のりひめのひとりごと Monologue of Noriko

2012年からオーストラリアと日本を行き来しています。日常のいろいろを書いてます。

のりひめの過去ばなし21.会計人の会員組織立ち上げ 3ヶ月で60社、月180万円確保

2011-06-29 11:24:30 | のりひめの過去ばなし

●会計人の会員組織立ち上げ 3ヶ月で60社、月180万円確保

 独立して1年半は、社長であるコンサルタントとわたしとふたりしかいない
(私も社員ではありませんが)会社でしたが、
レストランの関係で手伝ってくれたシステム系の人をスタッフに迎え入れる
ことになりました。

 社長は、現在までの事業である個別コンサルと講演執筆から、
会員制事業を立ち上げ、人を雇える安定収入を得ようと考えたのです。

 この事業は全国の会計人(税理士・会計士など)を対象に、
いままで社長が培ってきたマーケティングやプランニングのノウハウを移植し、
会計人が関わる中小企業に活用する仕組みを作るものです。

 中小企業の財政状況をよく知る会計人が売上増、顧客増のノウハウを顧客に
アドバイスするための教育機関であり、コンサルタントが集まった組織
(コンサルティングファーム)を目指すものでした。

 これをまたまた3ヶ月でまずは60社を集め立ち上げるというのです。
会費は3万円、これで60社ということは月額180万円を確保するということです。
まさに誕生日プロジェクトと同じことで、事業の収入の一部を安定化するということは
よく理解できました。

 これが1999年のことでした。

 97年山一證券破綻、98年北海道拓殖銀行破綻など、
今後の厳しい状況がせまりくることをだれもが予感していた年です。
企業は売上減、顧客減に苦しむからこそ、相談相手や解決する具体策が必要となる、
そこに会計人というポジションはぴったりだ、
まさに危機感の時代こそ当社にとって千載一遇のチャンス到来と
社長は読んだのです。

 ダイアナの販売会プロジェクト、フレンチレストラン、そしてこの一年半の
ハードワークで社長のいいそうなことはわかっていましたが、
ではだれが営業するのか、といったら私しかいません。

 社長がセミナーで話し、私が営業でクロージングする。
立場としてはコンサルタント。

 とはいえ、スタッフが私で大丈夫なんですか?
 大体、会計人て、税理士ってなにする人?
と、私も目を白黒。
まずは本屋に行き、「税理士の仕事」という本を購入する始末です、

 一人加わる予定のシステム系の男性は、営業が始まって21日たったところで、
いなくなりました。やめたのです。
 もともと彼を入れるために始まったのに、
システムを作るのが仕事なので、たった3ヶ月間だけでも営業の手伝いはできないと
いうのです。
 人とコミュニケーションがとれないが、いうことだけは一人前の頭でっかち男
でした。

「できるわけないよ、立ち上がるわけない」
「絶対無理」
「君もやめたら」と
これでもか、というくらい、マイナスの言葉をたくさんいわれました。

 悩んでいたときだったら、ぐらぐらしたかもしれませんが、
前段で悩んでいたおかげで悩みへの対処方法を前よりはわかるようになっていました。
そこでむしろ、「絶対たちあげてやる」と奮起してひとりでがんばりました。


 99年8月31日に一斉に会員見込みの会計人にファックスを送り、
9月初旬から会員募集のためのセミナー営業が始まり、
東京、大阪、静岡、福岡、とセミナーを開催、一巡するとまた開催します。
全部で3クール行われました。
 わたしも自分の体験談として、3日で販売会1000万円売上げの販売会の話や、
フレンチレストランの話しをしました。

 セミナーには、ファックスで告知をして集客していきました。
 その告知ファックスには一人でも見込み客を獲得するために、
セミナーに参加する、参加しない、検討する、参加できないが資料が欲しい、
といった項目を設けてあります。
 セミナーに参加しない人も、ファックス返信してくれた人は見込み客となり、
電話や資料送付の対象となりました。

 社長は普段はほとんど会社にいなかったので、わたしのほうでさまざまな
営業の工夫をしなければなりませんでした。

 最初に入会のファックスが入ったのは、9月初旬の第一回セミナーの深夜。
あまりに簡単に申し込みがあったので、一瞬楽勝だと思いました。
それがまったくのぬか喜びで、二枚目の入会ファックスまでこんどは1ヶ月
かかりました。

 会のスタートは、十一月に日程が最初から決まっていましたので、
2枚目のファックスからあと1ヶ月半ほどで58社集めなければなりません。
 気ばかりあせりましたが、ファックス送付、電話での説明を繰り返し、
第2弾のセミナーも行いました。

 そのうちに最初は迷っていた人も、だんだんと心を開いてくれて、
電話でお客様の相談をしてくださるようになりました。

 夜の10時から12時の間などに、遅くに問い合わせのファックスを
送ってくれた人にはすぐに折り返し電話をすると、
「こんなに遅くまで仕事しているの。もう帰ったほうがいいよ」と
ねぎらいの言葉をかけていただけます。

 税理士さんは10人以下の事務所が大半で、その時間には職員さんは
全員帰っていて、外出から戻った税理士先生が一人で残務を処理しているのです。

 こうしたことから、意思決定者である税理士先生がくつろいで話をして
くれるのは、夜8時くらいからということがわかってきました。

 声しかきいていない税理士先生も、2、3度電話をしていると覚えてくれます。
夜8時以降は電話タイムです。
 とはいえ夕方6時までの間に一本電話をしておいて、
あとでかける伝言を職員さんにお願いしておきます。

