”スローライフ滋賀” 

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第13回)アフリカへの旅立ちの日 見送りの両親を見送ったエアーインデアの大幅遅れ

 1977年8月、私は、海外ボランティアの一員として任国地アフリカのザンビア」に向かった。日本からのその日の便は「エアーインデア(インド航空)」のフライトであった。勿論、まだ成田空港が開港していなかったので羽田空港からの出立であった

 1977年8月のとある日、アフリカへ旅立つその日のことはあれから45年近くなるが今でも鮮明に覚えている。
 我々のフライトは「インド航空」であった。その日のエアーインデアの便は確か羽田発が11時頃の予定だったが案の定というべきかインド航空はフライト遅れのアナウンスを伝えた。
 我々のインド航空機は待てど暮らせど羽田に到着せず、挙句の果てにはまだインドを出発していないとのことだった。。。この分ではこの日の内に出発できるか見込みが立たなくなっていた。事務局担当者は出発日変更判断を迫られていた。

 一方、出発のその日、両親が滋賀からわざわざ新幹線で羽田まで見送りに来てくれていた。しかし、両親の帰路の新幹線時刻に間に合わない時刻(18-19時頃)になっても見込みが立たず、逆に私が羽田で滋賀に帰る両親を見送る羽目になってしまったのだ。
 
 海外ボランティアのことは別途別なコラムで書こうと思うのでここでは多くを書けないが、両親は最初、私の海外ボランティア志願に反対だった。
 当時もよりもよって暗黒大陸と呼ばれていた疫病と、ターザンと土人と野獣の大陸のアフリカなんて想像外だったに違いない。それでも私は信念を曲げず、そんな両親も根負けしたのだろうが最終的には応援してくれた。そんな両親を心の中で感謝していた。その両親はもうこの世にはいない。
 インド航空機は、最終的には予定の時刻より10時間程度大幅に遅れたがでその日の内に羽田を離陸した。
インド航空が大幅にが遅れたことにより、折角の両親の見送りの姿はなかったが少数の東京在住者に見送られ寂しく日本を離れたのだった。

 我々を乗せた当日の大幅遅れのインド航空機は途中、カルカッタで経由だったが当初予定より大幅に遅れたため、トランジット時間調整もあって機外に出され、一旦カルカッタ市内のホテルで仮眠することになったのを覚えている。空港から比較的近くで小奇麗なホテルではなかったと思う。カルカッタではホテルでの仮眠のため外には出られず市中のことは分からない。カルカッタはTVでみる喧騒の町ではなかったかと想像した。よって、インド航空でのことはこれ以外思い出すことできない。
 余談になるがインド航空の運賃は割安で知られているがそれでもそれ以来、私はインド航空を利用したことがない。

 羽田出立時は出ばなを挫かれすっきりしなかったが日本を一旦飛び出せば、この先は任地アフリカのことしかなかった。
 東アフリカのザンビアの首都ルサカまではケニアのナイロビ経由だった。
カルカッタからケニアのナイロビまでの区間も確かインド航空だったと思うのだが不思議と正確に覚えていない。
また、ナイロビからザンビアのルサカまでは「ケニア航空」だったと思う。もしかすれば「ザンビア航空」だったかもしれない。
所要時間は4時間ほどだったと思う。アフリカのことで気持ちが高揚し、フライトのことなんて二の次だったに違いない。

 飛行機がアフリカに近づき雲海の上に突き出た「キリマンジェロ」を畿内の窓から見た時、アフリカに来たのだと感慨無量だった。
更に機は高度を下げ台形で茶褐色のアフリカ大陸を見た時、遂にアフリカに来た、やるぞ!と自分で鼓舞したことを思い出す。
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