日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ⑧

2018年01月19日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

断食を始めて3日間は何も変化はなかった。

右の鼠径部と右肩の痛みは良くも悪くもならなかった。

 

断食の間口にしたのは水と尿だけであったが、

三日間の断食は何度も経験していたので取りたてて空腹感に

悩まされる事もなかった。

世の中には*ブレサリアンと呼ばれる人たちがいるのだから

このくらいは当たり前だとその時は軽い気持ちであった。

 

*(ブレサリアンとはベジタリアンから段階を踏んで食物を制限してゆき最終的に

 空気以外栄養補給の為に口から食物を取らなくても

 日常生活が支障なく健康に日々を送っている人々の事。

 日本の代表的なブレサリアン秋山佳胤氏は本を多数出されいる。

 常識が通用しないのがスピリチュアルな世界なので

 真偽をどう判断されるかは本を読むかご本人に会って各々が判断されれば良いでしょう。

 

体調の改善や悪化が見られずまた体への負担があまり無いと判断した私は

断食を延長した。そして体に負荷を感じ始めた8日目に諦めて終了する事を決めた。

 

私は丸七日間水と強化した尿療法で過ごしたが、痛みの改善は見られないまま

逆に膝の裏側まで痛みは広がっていた。

 

断食は内臓の掃除やメンテナンスの為であり尿療法は免疫系の強化に効果があるはずであった。

普段偏った食生活をしている自覚は私にはなかった。

40歳になったミレニアムの年にスピリチュアルな事で

正面から向き合わざるおえない事が起こりそれを機にペスコ・ベジタリアンをやめていた。

激しい肉体労働での良質なたんぱく質の重要性がわかり

科学的なバランス重視の食事に戻していた。

 

 断食後の体調の悪化は坂道を転げ落ちるようであった。

 

ネットで症状に照らし合わせ調べてみると

痛風に一番症状が似ているように思えた。

関節の痛みと症状の悪化と共に痛風の特徴である足の親指の関節の痛みも増していた。

しかし痛風なら尿療法が効くはずであった。

 

尿療法の体験談で劇的な症状改善の代表例が痛風であったから。

二十五年も尿療法を続けてきて痛風になるのは納得がいかなかったし

尿療法で痛みが改善しないのが、

何か重大な病気の可能性を予感させた。

 

しかし私は二十五年も続けてきた健康法が効かない事に意固地になった。

様々なサイトに目を通し、自分の症状がリンパ系の病気かもしれないが、

癌にさえ効果がある尿療法が効かないわけがないと、

自排尿の全てを飲む生活を断食終了後一か月続けた。

しかし、症状はどんどん悪化し痛風の発作だと思っていた激痛が

決まって深夜に起こるようになった。

 

睡眠は二時間未満しか継続的に取れなくなった。

痛みで目が覚め、手足の麻痺は日に日に酷くなっていった。

たまに二時間を過ぎて起きると足の筋肉の麻痺と鼠径部の痛みで

足を直ぐに引き上げる事が出来なくなった。

そしてベットから起き上がるのに5分から10分と

どんどん時間が掛かるようになってしまった。

 

事ここに至って、私は今回の病に尿療法が効かない事を心の底から認めた。

そして歩く事も立ち上がる事もままならなくなった体を引きずるようにして

腎臓結石でかかりつけの医者に向かう事になったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

                             その⑨に続く

 

 

 

 

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ⑦

2018年01月18日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

尿療法を始めた事によって慢性的な肉体の痛みから解放された私は

それ以後子供が大きくなるまで健康に働き続ける事ができた。

 今回の病になるまでは、尿療法を始めて二十五年以上

自身が作り上げ維持してきた肉体にそれなりの自信を持っていた。

もともと酒もたばこも体に合わないので

成人してからは付き合い上必要な時以外は嗜まないし

食べる事もグルメとは対極にあるルーティーンワークに近い感覚だった。

そしてスピリチュアルな世界に深く嵌った事で

何かと食事制限をするようになっていった。

 

