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死別の悲しみとどう向き合うか  №269

2019-08-28 13:49:50 | 心理
 人はいずれは死ぬものと理解はしていても、私たちは無意識のうちに、その事実を遠ざけています。それは、まだ、遠い先のことであり、今の自分には関係がないと思っています。しかし、いざ身近な人の死に直面したとき、私たちはその深い悲しみやショックとどう向き合っていくのでしょうか。
 イギリスの精神分析学者ジョン・ボウルビィは、大切な親しい関係の人と何らかのかたちで死別した場合、残された人が一般的にたどる心理を4つのプロセスにまとめています。
 第1段階は、無感覚・情緒危機の段階です。死を知らされた直後から、その後、数時間~1週間ほど続くといわれています。激しい衝撃に茫然としてしまい、死を現実として受け止めることができません。死の事実を納得できず、信じられない気持ちで一杯になります。
 第2段階は、思慕と探求・怒りと否認の段階です。死を事実として受け止め始め、強い思慕の情に悩まされ、深い悲嘆が始まります。しかし、その一方で、死別したことを本当だと認めることができず、強い愛着が続いている段階で、この時期には、なぜ助けられなかったのかという責任をめぐって、怒りや抗議も見られるといわれています。
 第3段階は、断念・絶望の段階です。死別を現実のものとして受け入れ、愛着が断念されます。死別した人との関係を前提に成立していた心の在り方・生活が意味を失い、絶望、失意、抑うつ状態が大きくなる時期です。
 第4段階は、離脱・再建の段階です。それまで向けられていた、死別した人への愛着から離れていくことができるようになります。死別した人との思い出は、穏やかで肯定的なものとなり、場合によっては新しい愛着の対象が見出される段階です。新しい人間関係や環境の中で、再建の努力が始まります。
 しかし、誰もがこのようなプロセスで死別の悲しみやショックから立ち直っていくわけではありません。喪失の悲しみや将来への不安、自責の念等から抑うつ状態に陥り、悲嘆が慢性的なものとることもまれではありません。そういう人達を支えるのが、グリーフ・ケア(悲嘆ケア)といわれるものです。グリーフ(grief)とは深い悲しみの意味で、身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が、その悲しみから立ち直れるよう、そばにいて支援することです。励ますのではなく、相手に寄り添う姿勢が大切といわれています。

引きこもりのプロセスと心理 №268

2019-08-24 09:53:10 | 心理
 私たちの悩みの多くは対人関係にあります。ですから、人との関わりを断つことができれば、その悩みはなくなります。不登校や引きこもりは、様々な対人関係を断つことで、自我を守る行為ともいえるかもしれません。
 ただ、何らかの庇護がないと、引きこもりや不登校の状態を継続することはできません。いつかは、自立していくことを促されるか、自分で決断しなくてはならない時がきます。
 関東自立就労センターでは、引きこもりのプロセスを、「混乱期」、「安定期」、「ためらい期」、そして「動き出しの時期」という、おおむね4つの時期に分けています。そして、引きこもりの心理を、次の10段階に分けています。
①不安「僕の将来は、どうなるんだろう」
②怒り「今の自分は自分の責任なのか、それとも親の責任なのか」
③取引「まだわかってくれないのか」
④拒絶「いくら話してももう無駄だ!」
⑤重圧・圧迫感「孤島で静かに生きたい、どうしてこんな行動をしてしまうのか」
⑥休息(受容)「子どもに親を殴らせないでくれ」
⑦自己否定(嫌悪)「迷惑ばかりかけて」
⑧夢探し動き出し「僕でもまだ大丈夫ですか」
⑨同世代復帰「あいつ、今ごろ何してるかな」
⑩仕切り直しの旅立ち「あの街で生まれ変わりたい」
 引きこもりのプロセスという観点からこれらを見ていくと、①「不安」から⑤「重圧・圧迫感」までが、「混乱期」です。 さらに⑦「自己否定」もそうです。また、⑥「休息(受容)」はほぼ安定期の出来事です。⑧「夢探し動き出し」、⑨「同世代復帰」はた「めらい期」の気分と言うことができます。⑩「仕切り直しの旅立ち」が引きこもりのゴールということになりそうですが、 引きこもり状態から先に進むためには、今の自分を肯定することから始めなくてはなりません。今のダメな自分をいったん葬り去って、再度別人として生まれ変わりたい、すなわち今の自分自身を否定し、別の自分にすげ替わりたいという願いに他なりません。
 やっぱり自分には無理だとならないように、そこからどのように適切に支援していくか、それほど簡単なことではありません。

