埼玉県騎西(きさい)町(現、加須市)にある現在の酒造業㈱釜屋の祖、小森久左衛門(初代釜屋新八)(1725年-1765年)は近江日野商人である。
実は私も最近まで埼玉の加須市に近江日野をルーツとする酒店があることを知らなかった。今ではルーツの滋賀でも殆ど知らぬ釜屋こと、小森久左衛門(釜屋新八)を取り上げてみた。
初代小森久左衛門新八は、蒲生郡日野町大谷の農家の次男として生れ、寛延年間(1748年~1750年)に持下り商いを開始し、中山道を経由して関東との間を往復した。
宝暦5年(1755)に利根川水系の中山道と日光街道と言う主要な街道で、大商圏江戸を近くの武蔵国北埼玉郡騎西町の町場に釜屋新八の屋号で出店を開き、水油・陶器・鍋釜・質屋を商ったが、新八は、明和2年(1765年)40歳で病死した。
初代新八は独身であったので兄の小森久左衛門が二代目小森久左衛門(通称釜屋新八)を継承し、販路を関東一円に拡大、一大酒造家となった。正に、初代新八は起業家、二代目は中興の祖である。
二代目新八は、明和5年(1768年)に隣村の金兵衛から酒造場を5年間の契約で借り受け、酒造業を開始した。「力士」と命名された酒は売れ、事業は順調に発展した。天明6年(1786年)に隠居したが、二代目久左衛門は資本と経営分離の手法で出店経営の長所を活用して事業を延ばした。1786年に家督を譲り近江の日野に戻り、享和元年(1801年)に76歳で没した。
三代目以降は、酒造業を営む他、醤油醸造業も始め、困難な時期であった幕末維新期を乗り切った釜屋は埼玉県加須市に現存し、中国の歌人李白の『襄陽歌』の一節に由来した清酒「力士」を今も継承している。
近江日野商人「小森久左衛門(初代釜屋新八)」をルーツとした「釜屋」は規模こそ大きくはないが創業から270年もの歴史を経て、埼玉の地で今なお、近江の魂が脈々と生きている。