 「先生、おつかれさまです」から会話が始まります。
「あなたもおつかれさま」なんていってくださるともう顔見知りのようです。
さらに「もう大変でね」なんてぐちをいってくれた人は、
ひそかに「かなり確率の高いAランク見込み客」です。
 その方が欲しい情報があればどんどん提供しました。

 こうしてだいぶこつをつかんできたら、入会申込ファックスも入るように
なりました。

 最後の1ヶ月は急激に入会者が増え、十一月のスタート時には目標達成!
60社の会計人が一同に揃いました。

 会員になった税理士先生が職員さんもつれてきているので、
80名ほどの初回月例会となりました。
会場の後ろからその風景を眺めて、「全員会員さんなんだなあ 嬉しいなあ」と、
しみじみ思ったものです。

 いままではセミナー型営業でしたので、20名集まっていても、
「このうち何人が会員さんになってくれるんだろう・・・」と思うのが
毎度のことでした。

 いままで電話で声をきいていた会計人の皆さんと受付で会えて、
「こんにちは お電話ではありがとうございました!お元気ですか?!」と声をかければ
「いままでありがとうね やっと来たよ」と温かく答えてくれます。
心から感激しました。

 そう、あの販売会の成功以来、2年ぶりの感動でした!
あのときはメンバー一丸となって取り組めたのですが、
今回は孤独な戦いだったので、夢中でありつつ、かなりつらい3ヶ月間でした。

 さて、これからが本番、さまざまな知的なチャレンジ=冒険が
徹夜とハードワークともに待ち受けていたのです。
 翌年は2000年、21世紀が始まりました。
 この会は現在11年目を迎えています。


続きは●会計人向け飲食店クーポンプロジェクト です
読んでいただき、ありがとうございます。

のりひめの過去ばなし20.有名フレンチレストランの誕生日作戦

2011-06-28 18:49:39 | のりひめの過去ばなし
関根典子です
ビジネス書の出版を目指して棚卸をしています
よかったらお付き合いください。現在1998年~99年くらいにおります。


●有名フレンチレストランの誕生日作戦

 会社をやめてから、はじめていただいた仕事は、レストランの売り上げをあげる
取り組みです。四谷のフレンチレストランが本店で北海道出身の、
有名な三國シェフの横浜のお店のプロジェクトです。

 ここは年間数千万も売れる、レストランとしては大型の店舗で、
すてきなフレンチレストラン、女性客が中心です。
誕生日売上だけで売上の一定数字を確保するというプロジェクトです。

 誕生日は一人では来ません。最低でも二人、家族、友人なら4人程度。
来店者に丁寧にアンケートを行い、意見収集しながら、誕生日前に誕生日カードを
出すというシンプルなやりかたです。
とはいえ、お店のオペレーションにもともとない作業なので、お店は大変です。

 わたしの役割は、お店がそれをしっかりと実行できるようにフォローし、
効果測定を続け、お店が自分でできるノウハウとして定着させることでした。

 これまでは自分の会社のことに取り組んでいたのに、
人の会社に変わり、業種も違うので、それは大きなとまどいがありました。
しかし接客業としては共通部分もあり、フレンチレストランがいったいどんな
ところなのかも興味津々、しかも有名シェフが社長ですから、
大変エキサイティングなお仕事でした。

 このプロジェクトは14ヶ月かかりましたが、売上の10%を誕生日の予約客で
確保するというモデルができました。
販売会3日間で1000万円の売上げをたてるプロジェクトのように、
ひとつのパッケージができたというわけです。

 アンケートやオペレーション用のチェックリストや、こまごましたツール作りや
効果測定も行いましたが、これはもう経験済みです。
 膨大な売上伝票の入力作業は、わたしの事務所から母と姉に手当てを支払って
(格安でしたが)手伝ってもらい、一家総出といった感じでとりくみました。

 このノウハウと成果は、のちに全国の様々なお店が取り入れることになりました。
またこの数年後には一日10万円の参加費をいただくセミナーにも変貌しました。


 この仕事と平行してさまざまなプロジェクトが進んでいました。
郵便局のふるさと小包の記念事業の仕事、銀行系研修会社のセミナー募集サポート、
人生をプランニングするセミナーの企画運営、新宿のつぶれかかった中華料理屋の
起死回生ランチ満席プロジェクトなどなど、
この間は大変めまぐるしい日々となりました。

 毎日充実して、新しいことが学べる喜びがあり、無我夢中で仕事をしていました。
このときに思い返したのですが、前の会社でストレスだったのは、
会社でひとりだけ熱血に働けなかったことです。
みんなが6時に帰って、その後に残って仕事などできなかったし、
先輩社員の見えないプレッシャーがありました。

 独立してしまったらもう働くなと文句を言う人はいません。
 その点でかなり楽になりました。


●オーバーワークでうつ気味に・・・「道は開ける」に、救われる

 とはいえ、未経験の忙しさが続いて、仕事ができない自分にいやけがさし、
どうしようもない無力感にあるときに襲われました。

 独立したとはいえ、弟子入り状態でしたので、わたしも経営コンサルタントの
会社にどっぷりいます。
 社長は毎朝朝早くからものすごいスピードで仕事をしています。
朝食が終わると講演やセミナーに行き、帰ってくると本の執筆、
またでかけていって打ち合わせ、翌朝は企画書を作り、飛行機で出張にでかける
という具合でした。

