少し前になりますが、佐藤亜紀×深緑野分 「黄金列車の乗車券」(12月10日、於.scool)に行ってきましたので、感想書きます。
と言っても、自分で取ったはずのメモがどこかに行ってしまったので、記憶を頼りに書きます…。
『黄金列車』は、第二次大戦末期、ハンガリーのユダヤ人没収財産を積んだ長い長い列車が、東側の前線からもう一方の前線まで移動するまでを舞台とした小説で、物などを契機として喚起される過去の時間と、現在時点とが入り混じりながら語られます。
主な視点人物となるのは、ハンガリーの文官バログ。母親がユダヤ系であったために妻共々無残な死に方をした友人(妻は殺され、友人自身は自殺、子供たちは行方不明)がおり、もともと友人同士であったその友人の妻、自分の妻とのなれそめからがずっと、列車の進行とともに回想されます。
佐藤さんからは、最初にハンガリーを旅行されたときの話など、
深緑さんからは、『ベルリンは晴れているか』の取材旅行の話や次の取材旅行の話などから対談がスタートしました。
佐藤さんが入手した判読不能な史料の話など、面白かったです。
次回作や次々回作のお話などもあって、司会の佐々木敦さんから、
佐藤さんは官僚を描くことが多いけれど、深緑さんは市井の人を描くことが多いという違い、
史実の上にフィクションの登場人物を置くことについての質問がありました。
佐藤さんが史実で実在する人物を小説に登場させたのは初めてだ、というのは結構意外でした。
ちなみに個人的には、歴史と小説の関係については、佐々木さんとは別の観点から、考えたいことがあります。
フィクションではない、ということは、歴史にとっては必須な要素だと思いますが、
小説にとってフィクションであると言うことは別に必須要素ではないだろうと考えていることがあって、
じゃあ小説を小説として成り立たせている要素は何なんだろう、ということです。
私が念頭に置いているのはナタリア・ギンズブルク(とカルロ・ギンズブルク)とかなんですけど。
『ある家族の会話』くらいであればまだ、あからさまに『失われた時を求めて』へのオマージュである構造・表現などが小説的要素といえるのかもしれませんが、
『マンゾーニ家の人々』なんて、ただひたすら淡々と残されている手紙をならべて、
短いコメントをつけていっているだけなのに、読んでいくとなぜかそれがちゃんと小説として成り立っている。
これは一体何なんだろうと、不思議で仕方がないわけです。
とはいっても私がそう感じているだけなので、結局私がそう感じている要素になってしまうのかもしれませんが。
会場からの質問の時間に、私も質問しました。
佐藤さんが判読不能の史料の話
(紙の質が悪いので、時間が経つとインクが滲んで読めなくなる→さらにマイクロフィルム→そこからプリントアウト)
をされていたので、
本文中でナプコリという事務員のタイプが完璧で、濃さも太さも均一で、時間が経つと滲む原因となる余分なインクを含まない(84頁)
とあることが印象的だったので、
その実際には滲んで読めなかった史料と、
作品中で語られる時間が経ってもにじまないような完璧なタイプとの関係を聞いてみたかったのですが、
質問としてはうまくまとまらなかったなあ…と思ってます。
あと、会場からの質問に、「かぶりを振る」という表現が非常に多い、何か意味とか意図があるのか、というものがありました。
私は全然気にならなかったのですが、比率的に他の作品に比べて多いのかどうかは何とも言えないのですが、
読み返してみると確かに登場人物が「かぶりを振る」場面はいくつかありました。
特にヴァイスラ―(バログの裕福な友人で、母方がユダヤ人)の子供たちが、
逃げる前にバログと妻のカタリンを訪ねてくる場面(253~255頁)
には多かったです。
たぶん、「かぶりを振る」ってNoを言う仕草なので、違う言語を話していて言葉が通じないとか、子供がNoを示す場面や、
あるいは言葉でNoを言ってしまうと、そこから会話や交渉が始まってしまう、そういう会話や交渉自体を拒む仕草なのかな、と思います。
あと、音がしないで視覚的に示される、という部分もあるかも知れません。
