のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ニーチェの馬』2

2012-08-16 | 映画
なんもかんもくたびれた。
くたびれるようなことはなんもしてないのに。

それはさておき

8/1の続きでございます

希望もなし、解決策もなし、アツいヒーローもケナゲなヒロインもなし、明日に役立つ人生訓も、心温まるちょっといい話も、感動のエンディングもあっと驚くどんでん返しもなし、その単調さゆえにほとんど儀式のように見え、またその苛酷さゆえに刑罰のようにさえ見える父娘の日常がひたすら淡々と描かれたのちに虚無の中に折り畳まれるようにパタリと終わる本作。
エンドロールがつきて場内が明るくなっても、映画を観きった、というスッキリ感もなければ、ああ何もかも終わってしまった、というカタルシスもなく、『未来世紀ブラジル』のように突き抜けた、いっそ爽やかな絶望感すらもございません。

重いテーマを扱った映画なら巷にいくらでもございます。いかに重苦しい作品でも大抵の場合は、未来に活かす戒めや社会に対する警鐘を読み取ることができ、その点において希望を見いだす余地があるものでございます。
ところが本作ときたら、世の中の不正に対する告発やスクリーンの中の寓話として遠くから眺め、そこから教訓や希望を引き出す、という都合のいい、そしてちょっと心地がよくもある見方を許しません。終幕に向かってつのる圧倒的な虚無感は「鑑賞」というよりむしろ重々しい「体験」として、鑑賞者の中でくすぶり続けます。

予告編その2(英国版)

The Turin Horse - Official Trailer


いや予告編というか何というか。


この映画の幕切れからまず連想したのは、かの暗鬱な宇宙の終焉シナリオでございます。全ての天体が冷えきってブラックホールに飲み込まれ、最終的にはそのブラックホールすらも消滅して、暗黒の中を素粒子が飛び交うだけの状態が永久に続くというアレ。今の宇宙物理学ではこれが一番有力なシナリオとされているのだそうで。こんな話を聞かされた日には中島敦でなくたって嫌になろうというものです。

そりゃあね、神様やらブッダ様やらがとっくの昔に死んでしまったにしても、私たちが宇宙の一部分であることには違いありませんし、同一のものは二つとないという意味では、かけがえがない存在であるとすら言えましょうよ。しかしその宇宙の行き着く先がこんな未来であるとすれば、今私たちが存在してることっていったい何なんでしょうか?まあのろさんごときがどういう最期を迎えようともザマアミロとしか言いようがないわけですが、人類全体はおろか、存在しているもの全てが、こんなにも無意味で絶望的な終末を迎えるとしたら。かけがえがあろうとなかろうと、どっちみち無意味じゃございませんか?存在していようといまいと、同じ事じゃございませんか?いやいやそんなことはそれこそとっくの昔から分かってることなのであって、むしろ全て無意味だということは分かっているのに、何故なおも意味を求めてしまうのかという点が問題なのだ。

何の話でしたっけ。
そうそう、ビッグリップだかビッグフリーズだかミスターフリーズだか、まあ名称はどうでもいいんでございますが、こういう心の底からうんざりするような終焉図を前にしてみると、救いを見いだせる場所は宗教や神秘主義以外にほとんどないような気がいたします。
そこでやっぱり宗教に向かう人もおりましょう。従来の神様は死んでしまったらしいので、新しい宗教、新しい神様仏様にすがる人もおりましょう。それについて考えないようにする、いわば見て見ぬふりをする人もおりましょう。あるいは先がどうであろうと、今ここに存在しているというただそのことに、絶対的な肯定を見いだせる人もおりましょう。

ニーチェの唱えた超人というのは、世界の無意味さを認識しつつも強靭な意志の力で絶対的肯定に達し、自ら価値を創造する人間のこと、と理解しておりますが、超人の誕生は永劫回帰(=究極の無意味さ)の認識に基づいているわけでございますよね。永劫回帰というのは全く同じものが全く同じ仕方で繰り返す世界なわけで、当然、個人の意識のありようも全く同じ仕方で繰り返されねばならず、ということは、ある人物が強靭な意志でもって絶対的肯定に達するということも、すでにその永遠の循環の中に織り込み済みなわけで...それってカルヴァンのくそつまらない予定説とどう違うの??
などと思うのは、まあワタクシが不勉強なせいでございましょう。そもそも永劫回帰は例え話ぐらいに受け取っておいたらいいものなのかもしれません。