 わたしは事務所で留守番をしながらいろいろな仕事をしていましたが、
スキル不足で、小さなことでも大騒ぎです。
 2時間もあればできるようなことを徹夜で作業しないとできなかったのです。
 体はぼろぼろなのにろくな仕事もできず、自分の能力のなさに歯がゆい毎日でした。

 女性の先輩にあるときに相談しました。いつも明るいパワフルな女性です。
「心の穴がぽっかりと黒い口をあけているのが見えて、
とっても怖いきがするんです」
 といったら
「のりちゃん みんな、心の穴があるのよ」
 といってくれました。

 ほんとうに明るくて元気な人なので、そんな答えが帰ってくるとは
思いがけなかったのですが・・・。
 それをきいて、とてもっ心が楽になったのを覚えています。
 

 そんなとき、実家に心の洗濯に帰ったついでにデール・カーネギーの
「道は開ける」という本をみつけました。
 そこには悩みをどのように解決するかが、多くの事例とともに書いてありました。

 毎日それを読みながら実践することにしました。
本に直接日記を簡単に書いていき、心の整理をしました。
いまでもその本は手元にあります。

 東京でこのセミナーがあることを知り、3ヶ月間のコースに通って
学習と実践をしました。これで仕事にうちこめるようになりました。

 1999年、この年の夏の終わりに始まった会計人の組織立ち上げも、
この本との出会いがなければ実現できなかったと思います・・・。

 次回はあした♪
読んでいただきありがとうございます~

のりひめの過去ばなし19.わたし、会社やめちゃいました

2011-06-27 19:16:22 | のりひめの過去ばなし
●わたし、会社やめちゃいました

 仙台でのプロジェクトが大成功して終わったときに、
いきなり無力感を感じるようになりました。
周囲からの評価はとても高くなり、仕事もつぎつぎと、
社内のいろいろなテーマで手に余るくらい依頼が来ました。
 まるで社内企画会社みたいになっていたのです。

 自分は力が伴っていないのではと感じ、だんだんと落ち込んできました。
できればだれとも口をききたくないし、会社にもいくのもつらくなってきました。
独立か転職を考えるとすこし楽になるような気がしました。

 約半年、悩みに悩みました。

 前述しましたが、中谷彰宏さんが書いた
「独立するためにしなければならない30のこと」(1997年 ダイヤモンド社)を
読みながら響く言葉を実践したりしました。
たとえば、

「明日のためにその1辞表を書いてみよう」

「明日のためにその7いつクビになってもかまわないという覚悟を持っておこう」

「明日のためにその25今の会社での生涯年収を計算しよう」

「明日のためにその39とにかく旗を揚げよう」

「明日のためにその41やってみたけどつまらなかった、という経験をしよう」


「あなたを嫌っている上司があなたを独立させてくれる。」

「仕事中毒こそ、最高のぜいたくだ」

「『冷やし中華始めました』という感覚で独立すれば成功する」

といったようなことです。

辞表を書いてみたり、社名が入らない自作名刺を作ってみました。

これが自作名刺です。A4の紙を半分に切って三つ折にしたものです。



また、サンキューレターというはがきを、名刺交換した人に2週に一回発送しました。

サンキューレターは写真にある絵手紙みたいなものです。



 結局 24回発行して、最後は180名くらいに送っていました。
内容はありがとうの気持ちを折々になにかの絵と言葉で表現しました。
19回目で会社を辞めたご報告をしています。


 サンキューレターは、会社の人脈を脱却して自分の人脈を作ろうと
はじめた自己発信です。最初はてれくさかったり、なんでこんなことするんだろうと
いう気持ちがありましたが、漫画同人誌をずっとやっていたせいか、
なんとなく楽しくなり、さまざまな関係や出会いができました。

 社長さんともつながりましたし、その後にお仕事させていただいた方もいます。
 会社をやめるまえにやっていてほんとうによかったなと思います。

 このサンキューレターを送っていたなかの一人、藤崎ひろみさんとは
その後10年もたってから再会して、いまはNPO法人ふるさとイベント協議会の理事を
一緒にやっています。
 彼女とは一回しかあっていなかったのですが、わたしがお米の会をしていたときに
友人の紹介で参加してくれて、感動の再会を果たしました!


 さて話はもどりますが、経営政策室の一番のイベント、新年度の
経営政策発表会の前日、ついに、部長に「会社をやめます」といいました。

 この時点では、自分がやめたあとになにをするのか、あまり考えていませんでした。
どこか新しい会社に飛び込んで、新しい体験、冒険をしたいと望んでいただけでした。

 これから辞めるまでの引継ぎの二ヶ月間は、多くの人に声をかけてもらい、
もと上司の副社長からは、「もしよかったら俺と働かない?」といって
いただきました。でもわたしは休養したい気分になっていたのです。