三十代後半は肉を断ち、ビーガン(完全菜食主義)ほどではなかったが

ペスコ・ベジタリアン(植物性食品と乳製品、卵、魚を食べる)であった。

そして、具合が悪くなるとプチ断食(3日間くらいの)をして体調を整えていた。

 

尿療法をしていたから風邪にもかからないというわけではなかったが

体質の為に慢性化した腎臓結石で定期的に体調の悪くなった時でも

原因がわかっているので病院で石を溶かす薬をもらうだけで

尿療法を強化すれば痛みは十分に軽減できた。

(尿療法の基本は朝の一番のオシッコを飲むというものであるが、

病気の症状によって、飲む量と回数を増やした方が効果が上がるものであった。

仕事をする場合常識的に外で尿療法を実行することは無理なので

朝一度というのが何年も続けられる条件ではあった)

 

 一昨年の春頃から右足の付け根の鼠径部に痛みを感じるようになっていた。

これといった原因も思い当たらず足を挙げる時に鈍い痛みが走った。

9月になるとその鈍い痛みは右肩にも起きるようになり

日常動作で引っ掛かりを感じる程になっていた。

 

今回の体調の変化も尿療法や断食で乗り切れるだろうと

長年の経験則から私は高を括っていた。

 

 

 

                         ⑧に続く

 

 

 

 

 

                              

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ⑥

2018年01月17日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

父が送ってきた本は当時話題になっていた尿療法に関する本であった。

 

『奇跡が起こる尿療法ー勇気さえあれば、治らなかった病気が治る』  

                 中尾良一 編   1990年発売

 

1990年代の初頭、上記の本をきっかけに

尿療法はマスコミにも取り上げられ健康雑誌などでは何度か特集が組まれたと思う。

医師中尾良一氏は、日本での尿療法の周知、普及に半生をかけた方だ。

上記の本出版後、90年代に何冊か本を出された。

尿療法はミレニアムを超える頃まで民間療法のマニアックな例としてそれなりに知られていたが

氏が2002年に亡くなった後は、シンボリックなリーダーを失った為か

表立って話題に上がる事もほとんどなくなった。

 

私はその本の題名を見て「これはオシッコを飲むやつだ」と

TVで見た事のある健康法だと思い当たった。

電話をしようか迷っていると、頃合いを見計らったように

父から電話がかかってきた。

 

父は私の痛みの辛さを気にかけて、いろいろ民間療法や健康法を調べてくれていたらしく

今もあるが当時から有名だった『壮快』『安心』といった雑誌に載った

尿療法の記事を読んでこの本を買ったらしかった。

 

父は尿療法の理論的な説明をした後

「お前は理屈で納得出来れば良いだろうからまずは本を読んでみろ。」と言った。

私は当然の事ながら父が尿療法を試してみたかを聞いてみた。

父の答えは「わしは今はまだ健康だからやってない。」という予想どうりの答えであった。

そして

「これ以上薬に頼る事が出来ないのなら一度試してみたらどうだ
 戦争に行く覚悟に比べたら、ションベンを飲むくらい容易いだろう。」
 
 と大正生まれの決め台詞を言った。

 

 

私には父が提案した健康法に苦い記憶があった。

片頭痛で苦しんでいた時、頭のてっぺんにお灸をすると

とてもよく効くという話を聞きこんできて私に勧めた。

 

お灸についてはとにかく悪い印象しか持っていなかった。

昔のお婆さんたちはよくお灸をしたが、その跡はケロイドのようになっていたりして

だいたいが、子供の頃悪さをするとお灸で焼かれて辛かった話を父自身から聞いていたから

とてもではないが、頭頂部が禿になりそうで尚且つ熱くて辛いお灸をする事は

片頭痛の痛みを天秤にかけても思春期の私にはとてもする気になれなかった。

 

父はお灸をしないと言った私に「勇気が足りない」というような事を言い。

その事は当時の自分の劣等感をより一層刺激した。

 

私は「本を読んで納得がいったら実践してみるかもしれない」

と言って電話を切った。

 

 

