『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』 ② 映画 『シャイン』 について
約一年前に上記の記事で映画『シャイン』を紹介した。
一昨日テレビで放映され
約19年ぶりに見直して改めて感慨深かったので再び取り上げようと思う。
映画のネタバレがあるので『シャイン』を観ていない方は観てから読む事をお薦めする。
また前回の記事を読んでない方はその続きの話になるのでご承知おき下さい。
私は前回の記事にも書いたが物心つく前から
楽器のレッスンを母親の意思によってやらされていた。
いつ自分がそれを始めたのか記憶がなく、気がつけばいつも泣きながら練習をしていた。
母は洋裁に使う1メートルの物差しを鞭代わりにして
手の添え方などが悪いと容赦なくそれで叩いた。
また何か注意すべき事がある時も手や太腿を容赦なく叩かれ
私にとってレッスンと竹の物差しは切っても切れないセットの記憶となった。
いつもは学校から返ってくるとまずレッスンをするのだが
どうしても昼間友達と遊びたい日は、夜練習をするからと母と約束をした。
夕食を食べた後に裸電球の下で夜遅くまで竹の物差しで叩かれながら
レッスンをするのは昼間友達と遊んだ対価とはいえ
泣き虫の私には涙が乾く暇がないほど辛かった。
ロードショウで観て以来長い時を経て観た『シャイン』には
いくつかの場面で記憶とは違う展開があり正直戸惑った。
私は前回の記事で主人公のデイヴィッドのピアノの指導役で家長として常に
デイヴィッドに厳しく接する父親を自身の母親と置き換えて
当時観た時感じた想いをそのまま綴った。
一昨日観てまず驚いたのは、
デイヴィッドが夜、電球の下で一人でピアノに向かって音を出している所に
父親がやってきて横に座り、ラフマニノフを弾きたいというデイヴィッドに優しそうに目を細め
自身の技量では息子を教える事ができないと決断する場面が
私には、母と同じように父親がデイヴィッドを厳しく指導しているように記憶されていた事だ。
その時劇場で観ていた感覚を想い出すと、あの夜の場面を観ているのが辛くて
映画館を出ようと思った場面だった。
私にとって薄暗いオレンジ色の灯りの下でレッスンをするのは辛い記憶でしかなかったので
脳はそのトラウマからそのようにしか受け取ることができなかったのだろう。
だが実際の映画では父親はラフマニノフを弾きたいと言うデイヴィッドを引き寄せ
抱きしめていた。
私にはそれが見えず
電球の下で竹の物差しで叩かれている自分をそこに見ていた。
また浴槽の中でデイヴィットが大便をし父親にタオルで叩かれる場面は
アメリカ留学が決まりホームステイ先から歓迎の手紙が届いた日のデイヴィッドがはしゃぐ様子から
父親が彼を手放す事を突然こばみ留学を断ってしまった事のショックによるものであった。
私が前回書いたように父親にプライドを傷つけられたわけではなく
夢を奪われた事に対する彼のせめてもの反抗であった。
母の厳しい練習に「トイレに行きたい」と言い出せずに
その場でお漏らしをしてプライドをズタズタにされたのは幼い日の私だった。
私はその場面を観ながら、まさに子供の頃の母との厳しいレッスンを追体験して
その場を離れる事もできず
こみ上げてくる嗚咽に思わず口を押さえ座席でむせび泣いた。
人は強い心的外傷(トラウマ)を受けた場合、フラッシュバックと呼ばれ
後になってその記憶が突然鮮明に甦る事がある。
私もオレンジ色の薄暗い灯りの下のレッスンやお漏らしをする描写がきっかけで
それに近い事が起きたのだった。
私の母は頑固で厳しい人だった。
レッスンにおいて褒めてもらった記憶はない。
いっしょに習っていた四つ年上の兄は、片耳が聞こえずらく
母によれば私よりよっぽど厳しいレッスンに耐えたのだとよく言われた。
そして私は忍耐力のたりない甘えん坊だと言われ続けた。
デイヴィッドの父と私の母は自身の正しさや愛情を微塵も疑わないところがそっくりだった。
それ故私はデイヴィッドの気持ちが手に取るようにわかるような気がした。
またデイヴィッドの父がそうであったように
私もまた母が自身の満たされなかった子供時代の復讐や生き直しの為に
厳しいレッスンを課した事を『シャイン』がきっかけとなってやがて知る事となった。
私にはデイヴィットのような芸術の極限にふれるほどの才能などどこにもなく
思春期の挫折の折、幼い日の当然の帰結として母を強く憎んだ。
音を楽しむという音楽の本質を子供の私から奪った事を含め
近所の子供たちと同じような子供時代をわずかしか過せず
厳しいレッッスンが徒労でしかなかったと母に憎しみをぶつけた。
ある時友人が、一番最初にピアノを習った時の事を話してくれた
それはレッスン最初の日
その先生は優しく彼に話しかけ、ピアノの前に一緒に座って
彼に好きなように弾いてごらんと言ってくてたというものだった。
彼はかなりの時間戸惑って鍵盤に指を置くことができなかったが、
先生は辛抱強く彼が自分で弾きだすのを待ってくれた。
やがて彼が思い切って人差し指で一音一音、音を探るようにして弾いてみると
横で見ていた先生がとても褒めてくれて