ちなみに映画には永劫回帰のえの字も出て来ませんし、ニーチェの名前も映画の筋とは特に関わりのない冒頭のナレーションで触れられるだけでございます。
そのナレーションというのは、ニーチェがトリノの街角で、御者に激しく鞭打たれる馬にすがりついて泣き、その後狂気に陥って二度と回復しなかったという逸話であり、「その後、馬はどうなったのか?」という疑問がタル・ベーラ監督をしてこの作品を撮らしめたということでございます。



トリノで倒れた後のニーチェは崩壊した精神の中に退き、死ぬまでの約10年間を母親と妹の保護下で過ごしたのち、故郷に埋葬されました。狂気に陥ってからは意思疎通もままならなかったというニーチェが何を考えて過ごしたのかは知る由もございませんが、ピアノを即興でいつまででも弾いていたとか、泣いている妹に「何故泣いているんだね?私たちはこんなに幸福じゃないか!」と言ったという逸話(信憑性はともかく)からは、外界とのつながりは壊滅したにせよ、その内面は穏やかで自足したものだったのではないかと想像されます。いさかいも失恋も経済的な心配も、理解されず売れもしない本を書きまくってますます孤独になることもない。神が死んだことだって、きっと忘れちゃったことでしょう。

でも、馬は?
昏倒したニーチェが運び去られたあと、おそらくはまた同じように御者から鞭打たれたであろう馬は?
苦役から逃れるすべもなく、神の救いも期待できず、狂気という隠棲の地もなく、ただひたすら外界の命ずる所に耐え、従い、死んでいくしかない馬は、その後どうなったのか?
ニーチェが路上でかき抱いた馬とは、とりもなおさず私たちのことでございます。馬との違いがあるとしたら、存在の無意味さ、虚しさ、そして大なり小なりの終末(宇宙やら人生やら)を意識しているということでありましょうか。まあこれだって怪しいものでございます。少なくとも映画の中では、この点で人と馬との間に違いはございません。前回の記事の繰り返しになりますが、存在の無意味さや暗澹たる終焉に対して取られるであろう様々な態度は、馬を含めた登場人物たちによって、寓意的に示されます。



取りうる態度の選択肢は色々あるにしても、おおかたは、黙々と生活を続ける父娘のように、儀式のように決まりきった日常を、できるかぎり今までと同じように続けようとするのではないでしょうか。現にそんなふうに生きておりますし。
私というおそらく無意味な存在の、これまた無意味な死を想い、どんどん破滅的な方向に向かっているような気がするこの「くに」のありさまをおおむね傍観し、同じくどんどん破滅的な方向に向かっているような気がする人類(どっちみちあらゆる生物は絶滅の途上にほんの一瞬間だけ存在しているだけなんでしょうけど)をあーあという思いでこれまた傍観し、永遠の闇が支配する宇宙の終焉図にうんざりしつつも、朝になれば起き、ものを食べ、仕事をし、そして寝る。要するに映画の中の父娘と全く同じように生きているわけでございます。

だって、他に何ができるんでしょう?

というわけで
生の無意味さに思いを致さざるを得ない、といいますか他に行き着く先がないようなものすごい映画であり、映像の力強さひとつを取っても傑作には違いないのですが、日々幸福で心楽しい生活を送っている方は観ない方がいい作品のような気がいたします。


中島敦『狼疾記』
三造は怖かった。おそらく蒼くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢ができた。所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分は何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、一人の人間として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生まれて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、自分は何のために生まれて来たんだ?それから暫く、彼は-----十一歳の三造は、神経衰弱のようになって了った。父にも、親戚の年上の学生にも、彼は此の事に就いて真剣になって訊いて見た。すると彼らはみんな笑いながら、併し、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう?どうして笑ってなんかいられるんだろう?五千年や一万年のうちにはそんな事は起りやしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう?三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。
中島敦全集2 p.236 ちくま書房 1993年