人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

『大和物語』141段の二人の妻

2020-11-13 12:01:39 | 日本文学
『大和物語』141段が、数年前からずっと気になっています。

 大和の掾といっていた男に、本妻(もとの妻(め))と新しい妻(筑紫から連れてきたので「筑紫の妻(め)」)がいたんだけど、男はよその国(ここでいう国は、筑紫の国とか大和の国とか武蔵の国とかのこと)に行ってばかりであんまりいない。だから本妻と筑紫の妻は二人仲良く暮らしていた。筑紫の妻はときどき浮気なんかして、それを正直に本妻に打ち明けたりして、その正直な様子がまた可愛くて、二人仲良くしてたんだけど、そのうち男の愛情が薄れてきて筑紫の妻をあんまり大事にしてくれなくなった。だから筑紫の妻は親きょうだいのいる筑紫に帰ることになり、男も愛情が薄れていたのでとめなかった。で、筑紫の妻が船に乗るところまで、本妻と男はお見送りに行くんだけど、本妻はもともと仲が良かったからすごく悲しむし、男もいよいよお別れとなると悲しくて、筑紫の妻の顔がずっと小さくなるまでこちらのほうを見ているのを、悲しい気持ちで見送っていた、というお話。

 この話、以前勤務していた塾の教材にあって、当時私は新人講師だったので研修がてら授業見学させてもらってた、(私より若い)男の先生が、分からない、よく分からない話だ、って繰り返していたのをよく覚えています。私は、夫はほとんど帰ってこないと言ってるんだから話が合う相手としては妻同士しかいないのはよく分かるし、夫はほとんど帰ってこないで妻たちだけで仲良く暮らしてるなんて理想だ…って思ったんですけどね。でも自分が授業で教えたときも、生徒さんによく分からない、って言われたので、よく分からないと思う人のほうが多いのかもしれないです。

 最近、古典の登場人物たち(といってもすべての古典文学が分かるわけではないので、私が専門としている『源氏物語』がメインですが)はセクシャリティに悩まないよな、ということを考えています。必ずしもみんな異性愛者であるわけではなかったと思うのですが、悩まない。

 もちろんそこには、そもそもセクシャリティという概念がないことも大きいとは思います。ときどき、近代以前の寺院での稚児愛や、近世の衆道について、近代以前の日本はおおらかで性の多様性に寛容だった、というようなことを言う人がいて、それはちょっと違うと思うのが、まずは個々の文脈や歴史があるということももちろんなのですが、そもそもセクシャリティやアイデンティティという概念がなく、セクシャリティとアイデンティティが結びついていない世界だということを考えないといけない、ということです。

 もうひとつ思うのは、仮に結婚して夫なり妻なりを好きになれなかったとか、嫌で嫌で仕方がなかったとしても、今のような一対一のモノガミー社会じゃないから何とかなったんじゃないか、ということです。夫は別の妻なり愛人なりを作ってもいいし、何なら妻の女房に相手してもらってもいい。もちろん夫に新しい妻なり愛人なりができることは、自分の地位や権利が脅かされるかもしれないことであって、物語の中には、夫の妻や愛人に圧力をかける登場人物もたくさん描かれています。妻同士が気が合うかどうかもいろいろでしょう。『大和物語』141段も、筑紫の妻は夫が好きで連れてきた女性で、もともと妻同士が友人であったわけでも何でもないので、妻同士気が合ったのは、運が良かったのかもしれません。

 また、夫と妻がうまくいかなくなったら、結婚状態が解消されて、結局自分の生活あらどうしましょう、みたいなことになることだってあったでしょう。『源氏物語』の中の女三の宮や末摘花は、自身の身分がものすごく高かったからとか、源氏が何となく面倒見が良かった(あるいは末摘花に土地があった)から幸運だっただけで、末摘花なんてあのまま源氏に再発見されなければ死んでしまっていたでしょう。
 それでもやっぱり、自分のセクシャリティについて真剣に考えなくてもよい、優しい世界のように思えてしまうのです。

