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若者は本当に「下流志向」なのか(2)~労働からの逃走~ №189

2013-06-05 16:32:45 | インポート
 若者は消費行動の原理を労働に当てはめ、自分の労働に対して賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに不満を感じ、努力した分だけ金をくれと、努力と成果の相関を求めています。それが認められないと、賃金が少ないと言って、労働から逃走してしまいます。その考え方の中には、設備投資や利潤を生み出さなければならないという企業体の概念が欠落していると、著者はいいます。
 最小の貨幣で最大の満足を得たいというのが、消費社会のルールです。自分を消費者という立場におけば、自分の労働に見合った対価が得られないと感じればやる気を失ってしまいます。そのため、周囲の人達と円滑な人間関係を築こうとはせず、仕事の質を上げる努力もしません。必然的に人事評価が下がります。すると、若者は職場や環境に不満を感じ、「ここ以外に、もっといい場所があるはずだ。」「自分の能力を発揮できる場所があるはずだ。」と、理想の場所を求めて転職や環境の変化を繰り返す”青い鳥症候群”に陥ります。
 ヨーロッパのニートは移民や貧困という階層化の一つの状況ですが、日本におけるニートのメンタリティは、先に挙げた消費主体、等価交換の発想が幼児期から確立する「幼児期における自己形成の完了」を特徴としているといいます。
 キャリア・アップ、とかキャリア・パス(企業内での昇進を可能とする職務経歴)というのはつきあう相手を上方修正したいということです。こんな仕事をやってられるかという不満がキャリア・アップの原動力の人が周りの人と上手くやっていける訳がありません。また、モチベーションもありませんから、当然評価も低いはずです。今やっている仕事の評価が低い人に、他の企業から、今より良い条件のオファーを受ける可能性は限りなく低いと著者は指摘します。
 内田教授の若者の捉え方も一つの見方とは思いますが、私は今の若者のマインドは、「ゆとり教育」の影響が多いのではないかと思っています。「ゆとり教育」が実施されたのは、小学校・中学校が、2002年4月(平成14年)、高校が2003年4月です。この学習指導要領改定で最も大きかったのは、生徒の評価方法の根本的な変更です。
 それまで、相対評価で序列化されていた生徒が、「意欲・関心・態度」という観点別の3段階と絶対評価による5段階で評価されるようになりました。いわゆる「新学力観」の導入です。絶対評価の導入は、競争原理としての「ナンバーワン教育(相対評価)」から個性重視の「オンリーワン教育(絶対評価)」への転換です。勉強ができなくても、運動が苦手でもそれがあなたの個性だから、「そのままのあなたでいいのよ」というメッセージが与えられたわけです。
 若者は「下流を志向」しているのではなく、ましてや逃走しているのでもなく、学校教育で培われたオンリーワン教育の価値観と企業の競争原理のギャップに納得できない若者たちが、社会の在り方に無言で異議申し立てをしていると考えるべきなのではないでしょうか。現に、ボラティ活動に取り組み、会社を辞め、利潤を追求しないNPO法人を立ち上げて生き生きと活躍しいる若者が多いという報道もあります。
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若者は本当に「下流志向」なのか(1)~学ぶことからの逃走~ №188 