秋のベネルクス三国(8)アムステルダム №267

2018-04-01 13:47:24 | 日記
第7日目 2017年10月30日(月)晴れ ラディソンBLUアムステルダム・エアポート・ホテル
1 飾り窓とドラッグとツアーホテル
 オオランダでは、同じホテルに2泊しました。スキポール空港近くなので、帰りのアクセスは良いのですが、アムステルダム市街にはタクシーで30分以上もかかる不便な場所です。ましてや、最終日の午前中は3時間近く何にもすることがなく、オプショナルツアーも組まれていません。市内のホテルに宿泊すれば自由に行動できたのにと思っていましたが、成田空港に到着してから、初めてその理由が解けました。飛行機から降りて手荷物受け取り場所で待っていると、係官にひかれた麻薬犬がやにわに乗客の間を嗅ぎ回り始めたのです。そう、オランダでは売春とドラックが合法だったのです。だから、麻薬犬がオランダ帰りの乗客がドラッグを所持していないか、検査をはじめたのです。添乗員は何も話しませんでしたが、ツアー客が、夜の自由時間にホテルから出てドラッグを買ったりして、不測の事態を招かないよう、わざわざ、私たちを街の中心から遠ざけたのです。


2 マヘレの跳ね橋  
 出発するまでの3時間の間に何とか観光できないかと思っていたところ、同じ思いを持っていた人がウーバを利用して、ホテルまでタクシーを呼んでくれ、昨夜見られなかったマヘレの跳ね橋を見学することができました。
 マヘレノの跳ね橋は、アムスステルダムで最も有名な橋です。1691年に架けられた当時からマヘレの跳ね橋(やせっぽちの橋)と呼ばれていて、現在の橋は1934年に架け替えられたものだということです。以前は、橋の開け閉めをする係りが常駐していたそうですが、今では、自動制御で開閉を行っているとうことです。橋は、その美しいライトアップでもよく知られているようです。
        

 2017年10月30日(月) 14:30 アムステルダム・スキポール空港発
 2017年10月31日(火)  8:45 成田空港着(フライト時間約11時間15分)

秋のベネルクス三国紀行(7)アムステルダム №266

2018-03-25 12:40:02 | 日記
第6日目2017年10月29日(日)晴れ ラディソンBLUアムステルダム・エアポート・ホテ発9時 

    
1 クレラー・ミュラー美術館
 オランダ最大の敷地からなるデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園はゴッホの森ともいわれ、ちょうど黄葉が美しい季節でした。この国立公園内にある美術館です。実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その夫人のコレクションで、87点におよぶゴッホに関するコレクションで知られ、アムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館といわれています。ゴッホだけでなく、ルノワール、セザンヌ、ピカソなど数々の名画を所蔵していて、見応え十分です。広大な敷地の屋外に彫刻が散在する方法は、日本の「彫刻の森美術館」が参考にしたということです。
 ゴッホの主な作品は、『アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)』、『夜のカフェテラス』、『種まく人』、『糸杉と星の見える道』などです。献身的にゴッホを支えた弟テオは、ゴッホの死後後を追うように死んでしまいました。しかし、弟の妻がゴッホの絵を管理し、世に出した、というお話しをしてくれた日本人ガイドさんの解説がとても感動的でした。
    

2 アムステルダム観光
 オランダの首都アムステルダムは、運河沿いに立ち並ぶ建築群の美しさが有名な水の都です。その歴史は、13世紀までさかのぼります。アムステル川河口の浅瀬を埋め立てた干拓地に小さな漁村が作られたのが始まりということです。
    
①アムステルダム中央駅
 近隣の国からの列車も接続しており、ドイツからのICEもこの駅に着きます。駅の中には、スーパーマーケットも入っています。

    
②17世紀の運河地区(世界遺産)
外縁のシンゲル運河よりも内側にある運河群は、その運河に沿って均質的な建造物群が並び、オランダ黄金時代の優れた都市計画を今に伝えている。2010年に「アムステルダムの歴史地区」 として世界遺産に正式登録された。
 登録対象となっているのは、プリンセン運河、ヘーレン運河、ケイザー運河、内側のシンゲル運河の4運河とそれに沿う街路。

    
③ アムステルダム国立美術館
 17世紀オランダ絵画が充実しています。収蔵作品は、レンブラントの『青年期の自画像』『夜警』 『イサクとリベカ、別名ユダヤの花嫁』。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』、『手紙を読む青衣の女』、『小路』、『恋文』などです。
    

