*通り魔や殺人に関する私見です。グロい表現がありますご注意下さい。
長いとりとめのない話です。オッサンの青臭い昔語りや
スピルチュアルに関連した説教くさい話が苦手だったり、
科学的に根拠のない話に関心のない方もスルーでどうぞ。
メメントモリ 死を思え
その為の生死の対話です。
事件にて亡くなられた被害者の方々に
謹んで哀悼の意を表します。
またご遺族の方々にお悔やみ申し上げます。
川崎の通り魔殺傷事件や農水省元事務次官の子息殺害事件など、
高年齢の『引きこもり』 最近のネットでは
『子供部屋おじさん』『こどおじ』などと呼ばれている年齢層の存在が
クローズアップされ、国家規模での社会的な対策が必要だと
TVや新聞で論じられている。
川崎の事件の犯人が自分は『引きこもり』ではないと否定したようだから、
本人としては、そのように言われた事が心外だったのだろう。
事件から日が経って捜査の進展から、
犯人が突発的にあの場所に行った訳ではなく
それなりに計画をして犯行に及んだ事が明らかになりつつある。
犯行から犯人の自殺までが数十秒という短さから
自殺をする事を犯人自身は心の片隅では犯行の前から
決意していたのではないかと
躊躇いのない致命傷の傷跡から推察できるように思う。
事件の直後の羽鳥モーニングショウに
中村カズノリさんという
通り魔になる事を決意した事があるという
カウセリングエンジニアの方が出演されご自身の体験を話されていた。
この方は仕事が原因で昼夜逆転の生活が続き睡眠障害になった事をきっかけに
普通に出社出来なくなり、人事関係者とのやり取りの中で
会社の人(人事担当者や、健康で普通に出勤している人)に対して殺意を抱いたと
生々しく語っていた。
中村さんは直接因果関係のない第三者に殺意を抱いた直後に
離婚の時に相談したカウセラーに話を聞いてもらって
心が落ち着いて通り魔を実行しないで済んだとの事であった。
中村さんの場合は仕事を原因として体調を崩して、体と心が追い詰められた結果として
殺意を抱いたので、川崎の事件の犯人や農水省元事務次官の子息のような
『引きこもり』や『子供部屋おじさん』ではないが、通り魔事件を決意する動機として
説得力のある生々しい証言であった。
今回の一連の事件を私自身の人生に照らし合わせてみて
まず思い出したのは39年前に発生した神奈川金属バット両親殺害事件
であった。
下記 wiki URL
三年前の記事
『保育園落ちた。日本〇ね!!!』感情的な言葉が国民の意識全体に影響を与えた時代はすでに終わっている
の中で以下のように書いている。
私は両親を金属バットで殺害した犯人とタメ(同じ齢)だ。
事件は1980年に起きたが私も当時彼と同じように浪人生であった。
それ故エリートの家族に生まれ受験に失敗し
父親のキャッシュカードを盗み酒を飲んで憂さを晴らすのを
父親に叱責された後の犯行に当時は共感し
殺されたご両親に対しては同情できなかった。
当時の私は今の若者たちと同じで切れやすく激しやすかった。
それ故金属バットで両親を殺害した犯人の事を他人事とは思えなかった。
「何か一つボタンを掛け違えていたら、両親を彼のように殺していただろうか?」
という問いかけを当時自身にして、
「彼と同じように両親を殺した可能性があったな。」
とその時認めた。
引用終わり
また『守護神ハイヤーセルフと共に生きるフライウェイ』の
第1章『満ち潮の光 Light of tidal 』の中で
ブログの『ヘブンリーブルー自己免疫疾患という経験』では明かさなかった
16歳の時の片頭痛の治ったきっかけについて以下のように書いた
高一の時私の人生の歯車を変える出来事が起こった。
それは柔道の授業での怪我を発端とした片頭痛であった。
当時色々検査したが、
