のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『恋する静物』展1

2012-01-05 | 展覧会
あけました。

というわけで
名古屋ボストン美術館で開催中の恋する静物-静物画の世界へ行ってまいりました。

ボストン美術館のコレクションの中からピックアップされた静物画や調度品が、静物画というジャンルが確立した頃の作品から現代美術に至るまで、時系列に並べて展示されております。
というわけで新年早々、17世紀オランダのヴァニタス(人生の虚しさ)絵画から。
果物と花々、あるいは髑髏・蝋燭・砂時計というお馴染みのモチーフを集めた作品から、当時オランダで流行したレーマー杯を描き込んだもの、画面いっぱいにどでーんと鯉が描かれた、いささか異様なもの(うろこのぬらぬら感のすごいこと)まで、さすがに17世紀オランダ絵画、これでもかとばかりの描写力でございます。

中でも凄かったのが、フェルメールより10歳あまり年下になるヤン・ウェーニクス作死んだ鳥と狩猟道具のある風景でございます。

はい、タイトルそのまんまな絵でございますね。しかしこの質感の描き分けの凄さといったら。革製ケースのしっとりと使い込まれた光沢、細い飾り房の繊細な素材感、ひんやりと重々しく光る金具の重量。それ以上に、死んだ鳥たちのいかにもくたっとして柔らかそうな首や胸の羽毛と、薄く軽いけれどもパリッと張りのある翼の部分の描写、またその解剖学的な正確さといったらどうです。狩猟の獲物となった鳥たちの姿は斜め上からの劇的な光に照らされ、誇張もなく媚びもなく、一種のしんとした荘厳さに包まれております。地面に転がっているカワセミなど、その可憐な、とはいえ即物的な死に姿があまりにも真に迫っていて、絵に中にふと両手を差し延べて拾い上げたくなるようでございました。
狩猟は贅沢なスポーツであったため、狩猟を主題とした絵は富裕層のステイタスシンボルであったということですが、本作のあまりにもリアルな死んだ鳥の描写は、むしろ髑髏や蝋燭と同様に、生のはかなさを表現しているように見えてなりません。

静物画だけの展覧会といいますとちと地味な印象がございますが、本展にはなかなか珍しい、というかケッタイなものも展示されていて面白かったですよ。
例えば、18世紀後半に活躍したアメリカ人画家ジョン・シングルトン・コプリーの釘にかかった栓抜き
何でもコプリーが招かれた先でワインの栓抜きが見つからなかった時、即興でその家の戸枠に描いたものなんだとか。その戸枠がこうして切り取られて、ボストン美術館に所蔵されるに至ったまでの経緯が気になる所です。それにしてもこの作品が描かれた1760年代にはまだチューブ式油絵具が開発されておりませんのに、コプリーが出先でこれを描いたということは、招かれた先まで大仰な油彩画の道具を持参していたんでしょうか。それとも招かれた先もまた画家の家だったんでしょうか。ともあれ、なかなか面白いエピソードではあります。

例によって「セザンヌ、ルノワール、マネを始め~」なんて印象派メインみたいな売り出し方をされておりますけれども、印象派の作品は展示のほんの一部でございます。ざまあみろ。いやいや。
上記のビッグネームの他、モリゾ、シスレー(シスレーの静物画なんて初めて見ました)、それに印象派周辺の画家としてファンタン=ラトゥールやクールベさんの作品も来ております。


花瓶のバラ 1872年

年明けからファンタン=ラトゥールの静物画を見られるなんて、まったく幸せなことでございました。この人の作品は素晴らしい技術や色彩センスを誇りながらも、どうだどうだと見せつけるような所がなくて、ほんとにいいですね。静謐さとみずみずしさが同居する画面からは、描かれている花や果物の香りがふわりとこちらに漂って来そうでございます。印象派の大御所たちほど知名度がございませんので、展覧会の広報に名前が出て来る機会は少ないのですが、モネルノワール大フィーチャー!な展覧会などで思いがけず出会うと、本当にしみじみといたしますよ。

予想外に長くなりましたので、次回に続きます。
今年はブログに割く時間をもっと短くしようと思ったのになあ。