”スローライフ滋賀” 

艦載機・グラマン来襲の日 息を引き取った忠五郎少年(下)<東近江戦争遺跡の会)記>

中島 伸男(東近江戦争遺跡の会)<滋賀報知新聞掲載>

 葬儀で、当時の八日市国民学校学校長が弔事を述べた。一部を紹介する。
 「君ハ戦争ガ生ンダアマリニモ尊イ犠牲、否、生産戦列ノ神兵トイハネバナリマセン。アレカラ二度三度、敵機ハ攻撃ヲ加ヘテ来マシタ。コレカラ益々猛烈ニヤッテ来ルモノト思ヒマス。スデニ本土決戦ハ始マッテイルノデス。」

 忠五郎少年は、兄4人・姉3人をもつ8人兄姉の一番の年下であった。男兄弟5人のうち、忠五郎少年を含め3人が戦争で死亡した。特に仲の良かったのは1歳年上の静子さんであった。忠五郎少年は息を引き取る直前、静子さんに「亡くなったらぼくのお地蔵さんをつくって」と頼んだ。

         ↑写真:滋賀報知新聞より

 忠五郎少年の願い通り地蔵尊が刻まれたのは戦後間もなくである。道路に面した自宅横に小さな地蔵堂が建てられ、高さ40cmセンチ余りの地蔵尊が祀られた。近所の人たちはこれを「忠ちゃん地蔵」と呼んだ。
 戦後2年目にシベリア抑留から帰国してきた松村晋二郎さんが松村家を守ってきた。そして、晋二郎さんは亡くなる前に、忠五郎少年の地蔵を菩提寺・西蓮寺(東近江市川合寺町)に遷して守ってもらいたいと遺言した。


 【東近江・寺社総巡り】第62回・西連寺(東近江市川合寺町)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/a1bcd1797cd6316a2bc21c7d834b92d3

 私が西蓮寺の忠ちゃん地蔵にお参りしたのは、ことし7月上旬であった。梅雨明けのような暑い日であった。
 西蓮寺山門横の白壁を背に6体の地蔵尊が並んでいて、忠ちゃん地蔵」はその一番左側にあった。

 新しい前掛けをして四角い台座の上に座していた。台座には「大東亜戦争完遂ノ為学徒動員トシテ挺身殉職ス」云々の由来が刻んでいる。台座に刻まれているのは戒名であるが、地蔵尊の裏に手を回すと背中に当たる部分に手触りがある。あるいは、ここに松村忠五郎の名前が刻まれているのかも知れない。

 ご住職の杉山正瑞さんは「ここのお地蔵さまは、それぞれに由来があるのです」とのこと。ご住職は、忠ちゃん地蔵の前掛けをすこし持ち上げて、「このお地蔵さまは、合掌されています。何かを一生懸命お祈りになっている」。
 忠ちゃん地蔵は、きっときっと世界の永遠の平和を祈っているのだろう。私は、そう思い、改めて腰をかがめ合掌したのであった。

(注)

・松村忠五郎少年のお話は、平成18年(2006年)、元八日市市議会議員の松村晋二郎さん(故人。東近江市八日市東本町一)からお聞きしたお話をもとに、今回、関係の方々からもお聞きした事柄を加え文章にしました。
・終戦の年(昭和20年8月)には全国の学徒勤労動員数は340万人を超え、空襲その他の事故で1万999人が死亡したという(文部省『学制80年史』)。

<滋賀報知新聞より>
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