片岡庄兵衛、江戸時代初期の人物(生没不詳)。大津出身。
日本式そろばん開発者、大津算盤の始祖 。
私が子供の頃、田舎では今で言う学習塾のようなものは少なく、子供達の習い事と言えば「そろばん}(珠算)の時代だった。私も小学生の頃、何年間か珠算塾に通ったことがある。また、学校でも珠算の時間があったのを思い出す。今では世の中でも殆ど見かけないし、各家庭から消えてしまった。
近江商人の必需品でもあったであろう、そろばんの盛衰の歴史が大津にあったのである。
ヒストリー
大津一里塚町(現、大津市大谷町)の住人、片岡庄兵衛は、慶長17年(1612年)、長崎奉行に就任した長谷川藤広に同行して長崎に旅した。このとき庄兵衛は、長崎に舶来していた明国の商人から一つの算盤を入手し、その製造技術を伝授されたと言う。
帰郷した庄兵衛は改良を重ねて日本人に適した形に改良した。それが「大津算盤」の誕生だった。
大津算盤は、裏小板をはめ込み、釘や金具を使わず、上2つ・下5つの玉は弾き易いように菱形に削るなど、高度な技術・製法をもって製造された。
その後、庄兵衛は江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され、算盤の家元となり、制作方法の伝授・価格の決定等を一任されている。
当時、一里塚町周辺には片岡家だけでなく多くの算盤屋が立ち並ぶようになった。そして、江戸時代を通じて東海道は大谷・追分付近の土産物としても広く知れ渡った。
大津算盤は明治に至るまでの300年間その名を轟かせ、明治時代には内国勧業博覧会に出品されるなど、大津算盤が改めて注目された。
しかし、明治になって東海道線敷設に伴い一里塚町の一部も用地買収、立ち退き等の影響受けて、大津算盤は大正初年頃には製造されなくなり廃れていった。
大津算盤の家元だった片岡家は明治20年(1887年)代まで11代続いたが後、廃業している。
尚、現代において生産高8割を占める「播州そろばん」は、天正年間(1573年-1592年)での三木城落城に際して大津に避難してきた人々が、技術を習得し持ち帰ったものである。