はっきりとした原因を突き止める事は出来なかった。
検査を終え下された診断は自律神経失調症であった。
田舎の四十年前の事だからそれが当たり前だったのだろうが
治療らしい事はされず検査の連続で疲れ切り
私の片頭痛は改善するどころかどんどん酷くなっていった。
検査入院を終え二週間が経つ頃には私は床から起き上がれなくなり
しばらくすると、天井の隅から何かに呼びかけられているような
幻聴が聞こえ始めた。
そして頭痛のない時はそこをぼんやりと見つめるようになっていった。
それからは断片的な記憶しかなく
外界の全ての音がとても遠くから聞こえ
光のコントラストのない
灰色の世界を彷徨っているようであった。
両親は瞬く間に廃人のようになってしまった息子に
為すすべもないようであった。
夜間トイレに起きた時に
居間で両親が私を精神病院に入院させる事を
相談しているのを聞いた。
私は「親にも見捨てられるんだな」と思いはしたが
取り立てて感情が掻き立てられる事もなく
遠い世界の話のようだった。
私は「狂気の入り口に立っているようだ」
と冷静に分析しているもう一人の自分が
「このままなら本物の虚無の世界に飲み込まれてしまうだろうな」
と呟くのを、傍観者のように聞いていた。
片頭痛が頭から体全体に響き
何もかもがぼやけて見え
時間は止まっているようだった。
そんな日々が続いていたある日の昼
横になっていると何か気配がして目が覚めた。
母が私の隣で
身じろぎもせず目を見開いたまま
天井を見つめていた。
長い沈黙が続き、母は静かに
「いっしょに死ぬか」
と言った。
母のただならぬ様子から
言葉どうりの
死が脳裏に浮かんだ。
息を吐く事ができず、胸が張り裂けそうだった。
流れていないと思えていた時間が、巨大な圧力で動き出すのを感じた。
吐息と共に堰をきったように涙がこぼれた。
涙は次から次へと溢れてきて止まらなかった。
そして目尻を流れて、耳の穴に何度も入った。
やがてうすぼんやりして灰色だった視界が
はっきりと輪郭を持ったものに変わった。
鮮やかな萌黄色のカーテンが目に入った。
「嫌だ」
という言葉が口から出た。
「生きたい」
と私は言った。母はそれを聞くと
「そうか」
と言ったきり黙っていた。
そしてしばらくすると
何も言わず布団から出て行った。
その日を境に、私は少しずつ正気を取り戻していった。
成人してから当時を振り返った時、
私を虚無の世界から引き戻したのは
母の命を懸けたあの時の言葉だったと思うようになった。
それは
四六時中続く片頭痛によって
虚無に落ち消えかかっていた命の火を
再び燃え上がらせる引き金になったのだと。
片頭痛は
時間の経過と共にゆっくりと消えていった。
引用終わり
高校一年の秋に柔道の授業中に投げられた拍子に
相手の膝が丁度私の盆の窪あたりに入った。
気絶まではしなかったがその場で吐きそうになり
授業が終わった後に頭痛と共にトイレで吐いた。
愚かな私はやせ我慢をして、保健室さえ行かなかった。
その事があって二週間ぐらいしてから
立って居る事も座る事も出来ない激しい片頭痛が突然起きるようになり
検査入院後、さらに症状が悪化し一時期寝たきりになり、
それが元で私は不登校になった。
やがて前述の事がターニングポイントとなり、
なんら医学的な治療がないまま私の片頭痛は段々と治まっていった。
しかし、その事により私は高校一年を留年して
二回目の高校一年を体の不調と付き合いながら過ごした。
当時の私は完全に片頭痛が消えたわけでもなく、記憶の障害や鬱、睡眠障害など
色々と現在なら病名がつくような状態であったが、
原因がわからず結局自立神経失調症としか病名がつかなかった。
当時はそれは『さぼり病』と同義で
私は学校ではただの落ちこぼれであった。
二回目の一年生と違う色のスリッパを履いているのを見とがめられ
