こんにちは、年末も差し迫ってきました。
明日からもう2014年だなんて、ちょっと信じられません。
来年は、授業案のようなものをちょっとずつここに載せていけたらな…と思ってます。
非常勤持ってないからね、どこかで授業できます、ってアピールしないと。
でも私あんまりいろんなことできないから、
まず動画のせる方法とか、レジュメ(PDFかWordファイル)やPowerPointのせる方法体得しないと…。
年末になってから薬局事務のほうのシフトが増えてしまって、
昨日、一昨日は犬を獣医さんに連れて行くなどしていたので、今日やっとゆっくりできる感じです。
今日はしばらく放置していた、人形論について少し書きたいと思います。
人形論について―その1.で書いた内容と、関係するネタ。
人形と芸術についてのお話です。
ただし、人形が芸術であるか否かを論じるものではありません。
どういう文脈で人形が芸術でない…と言われるのか、
なぜ、人形は「芸術ではない」という弁明とともに作られるのか、ということ。
人形作家本人、あるいはインタビューにおけるインタビュアーの言説などを見ると、
こういうのは芸術ではないと思うが…という弁明とともに創作態度について語られることがよくあります。
例えば、
1,天野可淡について「可淡さんはやっぱり人形ですよね。芸術と言う枠の中に入るよりも」と言うインタビュアーに対し、パートナーであった吉田良「人形的なものと同時にオブジェ的なものも展開しているんですよ」(1)。
2,「可愛い」ことにこだわる人形作家・恋月姫について…「芸術というのは自分を表現するため、と言われているじゃないですか。それとは少し違う」(2)。
3,「アートとして捉える」ために「球体関節の「機能」の部分を取」り、「形態美だけにピントを合わせよう」とする人形作家堀佳子…天野可淡の「人を愛する事のできる人形」をつくりたいとの言葉を踏まえながら、「オブジェが意思を持ったら、面白いかな」(3)。
ここでは、
・形態美、オブジェ的なもの=芸術性であるとしながら、⇔自己や内面を表現するものとしての人形、
という価値観と、同時に、
・自己を表現していない、可愛いものとして人形を作る、
という二種類の人形≠芸術観がみられます。
ここで重複する内容となりますが、人形と彫刻の差異についての、
谷川渥の整理(4)を振り返っておきましょう。
谷川は、増渕宗一『人形と情念』(5)を踏まえ、
・彫刻が絵画と異なり視点が動き、量塊的存在であること、一方で人形は「あねさま人形」という「肉体不在の衣装のお化け」を典型として衣装的存在であり、
「衣装的形成と量塊的形成の対立として規定される」と整理します。
・その上で、「なるほどと納得させられる一方で」「釈然としないものが残る」、「総じて日本の芸術は反彫刻的」とし、
「彫刻と人形を基本的に分かつはずの量塊性と衣装性とが、西洋と日本では(中略)異なった位相にある」、「ハンス・ベルメールの「人形」は、衣装性と量塊性の基準を導入するなら「彫刻」」であるという点から、
・「人形と彫刻を分けるものとして、「心的距離と操作性」」の概念を導入します。
したがって、
・絵画=遠近法/彫刻=量塊性/人形=衣装性
・彫刻=抽象的、距離が遠い/人形=心的距離が近く、操作性がある
ということになります。
衣装性と量塊性の対立についてはまた機会があれば触れると思いますが、
彫刻に関しては、抽象性や心的距離の遠さから、人形と比較しての芸術性が位置づけられるのです。
また、球体関節人形がシュルレアリスム的なものとして位置づけられたことから、
球体関節人形の芸術性が、小説などの内面描写とは異なるものとして位置づけられた。
↓
人形の芸術性=自己や内面を表現しない
という位置づけが生まれます。
ただし一方で、小説などにおいて(殊に古い価値観で)は、内面が描かれること=芸術性とされる、ことから、
3,のような発言
人形=内面を表現しない≠芸術性
も見られるのです。
このように、人形は常に芸術と芸術ではないものの境界にあるものとして位置づけられます。
その境界線上で、自己や内面の表現の位置づけが揺れ動く。
そういうメディアとして、注目したいのです。
次は、セルフポートレートドールの有名な人形作家、
井桁裕子の「私小説のように」という概念に注目したいと思います。
それではみなさま、良いお年をお迎えください。
注:
(1)吉田良「危うさと儚さのあわいに」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)。
(2)恋月姫「死の淵を人形に見る」(同上)。
(3)堀佳子「触れ得ない存在をめざして」(同上)。
(4)「彫刻と人形 比較論の地平」(『美術手帳』2006年3月号)。
