為

自らの意志でそこにいる。この状態を世間の言葉でいえば、地縛霊だが、

正確には自分の感情に捕らわれているのだから自縛霊のほうがより正確に思える。

 

エネルギーの流れが転換する前は

この天から地への右回転の螺旋エネルギーにより、

物質の中に感情をたくさん溜め込み、歪みを増大させる事で、より物質的なパワーを増大させ、

横に広がるエネルギーを加速させる時代であった。

 

宗教も国家も物質的なパワーや人間の感情パワーを増大させることで

勢力を増大させた。これが横のエネルギー拡大の結果であり、

現状の世界衝突の原因でもある。

 

だが、エネルギーの流れは地から天、主極Ⓢの一点に向かう流れに

転換した。

この事は、横への拡大する力の弱まりと同時に、

物質の内側に収縮してゆくエネルギーのベクトルが

弱まってゆく事を示している。

 

この地から天への縦のベクトルの螺旋エネルギーは

今までとは逆に、内向きではなく、常に内から外に遠心力で

飛びだそうとする左の螺旋回転でそのパワーは日に日に増大している。

 

今はエネルギーの流れの転換が起きた最初の三〇年であり、

そのプレッシャーの外れ方が激しく、今までは隠しておけたり

我慢できた感情がどんどん溢れ出す現象が世界中でおき、

その事によって感情衝突がより明確になっている。

 

国家間の衝突も宗教の衝突も人種、LGBT、様々な事が

建前ではなくむき出しの本音による衝突が起きているのは

このエネルギーの転換によって、今までは内側で保持できた

感情が保持できなくなり、常に外側に出ようとするベクトルに

人類全体がさらされ続けている事による。

 

 

感情とは物質に起因するものなのだ。

人間が感情を保持できるのは、

肉体を持っているからであり、肉体の影響を

意識が受けなければ人間の意識は軽くなり

縦の動きに乗る事が出来るようになってゆく。

 

修験道も、仏教、世界中の宗教が修行といって

身体へ過酷な負荷をかけるのは、生命エネルギーを削る事で

感情を意識から分離しやすくする為だ。

仏教で煩悩を滅却するというが、煩悩とは感情エネルギーそのもので

それは肉体という器に蓄積されている。

その為肉体の生命エネルギーを削る事で、感情エネルギーは放出され

アイディンティティの核心である純粋な意識を

自我が認識しやすくなるのだ。

 

激しい肉体行をすれば生命エネルギーが減少し身体の感覚が

麻痺することで

感情に左右されない自己意識に到達する可能性が高まる。

だが、それでは、人類全体が肉体的修行でもしなければ

感情エネルギーをコントロール出来ない事になってしまう。

 

フライウェイは肉体を持った人間の意識が神(天)界に入る。

当然、生きている人間なので、普通に感情を持っていて

心の感情の動きの中で日々を過ごしゆく。

だがフライウェイをする時はそういう諸々の感情をとりあえず横に置いて

意識のみが神(天)界領域に入る事が出来るようになってゆく。

そして、意識がその生命エネルギーに満ちたプラス領域にいると

肉体の中に存在していた

負の感情エネルギーはプラズマ化されバラバラになってゆく。

 

禅では「無」という意識状態をさす言葉がある。

神(天)界のエネルギー領域とはまさに主極Ⓢに近づけば

近づくほど完全な無になってゆく。

 

フライウェイで神(天)界でも高いエネルギー領域に到達出来ると

何もないという状態を

肉体感覚と意識の両方で体験する。

このようなフライウェイが日々出来るようになると

ストレスとなるような負の感情はプラズマ化され解体されてゆくので、

体の中で収縮し物質化する事を防いでくれる。

 

人は悪感情やストレスのエネルギーを肉体に溜め込む事で

そのエネルギーは物質化し、精神はもちろん、様々な

肉体の病を発病する原因となる。

 

アンガーマネジメントが最近注目されているが

怒りや憎悪などの悪感情に振り回されず、

ストレスになるような不要な感情を消し去ってゆく事が出来れば。

この感情衝突の世界から身をかわす事が

自然と出来るようになってゆく。

 

主極Ⓢをめざしてフライウェイ続けてゆくと

左回転の地から天へと向かう縦のエネルギーにのり

幽(霊)界のマイナスのエネルギー領域を飛び越え

神(天)界のプラスのエネルギー領域に人間が生きたまま意識で

入る事によって

現(人間)界の横のエネルギーと交わらない(衝突しない)状態に

自然となってゆく。

 

