人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

佐藤亜紀×深緑野分 「黄金列車の乗車券」(12月10日、於.scool)行ってきました!

2019-12-23 13:54:12 | 佐藤亜紀関連
少し前になりますが、佐藤亜紀×深緑野分 「黄金列車の乗車券」(12月10日、於.scool)に行ってきましたので、感想書きます。
と言っても、自分で取ったはずのメモがどこかに行ってしまったので、記憶を頼りに書きます…。

黄金列車』は、第二次大戦末期、ハンガリーのユダヤ人没収財産を積んだ長い長い列車が、東側の前線からもう一方の前線まで移動するまでを舞台とした小説で、物などを契機として喚起される過去の時間と、現在時点とが入り混じりながら語られます。
主な視点人物となるのは、ハンガリーの文官バログ。母親がユダヤ系であったために妻共々無残な死に方をした友人(妻は殺され、友人自身は自殺、子供たちは行方不明)がおり、もともと友人同士であったその友人の妻、自分の妻とのなれそめからがずっと、列車の進行とともに回想されます。

佐藤さんからは、最初にハンガリーを旅行されたときの話など、
深緑さんからは、『ベルリンは晴れているか』の取材旅行の話や次の取材旅行の話などから対談がスタートしました。
佐藤さんが入手した判読不能な史料の話など、面白かったです。
次回作や次々回作のお話などもあって、司会の佐々木敦さんから、
佐藤さんは官僚を描くことが多いけれど、深緑さんは市井の人を描くことが多いという違い、
史実の上にフィクションの登場人物を置くことについての質問がありました。
佐藤さんが史実で実在する人物を小説に登場させたのは初めてだ、というのは結構意外でした。

ちなみに個人的には、歴史と小説の関係については、佐々木さんとは別の観点から、考えたいことがあります。
フィクションではない、ということは、歴史にとっては必須な要素だと思いますが、
小説にとってフィクションであると言うことは別に必須要素ではないだろうと考えていることがあって、
じゃあ小説を小説として成り立たせている要素は何なんだろう、ということです。
私が念頭に置いているのはナタリア・ギンズブルク(とカルロ・ギンズブルク)とかなんですけど。
ある家族の会話』くらいであればまだ、あからさまに『失われた時を求めて』へのオマージュである構造・表現などが小説的要素といえるのかもしれませんが、
マンゾーニ家の人々』なんて、ただひたすら淡々と残されている手紙をならべて、
短いコメントをつけていっているだけなのに、読んでいくとなぜかそれがちゃんと小説として成り立っている。
これは一体何なんだろうと、不思議で仕方がないわけです。
とはいっても私がそう感じているだけなので、結局私がそう感じている要素になってしまうのかもしれませんが。

会場からの質問の時間に、私も質問しました。
佐藤さんが判読不能の史料の話
(紙の質が悪いので、時間が経つとインクが滲んで読めなくなる→さらにマイクロフィルム→そこからプリントアウト)
をされていたので、
本文中でナプコリという事務員のタイプが完璧で、濃さも太さも均一で、時間が経つと滲む原因となる余分なインクを含まない(84頁)
とあることが印象的だったので、
その実際には滲んで読めなかった史料と、
作品中で語られる時間が経ってもにじまないような完璧なタイプとの関係を聞いてみたかったのですが、
質問としてはうまくまとまらなかったなあ…と思ってます。

あと、会場からの質問に、「かぶりを振る」という表現が非常に多い、何か意味とか意図があるのか、というものがありました。
私は全然気にならなかったのですが、比率的に他の作品に比べて多いのかどうかは何とも言えないのですが、
読み返してみると確かに登場人物が「かぶりを振る」場面はいくつかありました。
特にヴァイスラ―(バログの裕福な友人で、母方がユダヤ人)の子供たちが、
逃げる前にバログと妻のカタリンを訪ねてくる場面(253~255頁)
には多かったです。
たぶん、「かぶりを振る」ってNoを言う仕草なので、違う言語を話していて言葉が通じないとか、子供がNoを示す場面や、
あるいは言葉でNoを言ってしまうと、そこから会話や交渉が始まってしまう、そういう会話や交渉自体を拒む仕草なのかな、と思います。
あと、音がしないで視覚的に示される、という部分もあるかも知れません。

というような感じでした。たいへん充実した時間でした。
ありがとうございます。

テリちゃん亡くなりました。

2019-12-08 14:31:23 | 犬・猫関連
ここ数年心臓の悪かったテリちゃんが、2019年12月5日午前7時21分に亡くなりました。
お腹に水がたまり始めて、水を抜くようになってからも長く、頑張っていましたが、
最後本当に調子が悪かったのは1日くらいで、そんなに苦しまなかっただろう、
ということでした。

4日の夜にに「テリちゃんの調子がちょっと悪い。いつ帰って来れるの?」と電話があったんですが、
5日の朝7時21分に着信があって、その時は気づかなかったんですが通勤中に気づいて乗換駅でかけ直したところ、
「亡くなったので、帰ってくるのはいつになってもいい」とのことでした。

テリちゃんはいい子なので、年末に私たちが帰るまで頑張ってくれてるものだと思ってました。
でも、ここのところ毎回こっちに戻るときに「じゃあ次帰る時まで頑張るんだよ」と言って上京してたので、
テリちゃんにしてみればいつまで頑張ればいいの、という感じだったかもしれません。

   
ここ1年くらいは、しんどそうに横になってることが多かったです。

あと、猫のジジちゃんが糖尿病になってしまったそうです。
毎日注射をしないといけなくて、頑張ってやっているらしいんですが、獣医さんに言われたとおりにやっているつもりなのに何が悪いのか全然できてなくて、血液検査をするとまったくだめな血糖値高いままなんだそうです。
何が悪いのか分からない、と言われても私も見ていないので何とも言えないのですが、
よくある失敗パターンとかご存知だったら教えてください。

論文掲載情報「去勢と動物表象:松浦理英子『犬身』を中心に」「ガラスのリボンを解くために:笙野頼子『硝子生命論』と天野可淡」

2019-12-04 00:33:39 | 研究・発表・イベント等情報
こんばんは。
先日の三学会合同国際研究集会の「日本文学と動物」パネルにいらしてくださったみなさま、どうもありがとうございました。
おかげさまで充実したパネルになったと思います。

さて、11月に私の論文が2本公開されましたので、報告いたします。

・「去勢と動物表象:松浦理英子『犬身』を中心に」(『名古屋大学国語国文学』112号、2019年11月)
犬や猫の避妊・去勢手術が一般化したことやTNRの広がりなどで、古来生殖や自然の側に位置づけられることの多かった動物表象にどのような変化がもたらされたか、松浦理英子『犬身』を題材に論じるものです。

・「ガラスのリボンを解くために:笙野頼子『硝子生命論』と天野可淡」(『生物学史研究』99号、2019年11月)
去年の12月に行ったシンポジウムの発表をもとにしたもので、笙野頼子『硝子生命論』について、近年の球体関節人形のブームを踏まえつつ、人形作家・天野可淡が『KATAN DOLL』に付した後書である「解かれたガラスのリボン」と比較しながら考察するものです。

どうぞよろしくお願い致します。