『大和物語』141段の本妻は、夫がほとんど帰ってこなくても浮気ひとつせず、新しい妻を可愛い可愛いと言って仲良くしていたのだから、異性愛傾向があんまり強くないのかもしれません。でもいくら本妻と筑紫の妻とが仲良くても、筑紫の妻は男の妻としてそこにいるわけなので、男との恋愛・性愛関係がうまくいかなくなれば、去ってしまうことになる。

 男の愛情が薄れて、筑紫の妻を筑紫に帰すことになったのに、いざ別れる段になると男が悲しむのは、矛盾であるとか、いや矛盾を含んだ人間の姿なんだとかいろんな注釈書で議論されていましたが、そうではなくて、そこで男が悲しんでいるのは、恋愛や性愛の相手としての愛情は薄れてしまったけれども、何年か一緒に暮らした相手としての愛情がやはりあって、分かれるのはやっぱり悲しい(別れてしまうとたぶん二度と会えないでしょう)、ということなんだと思います。

おまけ
   
母から送られてきた、スリッパをかじるのすけちゃんの写真。





MIU404の桔梗さんと「ハムちゃん」は新しい家族なのか

2020-11-08 22:42:48 | その他レヴュー
女性で初めてアメリカの副大統領になる、カマラ・ハリス氏の演説素晴らしかったですね。
どういう場面でどういうメッセージを送ればよいのかよく分かっている、アメリカ的に上手な演説だったと思うのですが、
実際に見ている小さな女の子たちにはすごく力強いメッセージだったと思いますし、
現在就活や仕事上で様々な困難に直面している女性たちにとっても大きな応援になると思い、感動しました。

さて、前回に続き…になってしまうのですが、『MIU404』について、どうしてももやもやしてしまうところがあるので、書いておきます。
麻生久美子演じる、警察の中で初めて女性の隊長となって頑張っている「桔梗さん」と、黒川智花演じる、元幼稚園教諭の羽野麦「ハムちゃん」のペアについてです。
この二人の同居は一見、たぶん異性愛者の同性同士、性愛によって結びつかない関係で、助け合いながら暮らすという「新しい家族」のように見えるけれども、男社会の警察の中でバリバリ働く桔梗さんと、元保育士で身の危険があるために働けず、桔梗さんの子供の世話や家の中のことをしているハムちゃんには、従来的な夫と妻の役割がそのまま引き移されているような感じがして、もやもやする、というお話です。

「ハムちゃん」は、数年前の裏カジノ事件で通報者となったことで、裏カジノの実質的な経営者であり、彼女にストーカーまがいの執着を示していた「エトリ」という男に命を狙われています。そのために警察官であり、『MIU404』の主人公たちの上司である隊長「桔梗さん」にかくまわれて同居し、家事や子供の世話などをして過ごしています。

桔梗さんについては、飲食店経営者の男性と結婚していたのですが、夫は事故死し、その後妊娠に気づいて出産し、ひとりで育てた、という過去が語られています。
桔梗さんはたぶん氷河期世代の真ん中くらいだと思います。
言わなければいけないことははっきり言いますが、4機捜を認めてもらうための条件として、初めての女性隊長として広報しろと言われた時は素直に従ってますし、上の世代のように、肩肘張って戦っているという感じではない。

この二人は、「ハムちゃん」が「エトリ」に命を狙われているという条件によって同居しているわけですが、男社会の警察(多分、急に呼び出されるようなことも多いのでしょう)の中でバリバリ頑張っている桔梗さんと、元幼稚園教諭の「ハムちゃん」の関係は、女性同士であるにもかかわらず、どうしても旧来的な夫婦関係に似ているように見えてしまいます。

