人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

読書日記:奥村大介「ささめく物質」(『現代思想』2014年1月号)

2014-01-13 22:53:13 | 書評の試み
こんばんは。
ツイッター上で仲良しの、奥村さんの論文、とても魅力的だったので、簡単なレヴューを書いておきます。

「ささめく物質 物活論について」という題で、物をめぐる観念の歴史を振り返る論考。
物活論とは簡単にいえば、「物質にはそもそも生命がある」という考え方なのですが、詳しくは奥村さん本人の文章を読んでみてください。
 論文の結論部分では、物質と生命とをめぐる関係の、文学への可能性が提唱されます。
 著者は、「物活論」は今日では「科学ではありえない」としながらも、新たなる「物質の詩学」、「物を語る」営み、「物が語る」営み、「物と語る」「物に語る」営みの可能性として、有意義だと言います。それが震災の後で詩を書くことの可能性となる、と。
 ここで注意したいのは、論考の途中で触れられる、ディドロに関するくだり。
 「生命を与えた外因を仮定するや」「その外因を生じさせた原因をさらに想定せざるをえなくなり」「無限後退へと陥る」という部分です。いわく、「無限後退を避けるためには、超越的作用因(事実上の神)を想定するか、その現象している事物そのものに作用因を内属させなければならない」。「超越論的無限後退」としてよく知られている発想だと思うのですが、これ、単に存在論などの哲学的なテーマではなく、物理科学にも関わるテーマだったんですね。というか、この時代辺りまではたぶん、物理も哲学も分かれていなくて、その全てに関して神とどう関わるかが重要だったんだと思います。

 「ディドロは後者を選」び、それが物活論なのですが、この、物に内在させる発想って、文学における作者の意図の扱いに非常に似ているなあ…と。つまり、作者に意図があって書いているのではなくて、物語のなかの言葉の一つ一つに意思があって、関係し合っているんだ、という発想に似ている気がしました。

 ついでに言っておくと、日本語における「心」はたぶん今で言う意味よりはずっと意味範囲が広くて、今で言えば意味内容とか、何かに内在する論理過程とかを意味する言葉でもあったようです。「○○とかけて○○と解く、その心は?」みたいな。
 もちろん今で言うような「心」の意味もありました。「魂」も似た意味がありますが、ちょっとニュアンスの違う言葉。「息」と関わる言葉で、より生命に近いもの。このへんは結構研究がありますので、気になった方は調べてみてください。ドイツロマン派の小説に出てくる「影」などは、この魂とニュアンスが近いと思ってます。奥村さんがディドロに否定されていたものとしてあげていた「生気論」に近いのはたぶん、心じゃなくて魂のほうだと思う。

 作者の意図ではなく、文学に内在する言葉そのものに意思や関係性があるのだという立場は、読みに関するものでしたが、もう一歩進んで、書くことや語ること、そして語ることによって言葉と物とのありうべき関係性が創出されれば…という可能性は、一文学研究者の私としても、とても魅力的に思えました。

 何だかまとまらなくなってきました、ちょっと酔っているのかもしれません…

迷いこんできた蛾の物語―W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』

2013-08-06 11:59:35 | 書評の試み
 こんにちは。今日は原爆の日ですね。
 ちょっと前までは、原爆の日というともっと大々的に報道されていたような気がするのですが、震災以降なんだか控えめな気が…。私がテレビをまったく見ない(というか、地デジ化以降うちでは見れなくなった)せいで、そう感じるだけかもしれませんが。

 今日は久々に、小説の話。結構前に読んだ本なのですが、一度きちんと書評を書きたいと思っていました。作者のW.G.ゼーバルトは、1944年生まれ。ドイツ出身のドイツ語作家で、やがてイギリスに移住。ドイツ近現代文学をイギリスの大学で講じていたこともあって、小説ともエッセイとも批評ともつかない、魅力的な散文作品を沢山残しています。将来のノーベル文学賞候補と目されながら、2001年に自動車事故で死去。
 『アウステルリッツ』はゼーバルト作品のなかでは最も小説らしい小説で、また評価も高い、代表作です。


   *   *   *

 物語は1960年台の後半、イギリスからベルギーへの旅を繰り返していた語り手の、その旅の1つ、アントワープの駅舎から語り始められる。そこで出会い、以後幾度も再会を繰り返すジャック・アウステルリッツという人物が主人公。博学で、何かについての研究をしているらしい彼は、二次大戦中に救われ、イギリスに移住させられたユダヤ人の子どもの一人であることがやがて明かされる。増殖する批評的言説、間接話法を多用した文体のなかで、断続的に語られるアウステルリッツの物語を辿ってゆくと、彼は彼を愛してくれた女性のもとからも、50歳を過ぎてから自らの物語を辿り直し、辿り着いた両親を知る女性の元も逃げ出し、ついには語り手の前からも姿を消す。