秋のベネルクス三国紀行(6)オランダ №265

2018-03-21 10:04:46 | 日記
第5日目 2017年10月28日(土)15゜ 曇り ホテル「ノボテル セントラム」発 8:20
    
 オランダである。しかし、英語表記ではネーデルラントNederland(低い土地)で、国土の4分の1が海面より低い土地であることからきた国名である。その海面すれすれの湿地をドイツから輸入した人間の頭位の石を一つずつ並べるという途方もない労苦を重ねて今の国土を造ったということです。だから、オランダ人は神が世界を造ったというカトリックの教えを信じなかったという。
 司馬遼太郎の「オランダ紀行」によれば、17世紀オランダ人一般が自立主義や合理主義、あるいは近代的な市民精神を持つに至ったのは、彼らが商業民族であったことと、プロテスタンティズムの浸透による。しかし、それは、血みどろの戦いを経た。この間オランダを支配していたカトリック国スペインと戦わければならなかった。その結果、16世紀末に独立し、同時にオランダは飛躍した。
 オランダの面積は九州ほどで、現在の人口はおよそ1700万人。経済規模は日本の7分の1だが、一人当たりGDPは14位で日本の22位より上である。しかし、17世紀当時、人口200万人に過ぎなかったオランダは、その圧倒的な航海技術としビジネスセンスにより、世界に君臨した。アメリカの歴史学者ウォーラーステインによると、歴史上、最初のヘゲモニー国家がオランダである。ヘゲモニー国家というのは、軍事力ではなく、圧倒的に強い経済力によって一時的にほかのすべての国に対して相対的に優位に立った国のことである。ちなみに、18世紀のヘゲモニー国家はフランス、19世紀はイギリス、20世紀はアメリカである。

    
1 キンデルダイク
 キンデルダイクは風車で有名である。国土の4分の1が海面よりも低いオランダにおいて、排水システムは最も重要な問題であり、その国土で生活するためには欠かすことができない。アルブラセルワールト地方では、13世紀から排水の問題が発生していた。オランダ人は、干拓地に過度の水が入らないように大規模な運河を掘ってきた。
 オランダ人は風車を建設し、水面がある一定の高さに到達した際に風車のポンプを利用することで水面の維持を図った。また、ポンプによって川に排水された水は再利用が可能となった。とはいえ、人間の力では水面を完全にコントロールすることは不可能であり、オランダは過去に深刻な洪水の被害を何度も受けている。

    
2 ハーグの国際司法裁判所
 ハーグはオランダの行政都市で、政府機関、各国大使館、オランダ王室などがある、落ち着いた佇まいの緑豊かな町。国連機関などもある国際的な都市ですが、北海沿岸の有数なリゾート地であるスヘフェニンゲンの海岸もあり、夏場は多くの観光客で賑わうということです。1899年と1907年国際平和会議が開かれたところで,平和宮には、最近退職した皇太子妃雅子様の父君小和田恆氏が判事をしていた国際司法裁判所があります。

    
3 ハーグのマウリッツハイス王立美術館
 ついに、フェルメールとオランダで出会うことができました。世界に三十数点しかないフェルメールの作品のうち3点がある美術館で、なかでも、『真珠の耳飾の少女』(青いターバンの少女)』(1665年頃)は、この絵をモチーフにしたトレイシー・シュヴァリエの小説(のちに映画化)で一躍有名になった作品。
 『デルフトの眺望』(1660 - 1661年頃)は、プルーストの『失われた時を求めて』に重要なモチーフとして登場する絵画である。他にも、レンブラント『テュルプ博士の解剖学講義』(1632年)、「自画像」(1669年)等がある。
 建物は、17世紀半ば、ヤーコプ・ファン・カンペンの設計で建てられたもので、オランダ古典様式建築の代表作とされる。館名はここに住んだナッサウ=ジーゲン侯ヨハン・マウリッツ(1604年 - 1679年)にちなむ。
 コレクションはオランダ総督ウィレム5世と、その子のオランダ初代国王ウィレム1世の収集が中核となっている。王立美術館として開館したのはウィレム1世の時代、1822年である。美術館の規模はさほど大きくないが、オランダ絵画をはじめ珠玉の名品を収蔵することで知られる。
    



