のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『インシデンタル・アフェアーズ』2

2009-04-11 | 展覧会
前回の記事がいきなり「それはさておき」で始まっていることに昨日気づきました。
単なる消し忘れでございます。
気に入ったのでそのままにしておくことにいたします。

それはさておき

4/8の続きでございます。
本展でのろに最も強い印象を残したのは、イスラエル出身のアーティスト、ミシェル・ロブナーの映像作品でございました。
黒いカーテンで仕切られた暗闇の中へ入って行きますと
三方の壁に横長のスクリーンがあり、白黒の映像が流れております。
向かい合わせになっている二つの映像はほとんど同じもの。
あるいは、タイムラグがあるだけで全く同じ映像なのかもしれません。
白い、横長の画面の左右から、一列また一列と黒い人影が現れ、画面の中央へと進んで行きます。
一人一人の歩調は不揃いでございますから、決して軍隊風にピッシリ整った列ではございません。
にもかかわらずそこには、一見してそれと分かる、異常なほどの規則性がございます。
左右から互いに近づいて行った人影は、画面の中央で真っ黒なかたまりになるまで密集したのち、再び異常な規則性をもって左右へと分かれて行きます。
何が異常かと言いますと、左右の人の動きが、寸分たがわず完全に同じなのでございます。
つまり一方の映像を鏡像のように反転したものを、つなげてひとつの映像にしているのでございます。
白い背景に黒い人影が、ランダムかつ規則的に近づき、交わり、離れて行く。
さながら、人影がおりなす白黒の万華鏡でございます。

一方真ん中のスクリーンでは、やはり白い背景の中、人影が円をなして『刑務所の中庭』よろしく、ぐるぐると回っております。
と、突然人々はてんでばらばらに、画面の外へと走り出します。
ちょっとおかしいぞと思うほど多くの人影が、画面の中央から外へ、蟻のように散って行きます。
ところがひとしきり画面を騒がせた人影がいなくなってみると、白いスクリーンの中央では相変わらず人々がぐるぐる回り続けているのでございます。何事もなかったかのように。
↓この映像はこちらの2:03から見ることができます。
Bienal de Veneza 2003


どの映像でも、体格や歩き方は一人一人異なっているものの、個々の人影は文字通りシルエットでございます。
その中に表情や個性を読み取ることはできません。
しかし、その体格や歩き方といったわずかな不規則性が、繰り返される規則的な動きの中にランダムな要素を持ち込み、視覚的な面白さを際立たせる彩りとなっております。
と同時にこの不規則性こそが、無意味な動きをひたすら繰り返すこの黒いかたまりは、蟻の群でもなく、コンピューターで形成された模様でもなく、確かに人間の集まりなのだ、という不気味な事実を見る者につきつけるのでございます。

個性や表情の見えない人間の群によって、同じ動きがひたすら繰り返され、無意味な模様が形成されては、散って行くさま。
視覚的な面白さとはうらはらに、そこにはそら恐ろしいほどの不毛感と、冷え冷えとした絶望がございました。
この黒いかたまり、自分を動かす大きな因果を見通すこともできぬままやみくもに歩き続け、ただ偶発的にあるかたちを形成してはまた別れていく、無意味なかたまりは、人間の歴史というものへの絶望を表現しているように思えたのでございます。
「インシデンタル」---瑣末な、偶発的な---という言葉の、暗い側面を思わせる作品と申せましょう。
その点で、ひたすら物質的に、インシデンタルなものごとの持つ美しさを捉えたティルマンスの作品とは対照的でございます。

のろは基本的に展覧会のテーマそのものにはあまり注意を払わないたちでございまして、個々の作品を個々に楽しんで、よしとしてしまうのが常でございます。
本展もそんな感じで甚だのほほんと楽しませていただきましたが、振り返って「インシデンタル」という言葉を軸に考えますと、作品に対する新たな視野が開けて面白うございます。またテーマに掲げられている言葉の方も、作品によってさまざまなニュアンスを帯びてまいります。

ゴム長靴や扇風機、トイレットペーパーや霧吹きといった日常的なものものに大注目して、そうしたものものの動きや音、ものとしての存在感をアートに仕立ててしまった田中功起氏の『everything is everything』では、インシデンタルなものごとはとことん日常的な場所でありつつも、その中にハッとするような美しさや可笑しさや非日常性を秘めております。
小さな木馬たちが洗面台や本棚やピアノの上を旅する、さわひらき氏の『Going Places Sitting Down』では、「インシデンタル」はささやかでノスタルジックなイメージを帯びております。

現代美術はとかく難解と思われがちでございますけれども、とりあえず目と耳で感覚的に楽しんで、作品の意味やメッセージはあとから考えればいいのじゃないかしらん、とも思うのでございます。
難解だから、という理由(あるいは先入観)でもって感覚を閉ざしてしまったり、体験することをはなから拒否してしまう人がいるとすれば、甚だ残念なことでございます。
前回にも申しましたように、本展では作品の魅力を引き出し、見る者の感覚に訴えるためのさまざまな工夫がなされております。
現代美術ということで二の足を踏んでいらっしゃる方にも、ぜひ足を運んでいただきたいと、思う次第でございます。