荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年) - 大正4年(1915年)1月3日)は、滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者
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滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現・愛知郡愛荘町島川)に呉服商の嫡子として生まれた。
同志社中学を中退後、
1905年(明治38年)に陸軍に志願し、少尉となった。翌年除隊後、在郷軍人となったが陸軍在職中に飛行機に興味を持ち、除隊後も家業を手伝う傍らで手に入る限りの飛行書を集め、当時の飛行機の先進国フランスの飛行学校に入学するため、大正2年(1913年)9月フランスに留学し、パリ郊外のヴィラークプレー飛行場にあるモラーヌ・ソルニエ航空学校に入学した。飛行学校では教官リゼ・イに師事した。
大正3年(1914年)、入学後5か月で万国飛行1級免許を取得し、大阪で開催される帝国飛行協会(現日本航空協会)が主催する第1回飛行競技会に参加するため、当時フランスの最新機モラーヌ・ソルニエ式ル・ローン80馬力単葉機1機を私費で購入し、恩師であるリゼ・イと共に帰国した。
大正3年(1914年)6月13日、兵庫県鳴尾競馬場での競技会には延べ35万人の群衆が押しかけ、モラーヌ・ソルニエ式単葉機での試験飛行で、常三郎は高度飛行で高度2,003mを記録し1位になったことから常三郎は一躍有名人となった。
競技会後、深草練兵場での見事な飛行は賞賛され、在郷軍人会総裁伏見宮から機は「煎風号(せんぷうごう)の名を与えられた。
大正3年(1914年)9月には高知朝倉練兵場で飛行会を開催され数万の観衆から喝采を浴びている。
続いて、郷土八木荘村訪問飛行を計画し、発着場として近接の八日市の沖野ヶ原が最適と判断した。この報は近郷近在の住民にとって前代未聞の大ニュースだった。
常三郎は神崎郡八日市町長に「故郷の人達にも飛行機を見せたい」との思いを伝え、町長は同年10月急ぎ沖野ヶ原を整備し常三郎の思いは実現した。
大正3年(1914年)10月22日、快晴無風の沖野ヶ原臨時飛行場から歓呼の中高度700mまで上昇に達し、故郷八木荘村上空に達し、何度も旋回飛行した。
園世の祝賀会で常三郎は、「沖野ヶ原は飛行場として地質も気候条件も最適である」、「ここに飛行家養成のための学校と民間飛行場を建設したい」と抱負を述べた。このことをきっかけに、八日市町長の横畑耕夫、在郷軍人会の熊木久兵衛を中心とした「沖野ヶ原飛行後援会(設立期成同盟会)」が結成され、将来はこの地に民間飛行場建設と煎風飛行学校設立の機運が高まった。
大正3年(1914年)12月、帝国飛行協会員となり、大正4年(1915年)、大正4年1月に大阪・東京間の飛行を計画した。そのための飛行訓練を行っていたところ、
大正4年(1915年)1月3日、京都深草錬兵場から名古屋に向かうため飛び立った機は離陸直後、エンジンの故障により墜落炎上し同乗の助手大橋繁治と共に死去した。時、恒三郎29歳の若さであった。
八日市町では常三郎の死後もこの事態にもめげず事業の推進を図り、第二煎風号を復元し、大正4年(1915年)6月、日本の民間飛行場の草分け「八日市飛行場」が完成し、「翦風飛行学校」を企図したがしかし、民間飛行学校の夢通りに進まず実現しなかった。
やがて、八日市飛行場は陸軍用飛行場となったが終戦と共に消滅した。
大正初期に日本航空界の先達となり、その発展に一身を捧げた空の英雄、偉大な民間飛行家を讃えて、1926年(大正15年)に延命公園(東近江市)に荻田常三郎慰霊記念碑が建立された。
荻田常三郎慰霊記念碑
民間飛行場発祥地碑・八日市飛行場
<近江を築いた人びと・上(蔭山孝一記)、Wikipedia引用>