1978年、ザンビアからケニアのナイロビへ飛行機で「買い出し旅行」に出かけたことがあった。
1977年〜1979年、私が赴任したザンビアは生活物資の一部が半年近く店頭に出回らなくなったことがある。特に塩などの欠乏は深刻だった。
当時のザンビアは南の隣国「ローデシア」(現ジンバウベ)独立闘争の影響を受け治安も悪くなっていた。内陸国のザンビアは特に物資の大半が南アフリカからの輸入であったが途中の経路や国境を閉鎖するなど南ルートでの物資が滞っていた。
よって、私はこのままではまずい、仲間から集い物資が豊富なケニアのナイロビへ飛行機で買い出しに出かけることにした。
ナイロビでは値段は少し高かかったものの日本の食料品も売っており品物が揃っていた。塩、砂糖、醤油、カレーのルーなど、ついでに日本の清酒(白鶴)を1本買って帰ったことを思い出す。
今では笑い話になるがザンビアに帰国時、税関で清酒をこれは何かと問われ、「ビネガー」(酢)だと言い逃れたこともあった(ごめんなさい)。。。そしてザンビアでは待っていた仲間とまさかの日本の美酒を味わったのも今でも覚えている。
また、この頃はコメも欠乏していた。しかし、米は重いので持って帰れない。ザンビアの主食は「シマ」(うがり)で、ともろこしの粉だったので米がなくても現地人は困らないがやはり日本人は米も欲しい。
よって同様に米を欲する親しいインド人から米を回して貰った。どこから入手してくるのか不思議だったがマラウイ産の米だった。長粒子だったがそれでも有難かった。やはり持つべきものは友である。
余談になるがザンビア人の主食はトウモロコシの粉から作る「シマ」だが米は嫌いではない。腹持ちが良い米は彼らも好むが米の方が高いので一般人には手が出しにくいのも現実だった。
ザンビアでの食ではこんなこともあった。
ヨーロッパ製のバター、マーガリンや日本の静岡の清水産でトマト味のさんまの缶詰、マラウイ産の米が市場に出た時は仕事を放り出してスーパーに走ったこともある。また、白人の経営する牧場では朝早く並べば少し高めであったが牛肉、生ハムやサラミを入手できたことも思い出す。
赴任してすぐ現地でやることは、まずは食べること、生活することが優先する。どこに行けば何が入手できることから始まる。こんなことからマーケットで会った香港中国人と親しくなった。家族3人で赴任していた中国人だったが家庭料理の中華料理を頂いたこともあった。