 無謀とは思いながらも、両親に反対されながらも、やっぱり辞めてしまいました。
ダイアナに入社してちょうど満10年、本部に入って4年たった春でした。

 企画書の勉強はずっとしていたし、郡山、仙台のプロジェクトでも
お世話になったので、経営コンサルタントの先生にやめてから挨拶にいきました。

「先生、私、会社を辞めてしまいました」

「うそ!」

 彼を会社にひっぱったのは数多い生徒の中でもわたししかいなかったそうで、
そのわたしが会社をやめたとなると、彼と会社の関係も微妙になります。
それについては、申し訳ないとしかいいようがありませんでしたが、
事前に相談すると気を使わせてしまうかもと思って、相談しなかったのです。

 「まあ やめてしまったならしようがないね」と彼はいい、
翌月に事務所を訪れたときには「仕事ひとつ作ったんだけどやる?」と
声をかけてくれました。

 まもなく、個人事務所登録を税務署で行い、わたしのひよっこコンサルタント
としての仕事がスタートしました。1998年の春のことでした。


 続きはまたあした♪
 読んでいただきありがとうございます^^

のりひめの過去ばなし18.入社10年、転身を考える

2011-06-26 19:35:27 | のりひめの過去ばなし
関根典子です
ビジネス書の出版をめざし、まずは人生の棚卸をしています。
よかったらお付き合いください。
コメントなどいただければ嬉しいです♪


●入社10年、転身を考える

 さて、わたしはというと、実はこのプロジェクトの途中くらいから、
転職か独立を考えつづけていました。
新卒で入社して10年目 1996年のことです。

 この会社はほんとうに良い会社です。
ここにいれば、きっと次のステップがあるでしょう。
500名の会社で役員全員に覚えてもらっていて、
好きな仕事ができるめぐまれた環境は、もう二度と出会えないかもしれません。

 しかし、一方では、勤続ちょうど10年を迎え、
これからの10年をどう生きるか、どんな冒険をしたいか、
どんな大人になりたいのか、とても揺れていました。
 企画の勉強をし始めたことで、こんなにも急激に仕事が開けたことに
ずいぶんと驚き、可能性も見出していました。

 残業をしていて、「自分だけ残業するなよ」とか、
「時間以内で仕事をするのができる会社員だ」とか、やっかみねたみを
一部ではありますが、おじさん管理職にいわれるのもいやでした。

 もっともっとやりたいだけ仕事をしたい!と心から思っていて、

 そんなときに中谷彰宏さんの「独立するためにしなければならない50のこと」
という本読みました。
 会社をやめて「独立」という選択肢があることに気づき、
自分でもわくわくしてくるのがわかりました。


 続きはまたあした♪
読んでいただき、ありがとうございます。

のりひめの過去ばなし17.3日間で売上1000万

2011-06-25 07:58:14 | のりひめの過去ばなし
関根典子です

ビジネス書の出版をめざして
ただいま棚卸し中です

良かったらコメントなどいただければうれしいです(*^_^*)



●3日間で売上1000万の婦人靴販売会 郡山そして仙台決戦

 この挑戦はまず郡山で行われました。

 顧客を獲得するためにさまざまな方法で取り組みました。

おしゃれな靴を東京までわざわざ買いに行っている女性がターゲットと、仮説をたてました。

そうした女性見込み客を探してコミュニケーションをとっていきます。

郡山では1000万目標のところ残念ながら660万円という結果が出ました。

 しかし、660万円でも直近の百貨店催事の2倍という成果がでました。

メンバーみな精一杯がんばっていましたが、一千万円の達成がかなわず、
大変がっかりしました。
しかし、社長がすぐに2回目のチャンスをくれました。


 2回目は仙台。駅に近いビルに次の年に出店予定がありました。

ならば、出店の半年前に販売会を行い、開店前に顧客をしっかりつかもうという、
会社としては初のチャレンジです。

 郡山のチャレンジはすべてデータ化され、
さまざまな手法のどれが効果があったのか、どの手法できたお客さまが
いくら買ってくれたのか、何人同伴してくれたのか、その合計はいくらになっていたのか、
ということがわかっていました。

 一番効果があったのは、配布ポイントを選定して朝晩に地元のOLさんに配った
手配りの案内です。
その案内は、返信はがきで返信してもらい、招待券を発送するという仕組みでした。

次はアルバイト募集で多数の応募者があり、丁重に採用のお断りをしなければならず、応募お礼として割引券を送った人たちです。
その日はあいているからアルバイトに応募してきているため、かなりの確率できてくれました。

三番目は生命保険会社にお願いした案内、一番効果が薄かったのは、
地元女子大の学生窓口に置かせてもらった案内でした。
そのほか、地元広報誌なども反応率が高かったです。

 そのデータをもとに、より効果がある方法に重点をおき、こんどは決戦と、
仙台に臨みました。

 このゴーストバスターズプロジェクトは、本部はもとより、
全店店長から好奇のまなざしで見守られ、「現場に立っていない本部の人間が
できるわけない」といった冷ややかな目も当然ありました。
わたしなどは「おまえ、店長のとき売り上げ不振だったじゃないか、
できるわけないよ」と面と向かっていわれたこともあります。

 こうなったら意地でも成果を出してやる!と一念奮起しました。

 チームは一人増えて6名になりました。
遅くまで招待状の発送のための封入作業していて、みんなで不安な気持ちを
口にしたこともありました。

 そんなときは「わたしたちには郡山(の経験)があるじゃないか」と励ましあい、
熱い気持ちになりました。

 さて本番前日出張前の夜中、あまり眠れず起きていたら、だんだん熱がでてきて、
ついでに膀胱炎にもなってしまいました。
 朝8時の新幹線に乗るというのに、耐えられない痛み。
早朝4時ごろ救急窓口のある病院に行き、薬をもらって出かけました。

