塚本定右衛門 (初代)(1789年(寛政元年)-1860年(安政6年)71歳没、近江国五個荘町(現東近江市)生まれ。江戸時代後期の近江五個荘出身の紅花商人。
塚本商店、総合繊維商社ツカモトコーポレーションの創始者。屋号は『紅屋』で歴代当主が代々襲名した名称。ワコールの本家筋にあたる。
塚本定右衛門 (初代)定悦:
江戸時代後期の近江商人。1789年(寛政元年)布洗いを生業とする父、半農半商だった塚本浅右衛門教悦の三男に生まれ、兄弟5人中で一番優秀だった。
当時、近江では麻布の製織が盛んで浅右衛門家は末端の作業である布洗い業で生活は楽ではなかった。
1807年(文化4年)19歳の時、そこで家業は兄弟に任せ、京都から「小町紅」を仕入れ、若くして関東へ行商を行った。
特に、「甲府」で繁盛し、当時柳沢吉保は昔、近江国神崎郡に飛び地を持っていた縁もあり、
1812年(文化9年)23歳の時、甲州甲府に「紅屋久蔵」という小間物屋を開店した。(これが繊維商社の現ツカモトの創業年)
定右衛門の商売は文化度が高く、流行の先端商品を関西で仕入れ、関東で販売した。利益は地元で還元し歓迎され、開業5年で商売も軌道に乗り繁盛に繋がっていった。
初代塚本定右衛門を創業主とする本家(紅屋。塚本呉服店、ツカモトコーポレション)は、“太物商”と呼ばれる綿織物や麻織物を扱う商家となった。明治から大正、昭和にかけて東北六県を商圏に治め、繊維の卸業者としてはこの地方の最大手になっていった。
仙台市の商工業者の高額納税者に名を連ね、大正期の仙台の呉服太物組合の三人の幹事の一人として「塚本呉服店」の名が残っている。
五個荘の呉服太物店を継いだ2代目塚本定右衛門定次(文政9年(1826年)ー明治38年(1905年)は、明治5年(1872年)に東京に進出し、明治22年(1889年)に日本橋伊勢町を本店として塚本商社を設立し、ツカモトコーポレーションの基礎を築いた。
定次は故郷五個荘川並の寺子屋「川島俊蔵」から教えを受け、公共への奉仕精神は明治10年川並村に「川並学校」が新築されたとき、定次の弟正之と共に新築費として多額の拠出をしている。
株式会社ツカモトコーポレーションは、1812年(文化9年)、 初代・塚本定右衛門(つかもと さだえもん)が、甲府柳町に小間物問屋『紅屋』を創業してから、 2011年度で200周年を迎えている。
ツカモトの沿革
因みに、ワコール創業者の塚本幸一家も同じ塚本本家の分家である。
幸一の祖父初代塚本粂次郎は塚本定右衛門や粂右衛門と兄弟であり、1889年(明治22年)、仙台市大町(現在の青葉区大町)に分家として塚本商店の看板を掲げた。
ワコール創業者の塚本幸一も京都で父の呉服商「嘉納屋商店」を手伝っていたが塚本本家の末裔の一人である。
また、近江商人夫人としての女子教育の「淡海高等女学校」を創設した「塚本さと」は初代塚本定右衛門(塚本家本家)の5女である。
【滋賀・近江の先人第29回】近江商人夫人としての女子教育の淡海高等女学校創設者・塚本さと(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/d/20190516
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/d/20190516