秋のベネルクス三国紀行(5)ベルギー №264

2018-03-18 09:03:09 | 旅行
第4日目 2017年10月27日(金)晴れ 15℃ ホテル発 8:20
 ベルギーがスペインやフランス、そしてオランダからの支配を脱し、ようやく独立が認められたのは1839年で、隣国のオランダ人は、「ベルギーの歴史の教科書は世界一薄い」と陰口をたたくと言うことですが、ベルギー人も黙ってはいません。「オランダ人の財布は世界一薄い。」とオランダ人はケチだと悪口をいうのだとか。
 2016年3月に連続爆破テロ事件が発生し、死傷者は300人を超えました。このため、このツアーも再開したばかりです。銃を手にした兵士が、二人一組で市内を巡回警備している姿をみて、改めて事件の悲惨さを思い起こしました。
 ベルギーといわれてすぐに思い浮かべるのは、ビールやワッフルそしてチョコレートですが、「ローマの休日」や「ティファニーで朝食を」で有名なオードリー・ヘップバーンがベルギー出身の女優さんだというは今回初めて知りました。
 経済規模は日本より小さいのですが、一人当たりのGDPは20位で、22位の日本より上です。ここ数年サッカーのFIFAランキングが上昇し、現在5位で。ちなみに日本は55位です。ベルギーはフランス、オランダ、ドイツ、ルクセンブルクと国境を接し、海を渡ればイギリスにも近い「ヨーロッパの十字路」といわれているそうです。
    
 19世紀に年にオランダから独立したが、それまでにフランス、スペイン、オーストリア、ネーデルラント(現在のオランダ)など時の覇権国に支配されてきました。人口はおよそ1100万人。東京都の人口規模で、面積は日本の関東地方ほどの広さ。首都ブリュッセルは、この国のほぼ中心部に位置し、110万人が暮らす。第二次世界大戦後、EU統合が進められるなかで、ドイツやフランスの間に位置するこの地にEUやNATOuなどの国際機関の本部機能が置かれるようになり、「ヨーロッパの首都」とも呼ばれるようになった。
 カトリックの国ですが、近年中東からの移民が増加している。交通の要であったため、昔から争いの絶えない土地だった。ベルギーの北半分はオランダ語を話し、南半分はフランス語を話す。ドイツの隣接地域はドイツ語を話し、公用語が3つもある多言語国家です。その上、北半分にある首都ブリュッセルではフランス語を話すという何とも複雑な文化を持った国なのです。EUの首都がブリュッセルになったのは、フランスでもドイツでもないからという理由があるとか。
1 ブリュッセル観光
 ブリュッセルは「小さなパリ」とも呼ばれる美しい街美しく世界遺産にも登録され、「小パリ」とも呼ばれている。ビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第11位の都市(東京は3位)と評価されており、特に政治的評価が高い。
      
(1)グラン=プラス(フランス語:Grand-Place, オランダ語:Grote Markt)
 ブリュッセルの中心地にある大広場。ヴィクトル・ユゴーが賛嘆したことでも知られるこの大広場は、世界で最も美しい広場のひとつと見なされ、世界遺産に登録されている。フランスの詩人ジャン・コクトーをして「豊穣なる劇場」と言わしめ、文豪ヴィクトル・ユゴーが「世界で最も豪華な広場」と称えたグラン・プラス。市の中心部にある縦約110m×横約70mの石畳の広場は、市庁舎や王の家(市立博物館)、ギルドハウスなどの歴史的建造物に囲まれ、ビール醸造博物館やチョコレート博物館、ブリュッセルの英雄セルクラースの像などが集まる観光の拠点。ワッフルの甘いにおいが漂うエデュープ通りにはあの有名な小便小僧があり、カメラを向ける観光客でいつも賑わっています。
(2)小便小僧(マネキンビス)
 意外と小さなものである。トレビの泉や札幌時計台と同じような感想である。爆弾を小便で消して町を救ったという説があるそうである。おしっこの代わりにベルギービール出すこともあるそうですが、微妙ですね、
 驚いたのは近くに屈んでおしっこをする「小便少女」の像があったことである。ガイドさんが案内してくれたのは、細い路地で、通常の観光客では気づかないところにひっそりとありました。赤い鉄格子で厳重にに囲まれていました。なんだか、カメラを向けるのがはばかれる像ではありました。


(3)チョコレートとワッフル、そしてビールとレース
 さすがチョコレートとワッフルの街で、グランプラス広場を中心として、ゴディバをはじめとして、マリーやレオニダス、ガレーなどの専門店がずらり。ワッフルを売る屋台もたくさんありました。もちろん、ベルギービールをカフェのテラスで飲むことができます。残念ながら、10月末では少し寒いですね。ベルギーレースもベルギーの伝統的なものですが、我が家の食卓には高価すぎて合わないので購入を断念しました。
     