2013-06-04 16:56:40 | インポート
 若者は本当に「下流志向」なのでしょうか?学ぶことによって得られる果実を信じない子どもたちが学ぶことから逃走し、働くことの対価が少なすぎる、と労働から逃走する若者たち。内田樹教授は彼らは努力して下流を志向していると言いますが、本当でしょうか。
  神戸女学院大学の内田樹名誉教授著「下流志向」(講談社刊)のサブタイトルは、~学ばない子どもたち、働かない若者たち~です。著者によれば、今の子どもたちは、家事労働の中で感謝と認知を獲得し、そこから、幼い自我のアイデンティティを確立していくという機会が失われてしまっている。初めての社会経験がお金を使うことになり、消費者マインドの中で育つことになった。そのため、教育の場においても、子どもたちは、買い手、すなわち「教育サービスの担い手」という意識を持っているのではないか。
  教育を権利ではなく、義務だと理解している子どもたちは、僕はこれだけ我慢しているけど、それに対して先生は何をしてくれるの。自分は教育を受ける義務を果たしているのだからその対価をくれと言ってくる。その答えが納得できればやるし、気に入らなければやらない。つまり、消費者マインドとすれば、気に入れば買うし、気に入らなければ買わないということになります。
 「これを学ぶことが何の役に立つのですか。」と、その商品(教育内容)に興味がないふりをすると、先生が教育内容のレベルをディスカウント(低下)してくれる。だから、子どもたちは値切ること、即ち、最小の努力で最大の商品(成績)を手に入れようとする。子どもたちは教室では貨幣をもっていないので、「不快」を示すことで等価交換しようとしているのだ、と著者は説明しています。
 さらに、東大・刈谷剛彦教授「階層化日本と教育危機」(有信堂高文社)の中から、「階層下降することから達成感を引き出す子どもが出現してきた」と、以下のように引用しています。
 相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、「将来のことを考えるよりも今を楽しみたい。」と思うほど、「自分には人よりすぐれたところがある。」という根拠のない「自信」が強まる傾向がある。
 グローバル化する社会は、学校で努力しても就職できない人が増大するとしいうリスクを抱えています。努力と成果の相関が崩れ、努力しても必ずしも報われない社会は、二極化し格差社会を生む。上層家庭の子どもは、勉強して高い学歴を得た場合は、そうでない場合より多くの利益が回収できることを信じられる。しかし、下層社会の子はそれを信じられない。学力差ではなく、学力についての信憑性の差が、学ぶことから逃走する子どもを生み出すというのです。
 頑張れば誰も同じような成果を達成できるというのがメリトクラシー(業績主義)の前提だが、努力への動機に階層的な格差があるとすれば、フェアではなく、すでに勝っている者がさらに勝ち続けることを正当化する社会となってしまうのではないか。努力しないのは本人のせいだから、自己責任だと言われるが、自己責任、自己決定は自分でリスクヘッジできない。それゆえに、社会のセーフティネットが必要だと提言しています。
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怒りと憎しみからの解放 №187

2013-05-26 14:41:34 | インポート
 もし、あなたが、あなた自身を含めて、愛する家族や友人を不当に傷つけられたと感じたとき、その加害者に復讐するのではなく、「ゆるす」ことによって、あなたの怒りや憎しみから解放されたいと望むでしょうか。
 「ゆるし」というのは、これまでどちらかという宗教の分野でしたが、これを初めて科学的に検証したのがアメリカ・ウィスコンシン大学心理学教授ロバート・D・エンライトの「ゆるしの選択」(河出書房新社刊 水野修二郎訳)です。
 先日、日本カウンセリング学会認定カウンセラーの研修会で、翻訳した麗澤大学の水野修二郎教授から直接お話を伺うことができました。
 私たちは、不当に傷つけられたと感じると、相手には怒りや憎しみを感じ、加害者と同じように醜い存在になってしまうことさえあります。自分自身に対しては何もできなかったという無力感が残り、自己嫌悪に陥り、時には自分を否定してしまうこともあります。
 また、怒りや憎しみは、それを向けられた人(加害者)よりも、むしろ、怒りや憎しみを向ける人(被害者)に悪い影響をもたらします。怒りや憎しみを抱き続けることより、精神的に疲労し、生活の活力を失うような事態を招き、二重の被害者となります。
 そうした、怒りや憎しみから解放されるには、悪いことをされたのだから同じように相手を痛めつける、というリベンジの気持ちを脇に置いて、「ゆるし」の決心をすることが必要だといいます。では、「ゆるし」とは何でしょう。
1 個人が自由意思で始める心の内側のプロセスである。
2 あなたに対してアンフェアな行動をした人に対する激しい感情をレッツ・ゴー(手放す)する。
3 過去にあなたを傷つけようとした人を罰しようとは思わなくなる。
4 罰したところであなたの傷はいやされない。
5 あなたの持つエネルギーをもっと良いほうに活用する。
6 先に進む。
 しかし、「ゆるす」ことに対しては、相手に対する敗北であるとか、自分の感情を否定することであり、反省もしない相手を不当にのさばらせることになる等々、様々な感情があり、それほど単純なことではありません。
 それでも、怒りや憎しみの感情の牢獄から抜け出すにために、相手を「ゆるす」という選択肢があってもいいというのが、カウンセリングとして必要なのではないかということでした。ただ、この「ゆるし」の作業には様々なワークがあるようです。また、大目にみたり、忘れたり、冷静に対処したり、和解することは「ゆるし」ではないとも言っています。