 建築、めまい、視覚、鉄道、要塞と収容所、図書館、動物園と植物園…。作品中で増殖する批評的言説は、アウステルリッツの物語と密接に関わりながら、近代という陰鬱な、抜け出すことのできない、間違った場所に連れて来られた…、物語を形づくる。
 思えば、冒頭に語られる語り手の悪寒…、夜行獣館と駅舎の待合室の人々に対する感慨も、アウステルリッツの物語を象徴する。

 今くっきりと脳裏に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。(中略)真剣な面持ちで小さな川のほとりに蹲り、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずり込まれた、このまやかしの間違った(ファルシュ=ルビ)世界から逃げ出せるとも思っているかのようだった。(4頁)

とある洗い熊の描写は、「故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない生き残り」「自分たちしか生き残らなかったがゆえに、動物園の動物と同じ苦渋に満ちた表情を浮かべている」(6~7頁)かのような旅行客のなかで、「ただひとり漠然と宙に視線を漂わせていない」「メモやスケッチを熱心に取っていた」(7頁)アウステルリッツの様子に重なってくる。

 あるいは、駅舎の天蓋のなかで、「最も高い位置に鎮座」する、「針と文字盤で表される時間」(12頁)。これは絶滅収容所のなかで途切れた線路、彼らを効率的に輸送するシステムが、時間の管理=時刻表によって可能になったとの指摘を想起させずにはおかない。翻訳者の鈴木仁子が(ナポレオンの三帝会戦だけではなく)「AusterlitzがAuschwitzを連想させる」(訳者あとがき、294頁)ことを示唆するゼーバルトのインタビューを紹介するが、私にはドイツ語の語感は分からないものの、途切れた線路のその先を、この物語が「消失点」として持っていることは確かだろう。
 けれども彼ら、東方へ、東方へと移送された彼らと異なり、救われて別の列車に乗ったアウステルリッツの物語は、ついに彼らを取り戻すことができない。

 とりわけ印象的なのが、アウステルリッツの自宅に彷徨い込んできた蛾の描写だろう。

 あたたかい季節には、我が一匹、二匹、私の家の狭い裏庭から家の中に迷いこむことがあります。朝早く起きて見ると、蛾が壁にとまったまま、じっとしている。彼らはおのれが行く先を誤ったことを承知しているのだと私は思うのです、とアウステルリッツは語った。なぜならそっと外へ逃してやらないかぎり、命の灯の消えるまで、ひとつところをじっと動かないのですから。それどころか断末魔の苦悶にこわばった小さな爪を突き立てたまま、命がつきたのちもなお、おのれに破滅をもたらした場所にひたと取り付いたままでいる――いずれ風が引き剥がして、彼らを埃っぽい片隅に吹き去るときまで。(91頁)

 この蛾たちは、裏手にある東欧ユダヤ人たちの墓から迷い込んできたことが後に明かされる。

 私の家の窓からはまったく見えないのですが、あの壁の後ろには、菩提樹の木立やライラックの茂みに囲まれて、十八世紀このかた、彼の地の東欧ユダヤ人社会に生きた人々が埋葬されてきた墓地がある。(中略)いま思うと蛾たちはあそこから私の家に飛んできていたのでしょうが、私が墓地に気づいたのは、ロンドンを離れる数日前のことでした。(277~278頁)

 間違って彷徨ってきた魂…。
 重要なのが、これが、青年時代の幸福な思い出…、憂鬱なことも多かった思い出の中で唯一幸福な思い出のなかに挟まれた描写であることだろう。寄宿学校で友情を結んだジェラルドの実家「アンドロメダ荘」に招かれた日々の思い出であり、そこは蝶や貝、甲虫などの博物標本の溢れる魅力的な別荘だった。世界中のものを集め、分類し、標本箱のなかにピンでとめる欲望。ただし、蝶、あるいは蛾は、単に分類され、ピンでとめられるものであるだけではなく、生きた、自由な、開放のイメージも併せ持つ。

 夜のとばりが降りてまもなく、私たちはアンドロメダ荘からかなり登ったところにある山の端に腰を下ろしていました。背後は急勾配の山腹、眼前は漆黒の闇に包まれた渺茫たる海。エリカの茂みに囲まれた浅い窪地にアルフォンソがガス灯を置き、灯をつけたと思うまもなく、登り道ではひとつも出会わなかった蛾が、忽然と、まるで虚空から湧き出たかのように、あるものは弓なりに、あるものは螺旋をえがき、あるものは輪をかいて無数に群がってきたのです。(88頁)