そうは言っても私には選択肢は残されていなかった。

本当にもう後がないと思い悩んでいた時であったから

今回は父の勧めに素直に向き合おうと思い早速本を読んでみた。

 

『奇跡が起こる尿療法』の内容は思った以上に理論的で体験談も納得が出来るものであった。

なにより『尿療法』の効果の中で一番私の目を引いたのは
その鎮痛効果だった。


自排尿は鎮痛剤として有効だと書いてあり、
何よりそれが一般の薬と違って体への負担が全く無いという事であった。


父が電話口で説明してくれたとうり
お金はいっさい掛からず全ては自分のオシッコを飲むという生理的な嫌悪感を
いかに克服できるかという一点にかかっていた。

 

手術後の痛みは、筋肉の縫合部はもちろん、ボルトの挿入部や関節内部の痛みも激しかった。
仕事の後はもちろん、雨が降る前に気圧が下がり始めると決まって
関節の奥深くが錐で刺すように痛んだ。


私にはもう『尿療法』を拒む理由は無くなっていた。
そして覚悟を決めた次の日の朝、
本に書いてあるとおり自身の尿を一気に飲んでみた。

 


『尿療法』を実行してから3日が過ぎた頃だった


朝いつもどうり目を覚ますといつになく気持ちよかった。

なんとなくいつもとの違いを感じ体を動かした。

手術以来、眠っている時以外片時も放れなかった痛みは
魔法のように消えていた。

 

 

                    ⑦に続く

 

 

 

 

 

 

 

                              

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ⑤

2018年01月16日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

私は健康優良児だった兄と違い、

扁桃腺肥大、小児喘息、アトピー性皮膚炎、ペニシリンアレルギーなど

幼少期とにかく手のかかる子供であった。

 

何かというと熱を出し、子供用の薬が効かないとかで

シロップではなく粉の苦い薬を飲まされながら

「あんたは病気の問屋だね。」 と寝床で母によく言われた。

 

しかし小学校に入り水泳をやるようになったのがきっかけだったのか

小児喘息はおさまってゆき、ガリガリではあったが

熱を出す事も少なくなり、三年生になる頃には

普通の田舎の子供の体力を持ち得ていた。

 

しかし十代半ばでの片頭痛から始まった肉体的、精神的混乱は

幼少期の自身の肉体を信じられない弱い自分を思い出させた。

 

そして片頭痛から立ち直り

その事を忘れかけていた十代の終わりのある朝

真っ赤なワインのようなオシッコが出た。

それは本当に鮮やかな赤で、腰が抜けるほどお驚いて病院に駆け込んだ。

腎臓結石であった。

 

年始の神社の神頼みレベルではなく

私が神という不確かな存在にかつてないほど真剣に祈った最初は

腎臓結石で床を転げまわる痛さに見舞われた時であった。

 

それは比喩ではなく本当に床を転げ回っていなければ

我慢できない激烈な痛みで、痛みが止まらぬなら

殺して欲しいと思えるほど経験した事のない激痛であった。

 

痛み止めなどは勿論効かず、腎臓結石との付き合い方をよく知らなかった私にとって

その痛みが地獄の罰のように思え、ただただ楽になりたくて

「神様 助けて下さい」と思わず声を出していた。

 

(当時携帯電話などない時代でもちろん固定電話などもっていなかった一人暮らしの私は

 入院にかかるお金など想像もできず救急車を呼ぶ事は諦めた。)

 

私は痛みが我慢できず声を上げ「助けて下さい」と何度も声を出した。

無力さと情けなさから嗚咽と共に涙が鼻から喉に流れた。

 

典型的な困った時の神頼みであり、信仰に根差した深い祈りでも

他者の命の為の無私な祈りでもなんでもなく

自分ではどうしようも出来ない激痛から逃れたい一心であった。

 

「助けて下さい」を繰り返し、私はその長い夜をなんとかやり過ごした。

そして、無事朝を迎えられた時

生まれて初めて、どこにいるかわからない神様に素直に感謝をした。

 