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血液型でわかるかかりやすい病気(2) №186

2013-05-14 17:13:23 | インポート
③ B型は遊牧民族
 アフリカから移動した人類のうち、ヒマラヤ山岳などへ移動した人類は、遊牧民となり、過酷な環境の中で家畜の肉や乳製品を食料にしていたたため、腸内細菌が乳製品を分解するのに適したB型物質をつくるようになりB型が誕生したということです。
 環境の変化に適応する生活をしていたため、常識や慣習にとらわれず、行動力があり、他人に対する警戒心がうすいため、結核や肺炎などの感染症や食中毒にかかりやすい。性格的には、狩猟に適した動物的カンが鋭く、本能や衝動で行動することが多い。
④ AB型は突然変異
 人類が世界中に拡がっていくことによりそれぞれ違う血液型の混血が誕生するようになり、およそ 1000年~1200年前にAB型がうまれた。このため、AB型は新人類的な特性を持っているということです。 きまぐれで、感受性豊かで、天才かだらしないかの両極端にぶれやすい、消極的なくせに、他人に対する優越意識が強いが、A型タイプに弱い。ただ、免疫力がもっとも弱く、病気にかかりやすい血液型なのだそうです。ただし、ノロウイルスやフィラリア、コレラには強く、体質的にあわない食べ物はないという特徴あるということです。

 免疫学的に見た場合、①AB型はAとBのふたつの血液型物質をもち、どちらににも抵抗できないためもっとも病気に弱い。②A型はA型の細菌が多く、自分と同じA型の細菌に対して抵抗できないため2番目に弱い。③B型は A型と同じだが、B型をもつ細菌がすくないためA型より強い。④O型はA型とB型の両方に対して抵抗できるため、様々な病気に強い。
 また、各血液型の精神的な力関係は、①AB型はB型とO型には強いが、A型には弱い。
②A型はO型とAB型には強いが、B型には弱い。③B型はA型には強いが、O型とAB型には弱い。④O型はB型には強いが、A型とAB型には弱い。という構造になっているということです。
 生育環境や生活習慣との関係もあるのでこの通りとはいかないでしょうが、大変興味深い説得力のある本でした。
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血液型でわかるかかりやすい病気(1) №185

2013-05-14 16:59:28 | インポート
 免疫学的にみて、血液型によりかかりやすい病気があるということです。A型はガンになりやすく、O型は病気に強く、B型は感染症に弱く、AB型は免疫力が弱く一番病気になりやすいのだそうです。
 寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学が専門の人間総合科学大学教授・藤田紘一郎博士の「血液型の暗号」(日東書院)という本によると、人類の血液型はO型が最初に誕生したのではないかということです。以下は、藤田博士の考える血液型の起源とそこからくる病気や性格の特徴です。ちなみに、日本人の血液型の比率はA型40%、O型30%、B型20%、AB型10%ということです。
① O型は狩猟民族
 世界各地の先住民族の血液型がほとんどO型だったところから類推すると、10万年前にアフリカで誕生し狩猟生活をしていた人類は全てO 型だったのではないか。動物の肉を主食としてたため、胃酸を多く分泌する必要があった。このため胃潰瘍や十二指腸潰瘍になりやすい。
 しかし、ストレスに強いのでガンや心臓病などにかかりにくい。感染症などにもかかりにくく病気に強いので、誰とでも仲良くでき、性格も細かいことにこだわらないO型の性格ができたのではないか。歴代総理大臣でもっとも多かったのがO型で、次に多いのがA型だそうです。
② A型は農耕民族
 アフリカからアジアに移動して農耕生活をするようになり誕生したのがA型ではないかということです。私たちアジア人の祖先のモンゴロイドの血液型はA型でした。A型は伝染病や感染症に弱く、精神的にも肉体的にもストレスに弱いためガンにもか かりやすいのだそうです。
 そうした病気に弱い面と、農耕民族に必要な資質が相まって、「慎重で用心深い」、「几帳面で神経質」といわれるA型の特徴的な性格ができたのではないかということです。また、順応性が高く、情にもろく、保守的・内向的で、論理的だということです。A型は、B型のような直感的タイプが苦手でどう接して良いかわからないところがあるということです。

