おはようございます。
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
よろしくお願い致します。
今回は「稽古」全般について、
あるいは人生全般について、
「せぬひま」というテーマで考えて行きたいと思います。
よろしくお願い致します。
「せぬひま」という言葉を
わたしが、いつ、どのようにして学んだか、
わたしはよく覚えていず、
本来の意味と違ってとっているのかもしれませんが、
かなり「東洋的」な考え方なのはたしかです。
いろいろなものを稽古してゆき、
さまざまなメソッドを考えてゆき、また工夫して、
わたしの「イマジネーション・トレーニング」にもそういう危険が多くあるのですが、
あまりに、「トレーニング中心」、
「作為中心」に考えがゆきそうになったとき、
この「せぬひま」ということを改めて思いだし、
反省することはままあります。
あまりにいろいろしすぎることの反省です。
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いわゆる「間(ま)」という考え、
あるいは、「あいだ」という言葉で考えておられる方もいるようですが、
「せぬひま」とは、行為と行為に、時間が空くことに大きな意味があるという考えで、
その「ひま」の営みに意味を感じることで、
つまり、それは「生活に適切なリズムを刻んでゆくこと」です。
生活の中の「テンポ」のようなことをおおまかに調節してゆく考え方になります。
わたしは以前、この連載が始まって、一年目ぐらいに
「待つ」こと、を一回テーマに取り上げていて、
それは「祈る」こととペアになる、とたしか書きました。
つまり妊婦さんやお百姓さんと似たことをすることで、
「待つ」ということは、
やってみるとなかなか難しいことだとわかりますが、
根本に「待つ」という態度や姿勢があると、
稽古に自然と新しい「展開」のようなものが生まれてきて、
つまり「創造」とか「知的生産」のようなことが起きてくるのはたしかで、
それが人間の成長の自然な「根」のようなものだと思います。
植物のように成長してゆくことで、
いつも何かを追い続けてばかりの暮らしというものは、
ときどき反省した方が良いと、自分なりには考えさせられました。
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ときに「ぽかんとする」時間が必要で、
また、喜びとかたのしみという面でも、
「待つ」ということが生活の中にあった方が、
得られるものが大きいような気がします。
それは、なんでもかんでも、詰め込めばいいというのと
はっきり違う考え方だと思います。
そこに「努力」とは違う、一つの「可能性」の種があるのではないでしょうか。
このブログ原稿も、
月、一回前後の更新と、
みなさんをかなり多く「待たせて」いるわけですが、
ゆっくりした丁寧な勉強や、
時間をかけた稽古の日々から、
何かを発信する意味があると思い、
ちょっとずつ頑張っています。
楽しみにして待ってくださる方もいくらかいらっしゃるようで、
嬉しく思っていて、
また、やってゆこうと思います。
そういうわけで、
これからもよろしくお願い致します。
読んでくださりありがとうございました。
また次回お会いしましょう。
(つづく)
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