 その日はトラックで次々と靴や什器が運び込まれ、大急ぎで設営です。
やることは山ほど、バイトの面接まであります。
熱があるのも忘れるほどめまぐるしい一日でした。
このときは、スタッフは東京からたくさんの応援がきていましたので、
人海戦術でがんばり、夕食は決起集会で乾杯しました。

 あくる朝、開店前にはなんと長蛇の列、朝10時開店の予定でしたが、
会場はあけられたので、少し早く開店し、あっという間の大賑わい。

 10月という季節柄ブーツがよく売れ、レジのそばではブーツが宙を飛んでいるようでした。
わんさかわんさかしている間にあっという間に一日が終わりました。

 売り上げは・・・。なんと500万円!目標の半分です。

 みんなざわめきました。これは1200万円いくか?
いやセールの初日というのは大体期間の半分が売れるもの。
ちょうど1000万円か。
ぎりぎりか、またいかないか・・・。
 油断禁物、しかもブーツがだいぶ売れてしまって補充は不可能です。

 二日目、ぐっと減って300万円で終了。
 最終日は一日目のお客様がもどるか、それとも下手すると100万か150万、
それだと目標達成できない・・・。いやな予感もよぎります。

 さて三日目。二日目よりさらに客数が減り、靴も在庫がすかすかに。
とにかく全員で丁寧に接客しよう、仙台出店の前にファンを作ろう、と
みんなで協力し合います。

 閉店は一日目、二日目より早く、片づけがあるので18時。

 閉店まであと1時間というところで、売り上げは推定累計970万円。
(POSレジを持っていけなかったので、数台のレジとクレジット分を手集計
していました)

 すでにお客様はがらがら。靴もがらがら。

 わたしが「あと30万なら私がカードで買います!」といえば、
他の女性スタッフも「いや、わたしも買います!」
バイトの子まで「私も買います!バイト料あるから!」と叫びます。

 「じゃあもうお客様いないから好きなの選んでいいよ」というと、
バイトの子はうきうきと自分の靴を選び始めました。

 遠くのほうでは少ないお客様に販売員二人ずつつく体制で全力接客、
とはいえあと30万は到底・・・?。

 まあ閉店してから計算して買えばいいやと思い、閉店。
お店にいたお客様はほとんどなにか購入してくれた模様です。

 さて計算してみると・・・・・・。


 結果は・・・1007万円!

 スタッフだれも買わずに(バイトの子は買いましたが)見事目標達成!

 この日のビールのおいしかったこと!
 全員で発した乾杯の声に張りがあったこと!
 疲れもふっとびました。

 この後、半年後に仙台店が駅ビルにオープン。
初月売り上げテナントナンバーワンを果たしました。

続きはまた明日

のりひめの過去ばなし16.会社の悩みは適正在庫

2011-06-24 12:27:17 | のりひめの過去ばなし
●会社の悩みは適正在庫、そしてゴーストバスターズプロジェクト

 さて、靴は接客も大事ですが、それだけではありません。
会社の商品のターゲットは、高校生から60代くらいまでのおしゃれな女性でした。
靴にはなにしろたくさんのサイズがあります。
フルサイズをそろえると、19.5センチから26センチまであり、
5ミリきざみだと14ものサイズあります。

 大体は22.5センチ~24センチに集中していますが、
それより小さいサイズや大きいサイズのお客様のほうが、靴を探しています。
 季節ものですので2週間くらいのサイクルで流行も移っていきます。

 さらにひとつのデザインが多色展開しています。
黒、白、ベージュ、などの基本色のほかに茶や赤、ゴールドや
さまざまな流行色、さらに素材違いでエナメルやスエードにハラコ、
へびやクロコの型押し、メッシュ、チュールやサテン・・・。
 高級品になるとリザード(とかげ)やエミュやら、ヌバック・・・、
種類をあげたらきりがありません。

 そのような商品ですから、会社の悩みはなんといっても適正在庫です。
センター一括仕入れにしてきたのも、全体の量を会社でコントロールして
すばやく判断する必要があるからです。
お店のストック面積には限りがありますので、
お客様に言われた靴をすべて出すことはできません。

 販売力とは、いまない靴をとりよせて、お客様に買っていただくことではなく、
今お店にある靴をお客様に喜んで買っていただくことだとしても、
商売として考えると仕方のないことです。

 不良在庫は会社の負の資産。
たまっていくとスペースもかさみ、新しい仕入れもできなくなります。
こうしたことが、本部に入り、役員の方と話をする機会が増えて
やっとわかってきました。

 そこでわたしは、企画書を習いに行っていた経営コンサルタントに、
すこし会社のことを相談してみました。
その人は、もしも上司か社長に会えたら解決策について
話ができるかもしれないと、自分の著作をいろいろと持たせてくれました。
 上司に話した結果、その経営コンサルタントと社長が会うことになりました。

 そこで出てきたのが「ゴーストバスターズプロジェクト」。
消しても消えない、消えても現れるゴーストのような不良在庫を
コメディ映画の題名と重ねたプロジェクト名です。
 命名は上司だったと思います。なかなかしゃれてます。