体育教師に部屋に呼び出され叱責された。
自分にしてみればどうでも良い事で怒られる事はあっても、
本当に必要な時に助けてくれる大人は親を含めて
誰もいなかった。
母は廃人同様になった私と心中しようとしてくれたが、
その愛情の激しさに感謝した一方で
自身の精神的な苦痛から、
子供にとって何が一番大切なのかを見誤り、『子殺し』を決意し
私の命を奪うおうとした理不尽さに対する怒りもまた
時が経つにつれ大きくなっていった。
正常な思考力のなかったあの時、
母に命を奪われていたかもしれなかった人生の終着点を想像して
死の淵を覗いたような寒気を伴う震えに怯えた。
父は仕事を理由に私を母に押しつけて、母を親子心中をする所まで追い込んでいた。
母の激しい性格から私が拒否しなければ間違いなく私を殺していただろうから
その時点で、教育者の要職にあった父は家庭はもちろん社会的な地位や名誉の全てを
失っていただろう。
それ故、当時の私にとって父は新興宗教の信者であった事も含め
説得力のない尊敬出来ない大人の代表であり
倒すべき古い権威主義の象徴でもあった。
私は二回目の高校一年を体調不良の中、自分なりに努力して学校に通った。
睡眠障害から逃れる為に夜中に親の目を盗んで酒をのんだり、
朝起きられない為に、週に一度は徹夜をして登校した。
授業中は寝ている事が多かったが、登校出来ない事による
苦痛やストレスよりはましであった。
当然そんな状況であったから、精神が不安定で
自分の現在の状況が物心つく前から
物差しで叩かれながら楽器の練習をさせられたり、
友達と別れて中学受験をさせられたりと
母に人生の選択権を奪われた結果だと
口汚く罵ったりした。
私が、金属バット事件の犯人や、事務次官の子息と唯一違った点は
親に強い憎しみを抱いても
暴力を振おうと思った事が一度もなかった事だろう。
ただその理由は今もよくわからない。
まだ怒りが沸点に到達していなかっただけかもしれないし
憎しみというよりは
嫌悪や軽蔑の感情が怒りに勝っていたからかもしれなかった。
ただ、そういったぬかるみの日々の中で精神の不安定さから
こみ上げてくる怒りの激情の矛先は
表面上の不登校な部分だけで判断する理不尽に見えた教師たちに向かい
何度か「いつか殺してやろう」と真っ黒な殺意を抱いた。
それは中二の時に『午後の曳航』を読み終わった後に自らの心の中に見いだした
『漆黒の闇』が、凝縮され着火した瞬間であった。
メラメラと燃え広がる炎によって血液は沸騰し、
憎しみによって胸から流れ出したものは、べったりとし黒いぬらぬらとした
固まる前の血の粘りを思わせ、理性を食らう魔の匂いがした。
当時ナイフを持って登校するかを熟考し
意を決して、何度かカバンに忍ばせた事があった。
もし日常のやり取りの中で
激情にかられる事が当該の教師たちとの間で起こったらと
殺人事件のニュースがある度に自身の中に生まれた殺意を見つめた。
私は子殺しの被害者であった農水省元事務次官の子息のように
父親が幼少から青年期にかけて家に不在で
教育熱心でスパルタな母親を持っていたという点で似たような立場にあった。
そして、高校の一年の事故をきっかけにして
金属バット事件の犯人のように両親を憎んでいた。
それ故、何んらかのきっかけがあれば激情の矛先は両親に向き
殺していたかもしれなかった。
また、高校の留年時代に持った教師に対する殺意は、原因(不可抗力の事故)とは
直接関係のない第三者が憎悪の対象となったという意味で
通り魔事件の殺意に似ているようにも思えた。
私は今でいう毒親に育てられた。でも私の世代の大半の親は
戦争経験のせいで教育熱心でスパルタが当たり前であり、
私の両親が特別という訳ではなかっただろう。
スパルタの代表ような親に育てられたであろう石原良純氏があんなに