感情とはあくまでも物質に付随しているものだという認識を

得る事ができれば、

多くの人間は表層の感情を自己のアイデンティティと勘違いしているのだと

やがて気づく事が出来るようになってゆく。

 

そのように自己の意識を客観的に捉える事ができると、

感情が、物質(肉体)というコップの中嵐に過ぎない事を認識でき、

現世で感情を味わった後、こだわらず、手放してゆく事が自然と出来るようになってゆく。

 

私は何度も書いてきているが、感情を悪者扱いしているのではない。

人間がこの現実世界に物質的な肉体を持って生まれてくるのは

感情を味わい実感を得る事が大きな理由のひとつなのだから。

 

喜びも悲しみも大いに味わう為に、我々は肉体を持って生まれてくる。

だが、その感情エネルギーの拘束力があまり強いため、多くの人は自己の本質的な

アイデンティティが表層の感情の動きの中にあると誤認している。

人間の本質とはそのような単純なものではない。

 

若者たちが物を買わなくなった背景には

もちろんお金がないという現実もあるが、

大元の理由は、

彼らが感情エネルギーを溜め込まないように生まれてきているからだ。

 

生活をなるべく合理的にしようとすることも

ミニマムな生活をあえて選ぶのも

物に蓄積される感情エネルギーによる意識の夾雑を

無意識的に回避しよとしんているのだと私は分析している。

 

当然、老人たちは、そのような経済が収縮してゆくような

消費行動は理解できなし、GDPの拡大でしか生活の尺度を測れない

大人や老人にはとても理解できない行動だろう。

だが、それで良いのだ。

 

これから、感情衝突の場面、事件をみたら、

その横のエネルギーの流れを客観的に見る癖をつける事をお勧めする。

そして、自分がその衝突の当時者にならないように感情を味わった後に

手放す癖をつけてゆく事だ。

 

感情の衝突の世界に対になるものは論理、合理性の「たてわけ」の世界だ。

 

これから世界は感情衝突の混乱期である

『ラルロの嵐』』を乗り越え、

論理と合理性が尊ばれる精神文明の階段を昇ってゆく。

 

 

 

*エネルギー転換による影響を以前イメージ出来るように書いた。参考になれば

 Bad Apple!!   白と黒の影の転換に陰中の陽...

 

 

 

 


感情衝突の世界からの離脱と  フライウェイ

2019年09月22日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

マスメディアもインターネットも

日本と韓国、政府と野党、ネトウヨとパヨクなど

あっちでもこっちでも非難合戦の堂々巡りが繰り広げられている。

 

つくづくその熱量の多さに関心すると同時、

その横のエネルギーのぶつかり合いこそが

まさに『ラルロの嵐』であり、

今はそれがヒエラルキー構造の既存の宗教や国家、社会を

解体する為に、必然的に起こっているのだと思う。

 

今回はそのような感情衝突の世界から

距離をおいて、感情の嵐に巻き込まれないで

この現世を謳歌してゆく法則としての

『フライウェイ』を説明しようと思う。

 

まあくだけて言えば、一般の人はスルーするような

トンデモでスピリチュアルで

 ムー民のような科学的な根拠の乏しい話も馬鹿にせず楽しめる方用の

三途の川の向こう側の話なのだけど

 

ちょと、わかりにくい文章だが

その方面がお好きな方も、頭が煮詰まっている方も

お暇な方はどうぞ。

 

まずは大まかな予備知識から

 

フライウェイにおいての世界。

 

主極 Ⓢ マルエス    全てのはじまり、万物、生命の源の究極の一点。

 

神(天)界        守護神 ハイヤーセルフ 神男 神女 精霊 

             が存在する場所

             人間の生命エネルギーにプラスの場所

             時間がない

 

 

幽(霊)界        肉体のない、個人のパーソナリティや性別を自覚している

             意識エネルギーが存在できる場所。 

             ひらたく言えば幽霊が存在する場所 

             人間にとっては、生命エネルギーを削られる

             マイナスエネルギー帯                  

             時間がない

 

 