 そして、その経営コンサルタントの力をかりて、
「自社が出店していない地域で、人通りのない会場で、
3日で1000万売り上げを上げる」というチャレンジをすることになりました。

 在庫処理といっては言葉が悪いですが、やはりセールとなると在庫がはけます。
よくある百貨店のセール催事はあることはありますが、
お店のスタッフが別会場に出張することになり、お店の人手が必要になることと、
大変なわりに場所次第で、まったく売り上げが振るわなかったりするので、
意外にリスキーであてになりません。またそれはそれで家賃が高いのです。

 企画書を習っていた関係で、わたしはそのプロジェクト運営をまかされました。
 コンサルタントと会社の連絡もわたしの役目でしたし、
実際に販売会を開催するにあたり、その工程管理や出張調査、
現地でのビラ配りにお客様への電話アンケート、バイトの選抜に教育、
現地商店街や企業への案内、会場の設営も接客も受け付けも、
さらに当日の抽選大会や入場券などの制作や封入、お礼状の制作と発送など、
何でもやりました。
 チームは最初5人でした。ベテランの課長、同期のメンバー、システムの
係長に部署の上司と、少数精鋭でがんばりました。

 これらを約3ヶ月で準備から開催するということを行いました。

 このプロジェクトで大切だったのは以下の5点です

 1.顧客ゼロの地域で顧客を作る
 2.絶対通りがかりの人がいない場所で行う
 3.事前に来場者を確実に票読みをする
 4.3日間で1000万モデルを確立する

 ということでした。

 立地のよいところに多額の費用を出して出店してきた会社にとっては、
大変新鮮なチャレンジでした。
 自社が出店していない地域でしたら、今年の商品かどうかということは
わかりません。
 今年の商品ではなくても新品で保管もよく、定番の良いデザインと仕立てのものは
たくさんあります。
競合他社では何年も木型もデザインもほとんど変わらない商品もあります。

 顧客をゼロから獲得するノウハウ、3日間という短期間で1000万売るという
ノウハウは、会社にとって、のどから手が出るほど欲しいノウハウでした。

続きは、
●3日間で1000万の催事販売会にチャレンジ 郡山そして仙台決戦

です。

読んでいただき、ありがとうございます♪

のりひめの過去ばなし15.販売員教育プロジェクトで全国2位

2011-06-23 08:55:12 | のりひめの過去ばなし
●販売員教育プロジェクトで全国2位

 競争力強化の一環として、販売員トーナメント「超販売員プロジェクト」という
イベントを行うことになりました。
これも部を横断した全社をあげてのプロジェクトで、
全販売員の勝ち抜き戦で優秀な販売員を選抜するというものです。
 どのように予選をして最終段階まで到達するのか、どんな採点方法をするかなど、
企画を担当させてもらいました。

 まず各店でロールプレイングを行い、優秀な販売員を選出、
その後エリアを広げながら2回選抜、12月第一週の土曜日に銀座本店で、
勝ち抜いてきた販売員が実際に販売をして売り上げを競い、最終選考に至るという
ストーリーです。
 12月の第一週の土曜日というのは、一年でブーツが一番売れる日でした。

「君も、本部の人間として出場したほうがいい」と部長にいわれ、
「え~ 自分で考えているのにですか~?」といいながら出場しました。
 最初はロールプレイングでしたので、順調に勝ち進むことができ、
銀座大会まで進みました。 ここまでは、採点基準が頭に入っている私は
有利だとおもいますが、さすがに売上がかかわる銀座大会は無理だろうと思いました。

 しかし、当日初めて来店したお客様と仲良くなり、当時本店で取り扱っていた
グッチの15万円とか5万円とかの靴を購入してくださったのです。
運良く最終選考に残ることができました。

 最終選考は原宿の本社で役員全員の前でのロールプレイングです。
ベテラン販売員によるいじわるな店員が出てきて、対応しなくてはなりません。

 残った十名のなかにわたしが渋谷東急プラザ店長だったときの副店長の女性が
いました。一緒に売り上げ不振に悩んでがんばった戦友でした。

 半分終わったところで休憩があり、経営政策室の部長がわたしの横にこっそりきて、
「やばいよ」といいました。
「どうしたんですか?」
「いまのところ、君が一位だよ」
「あら やばいですね~」

 企画した張本人が優勝しちゃったらやっぱりうまくありません。

 その後後半戦が行われ、最終結果は、静岡の古株の男性社員が一位となり、
わたしは二位になりました。戦友は3位。
 自分が一位にならなくてほっとしたのと、戦友が3位だったのが残念な気持ちと、
でも、二位で10万円賞金をいただいたのが嬉しかったのと、
いろいろな気持ちが交錯しました。
4月にはじまって2月くらいまでかかって、
企画から運営まで取り組みましたので、わたしとしても、初めての大きなボリュームの
プロジェクトでした。