後になって考えれば

子供の頃に強制的に新興宗教によって刷り込まれ大嫌いになった神事や祈りに

激痛を伴う病になった事で否が応でも再び向き合わされたのだった。

 

 

それからも肉体の痛みは私の信仰や神に対する姿勢を試すがのように

繰り返し形を変えて訪れた。

 

二十代の半ばに仕事で事故に合った。

結婚の為忙しくまた怪我に無知であった私は

事故の後無理をして働いた。

子供が出来、妻からの要望もあり家を空ける事が多いその仕事をやめ転職した。

しかし転職後その事故の後遺症が発症し、

仕事がらその症状と痛みは日に日に酷くなっていった。

そして三十を過ぎるともはや正常に仕事ができない状態になってしまった。

 

後遺症を治す為に完全に治るかわからない手術をするか、再び転職するか答えは二択だった。

そんな折たまたま実家に帰る用事があり

今は亡き兄に軽い気持ちで転職するつもりだと話をした。

すると兄は「子供もいるのにお前はまた仕事から逃げてどうするのだと」と

厳しく叱責した。

 

自分としては、痛みと向き合い折り合いをつけて仕事をし、限界までやったつもりであったが

兄の叱責で腹が決まって手術を受ける事にした。

 

執刀医は「元の体には戻れないが、後遺症は出ない体にはなれる」

と意味ありげは事を言った。

私はその言葉の真意を、手術後仕事をしながら痛みと向き合う事で思い知らされた。

 

手術後、あまり効かない痛み止めを毎日飲む生活が続いた。

寝ている時以外はその痛みから逃れられない日々だった。

強い痛み止めは半年ほど飲み続けるとほとんど効かないばかりか

内臓に大きく負担がかかるだけで、

私は体力の限界を感じはじめていた。

 

会社に残り仕事を続ける為に手術とリハビリをして

一から出直しの覚悟で仕事場に戻ったのだが、

痛みの前に膝を屈するギリギリの状態になっていた。

 

 

そんな時実家から本が届いた。

引退していた父は、趣味が読書と堂々と言えるほど家が本だらけの読書家で

自分が気に入った本を送ってくる人であった。

 

思春期に壊れてしまった父との関係は、私が思いの他早い結婚をし

孫も出来た事で世間的な大人の付き合いをする形に修復されていた。

 

私はいつもの父の勝手な送り物を仕方なく開けた。

予想通り中から一冊の本が出てきた

表紙には

『奇跡が起こる尿療法』 と書かれていた。

 

 

 

                               ⑥に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ④

2018年01月16日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

ひとしきりして二人の触診が終わったので私は改めて指導医の先生に診断を聞いた。

 

ドラマの有能な女医のイメージそのままの

壮年の溌剌とした生命力と経験からくる自信に満ちた声が診察室に響いた。

 

 「膠原病の自己免疫疾患と癌の両方の可能性があります。

 今現在の症状は朝の筋肉のこわばりや手足の浮腫みからリウマチと症状が似ていますが

 血液検査の結果からはリウマチ由来の炎症であるかは今のところ認められません。

 リウマチ性多発筋痛症と症状がほぼ一致しますが、

 あなたの年齢での発症はあまり例はありません。

 原因を調べる為ともしもの時に手遅れにならない為に

 一通りの癌の検査をする事を推奨します。」

 と簡潔に述べ、後はまかしたという感じで私と担当医に目礼をして来た時と同じように

 指導医は颯爽と去っていった。

 

二人きりになり担当医は癌の検査をする根拠として、

血尿と尿細胞診検査が陽性である事を上げた。

それが癌由来のものであるか他の病に由来するかを最優先で調べなければならないと。

 

私は最初の問診で持病として腎臓結石を上げていたので、ここ最近の病と体力の衰えから

併発しているかもしれないと思ったが、兄が癌で死んでいる事実は

医者が癌を疑うのには十分な理由ではあった。

そして担当医は今後の予定として

膠原病系と癌の両方の検査をしてゆき日常生活が困難なほど症状が悪化したら

症状の緩和の対処療法としてステロイドを使う事になるだろうと告げた。

そして、今日はとりあえず痛み止めをどうするかと聞かれた。

 

