歳をとるにつれて
いかによく生きるかよりも
いかに楽しく過ごすかよりも
いかに心身を消耗しないかということばかり考えるようになりますな。
つまらないことです。実につまらないことです。
それはさておき
ワタクシがなぜバーン=ジョーンズの絵をあんまり好きではないかと言いますと、いまいちメリハリがないからでございます。とはいえケルムスコット・プレスの本が出るなら、一応見ておかねばなあという所ではあり、また第二次産業革命まっただ中の19世紀末という即物的な時代と、そのアンチテーゼとしての象徴主義やアーツ&クラフツ運動には興味があるわけです。
というわけで
兵庫県立美術館で開催中のバーン=ジョーンズ展 英国19世紀末に咲いた華へ行ってまいりました。
冒頭からいともロマンチックな、神話や騎士物語を題材とした絵がずらーりと並んでおりまして、なんだかこっ恥ずかしい。
同じようなテーマでもモローやルドンやウォーターハウスはOKなのに、バーン=ジョーンズだと何故こう、こっ恥ずかしいのか(飽くまでも主観でございます)、考えてみますと、バーン=ジョーンズは他の象徴主義に分類される画家に比べて、ちょっと丁寧に語りすぎると申しますか、象徴的というよりもむしろ説明的な感じがするのでございます。
勤勉で温和で極端を嫌ったというバーン=ジョーンズの人柄が忍ばれる画風ではあるのでございますが、ちと平板で穏やかすぎ、かつ絵解きが丁寧すぎて、見ているこちらとしてはあたかもポエムの一行、一行を説明されているようなムズムズ感がございます。上に挙げた三者と違って暗さや毒気がなく、闇と光のコントラストが低いというのも、ワタクシ的にはマイナスでございます。
そんな作品群の中で異彩を放っておりましたのが、ほとんど未完成のように見えるこれ。
「ステュクス河の霊魂」
どうです、この見る者の心に迫る絶望感!
ステュクスというのは要するにギリシャ版・三途の川でございまして、渡し賃がないので船に乗せてもらえない亡者たちが、延々と嘆きながら川岸をさまよっているわけでございます。あえて川の流れや亡者たちの表情を描かず、背景も茫漠とした闇に沈めることで、時間が流れることもない冥府の陰鬱さが、それはみごとに表現されているではございませんか。
こんなんばっかり描いててくれたらのろさんの大好きな画家だったであろうに、この作品はバーン=ジョーンズにおいてはかなりの異色作でございます。
で、バーン=ジョーンズらしい絵、ということになりますと
こうなんですよね。うーむ。
いえね、実際に「ラファエロ前」の時代であったら、これでいいと思うのですよ。彼らが目指した初期ルネサンス絵画はワタクシも大好きです。素朴で澄明な描写も結構ですし、時には深刻であったり残酷であったりする主題を奇妙に牧歌的な趣で表現したりするのも、よいものでございます。
しかしその後マニエリスムやらバロックやら、近世~近代に花開いた諸々の「〇〇主義」やらを経て来たというのに、たどり着いた所がこれでいいんかいな.....などと申しますと三途の川の向こう側で、癇癪持ちのウィリアム・モリスが、おとなしい親友に代わって頭からぽっぽかと湯気出して怒る姿が目に浮かぶようでございますな。
モリっさんに祟られないうちに本の話に移ることにいたします。
ケルムスコット・プレスに限らず、バーン・ジョンズが挿絵画家として関わった本が数点展示されておりましたが、やはり目玉はケルムスコット印刷、ダヴズ製本の『チョーサー著作集』でございます。
出展されていたのはこれ↓と同じもの。
[KELMSCOTT PRESS]. CHAUCER, Geoffrey. The Works of Geoffrey Chaucer. Edited by F. S. Ellis. Hammersmith, 8 May 1896. | Books & Manuscripts Auction | Books & Manuscripts, fine press books | Christie's
1800万円あれば買えるようですな。はっはっは。
表紙は空押し装飾を施した総白豚革装丁、綴じはかなり太い麻紐を使ったダブルコードで、立派な背バンドが中世の趣を見せております。小口には留め金が二つ。活字や本文紙と同様、わざわざこの本のために職人に依頼して作らせたものでございましょう。
