7/27の続きでございます。
ブダペストからベルリンに出てきて抽象表現に目覚めたのか、あるいは抽象に目覚めたからベルリンに出て来たのか、「ベルリン ダダから構成主義へ」と題された第2セクションでは肖像画や風景画は影をひそめ、というか全く跡形もなくなりまして、ひたすら平面構成の世界が展開しております。
四角や三角や直線や半円が交錯し合うほとんどモノクロームの画面は一見単純なようでいて、いとも絶妙なバランスの上に構築されており、またひとつの形と別の形の重なり、そこから生まれる新たな形、さらにはそのずらしと反復によって、見れば見るほど奥深い構成が立ち現れてまいります。
うーむ、たまりませんね。
ここまで見ますと、この後はバリバリ抽象表現な方向に進むんかな、という感じがいたしますが、これまた全然そうはならないんだから読めない人でございます。
写真、そして映画という新しい表現メディア*に注目したモホイ=ナジ、1923年からバウハウスで教鞭を取り、写真を使ったさまざまな表現手法の授業を基礎カリキュラムに組み入れるかたわら、自身の作品にも写真を積極的に取り入れます。
*写真術そのものが発明されたのは19世紀初頭のことですが、19世紀末ごろからカメラの小型化や機材の改良、規格化、低価格化などによって普及が進み、それに伴って20世紀初頭には単なる記録媒体あるいは絵画の代わりという以上の、写真独自の表現可能性が追求されるようになりました。
このころ制作されたフォトプラスチック(フォトモンタージュ)の作品、これがまたよろしくて。
「運動するとお腹がすく」だの「どのようにして私は若く美しいままでいられるか?」だの、ちょとふざけたタイトルも楽しいのですが、「軍国主義」のように重いテーマを扱った作品でもとにかくシャープで洒脱、かつ軽やかな画面でございます。
四角や円や直線が主役だったベルリン時代と異なり、ここでは人物写真がメインに使われておりますが、幾何学的な形を扱ったのと同様に、ひとつの同じ形-----同じポーズの人物像-----を重ねたり、階調を変えたり、ずらしつつ反復したりすることでリズムとバランスを生み出しているのが興味深い。
幾何学的形状とのおつきあいで培った構成理論を、人物と具象的なテーマに対して応用したという所でございましょうか。
応用の幅は書籍デザインにも及んでおり、同セクションではモホイ=ナジが装丁したバウハウス叢書も全巻展示されております。これがまたカッコイイのですな。この叢書を全部所蔵しておきながら、一冊残らず表紙カバーをひっぺがして捨ててしまっているバカヤローな大学図書館もございますけれどもまあどことは申しますまい。
後半の風景写真などを見ても思う所でございますが、この人においては文字も人体も幾何学的形体も、風景も建築もまた光線そのものも、世界のあらゆるものが構成のためのパーツであり、視覚の実験室における素材であったのでございましょう。
振り返れば、写真、映画、平面構成、立体、舞台芸術、装丁、タイポグラフィ、著述に教育と、51年の人生においてよくこれだけのことを、しかも器用貧乏に陥ることなくできたものだと感歎いたします。
モホイ=ナジの細君によると彼は「教育に携わるために芸術家としてのキャリアを犠牲にした」とのことで、確かにクレーやグロピウスと比べるとモホイ=ナジという名前はマイナーでございます。それだけに、芸術家としての彼の仕事をまとめて見られるの本展の開催はたいへん幸いなことでございました。
デザインに興味のあるかたならまず行って損はない展覧会でございます。ワタクシは幸いなことにこの間招待券をいただきましたので、展示替え後にもう一度行こうと思っております。
それにしても今年はクレー、カンディンスキー、そしてモホイ=ナジと、バウハウスに関係した人物の展覧会が何となく続いておりますね。この流れで来年あたりオスカー・シュレンマー展などやっていただけたらワタクシとしてはとっても嬉しいのですが。