2 ゲント
 ゲント (Gent) は、ブリュッセルの北西50kmにある人口22万人で、ベルギーではブリュッセル、アントワープに次ぐ第3の都市。中世には織物業で栄えましたが、現在は花の栽培が盛んな町となっています。なお「ゲント」は英語読みで "Ghent" とつづりますが、現地のオランダ語は "Gent" で「ヘント」と読みます。
 町中には何百年も経た建造物が点在し、歴史を見つめてきたいくつもの尖塔が空に向かってそびえています。ゲントはまた、フランダース地方最大の大学の町で、居心地の良いカフェや手頃な値段のレストランが集まっています。

(1)聖バーフ大聖堂 (Sint Baafskathedraal)
 ゲント市の中心部にある大聖堂です。12世紀に着工し、16世紀に完成したロマネスクとゴシック様式を併せ持った堂々たる建物です。 高さ88mの塔がそびえ、内部は豪華な装飾になっています。
(2)フランドル絵画の最高傑作といわれるファン・アイク兄弟作の祭壇画「神秘の子羊」
  聖バーフ大聖堂にあるファン・エイク兄弟作の祭壇画「神秘の子羊」は、初期フランドル絵画の最高傑作と言われる。
  15世紀に描かれたとは思えないほどみずみずしく、そして精緻な 細部の描写は見るものを圧倒します。
    
(2)鐘楼 (Belfort)【世界遺産】
  聖バーフ大聖堂の北西にある高さ91mの建物で、世界遺産とな っているフランドル地方の鐘楼の一つです。13~14世紀にギルド によって建てられたもので、エレベーターで登ることができる。


3 ブルージュ (Brugge)
 ブリュッセルの北西100kmにある人口12万人ほどの町。9世紀頃に建設され、13世紀にはハンザ同盟の町となり、15km北の北海に通じる運河の港町として貿易で栄えました。15世紀以後は運河に土砂が堆積して港の役割がなくなり衰退しましたが、街並みはその当時のまま時間が止まったように今に伝わっています。多くの歴史的建造物が残る旧市街は「天井のない美術館」と称され全体が世界遺産となっています。その旧市街には運河が通じていて美しい橋が50以上もあり、「ブルージュ」自体「橋」の意です。
    
(1) 運河クルーズ
 30分ほどの時間で回る運河クルーズは今回のツアーの中でも最も素晴らしかった。秋の青空の下、17世紀から18世紀の建物が並び、いくつもの石組みのアーチ状橋の下をくぐって聖母教会や白鳥の群れを見ながら30人ほどの乗せたボートは心地よかった。

    
①ベギン会修道院
 オードリー・ヘップバーン主演の映画「尼僧物語」のロケが行われたという修道院です。ヨーロッパ中世の封建的社会にあって、女性は結婚するか修道女になるほか生きていく術はありませんでした。そこで12世紀のベルギーで、女性の自立支援のために女性だけで組織された共同体がベギン会でした。世界遺産に登録されています。

    
②愛の湖 (Minnewater)【世界遺産】
 ベギン会修道院の南にある湖です。かつてゲントとを結ぶ水上輸送の港だったところで、南北200m、東西30mほどの大きさで現在は水門でせき止められています。 恋人たちが憩う場として名付けられ、白鳥が浮かぶ景色が絵になります。

    
 夜の散策。夕食後、ツアーに一人で参加している女性と私たち夫婦はブルージュの町をゆっくりと散策した。

秋のベネルクス三国紀行(4)ベルギー №263

2018-03-13 10:26:35 | 旅行
第三日目 2017年10月26日(木) 午後
 午後からはベルギーのアルデンヌ地方にあるデュルビュイの散策とモダーブ城の見学。アルデンヌは、ベルギー南東部、ルクセンブルク、および一部がフランスにまたがる地域の名で、フランスとドイツの間にあって軍事的にも重視されていたが、森林や湿地が障害となったため、アルデンヌ地方は、豊かな清流と森が織りなす自然の美しさで知られ、うっそうとした緑の丘陵地帯に古城が点在。ヨーロッパの秋を感じさせる静かな村で、軽井沢の街を思わせる雰囲気がありました。

