*殺人事件にまつわる話なので、健全な方、気分を悪くしたくない方は読まれないように。
ご遺族のお気持ちを考えると
死者に対する論評は不謹慎で無神経だと非難される事は承知した上で
私の生と死を含めて人間の人生だという信条を元に書かせて頂いた。
お許し願いたい。
六月九日に新幹線内で起きた
暴漢から身を挺して女性を守った勇気ある男性の死は
人間の運命の苛烈さが
長い人生という時間の中の刹那な時間に凝縮されてている事を
強烈に示していた。
勇敢な男性の残酷な死を持っての人生の最後は
この世の不条理を生きねばならない
人間の宿命を象徴しているように私には思える。
犠牲になられた男性のご家族にしてみれば、
到底受け入れる事が出来ない運命を呪いたくなるような出来事だろう。
私は二ヶ月に一度実家の母を病院に連れてゆく為に新幹線に乗るのだが
いつも、あの事件で『のぞみ』が緊急停車した小田原駅を利用していて、
一昨日も事件直後という事でまだホームにも多くの警察官がいた。
日帰りをしたのだが、やはり事件の事が思い出され
たまたま乗り合わせた隣の男性が、席に座る時にいつになく視線が合って
なんとなくお互いを確かめる空気が流れた。
私にも二十年以上前になるが
電車内で絡まれている女性を助けようとして暴行を受けた経験がある。
それは正月気分がまだ残っている日の深夜零時に近い電車の
車両に人があまり乗っていない状況で
一人で座っていた女性にヤンキー風の若者(中学生から高校生くらい)が近づいて絡んでいた。
彼らは三人組で、一人は女性の隣に座って口説き、もう一人は
向かいの座席でその様子をヘラヘラ見ていた
そして、もう一人は少し離れて、他の乗客の様子を伺っていた。
その様子を見ていて、たまたま正月でいつもは飲まない酒の入っていた私は
気がついたら、女性に絡んでいた若者の襟首をつかんで投げ飛ばしていた。
そう、投げた私もびっくりしたが、投げられた方も相当驚いた様子で
しどろもどろになって電車の床に這いつくばう姿勢のまま
『俺は何もしてない』みたいな事を言った。
私は女性に何かされていないかを尋ねたのだが、
その時その女性は『何もされていない。』と小声ではあるが、
私と彼らにも聞こえるように言った。
後になってその女性が怖くてそう言わざる終えなかったのだと理解できたが
そう言われてしまうと不思議なもので、後は手を出す事ができずに
電車が駅に着くまでとホームに降りた後も
私は三人に抵抗出来ずにボコられた。
幸い彼らはナイフなどは持ってなく、素手や蹴りだけであったから
思いの他ダメージはなかった。
私が殴られたり、蹴られたりする様子を多くの人が見ていたが
都会の常で誰も割って入る事などせず、ホームにいた駅員さえ近寄っては来なかった。
私は殴られている間に女性が駆けて逃げたのを確認してから
『ごめんなさい』などと口にしながらホームから改札に向かった。
彼らは私を小突くようにしながらも、体の自由は奪わなかったので
私は隙をみて脱兎のように走って逃げた。
すると、改札口で絡まれていた女性と中年の女性二人が駅員に
私の事を話している様子が遠くに見えた。
私は改札口に大勢の人がいて駅前には交番もある事から
彼女はもう大丈夫だと踏んでその改札の脇を何も言わずに走り抜けた。
後ろからヤンキー三人の罵声が聞こえたが逃げるが勝ちと思って
家路を一目散に振り返りもせずに走って帰った。
『なんともカッコの悪い顛末だな』と思い
風呂に入ると足がガタガタと震えた。
当時の私は子供がまだ小さかったから、
もしあの時怖いもの知らずの年齢の彼らがナイフなど持っていて
最悪命を落とすような怪我をしたら
その後の妻と子供たちの人生は全く違うものになったかもしれないと
その事があって以後、けんかを見かける度に思い出すようになった。
そして人生なんて運に左右され、一瞬の行動でどう転ぶかわからないし、
生きている中で自分の行動の全てをコントロールすることなど
出来やしないのだと改めて思うようになった。
事実として今言える事は私が成人してから殴り合いをしたのは
