私は1977年9月、ザンビアの北部銅鉱山の町「Ndola」に着任した。
Ndolaはザンビア第2の都市で、大型ジェット機も飛べる滑走路を持つ国際空港でもあった。その当時のザンビアでは首都LusakaとNdolaが唯一の国際空港だった。当時、世界的な銅の産出国(世界第4位)であったザンビアは北部のNdola、KitweでのCopper beltで産出していた。
そんな当時のアフリカのザンビアだったが半世紀近く前のザンビアの食糧事情は今と比べるべくもないが質素なものだった。
私は北部のNdolaを中心に活動をしていたので比較的食料には恵まれていたと思う。それは現地での人脈ネットワークによるものだった。
・ザンビア人が経営・料理する1軒の中華料理店
・白人経営の牧場から肉、ハム、サラミ入手
・店頭販売のスーパーから買いだめ(バター、さんまの缶詰、米)
・インド人から米入手
など。。
特に、しかし、他の地方部にいる仲間はより深刻であった。
特に、しかし、他の地方部にいる仲間はより深刻であった。
日常生活ではクッキングオイルの欠乏は現地人にも打撃を与え、毎日長蛇の列ができた。私も並んだことがあるがズルをする奴がでてきた。なんとそれは制服のポリスマンである。列に並ばず後から出て来て先頭に行き横取りするのである。
何回も同様の光景を見て来たし、私はそれに腹を立てある日、そのポリスに抗議した。名前と所属を強く詰問した。民衆はポリスが怖いので抗議しない。なのにアジア人(現地人には日本人か中国人の区別はできない)が強烈に抗議しており皆驚いてみていた。最終的にポリスはクッキングオイルを返したが私はこの様を警察署長に報告し、以後このようなことをさせなかった。
なぜこのようなことができたのは私服を着ていたが現地では私が上位ランクの身分を持っていたからでもあろう。若き日の思い出の1シーンである。
そんな食糧事情の中で私ぼ日本の家族や職場から船便で非定期だったが日本の食料品を送ってくれていた。好んだのは日持ちが良いカレーのルー、乾袋麺、カップラーメン、乾スパゲッティ、醤油、マギーブイヨン、胡椒、砂糖、塩だった。時々日本の米も入っていた。これらは私の家の食倉庫には常に保管していた。
仲間が地方から出てきたときなどは地域の仲間が集いカレーライスパーティなどをしたものである。苦労して貯めてといたストアーの食料品が一気に少なくなるがそれでもみんなが喜び、元気になって帰って行く姿が何よりも嬉しかった。
日本から船便で1-2カ月を要したがタンザニアのダルエスサラーム港で税関で開封され、時々品物を抜き取られていたこともあったが貴重な日本からの食糧だった。