野良上がりのデブネコたちがごろごろしている所でロッキンチェアをゆらしているキアヌ・リーブスの膝に乗って人生相談めいたことを話している、という夢を見ました。いやそこはむしろヒューゴ・ウィービングでお願いしたいんですが。
それはさておき
フェルディナント・ホドラー展 兵庫県立美術館へ行って参りました。
展示室に入ってすぐの壁面には、画家自身や同時代人の言葉とともに写真が掲示されております。その内の1枚に、山高帽を被り、小太鼓を肩からぶら下げ、ばちを高々と構えた画家のおどけた姿が。どういう状況で撮られたものなんだかサッパリわかりませんが、なんとも微笑ましい。こんなお茶目な方だとは思いませんでしたとも。
冒頭に展示されているのはアルプスの夕景色を描いたドイツロマン派っぽい風景画でございまして、ええとホドラー展でしたよね,とちょっと戸惑いますけれども、これは土産物用の風景画工房で働いていた頃の作品なのだそうで。お茶の間のフリードリヒとでも言いましょうか、ご家庭の居間や書斎に飾ってありそうな観光絵葉書風の作品で、後年のホドラーを予感させる要素はほとんどございません。
しかしそこから振り返ると、向かいの壁には小品ながらすでにかなりホドラーホドラーしている『小さなプラタナス』tが。澄明な青空を背景にパキッと切り抜いたように描かれたか細いプラタナスと、遠近がある筈なのに妙にフラットに見える地面。坂崎乙郎氏のお言葉を借りれば「自然を描きながら、どこかしら非自然を感じさせる作品」(『夜の画家たち』p.79 平凡社ライブラリー)でございます。
その後リアリズム寄りの人物画や風景画を経て第三室へ進みますと、いきなり『傷ついた若者』やら『オイリュトミー』やらが現れまして、これよこれこれホドラーさん来たああ!と一気にテンションが高まります。
『傷ついた若者』(1886年)
陰鬱な岩山と野原を背景にパキッと切り抜いたように描かれた若者像。この人、のちの作品『夢』や分離派展のポスターにも、なんとも唐突な感じで登場なさいますね。
右足の下に陰がなく、不自然なほどくっきりと内股のラインを見せているせいで、体の右半分が地面から浮いているように見えます。画家がそれに気付かなかったわけはないと思うのですが。いや気付かないどころか、右足と地面とが接しているきわの部分が、ことさら双方の境界を縁取るかのような筆致で描かれているのを見ますと、あえて不自然さを醸し出そうとしたのかとすら疑われる所です。
不自然と言えば、正面からフラッシュでもたいたような陰影の浅さもちょっと不自然。それに若者のかたわらに描かれていて、この絵の文脈を説明するはずだった「よきサマリア人」の姿を、画家はわざわざ塗りつぶしてしまったというのです。
その結果、絵としてのまた現実の風景としてのリアルさも、物語性も剥ぎ取られた「頭から地を流して草原に横たわる裸同然の若者」という奇妙な絵が成立することになりました。この絵の向かいには、「さまよえるユダヤ人」という物語性と「苦難の道を歩み続ける芸術家」というとりわけこの時代にありがちな象徴性とを背負わされた作品、『アハシュエロス』が展示されているのですが、この二作品、モチーフもその料理の仕方も、同じ年に描かれたとは思えないほど対照的でございます。
だらだら書いてまた途中で挫折しそうな雰囲気になって来ましたので、ここで一旦投稿します。
それはさておき
フェルディナント・ホドラー展 兵庫県立美術館へ行って参りました。
展示室に入ってすぐの壁面には、画家自身や同時代人の言葉とともに写真が掲示されております。その内の1枚に、山高帽を被り、小太鼓を肩からぶら下げ、ばちを高々と構えた画家のおどけた姿が。どういう状況で撮られたものなんだかサッパリわかりませんが、なんとも微笑ましい。こんなお茶目な方だとは思いませんでしたとも。
冒頭に展示されているのはアルプスの夕景色を描いたドイツロマン派っぽい風景画でございまして、ええとホドラー展でしたよね,とちょっと戸惑いますけれども、これは土産物用の風景画工房で働いていた頃の作品なのだそうで。お茶の間のフリードリヒとでも言いましょうか、ご家庭の居間や書斎に飾ってありそうな観光絵葉書風の作品で、後年のホドラーを予感させる要素はほとんどございません。