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「何者」にもなれずに漂白する若者 №184

2013-05-09 16:47:12 | インポート
 朝井リョウの「何者」を読みました。小説としての出来映えがどうというよりは、偏差値の高い大学生の就活の雰囲気が良くわかりました。成人式が、単なるセレモニーとなってしまっている日本の社会では、就活こそが「一人前の人間」としての通過儀礼(イニシエーション)となっているのかもしれません。
 小説の中で、拓人の友人が最終面接で落とされた場面で、こんな描写が出てきます。
 「いくらこちらから願い下げだとしても、最終的に選ばれなかったということは、そこまで選ばれていたのに決定的に足りない何かがあったと感じてしまう。エントリーシートや筆記試験で落ちるのと、面接で落ちるのとではダメージの種類が違う。決定的な理由があるはずなのに、その何かがわからないのだ。コレまでの人生で何度も経験してきた試験のように、数学ができなかったから、とか、作文で時間が足りなくなったから、とか、そんな分析すらさせてもらえない。就職活動において怖いのはそこだと思う。確固たるものさしがない。ミスが見えないから、その理由がわからない。自分がいま、集団の中でどれくらいの位置にいるかがわからない。」
 学生という、ある意味で均質な集団の中で周囲の空気を読みながら、巧みに自分の立ち位置を確保していた若者が、不意にその足場を失って漂白していく不安がよく捉えられている部分だと思います。
 企業が最終的にどのような価値判断で内定を決めるかは教えてもらえないから、内定を得られなかった学生は、まるで、人間性が否定されたような不安に苛まれるのでしょう。 一定の水準に達していながら内定をなかなか得られないのは、就活が恋愛に似ているからではないかと思います。企業との相性や企業風土に即したタイプでないと、いくらその企業に恋をしても叶わぬ恋になってしまうのではないでしょうか。ただ、入社したい会社を選べるのはごく一部の人達でしかありません。多くの学生は、自分探しの旅をしているゆとりはなく、「自分に合った仕事を探すのではない。自分がその仕事に合わせるのだ。」と言われながら就活しているのが現実のような気がします。 
 自分を捨ててまで就活なんかしたくないという、宮本隆良に真剣に就活に取り組む田名部瑞月が言います。
 「私たちはもう、たったひとり、自分だけで、自分の人生を見つめなきゃいけない。一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。」
 「10点でも20点でもいいから、自分の中からだしなよ。自分の中から出さないと点数さえつかないんだから。」
 だから、多くの若者は「何者」かの仮面を被って入社していきます。その仮面がそのまま自分の顔となって剥がれなくなれば、それはそれでいいのではないでしょうか。仮面を被っていることに耐えられなくなって外すには、それなりの覚悟が必要です。ようやく探し出した自分の素顔が、じつは「のっぺらぼう」であるかもしれないのです。
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失われた時を再生する「デジタルフォトフレーム」  №183