その時にピアノを好きになれそうだと思ったという事だった。
私はその話を聞いた時本当にうらやましかった。
子供の私の回りには
友人の先生のように音楽を好きになる事を教えくれる大人は
母はもちろんの事、レッスンの先生や学校の先生を含めいなかった
成長するにつれ音楽の才能なるものがどのくらいシビアなものか
理解できるようなった私は
母が望んだものが子供の器や才能に合っていない事が
不幸の元凶である事に気づいていった。
そして何より、母自身が音楽や芸術の真髄を知るという事が
どういう事かを体験も理解もできていないのに
子供たちにそれを求めたという理不尽さに
気づきもしていない事を嫌悪した。
結局私は物心つく前から楽器のレッスンに長い時間をかけてはいたが
文字どうりの音を楽しむ事を習い覚える事がその時はできなかった。
そしてそれ故に親を憎み音楽という芸術の素晴らしさに気づくのが
遅れた事を後悔する人生を歩んだ。
だが人生を生きてゆくうちに、そういった徒労や負の体験と思えていた事も
それがあったが為に出会える人の存在や理解できる事象があるという
事に気づけるようにやがてなっていった。
音楽の楽しみを知り、
成人して結婚し子供を持ったタイミングで私は『シャイン』を観る事が出来た。
だからこそ忘れていた子供の頃の厳しいレッスンを思い出して追体験した後に
人生での出会いの不思議さや
人生で遠回りしたりする事にもちゃんと何がしらの「はからい」が働いていて
デイヴィッドのように障害があり、
純粋だがピアノを弾くこと以外は他者の助けを必要とするような人生を生きていたとしても
その「はからい」の導く先には思いもかけない出会いや未来が待っているというストーリーが
私自身の人生と重なり
ジェフリー・キャッシュの素晴らしい演技と
デイヴィッド・ヘルフゴット本人の素晴らしい演奏と共に
私を癒してくれたのだった。
音楽や芸術の深遠はデイヴィッドのような天賦の才があり
全てを対価に捧げても尚それを求める者のみが知りえるものだと私は思う。
だが親と子の愛情の深遠の本質を知るチャンスは
誰もが平等に人の親になった時に与えられる。
そして多くの人は意識、無意識の両方で
自身の親を基準として自分にとって初めての子育てをする事になる。
子供の成長を感じながら、自分の親もこんな気持ちを体験したのだろうかと想いを馳せたり、
自分が嫌だったり、寂しかったりした事を思い出しながら
親との関係を見つめ直すことを子育ては促してくれる。
それは子供の視点でしか捉える事が出来なかった自身の人生を
親の視点から見直し、さらに客観的な視点から分析を深める助けになってくれる。
子は親を選ぶ事が出来ない。
お金持ちや、または虐待する親を選んで生まれてきたわけではないと
普通の人は思うだろう。
だが、人生での出会いに偶然などないというのがスピリチュアル的な考え方の中心にある。
「はからい」呼び方を変えれば「神の摂理や法則」とは
そういう事全てを含み人間の善悪の概念を超えて営まれていると。
「はからい」を信じている私からすれば
親と子という人生において最初の重要な関係に生まれる者は
あらかじめ決めて生まれて来ていると思っている。
それ故、デイヴィットも私もそれぞれ、厳しい父と厳しい母を選んでうまれてきたのだろうと。
この時代若い人たちが親になるのを躊躇うのはもっともだと思う。
しかし、答えはいつも子供たちの中にある。
親の役目はその事を忘れないで、愛情と束縛を誤認する間違いを
注意深く自己点検する客観性を失わないようにして
子供自身の意志と手と足で自ら選び取り生きてゆくレッスンを
日々続ける手伝いをしてあげることだと私は思う。
子は親の所有物でもコワモテの神からの授かりものでもなく
彼らの道は彼ら自身が知っているのだから。
親となり子供を育てる事は
芸術で深遠を覗くのとは違う角度で生命の深遠に迫る愛情芸術だと私は思う。
人生のある時期共に生き、
いずれは別れて行くことが決まっているのは
時間の五線譜を彩る命の合奏(アンサンブル)のようだ。
wikiによれば
映画化に当って、ヘルフゴット家族や幼少期の関係者たちへの取材はまったくなく
公開後、映画を観た家族や関係者から、映画は事実に反したでっちあげであると抗議の声が上がった。
姉のマーガレットは1998年に関係者の証言を集めた抗議の本を出版し
父親は映画に描かれたような暴君ではなく、デイヴィッドともうまくいっており、
デイヴィッドの精神的な病気は家系的なものであると主張した。
また父親はホロコースト時にオーストラリアにいたこと、
デイヴィツドは精神病院に入る前に別の女性と結婚していたこと
バーのピアノ弾きの仕事は姉が紹介した事などを明らかにしたとの事であった。
しかしこの事実は私にとっては『シャイン』という映画の評価には何ら影響を与えない。
あの時『シャイン』を観た事によって忘れていた大事な記憶が
私の人生の掛けがいのない一部になったのは
紛れもない事実であったから。
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