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【滋賀・近江の先人第9回】碁の名人で売り出す近江の豪商・伴傳兵衛(近江八幡市)

初代伴 伝兵衛(ばん でんべい)、名は資宗は、江戸時代前期の近江八幡商人。屋号は江戸で近江屋、近江八幡では扇屋。八幡3大商人(西川甚五郎・森五郎兵衛と伴伝兵衛家又は西川庄六家)の一つ。
 
伴家
伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死した伴太郎左衛門尉資家を遠祖とし、一子資規が武士を捨て商人になったと伝わる。
 
子孫の伴荘兵衛の二代目資通は伝兵衛と称し、彼には二人の子があった。伝兵衛は近江の八幡城下で麻織物、蚊帳、畳表などを扱うが文禄4年(1595)、城主豊臣秀次が没落し八幡城の廃城後、関東へ行商した。
 
(初代)伴伝兵衛(資宗):
資通の長男は資宗と称したが、父と意見が合わず分家し、江戸に出て父と同じ畳表等を商った。これがこれが伴伝兵衛の初代である。
慶長15年(1610年)(1624年寛永元年の説も有り)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店し、大名屋敷御用を得るなど「蚊帳は近江屋伝兵衛」の基礎を作った。
 
伴伝兵衛資春 (2代):
2代目伴伝兵衛は江戸初期明暦年間(1655年-1658年)の人で、趣味の囲碁を通じに筑前梁川藩主と親しくなり、大名家から正月には松飾りを贈られるまで有名になり、益々繁盛させた。
 
伴伝兵衛の『近江屋』は日本橋商家繁盛の始めとも言われ、伴家の繁栄はその後も続き、八幡3大商人(西川甚五郎・森五郎兵衛と伴伝兵衛家又は西川庄六家)の一つにも数えられた。
江戸幕府成立の頃から八幡商人は江戸で店を構え、「ふとんの西川」で知られる西川甚五郎家や伴伝兵衛家の他、現在の東京中央通りには、畳表問屋の伴荘右衛門家や、近江屋伝右衛門、呉服商の白木屋(初代大村彦太郎)なども店舗を構えていたようだ。
しかし、八幡3大商人とまで言われた伴伝兵衛家の歴史的記述を探ってみたが不思議と少ない。
豪商を誇った伴家も明治維新以降にはその名が消えてしまっている。江戸期での商売は時代の変化を乗り越えられなかったのだろうか。子孫は東京に在住らしが伴伝兵衛家本宅は近江八幡市に寄贈され現在も残っている。
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