私は担当医との問診の時に発症時痛風の勘違いをして、自身の信じる民間療法で

ひと月ほど頑張った話をリスクを覚悟で正直に話した。

子供の頃から様々な医者に掛かってきた経験上、

大半の医者は科学的な根拠のない民間療法など信じていないどころか

侮蔑の対象のように認識していると感じていた。

医者との会話でそのような事を持ち出せばほとんどの医者は気分を害して

何しにここに来たという態度をとられるのが常であった。

しかし受付への私のクレームに対しての若い担当医の冷静な対応を見て

私はその若さにかけて何故西洋医学を信用せず民間療法を信じたかを正直に話をした。

 

十代の片頭痛は西洋医学は何も役に立たなかった事。

三十代で経験した外傷の後遺症の慢性的痛みに西洋医学の鎮痛剤が効かなかった事。

そしてその時藁をも掴む思いで始めた民間療法でその痛みがうそのように消えた事実。

しかし今回はその療法をもってしても痛みが改善しなかったと。

 

私が「ロキソニンなどの鎮痛剤はお話したとおり自分には効かないので痛み止めはいらないです。」

と本音で答えると

担当医は「わかりました。」とだけ言い次回の検査の予約の話をして診察を終えた。

 

診察室を出ると待合のフロアーには人はいなかった。

ロビーに出て膠原病科の受付でカルテを渡すと

「今の時間では通常の会計機での清算は出来ないので

〇番窓口に書類と呼び出し機を出して会計をして下さい。」と言われた。

 

初診の総合受付の奥にある会計の窓口では、

昼間とは明らかに少ない職員が時間と戦っている様子を隠しもしないでいた。

 

正面玄関近くのロビーは昼間の喧騒が嘘のように、人影もまばらだった。

十分も経たないうち名前を呼ばれ会計を済ましバス停に向かった。

 

バスのフロントガラス越しに

私鉄の駅に向かうテールランプの車の流れを見ながら

注射針の先の容器に勢いよく流れ込む血液の鮮やかな赤を

ぼんやりと思い出していた。

 

 

 

                            ⑤に続く

 

 

 

 

 

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ③

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

大病院の予約時間ほど当てにならないものはない。

 

大きなショッピングセンターの吹き抜けのようなロビーは

照明が高いせいか薄暗く、突き当りのガラス窓に映る日暮れの紅色が

より一層に鮮やかに見えた。

 

予約の時間が3時間ほど過ぎても呼び出し機は何も変化はなかった。

ボタンを押すと受付終了の文字が出るだけで、壊れているのではと疑いたくなった。

 

私は血液と尿検査を終わったら、すっかりさっきのカタカナの事を忘れていた。

しかし予約時間から3時間以上が過ぎロビーで待っている人が減ってきているのをみて

何か急に心配になり本当に受付が済んでいるかどうを膠原病科の受付に確かめに向かった。

 

受付は閑散としていたが私の受付をした中年の女性の職員がいたので

受付が確実に済んだのかを聞いてみた。

すると彼女は受付はすんでいるが、タッチパネルが済んでいないと言った。

よく見ると受付の端に液晶パネルが二つあり、

簡単な問診を手でタッチして応答するようであった。

 

最初の受付でのカタカナ言葉はタッチパネルの案内であったらしかったが、

私にはそれが何を指しているの聞き取れなかったのだった。

 

延々と待たされて苛ついていた私は

思わず「初診の患者に冷たい病院ですね。」と本音を言った。

 

職員の女性は表情の乏しい顔から思いきりムッとした顔になった後

怒りで言葉が出ないのかクレームに付き合う気はないのか目をそらし黙っていた。

私はそのままタッチパネルに進んで、10項目ほどの簡単な設問に答えてロビーに戻った。

それから30分ほどしてようやく呼び出し機がメロディーを奏で

膠原病科のフロアーにて待機するように告げた。

 