(5)勁草書房、1982年。
明日からもう2014年だなんて、ちょっと信じられません。
来年は、授業案のようなものをちょっとずつここに載せていけたらな…と思ってます。
非常勤持ってないからね、どこかで授業できます、ってアピールしないと。
でも私あんまりいろんなことできないから、
まず動画のせる方法とか、レジュメ(PDFかWordファイル)やPowerPointのせる方法体得しないと…。
年末になってから薬局事務のほうのシフトが増えてしまって、
昨日、一昨日は犬を獣医さんに連れて行くなどしていたので、今日やっとゆっくりできる感じです。
今日はしばらく放置していた、人形論について少し書きたいと思います。
人形論について―その1.で書いた内容と、関係するネタ。
人形と芸術についてのお話です。
ただし、人形が芸術であるか否かを論じるものではありません。
どういう文脈で人形が芸術でない…と言われるのか、
なぜ、人形は「芸術ではない」という弁明とともに作られるのか、ということ。
人形作家本人、あるいはインタビューにおけるインタビュアーの言説などを見ると、
こういうのは芸術ではないと思うが…という弁明とともに創作態度について語られることがよくあります。
例えば、
1,天野可淡について「可淡さんはやっぱり人形ですよね。芸術と言う枠の中に入るよりも」と言うインタビュアーに対し、パートナーであった吉田良「人形的なものと同時にオブジェ的なものも展開しているんですよ」(1)。
2,「可愛い」ことにこだわる人形作家・恋月姫について…「芸術というのは自分を表現するため、と言われているじゃないですか。それとは少し違う」(2)。
3,「アートとして捉える」ために「球体関節の「機能」の部分を取」り、「形態美だけにピントを合わせよう」とする人形作家堀佳子…天野可淡の「人を愛する事のできる人形」をつくりたいとの言葉を踏まえながら、「オブジェが意思を持ったら、面白いかな」(3)。
ここでは、
・形態美、オブジェ的なもの=芸術性であるとしながら、⇔自己や内面を表現するものとしての人形、
という価値観と、同時に、
・自己を表現していない、可愛いものとして人形を作る、
という二種類の人形≠芸術観がみられます。
ここで重複する内容となりますが、人形と彫刻の差異についての、
谷川渥の整理(4)を振り返っておきましょう。
谷川は、増渕宗一『人形と情念』(5)を踏まえ、
・彫刻が絵画と異なり視点が動き、量塊的存在であること、一方で人形は「あねさま人形」という「肉体不在の衣装のお化け」を典型として衣装的存在であり、
「衣装的形成と量塊的形成の対立として規定される」と整理します。
・その上で、「なるほどと納得させられる一方で」「釈然としないものが残る」、「総じて日本の芸術は反彫刻的」とし、
「彫刻と人形を基本的に分かつはずの量塊性と衣装性とが、西洋と日本では(中略)異なった位相にある」、「ハンス・ベルメールの「人形」は、衣装性と量塊性の基準を導入するなら「彫刻」」であるという点から、
・「人形と彫刻を分けるものとして、「心的距離と操作性」」の概念を導入します。
したがって、
・絵画=遠近法/彫刻=量塊性/人形=衣装性
・彫刻=抽象的、距離が遠い/人形=心的距離が近く、操作性がある
ということになります。
衣装性と量塊性の対立についてはまた機会があれば触れると思いますが、
彫刻に関しては、抽象性や心的距離の遠さから、人形と比較しての芸術性が位置づけられるのです。
また、球体関節人形がシュルレアリスム的なものとして位置づけられたことから、
球体関節人形の芸術性が、小説などの内面描写とは異なるものとして位置づけられた。
↓
人形の芸術性=自己や内面を表現しない
という位置づけが生まれます。
ただし一方で、小説などにおいて(殊に古い価値観で)は、内面が描かれること=芸術性とされる、ことから、
3,のような発言
人形=内面を表現しない≠芸術性
も見られるのです。
このように、人形は常に芸術と芸術ではないものの境界にあるものとして位置づけられます。
その境界線上で、自己や内面の表現の位置づけが揺れ動く。
そういうメディアとして、注目したいのです。
次は、セルフポートレートドールの有名な人形作家、
井桁裕子の「私小説のように」という概念に注目したいと思います。
それではみなさま、良いお年をお迎えください。
注:
(1)吉田良「危うさと儚さのあわいに」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)。
(2)恋月姫「死の淵を人形に見る」(同上)。
(3)堀佳子「触れ得ない存在をめざして」(同上)。
(4)「彫刻と人形 比較論の地平」(『美術手帳』2006年3月号)。
(5)勁草書房、1982年。