(私は殴っていないで投げただけだから 殴られかな。)
その時の一度だけでそれ以降この歳になるまでそのような場面に出くわした事はない。
その事から、新幹線で犠牲になった男性がそのような場面に遭遇する確率は
私の場合よりもっと低かったであろうと推測できる。
あの時の事を思い出す時
電車内で女性が絡まれているのを座って見ているところまでは記憶があるのだが
次の記憶はもうヤンキーの男を投げた後であった。
若い頃の私はすぐにカッとなるタイプであったし
普段飲まない酒も飲んでいたのも理由だろうが
とっさの行動には理性や計算は働かなかった。
だがそれは勇気というものとは違うと当時思ったが、今もその通りだと思える。
新幹線で犠牲になられた男性と私との違いは
刃物を振り回して女性を襲っている相手に向かっていったのであり、
そこにはやはり大きな決断を必要とする勇気があったと思う。
彼は暴漢に立ち向かい、女性を助け自らの命を失った。
多分彼が助けなければ、その女性は命を落とした可能性が大きかっただろう。
何十億といる人間の中で
他者の為に自らの命をただ純粋に差し出せる人生を生き切る事ができる人は
本当にごくわずかであろう。
その事は、身近な人にはこの世の究極の悲しみに感じられるだろうが
人として生まれて示すことができる
至上の愛の発露である事もまた間違いない事実だと私は思う。
自暴自棄になり人を殺す事に思い至る若者の命と
他者の命を守る為に自分の命を差し出す男性の命の釣り合いを
現世の枠組みの中で考え結論を出す事は難しい。
『人はパンのみに生きるにあらず。』
人生に生きる歓びを見いだす事が出来ない人生は
刑罰を受けているのに等しく感じるものだろう。
誰でもよかったと言って、女性を襲い、身を挺して守ろうとした男性を
執拗に傷つけた青年の心の闇は、世間の人には中々理解できないものだろう。
しかしその闇もまた突然生まれたのではなく
彼が生きた22年間
心に深く届くような愛を
ついに受け取る事ができなかった事によって育まれたのだと認めなければ
人間が何よってより良く生きたいと願うのかを、見誤ってしまうだろう。
人は愛がなければ生きてゆけない。
人生の多くの不幸は
小さな愛の見いだした方に気づかない事が原因にあるように私は思う。
そしてそれは教えてもらわなければ、中々一人だけで覚える事が出来ない。
大きな不幸が起こるのは、その小さな愛の見出し方を親や身近な家族から
教えてもらえずに年齢だけが大人になってしまう事が原因で有ることが
多々あると思う。
今の日本の社会に一番必要な事は、
GDP維持の為の社会資本としての人材を育てる為の教育ではなく
人間がより良く生きてゆく為には欠く事が出来ない
身の周りの『小さな愛』を見いだす方法を
物心つく幼児から高校生くらいの長い時間をかけて
家族だけでなく、学校や社会全体で繰り返し教えてゆく事を
教育の最優先課題にしてゆく事だと私は思う。
犠牲となられた男性の行動は
我々に人間の精神の気高さを目に見える形で示してくれた。
それはきっとこの男性が人生で『小さな愛』を数限りなく見いだしてきた故に
自然とたどりついた結果だったのだろう。
男性の出身校はキリスト教系でその教えは
『men for others』(他者のために)であったという。
男性がこの三十八年という時間を経て、
この苛烈な運命の刹那に向き合う宿命であったと思えてしまう私の考えは
残されたご家族にしてみれば、非情と思えるかもしれない。
しかし、男性ほどの気高き心を持っていたからこそ
『神は選ばれた』のだと私には思えてならない。
男性の死は痛ましい。だがそれは
市井の人がなした、イエスの十字架と同じ意味を持つ
至上の愛をしめすサクリファイスとして、
深く愛を知ろうとする人々の心に残り続けるだろう。
梅田耕太郎 さん
もし私があなたと同じような立場になった時は
あなたと同じような行動が迷いなくとれるように
小さき愛を見いだす事を忘れず生きてゆこうと思います。
安らかな旅立を心よりお祈り申しあげます。
源 現