産業革命の波をうけて19世紀初頭から、他の諸々の分野と同様に書籍業界においても、大量生産・大量流通がなされるようになったわけです。そして他の諸々の分野と同様、中にはしばしば経済性のみを優先した、粗悪な品がございました。モリスはこの事態を「犯意のようなもの」と呼び、彼の活躍した19世紀末を「醜いのが当たり前になっている時代」と評して嘆いております。本来は「印刷本であれ写本であれ、美しい物となる傾向を持つもの」である書物、「われわれにあのような限りない喜びを与えてくれる」書物に、しみじみと愛でるべき親密な美術品としてのステイタスを取り戻すべく奮闘したモリスと盟友たちの意気込みが伝わって来る一品でございます。
(上記引用はすべて『理想の書物』川端康夫訳 ちくま学芸文庫 2006 より)
閉じた状態でほぼA3サイズという並々ならぬ大きさの『チョーサー著作集』と同じ並びに、オランダで出版された『ユリアナ聖書』というものが展示されておりました。こちらは『チョーサー著作集』よりさらに一回り大きく、表紙全体を型押しの装飾画が覆い、中身に至ってはバーン・ジョーンズをはじめスイスのセガンティーニ、フランスのシャヴァンヌといった当代随一のアーティストが挿絵画家として動員されているというなかなかに大層な代物。が、中世マニアのモリッさんらが手がけたものと違って、こちらはいかにも19世紀らしい装丁でございます。表紙はこの世紀の中頃に普及した便利道具である「製本用クロス」を用いた「くるみ表紙」(本体と表紙を別々に作って最後に両者を接合する、簡易な製本方法)であり、花布も機械編みのごく味気ないものを貼付けただけでございます。こちらも豪華本ではあるのですが、総革装丁・手製本のケルムスコット本と並べられると、安っぽさは否めません。
とはいえ
『チョーサー著作集』がよくて『ユリアナ聖書』はイカン、ということではございません。ものとしての存在感、美術工芸品としての完成度でいえば、そりゃあモリッさん肝いりの『チョーサー著作集』に断然軍配が上がりましょう。しかしケルムスコット・プレスの本というのは要するにものすごく豪華な私家版であり、19世紀末当時の英国で一般に流通していた本ではありえないほどの手間と暇とお金と人材をつぎ込んで作られた「なんちゃってインキュナブラ(西暦1500年までに刊行された初期印刷本)」でございます。そりゃ、いいものができて当然ってもんでございましょう。
一方『ユリアナ聖書』は贅沢し放題の私家版とは異なり、当時としては最先端の素材と技術を使いつつ、量産体制の許す範囲で、最高の視覚的効果を上げられるようデザインされたものでございます。一冊の本のために国を跨いだ著名な画家の作品が集められたというのも、鉄道の登場と発展によって通信・物流環境がかつてないほどに整ったこの時代を象徴するようでございます。
「世界三大美書」(こういうの誰が決めるんでしょう)のひとつに数えられる『チョーサー著作集』と、いかにもその時代の産物である『ユリアナ聖書』では、おのずとその美的価値には差がございましょうし、ワタクシもどちらか貰えるとしたら、モリッさん本の方を選ぶことでございましょう。しかしその制作における真摯さ、そしてある時代を証言するものとしてとしての史的価値において、両者に優劣はつけられまいと、思ったことでございます。
さてバーン・ジョーンズはメリハリに欠けるから好きじゃないと冒頭で申しましたが、タペストリーに織り上げられると色彩や陰影がきっぱりとして、実際の絵よりものろごのみなものになる傾向がございます。本展には大きなタペストリーが2点展示されており、どちらもよいものでございました。そのうちの一点『東方三博士の礼拝』は去年の3月、美術館「えき」で開催された『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』展で見たものと同じ絵柄でございました。織物とは思えないほど見事な質感表現に感嘆しつつ、もう少し会場が広かったらもっと引きで見られるのになあと心中ぼやいて歩みを進めたあたりで、他のお客さんともども、会場を包む奇妙な揺れに気づいたのでございました。
雑記 - のろや
あれからたった1年半しか経っていないとは信じられないような心地がいたします。
京大カンニング事件なんて、もう10年以上も昔の出来事のように思われませんか。
長い長い1年半の間に変わったことやら変わらなかったことやら、変わってしかるべきなのに変わっていないことやらを考えるとそれはもう死の床のアーサー王のごとくぐったりしてしまうわけです。
そんなわけで
バーン・ジョーンズ展の会場を出たのちはそのまま同館ギャラリー棟で開催中の日カタール国交樹立40 周年記念「パール海の宝石」展へと進み、わあきれいだなきれいだな、ときらきらものでせいぜい目を楽しませてから帰路についたのでございました。