 初期の短編を集めた『移民たち』においては、蝶、あるいは蛾は開放される魂を象徴し、関わって描かれるナボコフらしき人物は、主人公を自死から救う存在として描かれる。それでもその多くは自死や過酷な電気治療の結果としての死を迎えることとなるのだが、それでも蝶・蛾が一抹の救いのイメージとともに描かれることは注目に値する。

 対して、『アウステルリッツ』では、墓地から彷徨い込んできた蛾は、命が尽きた後まで、間違った場所に取り付いたままでいる。「まやかしの間違った世界」から逃げ出す方途がないように。
 アウステルリッツ、語り手とともに、私たちは「まやかしの間違った世界」のなかに閉じ込められたままだ。それでもほんの少し、開放の可能性があるとしたら、「そっと外へ逃してやらないかぎり」という留保がついていることだろうか。

*本文引用は鈴木仁子訳『ゼーバルト・コレクション [改訳]アウステルリッツ』(白水社、2012年)による。
 
   *   *   *


おまけ:テリちゃん。前髪で目が見えない。


歩行と舞踏のあいだで:補遺―山尾悠子「夢の棲む街」

2013-06-16 12:22:53 | 書評の試み
 こんにちは。今日は、小説の話を。

 ちょっと前に、「歩行と舞踏のあいだで」という題で、『それから』と『第七官界彷徨』について書いてましたが、「舞踏」が重要な役割を果たす小説に、山尾悠子の「夢の棲む街」があります。

 山尾悠子は1970年代後半にデビュー。SF系の雑誌などを媒体に活躍していましたが、SFがひとつのジャンルに分類できないような作品を許容していた時代。幻想文学とも純文学ともつかない、澁澤龍彦的なものを引き受け、昇華したした作風が特徴です。寡作ながらも硬質華麗な文体でカルト的な人気を誇っていましたが、1990年代は沈黙。2000年に国書刊行会から作品集成が刊行されたことを契機に執筆活動を再開しました。
 モンス・デジデリオの倒壊する巨大建築物の絵が背景に使われた、作品集成の案内に掲げられた、「誰かが私に/言ったのだ/世界は言葉で/できていると」という言葉が、彼女の作品世界を象徴しています。

***

 「夢の棲む街」は代表作のひとつ。初出は1976年、『SFマガジン』の7月号に掲載された。その後1977年に単行本『夢の棲む街』におさめられる。

 舞台は「浅い漏斗型」(10頁)をし、底に当たる中心部分に「円形劇場」(9頁)がある円環状の街。人々は昼間眠り、夜起きて、建物は固定された場所にあるのではなく「〈ある任意の一点〉に存在する」(17頁)。増殖し癒着する天使や脚だけが肥大する踊り子「薔薇色の脚」など、「サディスティックな畸形的イメージが次から次へと現れる」(石堂藍「改題」)。この物語の語り手となるのが、「夢喰い虫」の「バク」である。

 〈夢喰い虫〉の仕事は、街の噂を収集しそれを街中に広めることである。(中略)街の住人たちは、それぞれの寝床の中で、眠りながら薄く目をあけて、それらの声(〈夢喰い虫〉たちが街の縁から中心に向かってささやく声、引用者注)の語る噂話を聞く。バクはこの〈夢喰い虫〉の儀式にもう数箇月間も参加できずにいたが、この街において、儀式に加われない〈夢喰い虫〉ほど中途半端な存在はなかった。務めを果たせない〈夢喰い虫〉はすでに〈夢喰い虫〉ではなく、〈夢喰い虫〉ではない何者かになってしまうのだろうかと亀裂だらけの石畳に立ってぼんやり考えていると(10~11頁)

 夢喰い虫は「噂を語る声」を実体化した生き物であり、「語り手」を表象する存在でありながら、語り手としての務めを果たせない。そのきっかけとなったのが、数カ月前に「円形劇場」で起こったとある事件だった。
 円形劇場では、踊る機能に特化するために脚だけが肥大した「薔薇色の脚」と呼ばれる踊り子たちが踊りを踊っていた。

 知覚がまだ残っているのかどうか、踊り子たちはいつでも一言も言葉を発しなかった。(13頁)