というような感じでした。たいへん充実した時間でした。
ありがとうございます。
と言っても、自分で取ったはずのメモがどこかに行ってしまったので、記憶を頼りに書きます…。
『黄金列車』は、第二次大戦末期、ハンガリーのユダヤ人没収財産を積んだ長い長い列車が、東側の前線からもう一方の前線まで移動するまでを舞台とした小説で、物などを契機として喚起される過去の時間と、現在時点とが入り混じりながら語られます。
主な視点人物となるのは、ハンガリーの文官バログ。母親がユダヤ系であったために妻共々無残な死に方をした友人(妻は殺され、友人自身は自殺、子供たちは行方不明)がおり、もともと友人同士であったその友人の妻、自分の妻とのなれそめからがずっと、列車の進行とともに回想されます。
佐藤さんからは、最初にハンガリーを旅行されたときの話など、
深緑さんからは、『ベルリンは晴れているか』の取材旅行の話や次の取材旅行の話などから対談がスタートしました。
佐藤さんが入手した判読不能な史料の話など、面白かったです。
次回作や次々回作のお話などもあって、司会の佐々木敦さんから、
佐藤さんは官僚を描くことが多いけれど、深緑さんは市井の人を描くことが多いという違い、
史実の上にフィクションの登場人物を置くことについての質問がありました。
佐藤さんが史実で実在する人物を小説に登場させたのは初めてだ、というのは結構意外でした。
ちなみに個人的には、歴史と小説の関係については、佐々木さんとは別の観点から、考えたいことがあります。
フィクションではない、ということは、歴史にとっては必須な要素だと思いますが、
小説にとってフィクションであると言うことは別に必須要素ではないだろうと考えていることがあって、
じゃあ小説を小説として成り立たせている要素は何なんだろう、ということです。
私が念頭に置いているのはナタリア・ギンズブルク(とカルロ・ギンズブルク)とかなんですけど。
『ある家族の会話』くらいであればまだ、あからさまに『失われた時を求めて』へのオマージュである構造・表現などが小説的要素といえるのかもしれませんが、
『マンゾーニ家の人々』なんて、ただひたすら淡々と残されている手紙をならべて、
短いコメントをつけていっているだけなのに、読んでいくとなぜかそれがちゃんと小説として成り立っている。
これは一体何なんだろうと、不思議で仕方がないわけです。
とはいっても私がそう感じているだけなので、結局私がそう感じている要素になってしまうのかもしれませんが。
会場からの質問の時間に、私も質問しました。
佐藤さんが判読不能の史料の話
(紙の質が悪いので、時間が経つとインクが滲んで読めなくなる→さらにマイクロフィルム→そこからプリントアウト)
をされていたので、
本文中でナプコリという事務員のタイプが完璧で、濃さも太さも均一で、時間が経つと滲む原因となる余分なインクを含まない(84頁)
とあることが印象的だったので、
その実際には滲んで読めなかった史料と、
作品中で語られる時間が経ってもにじまないような完璧なタイプとの関係を聞いてみたかったのですが、
質問としてはうまくまとまらなかったなあ…と思ってます。
あと、会場からの質問に、「かぶりを振る」という表現が非常に多い、何か意味とか意図があるのか、というものがありました。
私は全然気にならなかったのですが、比率的に他の作品に比べて多いのかどうかは何とも言えないのですが、
読み返してみると確かに登場人物が「かぶりを振る」場面はいくつかありました。
特にヴァイスラ―(バログの裕福な友人で、母方がユダヤ人)の子供たちが、
逃げる前にバログと妻のカタリンを訪ねてくる場面(253~255頁)
には多かったです。
たぶん、「かぶりを振る」ってNoを言う仕草なので、違う言語を話していて言葉が通じないとか、子供がNoを示す場面や、
あるいは言葉でNoを言ってしまうと、そこから会話や交渉が始まってしまう、そういう会話や交渉自体を拒む仕草なのかな、と思います。
あと、音がしないで視覚的に示される、という部分もあるかも知れません。
というような感じでした。たいへん充実した時間でした。
ありがとうございます。