現(人間)界       主極からのエネルギーが万物となって物質化出来る場所。

             人間の意識が物質化した肉体をもてる場所。 

             時間がある


次に「霊」について


「霊」という言葉は

フライウェイでの使われ方と一般や様々な宗教やスピリチュアルでの使わ方とは

定義が少し違うので説明しようと思う。


フライウェイでは「霊」はあくまでも幽(霊)界に存在する意識エネレギーの波動であり、

仏教でいう成仏する前の霊魂をさす。

神道でいうなら神上がり、御昇華の前の御魂となる。


幽(霊)界というのはあくまで人間の生命エネルギーにとっては

マイナスのエネルギー領域だ。

よく霊体験の話に「守護霊」に守ってもらったという表現があるが、

フライウェイでは、そのような表現はあり得ない。

あくまでも、霊はマイナス領域の存在であり、

例え肉親の霊だろうが

その霊が生きている人間に影響を及ぼそうとしても、

良い影響を与える事は不可能だから。


彼らは本来ならまずは成仏や、神上がりをして一端その生きた人生に

ケジメをつけなければならず、

それをしないうちは、その霊は地上の人生に未練を残した念の固まりであり、

そのようなものが、肉親や子孫の人生に介入する事は

人間にとっては生命エネルギーを削られたうえ、介入された人間が本来 神(天)界で

「今回の人生のテーマはこれでこのように生きよう」というアイデンティティを

ねじ曲げられかねない。


それ故、世間一般で使われる、守護霊という言い方はフライウェイではしない。


マイナスエネルギー帯に存在する霊に、

生きている人間を守護する事など出来ない。


守護したり、良い影響を与えたいのなら、まずは神上がり、御昇華して、

神界に昇って神男、神女になってからだ。

 

霊媒やイタコなど、霊と交信して、

死者からのメッセージを受けとって生きている人間に伝える事を生業としている人がいる。

(また、神界領域の存在と交信できる巫女、ユタも存在する)

このような職業が全世界的に存在する事実や、実際に、

霊媒から死者の伝言を受け取った事がある人は、

その人しか知りえないはずの情報を確認する事で、

多くは魂や霊の存在を受け入れている。

 

霊媒者は、霊が生命エネルギーに悪影響を及ぼすエネルギー帯にいるので、

コンタクトをとる時に、当然自分たちの生命エネルギーを消費し、命を削っている。

この事は素人が興味本位でそのような事に触れてはいけない重要な知識だ。

 

もう一度重要な事なので書くが霊とはマイナス領域に存在する

人間の生命エネルギーにとってはマイナスのエネルギー存在である。

彼ら彼女らは(肉体がないのに性別にとらわれている)、

まだ現界の意識を残しており、強い念が重りとなって

天界、神界に昇れない状態にある。

つまり人間にコンタクトを取ろうとする場合は、現世での未練を

生きている人間を通じて果たそうする、これはよく言われる

憑依に通じる。

つまり、幽界いる霊は現実の世界に念のベクトルが向いていて

その意識は三次元世界から抜け出す事が出来ていない。

この事により、フライウェイでは、現(人間)界と幽(霊)界の

両方を三次元という。

霊は肉体も時間もない世界にいながら、その概念の中で生きている故に

「三次のあなた」なのだとフライウェイの創始者はクレイグ・ケイコさんは

繰り返し言われていた。

 

霊は人間に現世での利益がある情報を渡してくれる場合もあるが

それはあくまでも、自分の未練や念をその人間を通して果たす為であって

結局はギブアンドテイクの関係であり。人間が本来生きるはずであった人生を

邪魔する事となる。

それ故に亡くなった近親者の霊などは成仏や御昇華してもらって神界、天界に

入った後でしか人間の為になるような活動をする事は出来ない。

 

霊についての説明がくどく長くなってしまったが、

フライウェイで幽(霊)界のマイナス領域の影響を受けないで

神界、天界に入る事がいかに大切かを知ってもらう為なので

ご容赦願いたい。


 

フライウェイとは簡単に言えば

肉体を地上に持った人間の意識が

このマイナスのエネルギー帯を飛び越えて

プラスのエネルギー帯の神(天)界のエネルギー領域に入り

生命エネルギーと物質化されていない情報を現界に持ち帰る事が出来る

「法則」の事だ。

 

何故スキルとか術とか言わないで『法則』と呼ぶかと言えば、

術やスキルは人間のする事だが、フライウェイはあくまでも

神と人との関係によって成り立つからで、

それは今後の精神文明の発展の中で

人類誰もが平等に行う事が出来るようになってゆく事によって

神の存在が概念ではなく現実世界に根底から影響を及ぼす原因、大元であり、

実在しているエネルギーである事が証明されていくからに他ならない。

 

今までの物質文明では現界でのエネルギーしか感知する事が出来ないような

状態に人間は置かれていたが、

エネルギーの流れが、神(天)界に向かうように転換した現在以降は

時代が進む事によって幽界や神界のエネルギーや情報を人類全体が

意識で感知出来るようになってゆくことが現象として起こってゆく。

 