おおらかなのは、父慎太郎氏が理不尽であってもちゃんと愛情を伝える事が
出来ていたからだろう。
私のような者にしてみれば、普通に学校に行く事は本当に難しかった。
それ故、平凡な人生と呼ばれるような
『当たり前の』ハードルの高さをいつも実感して生きてきた。
結局二回目の高校一年も授業にはついてゆけず、
二人目の担任から自主退学するよう言われ私は高校をやめた。
高校をやめてしばらくしてから
運命の力が働いている時はどんなにそれに逆らっても人間の力では
どうにもならない事があるのだと思うようになっていった。
自分の人生がたった一瞬の事故で全く変わってしまったから。
私は親と心中という形の子殺しの犠牲者。
または選択の自由を奪われた事への復讐としての親殺し。
直接原因と関わりのない人たちへの逆恨みの通り魔
になる可能性があった屈折した十代を生きた。
だが私のそうした紆余曲折だらけの十代を生きて歪んだ精神を
ゆっくりだが自然体に戻す事が出来たのは
物理的に人間関係を遮断し孤独になれた事と
そうならざるお得なかった原因となる死と対峙したからだった。
大検取得後、一浪した19歳の冬、私大の受験が始まる直前の一月末に
受験仲間が自殺をした。
様々な事があった十代の締めくくりは、彼の死であった。
彼が死ぬ三日前に、徹夜で彼と青臭い芸術論を語り合い、笑って別れた。
三日後の朝、電話が掛かってきて彼の自殺を知った。
彼の死は私をさらなる孤独に追いやった。
十代の半ば、自分は肉体的にも精神的にも死に近づき
その苦しみについて誰よりも理解しているつもりでいた。
だが、自殺する三日前の彼の苦しみを全く感知する事ができなかった。
その時の気持ちを
『守護神ハイヤーセルフと共に生きるフライウェイ』の最期に書いた。
今も多くの人が
自ら命を絶つという選択をして人生に終止符を打っている。
私は若くして、
生きるか死ぬかの選択をする経験をした。
そして自分は死の淵から帰ってきたと思っていた。
だが、その経験から程なくして
芸術家を目指していた仲間が自殺した。
私は彼が自殺を選ぶ程悩んでいる事に
全く気づく事が出来なかった。
その時
自分の命懸けの経験が
彼の生きる助力に何もならなかった事実に打ちのめされた。
私は人に関わる事が怖くなり、部屋に閉じこもった。
芸術に対する情熱も失い、インターネットのないあの時代
現実から逃避する為にひたすら本を読んだ。
本を読んでいる間は現実を忘れる事が出来た。
人と全く会話のない孤独な時間の中で、ある小説家の作品との出会いが
私にもう一度、人を信じ、前に進む勇気を与えてくれた。
人は失敗したり、傷ついた時に休むのは生物として当たり前の健全な反応であるし
心と体が健全に回復しなければ、
この不条理で矛盾だらけの三次元世界を感情に流されず生きてゆくのは難しい。
働かず親に養われ『引きもり』や『子供部屋おじさん』
と呼ばれるまで年齢を重ねた人たちにも、それぞれ
一口では語れない人生の物語があるのは間違いなく
彼らが望んでそうなったのではないのは、想像できると思う。
それ故、その人たちを普通ではないと切り捨てる前に
誰もが人生の分岐点の道が違えばそのようになっていたかもしれないと
自分の人生を見つめ直すきっかけにして欲しい。
その人たちの全てを頭からまるで犯罪予備軍かのように
浮き足立つのはあまりに短絡的で独善的だと私は思う。
よくインターネットが『引きもり』の人に悪影響を与えているような事を
マスコミで見聞きするが、
私は逆にネットこそがそのような人たちのガス抜きとして
負の感情のゴミ捨て場になり
犯罪を起こすよりも
圧倒的に自殺の予防や犯罪の抑止のセイフティーネットとして役立っていると思う。
インターネットの世界は実名でフェイスブックをしているようなリア充の人は別として