2013-05-07 16:59:17 | インポート
 先日ソニーの「デジタルフォトフレーム」を購入しました。これは想像していた以上のすぐれものだと思っています。大きさは7インチで黒いフレーム。内蔵メモリーは2ギガバイト。約4000枚の写真が内蔵でき、7秒間隔のスライドショーで8時間楽しむことができます。外部記憶媒体としてSDカードやUSBメモリも使用できるので、もっとたくさんのスライドショーも楽しめますし、動画再生も可能です。
 早速、パソコンのピクチャに眠っていた海外旅行や家族の様々な記念日のスナップなどのファイルをコピーして、スライドショーで楽しみました。食卓近くの棚にフォトフレームを置き、ワイン片手に時系列で次々に写し出されるスライドを見ていると、失われかけた記憶が楽しい思い出とともに鮮やかに蘇えってきました。
 かつてフランスの作家プルーストは「失われた時を求めて」という長編小説を書きました。その長さは日本語訳では400字詰め原稿用紙で一万枚にも及びます。何度か読破しようと試みましたが、そのたびに挫折しました。その物語は、ある日、口にしたマドレーヌの味をきっかけに、幼少期に家族そろって夏の休暇を過ごした町全体の記憶が鮮やかに蘇ってくる経験から書き起こし、自らの生きてきた第一次世界大戦前後の歴史を記憶の中で織り上げていくものです。
 プルーストはこの作品を描くために、部屋に閉じこもり耳にコルクの栓をして記憶の再生に没頭したといいます。しかし、現代に生きる私たちは、昔の写真をデジタル化する手間を惜しまず、外部記憶として大容量のUSBメモリを使えば、さしたる努力なしに自分の一生をスライドショーで振り返ることができるようになりました。
 少し時間の余裕ができたら、認知症を予防する意味でも、自分の生涯をデジタル映像化し、好きな音楽にのせて楽しみたいと考えています。
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はげた男にはイケメンが多い? №182 

2013-04-06 21:28:12 | インポート
 かつて、ある女性エッセイストが、「はげた男にはイケメンが多い。はげなければ女性にもてる。すると、他の男があぶれてしまう。だから、イケメンは早めにはげにして、女性が遠ざかるようにしているのではないか。そうでないと、他の男達に女性が近寄らないので、種の保存上神様がそうしたのではないか。」というユニークな説をのべていました。
 しかし、4月6日付け朝日新聞の記事によると、はげた男性は心臓病リスク高い?ということです。記事によれば、東京大学の原一雄特任准教授(糖尿病学)らのチームが、英医学誌BMJオープンに発表された過去の医学論文6本を調査したところ、頭のはげた男性はふさふさ髪の男性に比べ、心筋梗塞(こうそく)や狭心症など重い心臓病のリスクが高い傾向があることがわかったということです。
 欧米の30~80代男性約3万7千人を11年以上経過観察したデータから、はげの進み具合とこれらの心臓病の発生率との関係を調べた結果、頭のてっぺんがはげている男性は、髪のある男性に比べてこれらの心臓病のリスクが32%高く、特に60歳以下ではリスク上昇は44%に達したということです。
 直接的な因果関係ははっきりしないようですが、男性ホルモンが関わっている可能性があるということです。現在、自覚症状がなくても、はげた男性は無将来に備えて、生活習慣を変え、予防につなげるきっかけにしたほうが良いという記事です。
 因果関係がはっきりしないということは、おそらく、本気で研究した人がいないということなのではないでしょうか。どうしたら、頭髪を薄くしないですむかという育毛には熱心ですが、はげた要因とそのリスクには誰も興味がないのかもしれません。
  人は生命力が落ちてくると、とりあえず不要不急な組織に栄養を送らなくなるので、年をとると髪の毛が抜けてくるのだと聞いたこともあります。髪の毛が抜けるだけでも悲しいのに、心臓病のリスクまであるとは、なんともやりきれないことです。