しかしそこから振り返ると、向かいの壁には小品ながらすでにかなりホドラーホドラーしている『小さなプラタナス』tが。澄明な青空を背景にパキッと切り抜いたように描かれたか細いプラタナスと、遠近がある筈なのに妙にフラットに見える地面。坂崎乙郎氏のお言葉を借りれば「自然を描きながら、どこかしら非自然を感じさせる作品」(『夜の画家たち』p.79 平凡社ライブラリー)でございます。
その後リアリズム寄りの人物画や風景画を経て第三室へ進みますと、いきなり『傷ついた若者』やら『オイリュトミー』やらが現れまして、これよこれこれホドラーさん来たああ!と一気にテンションが高まります。
『傷ついた若者』(1886年)
陰鬱な岩山と野原を背景にパキッと切り抜いたように描かれた若者像。この人、のちの作品『夢』や分離派展のポスターにも、なんとも唐突な感じで登場なさいますね。
右足の下に陰がなく、不自然なほどくっきりと内股のラインを見せているせいで、体の右半分が地面から浮いているように見えます。画家がそれに気付かなかったわけはないと思うのですが。いや気付かないどころか、右足と地面とが接しているきわの部分が、ことさら双方の境界を縁取るかのような筆致で描かれているのを見ますと、あえて不自然さを醸し出そうとしたのかとすら疑われる所です。
不自然と言えば、正面からフラッシュでもたいたような陰影の浅さもちょっと不自然。それに若者のかたわらに描かれていて、この絵の文脈を説明するはずだった「よきサマリア人」の姿を、画家はわざわざ塗りつぶしてしまったというのです。
その結果、絵としてのまた現実の風景としてのリアルさも、物語性も剥ぎ取られた「頭から地を流して草原に横たわる裸同然の若者」という奇妙な絵が成立することになりました。この絵の向かいには、「さまよえるユダヤ人」という物語性と「苦難の道を歩み続ける芸術家」というとりわけこの時代にありがちな象徴性とを背負わされた作品、『アハシュエロス』が展示されているのですが、この二作品、モチーフもその料理の仕方も、同じ年に描かれたとは思えないほど対照的でございます。
だらだら書いてまた途中で挫折しそうな雰囲気になって来ましたので、ここで一旦投稿します。
学生の頃、友人とホドラーの話をしていたときに
「スイスまで行かないとお目にかかれないかもしれないね、いつかスイスまでいこうか」
と冗談を言っていたのですが、本当、死ぬまで生で見れないんじゃないかとも思っていました。
大きな絵をみているとふとラース・フォン・トリアーの「メランコリア」のオープニングを思い出しまして、
滑らかな背景とパキッとした人物と、宗教の知識が無いのであまり深められませんが…。
ところでのろ氏の体調が心配です。
私も軽い食べ物が好きでゼリーやら飲み物ばかり食していましたら銀食器での食事のときに不器用になってしまって、ナイフやらフォークやら落としたりふっ飛ばしたりしてしまいました。
様々な文明の発展で様々な文化は衰退していくのだろうかと危惧しております。
でもどうしても手軽な食事に甘んじてしまいますよね。
なんとか忙しいのをのりこえられますように。
この所ようよう体調が回復して来ましたので、じわじわとブログ更新を再開しようかと思っております。
しかしご飯食べるの、面倒くさいですよね。
ウィダーインゼリーだけで生きられないものか、とわりと本気で思った事もあります。
しかし実際にやってみた人の報告によると、1週間で胃袋が固形物を受け付けなくなってしまったとのことで、それはそれで不便そうなので諦めました。
ホドラーの作品があんなにまとめて日本で見られる日が来ようとは、私も思っておりませんでした。
分離派周辺の好きな私としては、この展覧会がきっかけで日本での知名度が上がって、ちょくちょく作品が展示されるようになるといいのになあと期待をかけております。
特に『夜』と『選ばれし者』が見たい!(いきなり贅沢を言う)
ラース・フォン・トリアーの作品は、本当にメランコリーに陥りそうなので観たことがないのですが、絵が美しいのですか。
生きている間に一本でも観ておいたいいのかしらん、でもやるせなさが後を引きそうだしなあ、と思い悩む所です。