その事によって

人間は肉体や脳という物質によって意識が成り立ち生きているのではなく、

意識という肉体とは独立した存在があり、

それは肉体に縛られたり、閉じ込められている存在などではなく

次元を超えて交流できる意識こそが

肉体ではなく、人間のアイデンティティの中心であり、

生命存在の核であるという認識が人類全体に起り、広がってゆく。

 

時代が進み、やがて生まれながらにして人類は意識の次元を超えた交流を

当たり前のように出来るようになり、その実感を誰もが得る事で

フライウェイが法則である事が証明されてゆくとされている。

 

フライウェイでは

宇宙が創られた大元、中心のエネルギー主極Ⓢと

人間という存在が一つで結ばれ、そのエネルギーの流れに

人間の意識は影響され、個人の意識の総合である人類文明も影響を

受けるとされている。

そしてそのエネルギーの流れには

究極の一点 主極Ⓢから地上に向かうエネルギーの流れと

地上から主極Ⓢに向かうエネルギーの流れがあるとされいる。

 

その2方向の流れは、約5千年事に天から地の流れが強くなる時と

地から天に向かうエネルギーの流れが強くなる時とを

交互に繰り返していると言われている。

 

この天と地の間の二つエネルギーの流れは螺旋状に回転している。

 

一つ目の天から地に向かう右回りのエネルギー、これを仏教ではカホリと呼ぶ。

このエネルギーは物質化を表している。

 

二つ目の地から天に向かう左回りのエネルギー これをミツと呼ぶ。

このエネルギーはプラズマ化を表している。

 

この螺旋回転エネルギーはシンボルとして古代から卍で表され

現在の日本の寺院の地図記号は卍は左マンジだ。

 

またナチスによって暴力と虐殺の象徴となってしまった

ハーケンクロイツは右マンジだ。

このマンジの印は、ナチスがハーケンクロイツとして使うまでは、西洋では

スワスチカと呼ばれ幸運のシンボルであった。

 

ここで一つ勘違いをしやすいのだが、

左マンジ卍は右回転を表してる。

これは中心の十字の回転によって旗が棚引く様子のシンボルだからだ。

当然ハーケンクロイツの右マンジは左回転、地から天へ向かうエネルギーの象徴となる。

この事をオカルティストであったヒトラーが知らないで使ったとは

到底思えない。

彼がドイツ民族の魂を天国に向かわせる為に使ったのか、どのような意図をもって

物質化のシンボルの左卍を使わなかったのか

いずれはわかる時がくるだろう。

話が脱線した元に戻そう。

 

何度も記事に書いたようにエネルギーの流れは地から天に向かう

縦方向が優位になるように転換した。

この事がどういう事かと言えば、今までは預言者と呼ばれた特別な他者を

媒介としなければ、受け取れなかった神と呼ばれる領域のエネルギーとの

交流が誰でも平等に出来るようになった事をしめしている。

 

これをもう少し具体的に述べると、我々が肉体を持って存在する

物質界を現界とする。

 

人間とは有機物で構成される肉体とその肉体に宿る

意識(自己のアイデンティティーの中心である意識を構成するエネルギー体)の二つによって

構成されているとする。

 

意識は有機物で構成される肉体から離脱、または分離して存在する事ができる。

意識は通常の概念でいう霊魂(スピリッツ。肉体があれば生き霊、無ければ幽霊)に近い。

この人間の意識は三次元の現界を超える事ができると仮定する。

 

天から地に向かうエネルギーの流れが優位の時代は

人間の意識が肉体から離脱し天に向かうには逆のベクトルのプレッシャーが強く

マイナスエネルギー帯である幽界を経て

神界と直接コンタクトする事は

預言者などの特殊な資質を持つものでしか不可能であった。

またもし出来たとしてもそれは神(天)界からの一方通行で

こちらから、問う事は出来なかった。

 

この事により、一般の人間はお告げや預言を賜る事ができた人の権威を認め

伝聞を信じる事を強制されるような世界が構築されていった。

 

今の砂漠の三大宗教はまさにこのようなヒエラルキー型組織の原型だ。

そしてその権威を今も手放そうとしていない為に、

『ラルロの嵐』の感情衝突の一因となっている。

 

この天から地へのエネルギーは天からのエネルギーが

地にぶつかり、地表面の横に広がり続ける事を表している。

世界が大航海時代、植民地、グローバル経済と物質文明が

広がった原動力はこの横に広がる物質化のエネルギーだ。

またこの物質化のエネルギーは感情化とイコールである為、

縦方向に回避しない限り、いずれ必ず衝突する。

この事が人類が戦争を繰り返してきた根本原因であり

物質文明の拡大イコール衝突と戦争が必然となる原因となっている。

 

 

 

 

                            ②に続く