待合のフロアーに入ると同じように待ち疲れた常連らしい患者さんたちの話が聞こえてきた。

それによると膠原病科の待ち時間3時間は毎度の事のようであった。

それならなんの為の予約時間なのかと改めて思ったが、

その事を知らない初診の患者はタッチパネルの簡単な10問ほどの問診と検査の後

なんの連絡もコミュニケーションもない状態で3時間は放置されるのが

当たり前だという事だった。

 

これが西東京で一番大きな総合病院かと思うと

『医は仁術』という言葉やホスピタリティはこの病院には残念ながらないように思えた。

 

待合フロアーに入って一時間また経ち、ようやく診察室に入るようにと

呼び出し機が鳴った。

 

担当は女医さんであった。

診察室のドアに名札が掛けて有り分かってはいたが

対面して見ると予想以上に若く

見ようによっては高校生に見える小柄で容姿どうりの幼さの残る声だった。

私は大人気ないと思いながらも、病気の説明の前に

この病院の初診患者への冷たさをもう一度先生に告げた。

先生はちょっと困ったような顔をしたが、とりたてて弁明するでもなく

だた話を聞いてくれ、「事実を事務方に伝えておきます。」と

外見の印象とは違って簡潔に力強くおっしゃった。

 

一通りの問診の後、検査結果と症状から言えることは

膠原病の一種の自己免疫疾患に似ているという事であった。

ただ、癌に罹っている場合でも似たような症状が出るので今の段階では

どちらとも言えないという事であった。

そしてしばらくパソコンのディスプレイを見つめながら考えたのち

PHSを取り出して相手に症状の説明をはじめた。

 

先生はひとしきり話た後PHSを切ると

「自分だけでなく指導医にも診てもらいたいのですが良ろしいですか?」と聞いた。

断る理由もないので了承すると

程なくして溌剌とした体育会系の感じのする中年の女医さんが現れた。

 

指導医の先生は椅子での触診の後ベッドで筋肉や関節の痛みや稼働域を細かく調べた。

そして、手や顔や耳にも触って腫れ具合を調べ、

若い担当医に私が聞いたことのない病名の説明をした。

その病名を聞いて担当医はテンションがいかにも上がった様子で

「私も耳を触っても良いですか?」と言った。

 

担当医は確かめるように左耳を触って、右耳は指導医の先生が触りながらその

聞き覚えのない病気の事を説明していた。

 

私は自分がもしかしたら癌かもしれず、

また癌でなかったとしても自己免疫疾患が根本の治療法がない事は知っていたので

診断を聞いた直後は不安だった。

が傍らで二人の女医さんがなにやら楽しそうに両耳を触って話をしているのを聞いていると

受付での不快な思いも病気の不安も何か馬鹿らしくなって

お腹の底の方から何か笑いがこみ上げてきたのだった。

 

                                 ④に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ②

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

病院の景観は大手デベロッパーが開発したゴージャスなマンションのようであった。

 

そこは大きな病院の中でもとりわけシステマティックな感じがした。

受付案内の窓口で初診の総合受付を指示されそこに向かった。

 

初診の窓口では70代くらいの年配の女性が

首から赤い紐でつるしたガラケーのような呼び出し機をつるし

手が不自由なのだろう書類の挟まったクリアファイルを口に咥えながら

足を引きずって次の受付に向かおうとしていた。

 

大病院なので多くの職員が忙しそうに台車を運んでいたり、

パジャマ姿の患者さんが点滴のスタンドを押しながら歩いていたりしていたが

さすがにその年配の婦人の姿は異様に見え

誰か手伝う人はいないのか見渡してしまった。

 

そういう私自身は、一度腰かけると腕の支えがないと直ぐには立ち上がれないほど

関節と筋肉に力が入らなくなっていて、

バスや電車の乗り降りには老人と同じくらい時間がかかるようになっていた。

痛みに始終さらされ素早く動けず人並みの力が出ない状態では

年配の婦人の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。

 