    
4 デュルビュイ(アルデンヌの森)
 世界一小さな町といわれるアルデンヌ地方にあるデュルビュイは、美食の町とも言われるそうで、昼食はジビエ料理で、イノシシの肉がでました。とりたてて、おいしいとは思いませんでしたが、想像したよりも柔らかで、ワインでじっくり煮込んだという気がしました。 
 石畳の細い小道の脇には昔ながらの石造りの家が立ち並び、まるで絵本の世界にいるよう。中世の頃からほとんど変わらないという町並みが現存しています。歩ける範囲のあちこちにカフェや雑貨店などがあり、散策するのが楽しかったです。タンポポのジャムが有名と言うことでしたが、苦みがあるような気がして購入しませんでした。
   
5 モダーブ城
 ベルギーのブリュッセルから車で1時間ほどの場所にある中世のお城で、なぜか、その城だけがぽつんと森の中に佇み、時間が止まったようです。門からは前庭があり、地下一階、地上二階建てのお屋敷、そして崖、渓谷を臨むテラスがあります。
 エントランスの天井にはモダーブ城当主の家系図が家紋と一緒に描かれているのが珍しかったが、あざとい感じもしました。
 音声ガイドはタッチペン方式で日本語バージョンもありました。ひとつの部屋につき2分前後説明があるので、丁寧に聴いていると見学時間が足りなくなります。ピアノや壁一面のタペストリー、階段のシャンデリアとアイアンの手摺、どれもロマンチックな気分にひたらせてくれます。


6 グラン・プラス
 ベルギーのブリュッセルの中心地にある大きな広場。「レ・ミゼラブル」の作者で知られるフランスの作家ヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛したことで名高い広場で、1999年にユネスコの世界遺産に登録された。
 予定では明日の見学でしたが、ガイドの村木さんの、雨の夜景に煙る美しい広場をぜひ見せたいと、レストランに入る前の本当にわずかな時間でしたが、見学できて幸運でした。感謝。
     
 夕食はベルギ名物「ムール貝の白ワイン蒸し」でした。大きく深い鍋にムール貝がまだあるのと思えるくらい、たくさん入っていました。第三日目の宿泊ホテルは、ブリュッセル市内の「ホテル バルセイ バイ ワーイック」でした。

秋のベネルクス三国紀行(3)ルクセンブルク №262

2018-03-12 13:06:29 | 旅行
第三日目 2017年10月26日(木) 晴れ 17゜ホテル発9:00
1 ルクセンブルク大公国
 ルクセンブルクは「小さな城」という意味だということです。人口はわずか55万人で、その半数近くは外国籍の人で、国の面積も神奈川県と同じ位の広さしかありません。しかし、国民一人当たりのGDPは、日本の三倍近い10万ドルを超えて、世界一豊かな国なのです。
 首都のルクセンブルクは、地理的にヨーロッパの中央に位置する堅固な城砦都市で、旧市街と新市街を合わせ持ち、旧市街には世界の一流銀行153行が集まり、ロンドンに次ぐユーロ市場となっているとのことです。さらに、新市街には、国際機関が集まっていて、スカイプやアルセロール・ミタルなどの有名企業の本拠地があります。経済、金融においてトップクラスの国なのですが、歴史上の人物やスポーツ、芸術を通してなじみのある人が全く思い浮かばず、イメージの掴みにくい国であることは確かです。
 国際都市のため多言語国家で、子供達は大変のようです。ルクセンブルク在住という日本人の女性ガイドさんによると、ここでは就学前に母国語のルクセンブルク語を学び、小学校に入学するとドイツ語、フランス語、オランダ語を2年間ずつ学び、中学校に入学すると英語を学ぶというのです。じつに5カ国語です。できが悪いと落第するさいうことですから、語学の苦手な子供にとっては大変です。

1  ノートルダム大聖堂
 ケルン大聖堂、アーヘン大聖堂、ノートルダム大聖堂といずれも素晴らしい建物や内装、ステンドグラスを見てくるとどれがどの教会もののだったか、印象が混乱して、写真だけではよくわからなくなります。 
 細く鋭い尖塔と、内部の美しいステンドグラスが特徴的なノートルダム大聖堂は、世界遺産「ルクセンブルクの古い街並みと要塞群」に含まれ、ルクセンブルクを代表するカトリック大聖堂です。
 17世紀に建てられたイエズス会の教会でしたが、1794年以降から現在の大聖堂になりました。ジャン前大公とベルギー王女ジョセフィーヌ・シャルロットの婚礼がここで行われたことでも有名だそうです。北の入口部分は、ルネッサンス様式とバロック様式が入り混じり、丸天井、細い尖塔などが特徴です。