いかによく生きるかよりも
いかに楽しく過ごすかよりも
いかに心身を消耗しないかということばかり考えるようになりますな。
つまらないことです。実につまらないことです。
それはさておき
ワタクシがなぜバーン=ジョーンズの絵をあんまり好きではないかと言いますと、いまいちメリハリがないからでございます。とはいえケルムスコット・プレスの本が出るなら、一応見ておかねばなあという所ではあり、また第二次産業革命まっただ中の19世紀末という即物的な時代と、そのアンチテーゼとしての象徴主義やアーツ&クラフツ運動には興味があるわけです。
というわけで
兵庫県立美術館で開催中のバーン=ジョーンズ展 英国19世紀末に咲いた華へ行ってまいりました。
冒頭からいともロマンチックな、神話や騎士物語を題材とした絵がずらーりと並んでおりまして、なんだかこっ恥ずかしい。
同じようなテーマでもモローやルドンやウォーターハウスはOKなのに、バーン=ジョーンズだと何故こう、こっ恥ずかしいのか(飽くまでも主観でございます)、考えてみますと、バーン=ジョーンズは他の象徴主義に分類される画家に比べて、ちょっと丁寧に語りすぎると申しますか、象徴的というよりもむしろ説明的な感じがするのでございます。
勤勉で温和で極端を嫌ったというバーン=ジョーンズの人柄が忍ばれる画風ではあるのでございますが、ちと平板で穏やかすぎ、かつ絵解きが丁寧すぎて、見ているこちらとしてはあたかもポエムの一行、一行を説明されているようなムズムズ感がございます。上に挙げた三者と違って暗さや毒気がなく、闇と光のコントラストが低いというのも、ワタクシ的にはマイナスでございます。
そんな作品群の中で異彩を放っておりましたのが、ほとんど未完成のように見えるこれ。
「ステュクス河の霊魂」
どうです、この見る者の心に迫る絶望感!
ステュクスというのは要するにギリシャ版・三途の川でございまして、渡し賃がないので船に乗せてもらえない亡者たちが、延々と嘆きながら川岸をさまよっているわけでございます。あえて川の流れや亡者たちの表情を描かず、背景も茫漠とした闇に沈めることで、時間が流れることもない冥府の陰鬱さが、それはみごとに表現されているではございませんか。
こんなんばっかり描いててくれたらのろさんの大好きな画家だったであろうに、この作品はバーン=ジョーンズにおいてはかなりの異色作でございます。
で、バーン=ジョーンズらしい絵、ということになりますと
こうなんですよね。うーむ。
いえね、実際に「ラファエロ前」の時代であったら、これでいいと思うのですよ。彼らが目指した初期ルネサンス絵画はワタクシも大好きです。素朴で澄明な描写も結構ですし、時には深刻であったり残酷であったりする主題を奇妙に牧歌的な趣で表現したりするのも、よいものでございます。
しかしその後マニエリスムやらバロックやら、近世~近代に花開いた諸々の「〇〇主義」やらを経て来たというのに、たどり着いた所がこれでいいんかいな.....などと申しますと三途の川の向こう側で、癇癪持ちのウィリアム・モリスが、おとなしい親友に代わって頭からぽっぽかと湯気出して怒る姿が目に浮かぶようでございますな。
モリっさんに祟られないうちに本の話に移ることにいたします。
ケルムスコット・プレスに限らず、バーン・ジョンズが挿絵画家として関わった本が数点展示されておりましたが、やはり目玉はケルムスコット印刷、ダヴズ製本の『チョーサー著作集』でございます。
出展されていたのはこれ↓と同じもの。
[KELMSCOTT PRESS]. CHAUCER, Geoffrey. The Works of Geoffrey Chaucer. Edited by F. S. Ellis. Hammersmith, 8 May 1896. | Books & Manuscripts Auction | Books & Manuscripts, fine press books | Christie's
1800万円あれば買えるようですな。はっはっは。
表紙は空押し装飾を施した総白豚革装丁、綴じはかなり太い麻紐を使ったダブルコードで、立派な背バンドが中世の趣を見せております。小口には留め金が二つ。活字や本文紙と同様、わざわざこの本のために職人に依頼して作らせたものでございましょう。
