5月17日の続きでございます。一応。
本作のチラシには、ひざまずいて許しを請うメルキアデス殺しの犯人、マイク(バリー・ペッパー)と
拳銃を片手にそれを見下ろす、メルの友人ピート(トミー・リー・ジョーンズ)のスチールが使われております。
公式HPで見られます。↓
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
パッと見、「大西部の掟」とでも題したくなるような写真でございます。
しかしこれは、本作の中でも最も心に訴える、美しいシーンです。ここで描かれるのは
ピートとマイク、そして私たち観客の心にもたらされる、カタルシス(浄化)なのでございます。
ロードムービー的なゆる~いテンションを保って進んで行く本作の
最後の最後に置かれたこのシーンにおいて、観客は1人の人間の 死の重み
即ち 生命の重み を、強烈に意識することにあいなるのでございます。
*WARNING* 以下、ネタバレを含みますいわゆる「衝撃の真実」の部分には触れませんが、ラストシーンにまつわることを申します。ご了承の上、お読みくださいませ。
2時間2分の間に3度の埋葬を控えたメルキアデス、先に申しました通り、登場した時点ですでに死んでいます。
『モンパルナスの灯』のモディリアーニやら、『ライムライト』のカルヴェロ、はたまた忠犬ハチ公(あったんです、映画が)
などなど、スクリーンを通してそれなりに付き合いのあった登場人物が映画のラストで死んだなら
観る側もそれなりに、涙のひとつもこぼせましょうが、いきなり死体で登場するメルキアデスに
のっけから同情の涙を流せる人は、おそらくおりますまい。
映画が始まった時点では、メルの死は観客にとって飽くまでも他人事であり、世界にゴマンとある「早すぎる、不運な死」のひとつに過ぎません。
友を失って落ち込むピートの姿も気の毒ではありますが、やはり他人事なのであって、彼の悲しみに共感するには至りません。
だからこそ、法も国境も踏み越えて、約束の地ヒメネスを目指すピートの暴走を、ユーモアとして眺めることができるのです。
実際、犯人を突き止めた以降のピートのしていることは暴走と呼ぶにふさわしい、不法行為オン・パレード
です。
国境警備隊員であるマイクの家に押し入り、妻を拘束、当人を拉致。
埋葬済みの死体を掘り起こし(掘り起こさせ)、死体とマイクをラバに積み
捜査の手をかいくぐりつつメキシコに逆密入国。
「俺は悪くない。あれは事故だった」というマイクの言いぶんは
腹は立つもののもっともで、彼はメルを殺すつもりでは決してなかったのですが
ピートは「もっとも」なんてクソクラエ とばかりに、悲鳴を上げるマイクを最後まで引っ張り回します。
それを笑って眺めるうちに観客は、この腹立たしい若造や、回想の中のメルキアデスと、つきあいを深めていきます。
メルの素朴で真面目な人柄、彼がとてもいいやつだったということ、また
年は離れていても、ピートにとってかけがえのない友だったということが、次第にわかってくるのです。
一方、自己チューで暴力的なエロジャリだったマイクが、のっぴきならぬ状況にひきずり込まれて七転八倒し、
また国境に住む人々の温く素朴な人情に触れるにつれ、ギスギスした内面を少しずつ変化させていく様も見て取れます。
傍観者たる観客としては、半死半生の目に遭わされ続けるマイクを見るのは、実をもうせば、ちと小気味いい。
なにしろ彼は実にイヤなやつでしたし、どんなひどい目にあった所で、まず最後までは死にゃせんだろう、という
安心感も手伝い、ザマーミロ、そのくらいの目にゃ遭いやがれ、という感じで観ていられるのでございます。
しかし最後のシーンに至って、この安心感は破られます。
3度目の埋葬を無事終え、マイクをひざまずかせ「メルに謝罪しろ」と言うピート。
ふてくされた返事をするマイクに向かって、至近距離から無造作に銃を乱射します。
ピートは、今や本当にマイクを殺してしまうかに見えます。
観客はここで突然、凶暴で薄っぺらな、このどうしようもない若造の、それでもかけがえのない、生命の重さを
強烈に意識させられます。
それと同時に、夢も人生も奪われてしまったメルキアデスの死の重み、
全く理不尽なかたちで友を亡くしたピートの悲しみと怒りが------この、たった数秒のシーンで-----、
観る者の心になだれ込んで来ます。
「すまなかった。君の命を奪ってしまった。・・・」
およそ映画が始まってから誰に対しても、”ソーリー”だの”サンクス”だのという言葉を口にしなかったマイクが
初めて口にした謝罪の言葉によって、メルの死にまつわる全てのことが浄化され、
収まるべきところへ スーッ と収まっていくような感覚を、のろは覚えました。
そして全てが終わった後、一人去って行くピートの後ろ姿を見て
「ああ、”葬る”というのは、こういうことなのだな」と思ったのでございます。
2度に渡って、単に「埋められた」だけだったメルキアデス。
約束の地に、友の手で、彼を悼む言葉と共に葬られて初めて、
彼は本当の意味で「埋葬」されたのです。
京都ではミニシアターのみの上映となっておりますが
人生と死をめぐるオフトーンな笑いと
心地よいカタルシスを兼ね備えた名作でございました。
本作のチラシには、ひざまずいて許しを請うメルキアデス殺しの犯人、マイク(バリー・ペッパー)と