幼稚園教諭という仕事は「女性」の仕事であるとされてきたことによって、専門性が必要とされ、過酷なのにもかかわらず、お給料が低く押さえられてきた職種です。また、「ハムちゃん」が「エトリ」と出会ったきっかけは、彼女が幼稚園のお給料で足りない生活費を、ピアノバーでのバイトで補填しようとしていたことだと語られていますが、ピアノバーでの演奏なども、専門性が安く買いたたかれることの多い職種かもしれません。幼稚園の先生って、楽器弾くことが多いので、楽器をそこそこきちんと習っている人が多いですが、ピアノバーでのバイトは、かなりきちんとやっていないと難しいように思います。

彼女は裏カジノを密告したことによって、社会的な生活の場から逃げ出さざるを得ず、桔梗さんの家の中からほとんど出ることができません。この不自由さ、息苦しさは、まるで専業主婦状態の比喩のように見えました。
ハムちゃんは家の中から出ることができないために、家の中のことや、子供の世話をやっていました。ハムちゃんをかくまうつもりで、仕事をバリバリやっているためにできない部分、家の中のことをやってもらっていたことに対して、桔梗さんはどう思っていたのか。

第4話で、「遅くなってごめんね」と言う桔梗さんに対して、「全然。家の中のことくらいしか、することないし」と、ハムちゃんが答える場面がありますが、まるで夫と妻の会話です。それに対して桔梗さんは「必ずあなたを自由にする」と誓いますが、これはつまり「エトリを逮捕する」=自分の仕事をちゃんと遂行する、ということなんですよね。

確かに、桔梗さんにとってできることはそれだけです。自分の仕事をちゃんとすること。どんなに彼女が頑張っても、関係のない幼稚園のお給料をあげるなんてことはできません。最終話で、「できることを一つ一つやった先に、少しでも明るい未来があるんじゃないんですか」と言う場面がありますが、できることをひとつずつ、あきらめず、怒らず、絶望せず、やっている人物として描かれています。

ところで、『MIU404』の主人公は、綾野剛演じる、「野生のバカ」「伊吹」と、星野源演じる、優秀で明晰な「志摩」の警察官二人です。どうやら伊吹はハムちゃんがかなり好みみたいだし、志摩は桔梗隊長のことが好きそうなのですが、この二人とハムちゃん、桔梗さんの恋愛は全く進展しません。
途中、第6話あたりで伊吹は、自分とハムちゃん、自分が警察官になったきっかけとなった元警察官の「ガマさん」、の3人で、「独り者同士一緒に住もう」と提案します。旧来的な夫婦関係ではない、家族イメージの提案と言えますが、実は「ガマさん」が自分の妻を故意にひき逃げされ殺された復讐として殺人を犯していたことが判明し、逮捕されたことで、伊吹の提案は実現しません。
伊吹が提案した「新しい家族イメージ」は、性愛を中心とした夫婦の堅固な結びつきの前に敗退してしまうのです。

第9話で「エトリ」はついに逮捕され、ハムちゃんは桔梗さんに、「ありがとう、一緒に戦ってくれて」と言います。
「エトリ」を捕まえるという共通の目的による、男社会の中でバリバリ働くエリートの桔梗さんと、元幼稚園教諭のハムちゃんの、女性同士の連帯が描かれる、美しい場面のように見えます。

最終話では、幼稚園での採用が決まった、でもしばらくはお世話にならないといけないけど、というハムちゃんに対し、桔梗さんが「いつまででも一緒にいていいよ。結婚して家から嫁に行っても。行かなければ、一緒に老後を過ごしても」と返しています。一見とても理想的な関係に見えるのですがどうしても、ハムちゃんの幼稚園教諭としての立場と、桔梗さんの警察官としての立場の格差が気になってしまいます。

ハムちゃんに自由がなかった頃には、「エトリを逮捕する」という共通の目的があることによって、連帯は形づくられていたのかもしれません。けれどもハムちゃんが自由の身になった今や、ハムちゃんも幼稚園教諭として忙しくなるでしょう。忙しくてもどうしてもお給料は桔梗さんに比べて圧倒的に低い、そういう格差をどう乗り越えていくのか。
どうしても、もやもやしてしまうのです。

※保育士ではなく幼稚園教諭だと気づいたため修正しました(2020年12月26日)。