匿名性がコミュニケーションのハードルを下げているので
現実世界で傷ついた人たちが現実世界とは違う関係性を
築く事ができる安全弁となっていると私は思う。
何度も書いてきたが、この世界は感情を溜め込む事がより難しい世界に転換した。
激しい負の感情を持ち続ける事は身体、
精神両方の病気に直結し、負の感情を抑え込んで置く事は
理性で制御出来ない行動をより誘発する。
それ故、生活の為に働き、過度なストレスの中で生きてゆくのには
それらの負の感情をなるべく早く捨て去るスキルを持っていなくてはならない。
私は十代での経験の事を、今ではそれほど特別であったと思っていない。
受験生であった頃、裕福な医者の子供たちにかかる
壮絶なプレッシャーを目の当たりにした。
また貧乏の苦労をものともしていないパワフルな人もいた。
これまで、私より過酷な運命を懸命に前を向いて生きている人をたくさん見てきた。
確かに十代は自分の経験は特別で自分だけが何故こんな目に合うのだという問いに
心を苛まれる日々の連続であった。
だが、人生は同じ事は続かない。
悪い事があれば、必ず良い事もあるものなのだと
人との巡り会いによって
信じることが出来るようになっていった。
私は親に教えてもらえなかった『小さき愛』の見つけ方を
偶然手にした本や、巡り会った人々に教えてもらった。
人それぞれ別々の環境に生まれ育ち、
宿命と有無を言わせさず対峙させられている状況は
この三次元世界を生きる法則の重要な真理の一つだろう。
そこには不公平、不条理がまかり通っている。
でもその事から目をそらしていても、いずれは向き合わなければならない。
川崎の殺傷事件の犯人は、パソコンもスマホも携帯さえ
持っていず、部屋にはTVとゲーム機と雑誌があったと
わざわざニュースで流していた。
最初は彼がどのように生きてきたのかあまりにも情報が少なかったが
ここにきて、彼が職業訓練校卒業後に雀荘で働いていた事実が明らかになった。
また小さい頃に両親が離婚し、伯父の家に引き取られはしたが、
カリタスに通学していた伯父の兄弟とは違い、小中と公立に通い
区別をされ育てられような不幸な生い立ちのようであった。
もれ伝わって来る情報から、川崎殺傷事件の犯人が、深い愛情を
注がれずに育った事は容易に想像がつく。
彼もまた
の記事に書いたように
小さき愛の見つけ方を回りの大人たちに教えてもらう事が出来ず
心に深く届くような愛を
ついに受け取る事が出来なかった人生を歩んできたのだと思う。
先だって母を物忘れ外来に連れて行くために小田急線で小田原に向かっていた。
いつもの先頭車両に乗っていると、
私学に通学する小学生の女の子たちが乗ってきた。
高学年の子が低学年の子の引率をして、座席に座らせて
細やかな世話を焼いているのを観て思わず頬が緩んだ。
しかしその光景が川崎の殺傷事件と重なり
このような無防備な幼い女の子たちに躊躇いもなく切りつける事が出来る
心の冷血さを思うと、
私がかつて教師に抱いた殺意と同じとは思えず、
はるかに暗く救いようのない憎悪であるように思えた。
誰もが光りに向かって歩いてゆきたいと願っていると私は信じたい。
農水省元事務次官の子を殺した父親は
息子が出展したコミックマーケット(世界最大の同人誌即売会)で
売り子を手伝っていたという記事があった。
官僚の頂点に立った人が、暴力をふるっていた中年の息子の手伝いをし
関係を持つ努力をしていた事がわかったのは救いではあった。
犯行の直前に小学校の騒音の事で口論になり
子息が子供を標的にする旨の言葉を発し、川崎殺傷事件の事が思い浮かび
父親は殺害を決意したようだとマスコミの記事は伝えている。
私はこの事件の父親の心情を子供を持つ一人の父親として推察する事は出来る。