2 ルクセンブルク大公の宮殿
 ノートルダム大聖堂から300mほどのところにあるルクセンブルク大公宮は、15世紀に市長舎として建てられましたが、1554年に火薬が爆発したことで崩壊。正面にあるアラベスク模様が残り、1573年に大理石で再建され1891年から大公宮となり、現在は大公の執務室兼迎賓館として使われているということです。
建物壁面の彫刻からは、中央ヨーロッパではあまり見ることができないイスパレ・モレス様式の浮彫が施されるなど、かつてスペインの支配を受けていたことが感じられるということです。
 建物は衛兵に守られています。少年のようなあどけない顔をした衛兵が30m位しかない建物を往復していました。真剣な表情で勤務していましたが、本当にこの少年一人で非常事態に対応できるのか心配になりました。軍隊があるといっても、あるのは陸軍だけで、それも人数は450名だけというまですから、EUという組織の中でかろうじて守られていると言ってよいのではないかと思います。
 
3 アドルフ橋
 「橋はどれも美しい」と、私の好きな作家が言っていますが、1900年~1903にペトリュス渓谷に架けられたアドルフ橋のたたずまいは、その深い渓谷美と重なって実に美しい石のアーチです。ルクセンブルクの旧市街と新市街を結ぶ最も有名な橋で、その大きさは長さ84m、高さ43mです。


秋のベネルクス三国紀行(2) №261 

2018-03-11 11:26:54 | 旅行
第二日目 2017年10月25日(水) 晴れ18゜ ホテル発 9:00
 朝食後、ホテル周辺を散歩したが、通勤のために足早に歩く人で、近くのショッピングモールもまだ、開店していなかった。いよいよ観光開始。きょうの走行距離はおよそ400㎞。世界遺産を巡る旅にしてはかなり慌ただしいことが予想される。最初の観光地は、レバークーゼンにあるホテルから約40㎞ほど離れた、ケルン市にあるケルン大聖堂である。バスでケルンに向かう途中、博識な女性添乗員の村木さんが、ケルンはオーデコロンの発祥の地で、ナポレオンが遠征した折、良い香りのする水を献上され、ドイツ語の「ケルン」がフランス語で「コロン」と呼ばれるようになったということを教えてくれた。
1 ケルン大聖堂
 ケルンのシンボルでもある大聖堂は、ドイツで最も訪問者数が多い教会(年間約600万人)で、ドイツ人が最も好きな観光名所だということだ。とにかく、大きい。神の威厳を知らしめるためか、やたらにいかつく大きな建物である。
 世界遺産に登録されているカトリックの聖堂で、幅86m、奥行き144m、尖塔の高さ157mで、ゴシック様式の大聖堂としては世界最大で、かなり遠方からでないと全容を収めきれない。
 ドイツで最も人気のある観光名所ということであれば、この大きいが、荘厳さよりも、こけおどしのように壮大でいかつな感じがドイツ人の気質に合っているのかもしれない。すくなとも、華麗さは感じない。
 ケルン市は、古代ローマ時代から交通の要所、商取引の拠点として発展した。第二次世界大戦で街は壊滅的に破壊されてしまったものの戦後の経済成長のもと見事に復興し、人口100万人。
 72色のステンドグラスが大聖堂の壁を美しく飾っている。この美しい市松様の窓は、10年ほど前のものだということだ。内部には東方三博士の聖遺物を納めた黄金の聖櫃や祭壇画など見どころが多い。バイエルン王ルートヴィヒ1世から送られた「バイエルン窓」や、2007年に完成したゲルハルト・リヒター作といわれるステンドグラスも見事だ。


