竹村茂兵衛 たけむらもへえ、1732年-1813年 江戸時代中期-後期の近江商人。
享保17年生まれ。近江・蒲生(がもう)鋳物師村(現東近江市)の農家の出身。大坂にでて商家の徒弟となる。独立して行商し,のち下野(栃木県)芳賀郡谷田貝で醤油醸造業をはじめ天満屋と号した。文化10年3月6日死去。82歳。
ヒストリー
近江蒲生郡鋳物師出身の竹村茂兵衛は享保17年(1732年)に生まれた。父は吉右衛門。家は農家で貧しく幼少より大阪の商家に奉公に出て日夜精励し、毎夜故郷を思い天満天神へ参拝していた。
ある夜、天満天神の欄干にもたれて眠りに陥った時、”一場の霊夢“を見て主家を辞し、両親の許しを得て、主家からの給金を資本に行商を初め、宝暦13年(1763年)下野国(栃木県)谷田貝町(市貝町)で醤油製造を、32歳で起業し屋号を天満屋とした。
奉公人を慈しみ、義侠心に富み、孝心が篤く、奉公人には常に親を大切にするよう勧める人でした。
一方商売では、醤油の材料(大豆・小麦・塩・水)は吟味してしかるべき所から、また、良い品を安く売るための「ためし所」を設けた。醤油の圧搾には古い米袋を用いたり、安い木綿を買い故郷の近江・蒲生郡鋳物師へ袋縫いの内職に出した。
醤油粕から油を抜くことに着目して「醤油粕御試油製法所」をつくり、油は灯油、粕は肥料として販売した。その他、モロミは1年の熟成期間を1年半とした良品をつくり販売した。
醤油の販売は樽売りにして、無くなるころに醤油の詰め替えを行い、樽は酒の古樽を作り直すなどして使用するなど、倹約と高品質さらに顧客管理に勤め、実子3人は本店・支店に別け蔵元・問屋・小売りの分業として商売は繁盛した。
田養水の乏しい故郷鋳物師町には、長男の太左衛門と共に土地の購入から人夫賃まで一切を引き受け、文化11年(1814年)に内座ケ谷溜・徳円谷溜を造り田養水としている。しかし、茂兵衛は完成を見ることなく文化10年(1813年)3月に亡くなっている。
長男の太左衛門は明治27年(1894年)に竹田神社境内に能舞台(市指定文化財)を建築寄付している。