だが、だからと言って、
一方的に刺し殺す事で父親としての責任を果たしたとは思わない。
子息の命を奪う前に、言葉ではなく自身の命を掛けて説得をして欲しかった。
それはどういう事かと言えば、
息子の目の前で自ら死んであげる事
「死をもって諫める」であったように私は思う。
この子息は普通の子供に比べ学業も出来、このような超エリートの父親や
教育ママの元で育てられなければ、そんなに曲がらずに育ったかもしれない。
精神的な病名がいろいろな記事に上がってはいるが、心の病のほとんどの原因は
ストレスである事を考えると、それらが彼がこのような人生を歩んだ主な原因と
捉える事に私は同意出来ない。
やはり、彼に両親の愛が届かなかった。または愛と呼べるものを与えなかった結果として
母親に暴力を振るうように育ったのだと。
亡くなられた子息が両親の事をどう思っていたのか、もうわからない。
似たような立場にあった私が殺された息子さんの変わりにこの父親に言う言葉があるとしたら
「お父さん。悪い息子でごめんね。 一人で死ぬのは寂しいよ。」
と事切れる前に伝えたいと思う。
殺人事件の半分以上が親族間だというデータがあると
TVの出演者が言っていた。
親子や家族とういうのは、よほどの決意がない限り縁を切る事は出来ない。
その宿命から逃げようとしても逃げる事が出来ないのが大半の現実だろう。
私は、8050問題や「引きこもり」『子供部屋おじさん」の問題に
行政が対策を打つ事に賛成はする。
行政が介入し両者を強制的に別離させ生活が立ちゆくように出来れば
表面上は問題はなくなってゆくだろうから。
だがそれによって根本的な事が解決するとはこれぽっちも思っていない。
所詮、このような問題が起きているのは8050の両者の宿命によってであって
避けては通れない通過儀礼
(精神や魂の向上の為に乗り越えなければならない関門)なのだから。
人生、問題を先送りしたり逃げてばかりいても
必ずその魂の命題に直面する。
それがいつかは人それぞれ違うだろうが、
8050の世代はそれが世代の共通した魂の通過儀礼(イニシエーション)であり、
その波は日本全体に大きく影響を与え
社会の構造を変えるきっかけとなってゆくように思う。
死は予定どうりに訪れてくれるとは限らない。
この命には限りがあるのだという
当たり前のことを忘れないで生きてゆくのは難しい。
「メメントモリ 死を思え」
他者の死を自分のものとして、生を日々大切に生きる。
命は儚くもろい。だが死によってさえ消し去る事が出来ないものがあると
見つける事が出来れば、人は死を超克し
Pietà(ピエタ)を超えて生きてゆけると私は信じている。
どのように死んだ人の魂は救われるのか、
どのように生きている人の悲しみは癒やされるのか
どのように無力感に苛まれる日々から抜け出せるのか
どのように人を信じて生きれば良いのか
答えはすぐには見つからない。
だがその問いを発し、心の底から向きあわなければ
一人一人それぞれの納得のゆく答えは見つからないだろう。
だが、そうして直向きに問いに向き合い、
答えを見つけようと彷徨う旅こそが
生きる醍醐味なのだと、
今なら十代の私に向かって言える気がする。
メメントモリ 死を思え
そして 懸命に生きよと
*過去の殺人事件や死に関連した記事を記しておきます。
表現が過激なものが多いので読まれる方は注意してお読み下さい。
『海辺のカフカ』 と 蛭子さん と 愛の枠外へ向かう魂へのモノローグ
『フライウェイ』について知りたい方は
フライウェイのレッスンについて および 故・クレイグ・ケイコ氏による『フライウェイ講習会』の映像
の記事をまずはお読み下さい。
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