江戸時代の儒学者で外交官の「雨森芳洲」(あめのもりほうしゅう)(1668~1755年)が出身地の長浜市高月町雨森で知られ、顕彰されるきっかけになった1924(大正13)年の従四位贈位から、今年で100年を迎えた。雨森自治会は5月19日、地区にある東アジア交流ハウス雨森芳洲庵(あん)で記念式を催した。
贈位は生前の功績に対し死後に正一位~従八位の16段階の位階を与える制度。
芳洲への贈位の実現に大きな役割を果たしたのは、1920(大正9)年に地元の富永高等小学校(現富永小)の校長になった藤田仁平。それまで地元でほとんど知られていなかった芳洲の履歴や実績を調べ上げ、雨森出身と確信。遺族や遺品の状況などを調査した。
藤田は「贈位がなければ(芳洲が)全く地下に埋もれてしまう」と退職後は申請書作成に専念。努力が実り、1924年2月に「雨森東五郎」の名で外交ではなく、文教分野への功績で従四位が贈られた。
贈位後、雨森は芳洲を前面に押し出してまちづくりに取り組んだ。1984(昭和59)年には、拠点となる雨森芳洲庵が完成。「雨森芳洲関係資料」として123点が1994年に国重要文化財となった。芳洲の関係資料1件、36点を含む「朝鮮通信使に関する記録」は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された。
記念式では、地区の子どもたち約20人と保護者が贈位を記念して作られた「贈従四位雨森芳洲先生」や、芳洲にちなんだ「みてなさる」を合唱。雨森家の家紋、タチバナの記念植樹もあった。パズルやビンゴなどのゲーム大会も開かれた。芳洲から数えて11代目の子孫にあたる雨森勇さん=千葉県流山市=らも出席した。
贈位の周年イベントは初めて。地区は今後、贈位150年、200年と芳洲を顕彰し続ける契機にしたいと考え、子どもが主役のイベントにした。
雨森芳洲
雨森村の医者の子に生まれ、京都で医学、江戸で朱子学を学んだ。朝鮮との外交窓口の対馬藩(現長崎県対馬市)に仕え、藩主らへの儒学の講義や外交・貿易の仕事に携わった。1698(元禄11)年に訪朝して朝鮮語を学んだ。80歳を過ぎてから和歌を志し、8カ月で古今和歌集を千回読破。確認されただけで2万首を詠んでいる。1990年に当時の盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が訪日し、宮中晩さん会のスピーチで芳洲を紹介している。
【過去ログ】 【滋賀・近江の先人第39回】朝鮮通信使実務に尽くした儒学者・雨森 芳洲(長浜市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/d923c1ccc0f90783e275b34c3ba03328
<記事・写真: 中日新聞より>