産業革命の波をうけて19世紀初頭から、他の諸々の分野と同様に書籍業界においても、大量生産・大量流通がなされるようになったわけです。そして他の諸々の分野と同様、中にはしばしば経済性のみを優先した、粗悪な品がございました。モリスはこの事態を「犯意のようなもの」と呼び、彼の活躍した19世紀末を「醜いのが当たり前になっている時代」と評して嘆いております。本来は「印刷本であれ写本であれ、美しい物となる傾向を持つもの」である書物、「われわれにあのような限りない喜びを与えてくれる」書物に、しみじみと愛でるべき親密な美術品としてのステイタスを取り戻すべく奮闘したモリスと盟友たちの意気込みが伝わって来る一品でございます。
(上記引用はすべて『理想の書物』川端康夫訳 ちくま学芸文庫 2006 より)
閉じた状態でほぼA3サイズという並々ならぬ大きさの『チョーサー著作集』と同じ並びに、オランダで出版された『ユリアナ聖書』というものが展示されておりました。こちらは『チョーサー著作集』よりさらに一回り大きく、表紙全体を型押しの装飾画が覆い、中身に至ってはバーン・ジョーンズをはじめスイスのセガンティーニ、フランスのシャヴァンヌといった当代随一のアーティストが挿絵画家として動員されているというなかなかに大層な代物。が、中世マニアのモリッさんらが手がけたものと違って、こちらはいかにも19世紀らしい装丁でございます。表紙はこの世紀の中頃に普及した便利道具である「製本用クロス」を用いた「くるみ表紙」(本体と表紙を別々に作って最後に両者を接合する、簡易な製本方法)であり、花布も機械編みのごく味気ないものを貼付けただけでございます。こちらも豪華本ではあるのですが、総革装丁・手製本のケルムスコット本と並べられると、安っぽさは否めません。
とはいえ
『チョーサー著作集』がよくて『ユリアナ聖書』はイカン、ということではございません。ものとしての存在感、美術工芸品としての完成度でいえば、そりゃあモリッさん肝いりの『チョーサー著作集』に断然軍配が上がりましょう。しかしケルムスコット・プレスの本というのは要するにものすごく豪華な私家版であり、19世紀末当時の英国で一般に流通していた本ではありえないほどの手間と暇とお金と人材をつぎ込んで作られた「なんちゃってインキュナブラ(西暦1500年までに刊行された初期印刷本)」でございます。そりゃ、いいものができて当然ってもんでございましょう。
一方『ユリアナ聖書』は贅沢し放題の私家版とは異なり、当時としては最先端の素材と技術を使いつつ、量産体制の許す範囲で、最高の視覚的効果を上げられるようデザインされたものでございます。一冊の本のために国を跨いだ著名な画家の作品が集められたというのも、鉄道の登場と発展によって通信・物流環境がかつてないほどに整ったこの時代を象徴するようでございます。
「世界三大美書」(こういうの誰が決めるんでしょう)のひとつに数えられる『チョーサー著作集』と、いかにもその時代の産物である『ユリアナ聖書』では、おのずとその美的価値には差がございましょうし、ワタクシもどちらか貰えるとしたら、モリッさん本の方を選ぶことでございましょう。しかしその制作における真摯さ、そしてある時代を証言するものとしてとしての史的価値において、両者に優劣はつけられまいと、思ったことでございます。
さてバーン・ジョーンズはメリハリに欠けるから好きじゃないと冒頭で申しましたが、タペストリーに織り上げられると色彩や陰影がきっぱりとして、実際の絵よりものろごのみなものになる傾向がございます。本展には大きなタペストリーが2点展示されており、どちらもよいものでございました。そのうちの一点『東方三博士の礼拝』は去年の3月、美術館「えき」で開催された『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』展で見たものと同じ絵柄でございました。織物とは思えないほど見事な質感表現に感嘆しつつ、もう少し会場が広かったらもっと引きで見られるのになあと心中ぼやいて歩みを進めたあたりで、他のお客さんともども、会場を包む奇妙な揺れに気づいたのでございました。
雑記 - のろや
あれからたった1年半しか経っていないとは信じられないような心地がいたします。
京大カンニング事件なんて、もう10年以上も昔の出来事のように思われませんか。
長い長い1年半の間に変わったことやら変わらなかったことやら、変わってしかるべきなのに変わっていないことやらを考えるとそれはもう死の床のアーサー王のごとくぐったりしてしまうわけです。
そんなわけで
バーン・ジョーンズ展の会場を出たのちはそのまま同館ギャラリー棟で開催中の日カタール国交樹立40 周年記念「パール海の宝石」展へと進み、わあきれいだなきれいだな、ときらきらものでせいぜい目を楽しませてから帰路についたのでございました。