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あなたは視覚優位の人?聴覚優位の人? №181

2013-04-03 15:57:05 | インポート
 私たちの認知の仕方には、「視覚優位」と「聴覚優位」というのがあるのではないか、というのが「天才と発達障害」(講談社刊)の著者、室内建築設計家の岡南さんの考えです。
 視覚が優れている人達は、言葉を覚える以前に、視覚で直接ものみて考えることができるというのです。自身の頭の中の映像を使って思考する人達は、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えているということです。
 著者の岡さんも「映像思考の人」で、脳裏にビデオモニターのようなものがあり、過去の記憶が映画のように色彩豊かで動きもともなう当時見たままの映像が映り、これから設計する空間などがそこにそのまま映ってくるそうです。たたし、文章を詠むときにはその内容が映像に変換されるので、読む速度が遅くなり、また、映像に変換されにくい言葉は、映像にならないために記憶として残りにくいのだそうです。
 一般に私たちは、机や椅子などの概念を「ツクエ」や「イス」という「言葉」と結びつけていく作業を通して認知機能を発達させていきますが、著者はこれを「聴覚優位」といいます。言葉や文字によって理解し、記憶し、情報を処理していくタイプということです。「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、時間を追い、順番に段階を追って理解することが得意で、言語的な手がかりを用い、部分から全体に理解を勧める「継次処理」を得意とする論理的な思考の人です。語学関係、音楽関係、俳優、小説家などに向く能力です。
  「視覚優位」の人は、視覚的に絵や図を使った方が、記憶や処理、理解をしやすいタイプで、視覚的に全体を見渡すようにイメージができるので、一度に多くの情報を取り入れ、同時処理をすることを得意とします。視覚優位の能力は、視覚記憶を生かすことのできる土木、建築、デザイン、服飾、映像、生物学、パイロット、外科医、スポーツなど、必要とする思考が観察や空間をよりどころとする職業で生かされます。
  「視覚優位」の人の中でも奥行きのある三次元に、人の動きや太陽の動きなどといった「動き」を意識できる人を、著者は「映像思考」の人と呼び、その典型的な人がスペインの天才建築家アントニ・ガウディということです。ガウディが設計したバルセロナのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)は1882年3月に着工され、130年以上経った今なお建築途上にあるという壮大な建物です。しかし、その建物に詳細な設計図はなく、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具だけを使って構造を検討したといわれていますから、まさに、「映像思考の人」なのでしょう。
 

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スクールカーストとゆとり教育 №180

2013-03-30 12:32:18 | インポート
  「スクール(教室内)カースト」(光文社新書 鈴木翔著)を読みました。いま学校で、生徒の間に自然発生する人気の度合いを表す序列があり、それをインドのカースト制度になぞらえて、「スクールカースト」というのだそうです。
 クラス内にいくつかの友達同士のグループが形成され、各グループには序列化(上下関係)があり、上位層・中位層・下位層をそれぞれ「一軍・二軍・三軍」「A・B・C」などと表現するのだということです。
 スクールカースト上での位置決定に影響する最大の特性はコミュニケーション能力ということです。スクールカーストで問われるコミュニケーション能力とは、具体的には「自己主張が強い(リーダーシップがある)」、「共感力(人望がある)」そして「同調力(空気を読む能力)」ということのようです。
 学力や運動能力は誰が見てもその結果は、はっきりとわかり、序列化されても納得せざるを得ない面もありますが、コミュニケーション能力という得体のしれない能力は、わかりにくいだけに、スクールカーストという序列は息苦しいものと思われます。
 スクールカーストは「ゆとり教育」が生み出したものではないかと思っています。学習指導要領が改定され、いわゆる「ゆとり教育」が実施されたのは、小学校・中学校が、2002年4月(平成14年)、高校が2003年4月です。この学習指導要領改定の基本方針は、
(1)「ゆとり教育」 (2)教科内容の一律3割削減(3)週休2日制の完全実施による授業時間数の減少(4)「生きる力」をコンセプトにした総合的な学習の時間の導入 (5)観点別3段階評価と絶対評価5段階評定「新学力観」の導入です。
 特に、観点別評価と絶対評価の導入が教室内の空気を変えていったものと思います。観点別評価というのは、「意欲、関心、態度」を評価するものです。試験の点数が悪くても、「意欲、関心、態度」が高ければ評価が上がるわけです。
 絶対評価の導入というは、「ナンバーワン教育(相対評価)」から「オンリーワン教育(絶対評価)」への転換です。勉強ができなくても、運動が苦手でも「そのままのあなたでいいのよ」というメッセージが与えられたわけです。
 少々意地悪な言い方をすれば、コツコツと努力をしなくても、世渡り上手な人、教師の前でうまく立ち回れる生徒が評価されるようになったともいえるかもしれません。かつては「巧言令色すくなし仁」といわれましたが、いま、学校では真逆のことが起こっているのでしょうか。
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