 副社長があとでそば来て、
「おめでとう。一位にならなくて残念だったね。
君の靴の見せかたが一番きれいに見えたよ」と言ってくれました。

 副社長はきっと大変だったねと気遣ってくれたのだと思います。
会社のメイン商品である靴がきれいに見えたといってもらって、
わたしも感激して泣きそうになりました。

 部長も「おつかれさま。俺は誇らしいよ!」といってくれました。


 なんだか部下をねぎらってくれるやっぱりとってもいい会社です。

 ここまでお読みいただきありがとうございます。

 次回は●会社の悩みは適正在庫、そしてゴーストバスターズプロジェクト
 です。

のりひめの過去ばなし14.いよいよマーケティングの仕事へ

2011-06-23 08:40:36 | のりひめの過去ばなし
関根典子です(旧姓高野典子)

現在ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみてます。
気が向いたらおつきあいくださいませ♪

コメントなどもいただければうれしいです^^


●経営政策室へ異動 いよいよマーケティングの仕事へ

 経営政策室は組織図上、社長直下、どこの部とも対等な一種独特のポジションにあり、
役員会のとりしきりを行っていました。

 営業本部に二年在籍したあとに、経営政策室に異動になり、同期の男性とチームに
なりました。ここで、いよいよマーケティングの仕事が始まりました。
経営政策室の部長も、自分の部署を一新したかったようで、経営政策室の方針として、
マーケティングの機能を強化することを大きく打ち出したのです。
 本社に入って3年目、いよいよ「ダイアナへ行こう!」とあの企画書にかいたように、多くのお客様に
競合他社でなく、ダイアナを目指して、名指しできていただくための活動をすることができます。
 競合店と自社のお店をさまざまな面から調査してどこが違うかを研究したり、
新店出店にあたり、通行客数や感性、人の導線の調査をしたりしました。
 名古屋や大阪、銀座や横浜、さまざまなところに出張して調査しました。
あちこちの部署から仕事を受けて動いたり、提案して受注したりする、まるで社内マーケティング会社みたいでした。

 自社の競争力強化の策として、販売力の強化が大きなテーマでした。
まさに2:8の法則で、たくさん売ることができる約二割の社員が約八割の売上を支えていたのです。
そこで、自社の全国の販売員を対象とした販売員教育プロジェクトでトーナメントを実行
することになりました。

 企画書の課題として取り組んでいた靴の通販も、1996年、
日本初の国や森ビルなどが行っていたイーコマースのプロジェクトに参加し、
インターネットで取り組むことになりました。
 1995年はインターネット元年、そこから伊藤譲一さんや千葉麗子さんなどが
インターネットの初期の普及に活躍していた時代です。
 わたしもHTMLを本とくびっぴきで苦労してホームページを作りました。
 ホームページ制作ソフトもまだなかった頃ですね。いまは便利になりました。

 これらの活動は、全店店長会議という年に一回の店長が集まる会議で
報告されました。わたしと同僚の男性と二人でパワーポイントにプロジェクターで、
現在のダイアナがどのようにお客様から見えているかといったプレゼンを
行い、社長や会長がこれについてコメントしました。
こうしたプログラムはこれまでの店長会議にはなかったものでした。

 わたしもあこがれていた企画やマーケティングの仕事をさせてもらい、
ほんとうにわくわくしていました。
 

 続きは●販売員教育プロジェクトで全国二位 です
 読んでいただき、ありがとうございます。


のりひめの過去ばなし13.営業本部で修行 そして経営政策室へ

2011-06-22 18:35:31 | のりひめの過去ばなし
●営業本部で修行 そして経営政策室へ

「企画の勉強をしているならちょっと手伝ってくれ」といわれ、
社員の売上を表彰する制度の大改革プロジェクトに参加することになりました。
これは部を横断するプロジェクトで、各部や関連会社の長が毎月会議をするのです。

 表彰制度は、がんばって販売する販売員や店舗を表彰するもので、
上位の人はアメリカやヨーロッパの2週間の研修旅行に行けたり、
国内旅行にいけたりしました。わたしもこれで北海道に2回、と
ヨーロッパに一回、連れて行っていただきました。

 改革内容は、これまでの個人へのスポットからチームへスポットをあてるとか、
表彰内容をお金や旅行に加え、名誉も与えるといったもので、
私はそれの議事録係りを任じられました。

 初めて体験する会社の偉い人の会議はとても興味深く、
会社で同じフロアのすぐとなりにいる部長たちの、誰と誰が仲がいいとか、
それぞれの思惑が交錯していたりするのがよくわかって、
「家政婦は見た!」ではないですが、好奇心ありありの、
かなり楽しい体験をしました。

 会議が終わると私は議事録を作りましたが、せっかく企画書の練習している
ところなので、決定事項を企画書っぽくまとめてみました。
 議案、決定事項、討議事項、課題を箇条書きにして四角で囲って見やすくした
くらいのものでしたが、決定したこと、していないことを明確にすると、
会議の進行が早くなると思ったのです。

 できた議事録を各出席した役員に見てもらい、OKが出たら、
次の会議の前にみんなに配り、前回の合意事項を承知した上で始まるようにしました。

 この手順を行ったことですべての役員と話をできるようになり、
みんなに覚えてもらってかわいがってもらいました。

 上司もほんとに前向きで明るい人だったので、「うん いいね! よくやった!」
といつもはげましてくれて、嬉しくて一生懸命やりました。

 そうこうする間に、6ヶ月間の勉強の課題も終わり、企画書を学んでいた学校では
全国勝ち抜きのプレゼンテーション大会で大賞をいただきました。
 会社に報告したら、社長が一言、「受講料をだしてやれ」といってくださったそうで
あとから受講料を会社からいただきました。
 ほんとうにいい会社ですね。
 