私はボールペンをしっかり握ることもままならなくなり

長い時間をかけて記入した書類と交換にクリアファイルと呼び出し機をもらい

次の膠原病科の受付に向かった。

 

そこでもまた行列にならび、ようやく順番になると受付の女性に

前の人と同じセリフを繰り返し言われた。

一日に何回も同じ事を言うのだろうが、感情のこもっていない声で

聞き取りにくいカタカナの言葉と血液と尿検査を指示された。

 

私はさっきの年配の婦人の姿や自身の疲れも相まって

よく聞こえなかったカタカナの言葉の確認を取る気になれず

聞き取れた血液と尿検査をしにそこを離れた。

 

院内を歩きながら自分が通信販売の荷物になって

ベルトコンベヤーを流れてゆくような気分になって検査所に向かった。

 

検査を待っている間、

病院によってホスピタリティがこうも違うのかとしみじみ思った。

 

前の病院は大学病院であったが、医師の診断の前に担当看護師による

微細な聞き取りがあり

検査も私が一人で立ち上がるのや着替えに苦労するのを聞くと

介助者と車いすを手配するか聞かれた。

 

私はまだ介助される事に慣れていないのと、足を引きずるが歩く事はできるので

有難いがその時は断る事にした。

 

初診受付の年配女性への対応や膠原病科の受付の自動音声のような様子をみると

この病院は見栄えは素晴らしいがホスピタリティは期待できないなと

最初から暗い気持ちになった。

 

 

                               ③へ続く

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患 という経験 ①   プロローグ

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

一昨年の9月に原因不明の病に罹り病院を渡り歩いた。

 

症状から痛風だと思い込み

若い頃から続けているマニアックな健康法を

強化すれば治ると高を括っていたが

一向に良くならないどころか症状はどんどん悪化していった。

 

四肢の関節の痛みや両手両足の浮腫みなどで歩く事や立ち上がるなど

日常動作がどんどん困難になった。

病名をはっきりさせる為にかかりつけの医者にゆくと

血液検査の結果から、これは痛風ではなくもっと厄介な膠原病的な病気の可能性があるから

大学病院で診てもらいなさいと言われた。

 

紹介された大学病院でのいろいろな検査の結果も

痛みの原因は膠原病系の自己免疫疾患の可能性が高いから

その専門病院に行きなさいと言いうもので

東京の西部で一番大きく膠原病科の専門医のいる病院を紹介された。

 

私は高一の時、体育の授業での怪我を発端とした片頭痛に苦しめられた

その時も色々検査したが、はっきりとした原因を突き止める事は出来なかった。

検査を終え下された診断は自律神経失調症であった

 

田舎の40年前の事だからそれが当たり前だったのだろうが

治療らしい事は何ひとつされず

検査で疲れ切り、私の片頭痛は改善するどころかどんどん酷くなっていった。

 

検査入院を終え2週間が経つ頃には私は床から起き上がれなくなり

頭痛の為か幻聴らしきものも聞こえ始めた。

やがて天井の隅から何かに呼びかけられているような気がして

頭痛のない時はそこをぼんやりと見つめるようになっていった。

 

それから数か月の間は断片的な記憶しかなく

外界の全ての音がとても遠くから聞こえ

光のコントラストのない灰色の世界を彷徨っているようであった。

 

両親は瞬くまに廃人のようになってしまった息子に

為すすべもなく

私を精神病院に入院させる事を考えているようであった。

 

しかし私はある事をきっかけにして

かろうじてその灰色の世界から戻る事が出来た

そしてそれ以後は西洋医学をあまり信用しない大人なっていった。

 

成長してからも外傷や内臓疾患といろいろと酷い痛みを伴う病を経験したが

ある民間療法と出会い肉体の痛みが劇的に解消された事がきっかけで

私の西洋医学不信は確固たるものになった。

 

そして今回も自身が20年以上続けてきた民間療法で必ず治してみせると実行し続けていたが

浮腫みや痛みの改善が一切なく逆に悪化している状況であったので

自身の信念に白旗を揚げて病院に行ったのだった。

                                 ②に続く