中西馬瓢、享保元年(1716年)~享和元年(1801年)、愛知郡平尾村(現、東近江市)の出身の俳人。幼名は元治。後に加盟を継いで治右衛門と改める。
生家は彦根藩から桃尾山と池之尻の藩林の管理を明治の廃藩まで代々任され、苗字帯刀を許された旧家だった。
「馬瓢」は家業の農業と藩林の管理の傍ら俳諧を好み、京都岡崎の幻阿法師(号名蝶夢)について俳諧を学び、後に中山道愛知川宿の蝸牛庵を拠点にして、松尾芭蕉の流れをくむ近江蕉門の一員として、湖東地域で大変活躍した。
また、自身でも「酔茶亭」を設けている。江戸の寥太、嵯峨の落柿舎、越前丸岡の梨一、水戸の三日坊、長崎の枕山、仙台の祇川など遠方の俳人とも交友した、大津の菊二、愛知川の芦水、地元愛知郡蚊野の呉琴などは親しい俳友だった。
安永8年(1779年)63歳の時、信州への紀行文「月のはなし」を書き、
1800年(寛政12)には、何年も書き溜めた随筆をまとめた『筆の塵』を発行した。「文の反古集」も出している。