 半年でそのプロジェクトは落ち着き、翌年から新しい体制で表彰制度がスタート
しました。
 平行して、新人事制度もスタートすべく準備が進んでいました。
職能などを細かく役職別にクリアにし、能力給などの制度を整えるものでした。
私はお店の一般社員から課長までの職能評価の一覧表の制作を担当させてもらう
ことになりました。現場を経験したものとして、どんな能力がそれぞれの階級に応じて必要か、評価の軸をつくるというものです。

 あまりにも責任が重いので、かなりびっくりしましたが、
副社長にみてもらいながら、苦労して作りました。
 このプロセスで、人事部や会社がどのようなことを考えているのか、
いろいろと教えてもらい、理解することができました。

 同じ年の1995年7月、PL法(製造物責任法)の施行があり、
店舗用マニュアルも作りました。
PL法とはなにか、事が起こるのをどのように予防するか、起こってしまった
ときにどう対処するか、というマニュアルで、全店店長が集まる店長会で発表も
させてもらいました。
このころにはExcelもだいぶ慣れ、(まだパワーポイントは入っていませんでした)
なんでも全部Excelで作っていました。

 そうこうするうち、会社の仕組みや、社長が考えていることが少しずつわかって
きて、ますます仕事が楽しくなってきました。

 そんなときに、役員であり経営政策室の部長が
「君は面白いな。一緒に仕事しないか」と声をかけてくれたのです。
その部長は明るくて頭も良く、ポジティブな人でわたしも大好きだったので、
何の迷いもなく、「あの、ぜひよろしくお願いします」と言いました。

 さて前回の話でちょこっとでてきた結婚話ですが、実は企画書の学校に
彼も一緒に行きました。しかし彼は途中でザセツ、二回目も申し込んだものの
またザセツしてしまいました。年齢的にわたしもそうですが、
仕事が忙しくなる時期だったんだと思います。
おたがいの時間と価値観のすれ違いが多くなり、5年付き合った末に、
95年には別れてしまいました。
 ひとりの週末、自由なんだとなんともせいせいしたのを覚えています!

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 次回は ●いよいよマーケティングの仕事へ です

のりひめの過去ばなし12.あこがれの本部へ異動

2011-06-22 18:20:29 | のりひめの過去ばなし
関根典子です(旧姓高野典子)

現在ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみてます。
気が向いたらおつきあいくださいませ♪

コメントなどもいただければうれしいです^^

●あこがれの本部へ異動

写真は、渋谷東急プラザのお店に勤めていたときのわたしです。
きゃ~ はずかし!




 お店には6年つとめていたので、本部はとても新鮮でした。
 9時に始まってぴっちり6時に終わるのです。
 お店は9時45分から店長は通しになることが多いので、20時45分まで、
セール時期は朝の7時から夜の11時とか、
立ちっぱなしで腰も痛くなるし疲れがなかなかとれない仕事です。
本部と店は遠い関係だなあと思っていましたが、仕事環境もきれいでしずかで
まさに圧倒的な環境の違いを感じました。

 お店にずっといたので、本部の人は役員以外あまり知りません。
そこで、営業部長に挨拶するのに、自分で履歴書のような自己紹介書のような
図入りの手書きの一枚のシートを作りました。
 植木等演じるサラリーマンのようなとても明るい上司でしたので、
そのシートをほほえましくみてくれました。
 さらに、私がプライベートの時間を使って企画書の勉強をしたいと
考えていることを言ったら、「応援しているよ!」といってくれました。
 そして「テーマを悩んでいるなら副社長に聞いてごらん」といってくれたのです。
(副社長は営業部長の上司です)

 私はおそるおそる副社長に「こういう勉強をするのですが、テーマは何が
良いでしょう?」とききに行きました。
 副社長は長身細身の人で、イタリア製のほそい革靴を履き、
いつもネクタイとおそろいのポケットチーフをしていて、
ワイングラスを筆記用具を入れてルイ・ヴィトンでデスク周りを統一しているような
おしゃれな人でした。(その後社長になりました。)

 その結果、「じゃあさ、靴の通販のこと考えてくれない?
俺できると思ってるんだけど」と、テーマをもらいました。

ときは1994年。わたしは29歳で、インターネット元年といわれる年の前の年です。
会社ではNECの98ノート(当時はまだWindows3.1 MSDOSの時代です。)を
わたしに一台あてがってくれました。
まだまだパソコン一人一台体制にはほど遠い時代でしたが、
会社としてはちょうどテスト導入の時期でした。

 課題は6ヶ月間かけて作るのですが、なれないEXELを使って企画書を作りました。
とはいえ手書きのほうがなれていたので、場合によって
プリントしたら切り張りし、お得意のスクリーントーンなぞ使っておりました。

 その間何度となく、副社長や営業部長とその話題で話すことができたし、
課題の企画書ができると役員回覧してくれました。
 
 20代最後の年は、仕事もがらっと新しい環境になり、新しい勉強も始め、
結婚しようと思って4年ほど付き合っていた人と、本当に結婚しようかどうしようか
悩んだり、いろいろとぎゅっとつまった年でした。 きゃっ♪

 次回は
 ●営業本部で修行、そして経営政策室へ です。

読んでいただき、ありがとうございました♪