 この畸型女たちを〈薔薇色の脚〉に創りあげる方法は演出家たちの秘密とされているが、街の噂によればこれはかれらが彼女たちの脚にコトバを吹き込むことによってなされるのだという。(中略)毎夜演出家たちは踊り子の足の裏に唇を押しあてて、薔薇路色のコトバを吹き込む。ひとつのコトバが吹き込まれるたびに脚はその艶を増していくが、下半身が脂ののった魚の皮膚のような輝きを持つにつれて畸型の上半身は徐々に生気を失ってゆき、(13頁)


 ある日、その踊り子たちが集団失踪する。ほどなく全員捕獲されたものの

 ひとりの踊り子は脱走の理由を告白して、こう言った。(中略)――コトバがひとつ吹き込まれるたびに、私たちの脚は重くなる。私たちとて踊り子の端くれ、コトバのない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ、と。それを聞いた演出家たちは怒り狂い、踊り子たちの脚からコトバを抜き取ってしまった(中略)が、そのとたんに脚たちは力を失い、死んだように動かなくなってしまったのだという。(14頁)

 「踊り子を出せ」と叫ぶ観客たちへの対応を議論していた演出家たちは、

 今こそ我々が踊る時だ、と一人が叫んだ。
 踊り子たちの〈脚〉はなくとも、我々のペン胼胝のある手や運動不足でむくんだ脚を、コトバは覆い隠してくれる筈だ!(12頁)


と、観客たちの前で演説を始めるものの…。

 物見に行っていた雑役夫の一人が竪穴を降りてきて、怒り狂った観客のひと打ちで演出家たちは全員撲殺され、ホールの中ははや流血の惨事だと報告した。踊り子を出せ、〈薔薇色の脚〉を出せ、と殺気だった観客たちは血に塗れた両手を振りかざして口々に叫んでいるという。すると、直立していた〈脚〉の群れが唐突にブルッと雌馬のように身震いした。はっと気付いて道をあけると、〈脚〉たちは次々に廊下に飛び出しはじめ、木の根のように硬直した上半身を乗せたまま狭い地下道を踏み揺るがして竪穴を駆け上がり、舞台中央に通じる穴の向こうに姿を消していった。(15頁)

 こうして、演出家たちも薔薇色の脚も死に絶える。演出家の死は、言葉が作者を殺したことを表象していよう。

 こうして、この夜を最後に劇場の踊り子は死に絶え、その製造方法を知っていた演出家たちも全員死亡したため、再び街に〈薔薇色の脚〉の姿が見られることはなかった。しかしその夜死に至るまで踊り続けた脚の群れはあらゆる言葉を飛び越えて美しく、それはまさに光り輝くようだったという。(16~17頁)

とあるように、舞踏はほんの一瞬の、詩的瞬間として描かれる。

 ところが物語では、異変が起こり、繰り返し「あのかた」の「顕現」が囁かれるように、神のような作者の存在が噂される。「街」の中心にある「円形劇場」で起こったカタストロフィは、「街」での出来事を表象し、もう一度、同じ物語が、今度は「街」全体を舞台として起ころうとしているのだ。

 そんなある日、「あのかた」からの招待状が街の人々のもとに届く。円形劇場の円柱にとまって「噂」を吹き込み、「わからない」「わからない」と言いながら落下してゆく「夢喰い虫」たち。「バク」は地下の楽屋が気になり、入り口の上蓋をこじ開けようとしながら、「あのかた」の名を大声で呼び、「中に、いるのか?」「本当は、いやしないんだろう!」(42頁)と言ったそのとき、大時計が深夜零時をさし、「機械仕掛の鐘の音」が鳴り終えると同時にゼンマイがはじけて針がぴたりと停止する。
 地下で落盤が起きたらしく、円柱も硝子も崩壊し、座席は人々とともに中心へと向かって雪崩落ちる。

 巨大な裸足の脚が、一撃で大地を踏み割ったようなある〈音〉が中空に轟いて、がん、と反響した音がその瞬間凝結し、同時にすべてが静止した。(43頁)

 それはすべての言葉を飛び越える言葉の一撃であり、詩的瞬間を表象していよう。円形の街、円形の時間、その全てが静止する詩的瞬間として、「舞踏」の、踊り子たちの一撃が描かれている。
 歩行と舞踏のあいだで彷徨した『それから』や『第七官界彷徨』とは異なり、「夢の棲む街」はまっすぐに、いやぐるぐると舞踏し続け、ある瞬間に静止する。

*本文引用は、『山尾悠子作品集成』国書刊行会、2000年による。

 

歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その3

2013-06-02 21:30:19 | 書評の試み
 ごんちゃんにはまだ首輪がつけられてません。あんなに甘えたれになってたのに、ちょっとでも追いかけるみたいになると駄目みたい。首輪つけようとすると、どうしても追いかけるみたいになるので。首輪がついてれば、つかまえようもあるんですが。明日は店(1階の店舗で自転車店をやってます)が開くので、仕方ないから小さい部屋のなかに閉じ込めてる。去勢手術の抜糸には、ゲージに追い込んで閉じ込めて行くしかないのかなあ。

 しばらく続きを書いてなかったので、とりあえず「歩行と舞踏のあいだで」まとめます。(→その1その2メモ
 
 『それから』では詩と散文についてのメタフィクショナルな言説があらわれ、目的の場所に歩いてゆく(歩行)散文と、目的もなくただ散歩(遊歩)する詩、と区別される。なおかつ生殖や恋愛は散文的なものである。物語には詩を想起させる円環的なイメージが多出し、生殖をイメージさせる受粉が描写されながらも、三千代の赤ん坊が亡くなったことや、受粉とは切り離された、ただ芳香する白い花のイメージが恋愛物語を動かす。けれども結局物語は恋愛物語であり、いわゆる無目的(反生殖)を目的とした展開を免れ得ているわけではない。
 尾崎翠『第七官界彷徨』におけるコケの受粉や、においの描写はおそらく、『それから』を踏まえているものだろう。反生殖の立場は明確にされないこの物語が、にも関わらず、少女的なものとして成立しえているのは、コケの受粉←『それから』のアマランスのイメージが、反生殖を暗示させるためだろう。加えて、『第七官界彷徨』では詩についてのメタフィクショナルな言説が『それから』以上に多い。はじめから、詩を書くこと、という「目的」が提示されるし、「ひとつの恋愛をしたようである」という物語も提示される。けれども目的を遂行することは詩的ではない。詩を書くことについても、恋愛物語についても、当初の目的はずれにずれ続けるのである。

 前回引用してなかったけど、いま気づいた。三五郎が歌う歌に、「はじめ赤毛のメリイを愛していたジャックが途中で道草をはじめて黒毛のマリイと媾曳をして、そしてしまいにはまた赤毛のメリイが恋しくなったというような仕組のオペラ」(113頁)というのがある、「道草」って言葉が出てきますね。

鴎外の動物虐待。

2013-05-07 20:47:21 | 書評の試み
 森茉莉の論文は、何とか書き上がりそう。査読があるので通るかどうか分からないし、まだ構成や文章の流れにスムーズじゃない部分があるけど、良い論文になりそうです。

 今日は論文に入れられないことで、ちょっと触れておきたいことがったので、書いておきます。

 森茉莉に、「犬たち」というエッセイがあるのですが。全集だと、3巻に入ってるかな、『記憶の絵』に入ってるエッセイ。
 これが、かなりひどいのです、何がひどいって、鴎外が。つまり鴎外が、子犬を地面にたたきつけた、というエピソードが語られている。私引用するのも心が痛むので引用しないんですが、子犬と一口に言ってもいろいろなんで、どのくらいの大きさの子犬かにもよるんですけど、これは助からんだろう…、という感じで。
 茉莉は、あまりにびっくりしたからその後どうなったかは覚えていない、と書いています。
 これ、笙野頼子は大好きなパッパのためなら、忘れてしまう、とか書いてますけど(『幽界森娘異聞』)、私は必ずしもそうじゃないと思うんですよね。だって、むごい結末を推測させるには、「覚えていない」で充分ですもん。子犬が無事だったら、「覚えていない」なんて書くわけない。
 茉莉は、父親を告発してるんだと思う。聖人面した父親の、残酷な一面を。いちばん弱い存在にストレスのはけ口が向かう、「偉きな」とはとても言いがたい、父親の一面を。
 すごい、ショックだったと思うよ。一瞬のことで反応できなかったにしても、ひょっとしたらこうしていれば、助けられたかもしれない…、とか、絶対思うはず。しかもそれ、自分の父親が危害を加えてるわけで。たぶんすぐには告発できないと思うのですが、だって、告発しても子犬の命は戻ってこないから。それでもそれだけ長い間経って、不意に外面に現れるほど、心の傷は残っていたんだと思う。

 茉莉から父への思いって、書かれているものはやはりフィクションで、ほんとはそんなに、大好き、ってわけでもなかったのかもな、と思います。わだかまりは結構あったと思う。

 ともかく、鴎外ひどいです。



ろこちゃん。ろこちゃんはいつでも熟睡してて、帽子を被せられても、ごらんのとおり。