拳銃を片手にそれを見下ろす、メルの友人ピート(トミー・リー・ジョーンズ)のスチールが使われております。
公式HPで見られます。↓
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
パッと見、「大西部の掟」とでも題したくなるような写真でございます。
しかしこれは、本作の中でも最も心に訴える、美しいシーンです。ここで描かれるのは
ピートとマイク、そして私たち観客の心にもたらされる、カタルシス(浄化)なのでございます。
ロードムービー的なゆる~いテンションを保って進んで行く本作の
最後の最後に置かれたこのシーンにおいて、観客は1人の人間の 死の重み
即ち 生命の重み を、強烈に意識することにあいなるのでございます。
*WARNING* 以下、ネタバレを含みますいわゆる「衝撃の真実」の部分には触れませんが、ラストシーンにまつわることを申します。ご了承の上、お読みくださいませ。
2時間2分の間に3度の埋葬を控えたメルキアデス、先に申しました通り、登場した時点ですでに死んでいます。
『モンパルナスの灯』のモディリアーニやら、『ライムライト』のカルヴェロ、はたまた忠犬ハチ公(あったんです、映画が)
などなど、スクリーンを通してそれなりに付き合いのあった登場人物が映画のラストで死んだなら
観る側もそれなりに、涙のひとつもこぼせましょうが、いきなり死体で登場するメルキアデスに
のっけから同情の涙を流せる人は、おそらくおりますまい。
映画が始まった時点では、メルの死は観客にとって飽くまでも他人事であり、世界にゴマンとある「早すぎる、不運な死」のひとつに過ぎません。
友を失って落ち込むピートの姿も気の毒ではありますが、やはり他人事なのであって、彼の悲しみに共感するには至りません。
だからこそ、法も国境も踏み越えて、約束の地ヒメネスを目指すピートの暴走を、ユーモアとして眺めることができるのです。
実際、犯人を突き止めた以降のピートのしていることは暴走と呼ぶにふさわしい、不法行為オン・パレード
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
国境警備隊員であるマイクの家に押し入り、妻を拘束、当人を拉致。
埋葬済みの死体を掘り起こし(掘り起こさせ)、死体とマイクをラバに積み
捜査の手をかいくぐりつつメキシコに逆密入国。
「俺は悪くない。あれは事故だった」というマイクの言いぶんは
腹は立つもののもっともで、彼はメルを殺すつもりでは決してなかったのですが
ピートは「もっとも」なんてクソクラエ とばかりに、悲鳴を上げるマイクを最後まで引っ張り回します。
それを笑って眺めるうちに観客は、この腹立たしい若造や、回想の中のメルキアデスと、つきあいを深めていきます。
メルの素朴で真面目な人柄、彼がとてもいいやつだったということ、また
年は離れていても、ピートにとってかけがえのない友だったということが、次第にわかってくるのです。
一方、自己チューで暴力的なエロジャリだったマイクが、のっぴきならぬ状況にひきずり込まれて七転八倒し、
また国境に住む人々の温く素朴な人情に触れるにつれ、ギスギスした内面を少しずつ変化させていく様も見て取れます。
傍観者たる観客としては、半死半生の目に遭わされ続けるマイクを見るのは、実をもうせば、ちと小気味いい。
なにしろ彼は実にイヤなやつでしたし、どんなひどい目にあった所で、まず最後までは死にゃせんだろう、という
安心感も手伝い、ザマーミロ、そのくらいの目にゃ遭いやがれ、という感じで観ていられるのでございます。
しかし最後のシーンに至って、この安心感は破られます。
3度目の埋葬を無事終え、マイクをひざまずかせ「メルに謝罪しろ」と言うピート。
ふてくされた返事をするマイクに向かって、至近距離から無造作に銃を乱射します。
ピートは、今や本当にマイクを殺してしまうかに見えます。
観客はここで突然、凶暴で薄っぺらな、このどうしようもない若造の、それでもかけがえのない、生命の重さを
強烈に意識させられます。
それと同時に、夢も人生も奪われてしまったメルキアデスの死の重み、
全く理不尽なかたちで友を亡くしたピートの悲しみと怒りが------この、たった数秒のシーンで-----、
観る者の心になだれ込んで来ます。
「すまなかった。君の命を奪ってしまった。・・・」
およそ映画が始まってから誰に対しても、”ソーリー”だの”サンクス”だのという言葉を口にしなかったマイクが
初めて口にした謝罪の言葉によって、メルの死にまつわる全てのことが浄化され、
収まるべきところへ スーッ と収まっていくような感覚を、のろは覚えました。
そして全てが終わった後、一人去って行くピートの後ろ姿を見て
「ああ、”葬る”というのは、こういうことなのだな」と思ったのでございます。
2度に渡って、単に「埋められた」だけだったメルキアデス。
約束の地に、友の手で、彼を悼む言葉と共に葬られて初めて、
彼は本当の意味で「埋葬」されたのです。
京都ではミニシアターのみの上映となっておりますが
人生と死をめぐるオフトーンな笑いと
心地よいカタルシスを兼ね備えた名作でございました。
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