2 アーヘン大聖堂
 ケルンからバスに揺られること1時間30分。人口24万人のアーヘンが次の観光地。
 「アーヘン大聖堂」はフランク王国の頃、国王カール大帝が786年に宮殿教会として建て始めた。そのためドイツ語で「カイゼルドーム」すなわち「皇帝の大聖堂」と呼ばれています。
 当時はアルプス以北で最大の大聖堂で、現在でも北ヨーロッパで最も古い大聖堂ということです。ドイツで最初に登録された世界遺産です。歴史的、宗教的に見ても「アーヘン大聖堂」は重要な場所ですが、内部の荘厳な美しさに感動して言葉を失ってしまう程です。
 飾り気のない教会のドアをくぐり聖堂の中へ進むと、扉のシンプルさとは打って変わり、金をふんだんに使ったモザイクが天井や柱を覆っています。思わずその豪華さに感嘆の声が出てしまうでしょう。1ユーロ払ったけれど、撮影許可をとって正解でした。
 建物はローマ帝国の教会建築様式に影響を受け、5世紀から15紀の東ローマ帝国で発達したビザンティン様式を取り入れ、贅沢なモザイクは、当時のカール大帝の権力を誇示したものということです。大聖堂の中心は八角形の造りになっていますが、中世では8という数字がキリスト教の中で重要な意味を持っていたので、カール大帝はこの八角形の建物に、強力な宇宙のバランスと永遠のシンボルとしての役割を願ったのではないでしょうか。
 814年にカール大帝が没すると、この「アーヘン大聖堂」内に彼の墓所が設けられました。中世以降「アーヘン大聖堂」は、所蔵する聖遺物により、巡礼地としての重要性がますます高まりました。また、10世紀から16世紀にかけて約600年にわたって30人以上の神聖ローマ帝国の皇帝たちの戴冠式が執り行われたところです。
 「ガラスの礼拝堂」の名前の象徴は壁面に広がるステンドグラスです。高さ約25.6m、約1000平方メートル以上のステンドグラスを通して差し込む優しい光が「ガラスの礼拝堂」をさらに神々しく見せています。



3 ベルンカステル=クース (Bernkastel-kues) 散策約一時間
 ドイツからルクセンブルグへ抜けるモーゼル川流域にあるベルンカステルクースは、ヨーロッパの美しい村30に選ばれた、日本人にはあまり知られていない、とっておきのヨーロッパ、といっていい 珠玉のような村、というのが観光ガイドの触れ込みです。
 まさに、そのガイドに偽りはありませんでした。夕方5時頃に着いたのですが、山の斜面に整然と植えられたくブドウ畑が夕日に輝き、川の両側の村には石畳の道路沿いに古い建物が並び、ワインのテイスティングをさせてくれる店が何軒も並んでいます。山の斜面一面に整然と栽培されている「ブドウ棚」をみると、「棚田」を開墾した日本人と同様に、勤勉なドイツ人気質を感じます。
 しかし、残念なことに時間がありません。慌ただしく、観光し、冷えたモーゼル白ワインを飲むのに残された時間はわずか5分でした。それでも、せっかくなので一杯だけ飲みました。じつにおいしかった。大きく蛇行するモーゼル川の奥まったところにあり簡単に立ち寄れる場所ではありませんが、本当に美しい村でした。

 レストランで夕食をとり、ホテルに着いたのは21時。第二目宿泊ホテル ルクセンブルク「イビスシュット」

秋のベネルクス三国紀行(1) №260

2018-03-10 10:40:11 | 旅行
      

第一日目 2017年10月24日(火)
 旅は、計画し出発するまでが最も楽しいとよく言われるが、私にとっては、旅から帰って写真を整理しながら、旅先での印象や出来事についての思い出を反芻することも楽しみの一つである。
 旅は多くの人にとって非日常である。そして、私たちが観光する世界遺産や観光スポットもまた、その国や地域の人たちにとっては非日常である。歴史や文化の濃密な空間がそこにはある。限られた、わずかな時間であるが、私たちはその濃密な空間から、書物や写真で得たものとは違った、まさにそこにしかない、多くのものを感じ取ることができます。 それを咀嚼し、それまで漠然と持っていたその国や地域に対する自分の感性やイメージを修正し、新たに構築することは楽しいけれど、時間のかかる作業である。
 しかし、私にとってはその作業こそが、最も上質な旅の楽しみである。ただ、今回のツアーは見所がありすぎたためか、事前の知識が不足していたせいか、咀嚼するの半年近くも時間がかかった。
 初日はとにかく、長い一日だった。自宅を午前5時に出発し、ドイツ・レバークーゼンのホテルに投宿したのが午後8時30分。7時間の時差を考えると、ほぼ20時間かけて到着したことになる。
 成田空港近くのUSAパーキングに到着したのが7時20分。車と愛犬を預け、第一ターミナルに送迎バスで送ってもらったのが7時40分。添乗員からチケットを受け取り、出国手続きを完了したのが8時30分。
 予定より1時間遅れでKLMオランダ空港KL862便が成田を出発したのが11時30分。
 アムステルダム・スキポール空港着が現地時間15時30分。時差7時間のため、およそ11時間のフライトである。
 入国手続きを済ませ、空港から宿泊地のレーヴァークーゼンに着いたのが20時30分。荷物の整理をして倒れ込むようにしてベッドに入ったのが、23時。一日が31時間という長い長い一日だった。

     第一日目宿泊ホテル 「ベストウエスタンレオン レバークーゼン」