ブダペストからベルリンに出てきて抽象表現に目覚めたのか、あるいは抽象に目覚めたからベルリンに出て来たのか、「ベルリン ダダから構成主義へ」と題された第2セクションでは肖像画や風景画は影をひそめ、というか全く跡形もなくなりまして、ひたすら平面構成の世界が展開しております。
四角や三角や直線や半円が交錯し合うほとんどモノクロームの画面は一見単純なようでいて、いとも絶妙なバランスの上に構築されており、またひとつの形と別の形の重なり、そこから生まれる新たな形、さらにはそのずらしと反復によって、見れば見るほど奥深い構成が立ち現れてまいります。
うーむ、たまりませんね。
ここまで見ますと、この後はバリバリ抽象表現な方向に進むんかな、という感じがいたしますが、これまた全然そうはならないんだから読めない人でございます。
写真、そして映画という新しい表現メディア*に注目したモホイ=ナジ、1923年からバウハウスで教鞭を取り、写真を使ったさまざまな表現手法の授業を基礎カリキュラムに組み入れるかたわら、自身の作品にも写真を積極的に取り入れます。
*写真術そのものが発明されたのは19世紀初頭のことですが、19世紀末ごろからカメラの小型化や機材の改良、規格化、低価格化などによって普及が進み、それに伴って20世紀初頭には単なる記録媒体あるいは絵画の代わりという以上の、写真独自の表現可能性が追求されるようになりました。
このころ制作されたフォトプラスチック(フォトモンタージュ)の作品、これがまたよろしくて。
「運動するとお腹がすく」だの「どのようにして私は若く美しいままでいられるか?」だの、ちょとふざけたタイトルも楽しいのですが、「軍国主義」のように重いテーマを扱った作品でもとにかくシャープで洒脱、かつ軽やかな画面でございます。
四角や円や直線が主役だったベルリン時代と異なり、ここでは人物写真がメインに使われておりますが、幾何学的な形を扱ったのと同様に、ひとつの同じ形-----同じポーズの人物像-----を重ねたり、階調を変えたり、ずらしつつ反復したりすることでリズムとバランスを生み出しているのが興味深い。
幾何学的形状とのおつきあいで培った構成理論を、人物と具象的なテーマに対して応用したという所でございましょうか。
応用の幅は書籍デザインにも及んでおり、同セクションではモホイ=ナジが装丁したバウハウス叢書も全巻展示されております。これがまたカッコイイのですな。この叢書を全部所蔵しておきながら、一冊残らず表紙カバーをひっぺがして捨ててしまっているバカヤローな大学図書館もございますけれどもまあどことは申しますまい。
後半の風景写真などを見ても思う所でございますが、この人においては文字も人体も幾何学的形体も、風景も建築もまた光線そのものも、世界のあらゆるものが構成のためのパーツであり、視覚の実験室における素材であったのでございましょう。
振り返れば、写真、映画、平面構成、立体、舞台芸術、装丁、タイポグラフィ、著述に教育と、51年の人生においてよくこれだけのことを、しかも器用貧乏に陥ることなくできたものだと感歎いたします。
モホイ=ナジの細君によると彼は「教育に携わるために芸術家としてのキャリアを犠牲にした」とのことで、確かにクレーやグロピウスと比べるとモホイ=ナジという名前はマイナーでございます。それだけに、芸術家としての彼の仕事をまとめて見られるの本展の開催はたいへん幸いなことでございました。
デザインに興味のあるかたならまず行って損はない展覧会でございます。ワタクシは幸いなことにこの間招待券をいただきましたので、展示替え後にもう一度行こうと思っております。
それにしても今年はクレー、カンディンスキー、そしてモホイ=ナジと、バウハウスに関係した人物の展覧会が何となく続いておりますね。この流れで来年あたりオスカー・シュレンマー展などやっていただけたらワタクシとしてはとっても嬉しいのですが。