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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第11回) 海抜1mの島 南太平洋のフナフティ島(現ツバル=TUVALU)

 1976年春、鹿児島、ナウル、タラワ(Tarawa)経由でエリス諸島(Ellice Is)の「Funafuti」を訪れた。エリス諸島はイギリスから独立後、Tuvaru(ツバル)となった。

 





 訪問の目的は趣味で、世界を相手にしたコンテスト参加であった。ツバルとして先をアメリカ人夫妻に越され、2番目となったがそれでも楽しめた。但し、機材が途中のナウル空港で航空会社が積み込みミスを起こし、機材が半減したのでFunafutiでのアクティビティが今回の旅のメインイベントだっただけに残念だった。

 Ellice諸島のフナフティ島(funafuti)(現TUVALU)は今日、危機を迎えている。それは気候変動による海面上昇で島が浸水されているのである。Funafutiは当時でさえサンゴの小島は最大でも海抜1m程度しかなかった。島は典型的なサンゴ礁のラグーンで、Funafuti島は5km、幅は100-200m程度しかない小さな島である。
 そんな小島にもFunafuti空港があった。
当時、FunafutiへはナウルとフィジーからAir Pacificが飛ばせていたと思う。ナウル〜フナフチは週1便だった。確か1976年当時、日本からフィジーへの直行便はなかったので鹿児島からナウル航空でのフライト選択になったと記憶する。

 1996年春、南太平洋のEllice諸島のFunafuti(現Tuvalu)を訪れたことがある。
 この時のFunafuti空港の滑走路は「赤土」であった。
今では滑走路と言えばコンクリート製の滑走路であるが1970年代から1990年代まではまだ「赤土の滑走路」があった。
 私の行ったところでは太平洋の島々、アフリカの地方空港や途上国の空港では赤土の滑走路の空港があった。大型ジェット機が来ないプロペラ機が主要の滑走路が短い小規模空港はまだ土の滑走路だった。
 アフリカでは地方空港で飛行機の離着陸の時、バ~と白い砂煙をまき散らして飛ぶ姿を何回もみた。まだプロペラ機が飛ぶ時代である。

 Funafutiはエリス諸島の首都といっても全くの小島で住民も数百人だった。
空港の滑走路は中央部辺りにあり、800m程度の赤土の滑走路だった。
当時、太平洋の島々、アフリカの地方空港や途上国の空港では赤土の滑走路の空港があった。大型ジェット機が来ない、短い滑走路でも離着陸できるプロペラ機が発着する小規模空港はまだ土の滑走路だった。
 1970年代、アフリカの地方空港では飛行機の離着陸の時、バ~と白い砂煙をまき散らして飛ぶ姿を何回もみた。まだプロペラ機が飛ぶ時代である。

 そんな中、強く記憶が残るのは太平洋のエリス諸島のフナフティ島(現ツバル)の空港のことである。
1976年にフナフティ島に1週間滞在したがギルバート(Gilbert Is)のタラワ(Tarawa)からプロペラ機のエアーパシフィックが週一便飛んで来ていた。 
 Funafuti空港では週1-2便に飛来する飛行機の為に、その2-1日位前から滑走路の草刈りを行っていた。草刈りが始まれば飛行機が近いことがわかる。島民は数少ない島外からのフライトの為に入念に草刈りするのだ。南洋の熱い島で毎日決まって降るスコールの為、芝生は早く伸びる。

 Funafuti空港には空港ビルはなく、ヤシの葉の屋根の小屋が1つ空港の脇にポツンと建っていた。ここで飛行機が飛来した時のみ係官がやって来て、入国管理、通関、検疫、郵便などの業務をやるのである。
 乗客は極めて少なくて、記憶がやや薄れるがFunafutiを我々が訪れた時も我々だけだったかもしれない。そんな状態だったが飛行機が飛来した日は空港は人だかりでなる。待ちわびた郵便や物資が届くからである。ほのかでまだのんびりした光景だった。
 島への物資の輸入は主にオーストラリアかニュージーランドあたりの船だろうが我々が滞在の1週間内には船は見なかった。Funafutiには日本の漁船も来るとも言っていたが見なかった。
 また、不思議と食料品や日常品を売るショップを見た記憶がない。住民の主食はタロイモ、パパイヤ、バナナ等で足りるだろうがその他の物はどの様にして調達していたのが記憶がないのだ。

 FunafutiはTuvaluの小さな首都だった。空港の近くには政府庁舎、気象観測所、ラジオ局、発電所等が固まっていた。ラジオ局は到着した日、我々の来島を伝えていた。ラジオ局は毎朝夕、数時間の限定放送だった。勿論TVはない。
発電所は空港と反対側の海沿いにあって、ディーゼル発電機方式で電圧変動や停電も度々あった。典型的な発電能力不足の現象である。

 1996年当時、Funafutiには1軒のホテルしかなく、平屋で5-6室の「バイアク ラギ ホテル」(Vaiaku Lagi Hotel)に宿泊した。勿論、ホテルも空港近くにあった。ホテルは平屋でスレートの天井に、ブラインドガラス、天井には扇風機の南洋の典型的な作りだった。(現在は2階建ての建物に変わっているらしい)ホテルには食堂、バー兼用の1室があって娯楽はジュークボックスが1台設置されていたので音楽を聴きながら飲食した。ホテル客の食品等は全て輸入品だった。

 水は雨水で、毎日決まって降るスコールの雨水が飲料水にもなるのである。初めての経験であった。
当時はまだ海面上昇は今ほど深刻でなかったと思うがホテルの一角は海辺なのだが海抜1m位であった。タラワも同じであったが海面に近い・低いとは感じていた。聞くところによると今日、Funafutiは海面上昇が常態化しており陸が海水に侵食されている。壁を作り侵入の防止に努めているがいずれは島民全部離島する時が来るのではないかとさえ言われている。

 島で戦前のことを知る住民と話をしたこともあった。この辺りも日本軍が押さえていて住民は日本軍によって島外に隔離されたという。しかし、日本人は危害を加えず優しかったという。日本兵に教えて貰った日本の歌を歌ってくれたが思い出せない。
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