ナタリア・ギンズブルグの『わたしたちのすべての昨日』、読みました。
この作家のものは、『ある家族の会話』、『モンテ・フェルモの丘の家』、『マンゾーニ家の人々』を読んだことがありますが、それらに比べて読後感が暗い。『ある家族の会話』と同じ時代を扱ってるんですが、『ある家族の会話』はユーモラスだったんですが…
文章は淡々としていて読みやすい。装丁もきれいです。
******
1.梗概と登場人物、特徴
『わたしたちのすべての昨日』は第二次大戦前後のイタリアを舞台とし、弁護士一家の末娘アンナを中心に語られる家族の物語である。
母親はアンナを生んですぐに亡くなり、一家は反ファシズムの父、父の言いなりの長兄イッポーリト、男友達がたくさんいる姉コンチェッティーナ、次男のジュスティーノ、主な視点人物となる末娘のアンナ、家族同然の乳母のシニョーラ・マリーアによって構成される。向かいに住む石鹸工場一家――後妻マンミーナ、長女(前妻の娘)のアマーリア、長男エマヌエーレと次男のジューマ、居候のフランツ――、イッポーリトの友人ダニーロ、父の友人で旅行好きのチェンツォ・レーナが主な登場人物である。イッポーリトとエマヌエーレ、コンチェッティーナはほぼ同じ年ごろと思われ、ジュスティーノとジューマは同年、アンナはそれよりほんの少し年下であるらしい。アンナは大人しく、手がかからないため、あまり構われていない。
一家が住むイタリア北部の町、休暇を過ごす郊外にあるらしい「さくらんぼの家」、チェンツォ・レーナの自宅のある南部の村サン・コスタンツォを主な舞台として物語は展開する。
一家の父親も前半で亡くなり、長兄イッポーリトは向かいに住むエマヌエーレ、友人のダニーロ(当初はコンチェッティーナの求婚者として登場)とともに反ファシズムの地下活動にのめり込むものの、開戦後絶望してピストル自殺する。姉のコンチェッティーナは結婚しほどなく妊娠、アンナは隣家のジューマとつきあって妊娠してしまう。アンナの窮地を救ったのが父の友人チェンツォ・レーナであった。チェンツォ・レーナは自分と結婚して子供を生めばいいという。
アンナはチェンツォ・レーナの自宅のあるイタリア南部のサン・コスタンツォで子供を産む。ファシズム体制の崩壊後、イタリアは連合国側と休戦協定を結ぶが、ドイツが侵攻。チェンツォ・レーナは地下室に元曹長や反ファシズムの農民ジュゼッペ、ユダヤ系のフランツ(アマーリアと結婚したがトラブルがあって逃げてきた)を匿っていたが、女中がうっかりとドイツ人兵士に口を滑らせたために、ジュゼッペがドイツ人兵士を射殺することとなる。ドイツ人兵士の遺体が発見され、チェンツォ・レーナは自分が殺害したと名乗り出て、ついてきたフランツとともに銃殺される。
解放後、娘とともにイタリア北部の町に戻ったアンナは、生き残った人々と再会して語り合う。
物語はまだ若く「虫の沈黙」のなかで生きるアンナの視点で語られるため、全体像や登場人物のイメージを掴むのは難しく、息苦しい。例えばアンナがつきあって妊娠することになる隣家のジェーマの「狐歯」、チェンツォ・レーナの「米粒のような歯」(132頁)やレインコート、「灰色の頭」などの細部が繰り返し語られ、魅力的なのかどうか、美人なのかどうかなどのイメージは掴みづらい。他の登場人物の言葉によってイッポーリトが「美しい」ことに気づかされ(50頁)、コンチェッティーナが「けっこう美人」(82頁)であることが語られ、ジュスティーノが「とても男前」(175頁)であると言われる程度である。
アンナは誰かが分からない話をした時、ぼんやりと自分の想念の中に閉じこもる。ジューマの話を「信じるふり」をし(87頁)、一人きりになると革命を夢見る。はじめて「身体をかさねた」とき、「誰か来て、宿題もしないでと叱って、誰か、もうジューマと川岸の茂みに行ってはいけないと言って」、と思うのに「毎日ジューマと川岸の茂みに行くのだろう、毎日、巻き毛をもじゃもじゃにし、まぶたをきつく閉じたあの顔、言葉も彼女に対する思いやりもなかったあの顔を見るのだろう」(95頁)。だから、どう読んでも一貫してジューマのことを好きではないのに、「たぶんわたしたちはあまり愛し合っていなかった、家に帰るとき傷ついて不幸だったから」(125頁)と言うように、自分の感情を自分のものとして感じることができない。結婚後しばらくして、チェンツォ・レーナは「ぼくがとてもきみを愛していることが、きみがジューマでも誰でもほかの男と出てゆき、ぼくを独りにしないかといつもどこかで恐れているのがわからないのか」(189~190頁)と言うのに、アンナが彼のことを愛しているのかどうかは、ほとんど分からない。
歯やレインコート、足を引きずるなど、物語の中にはいくつか意味ありげな符牒が現れるのだが、そのいくつかをとりあげて整理してみたい。
2.犬とピストル
登場人物以外で重要な役割を果たすのが、イッポーリトの犬である。父の生前、自分の意思らしいものを発揮しなかったイッポーリトが唯一自らの意思で大切にし、亡くなるときにも家族に世話を頼んだ犬。イッポーリトが自殺する「夜中に庭で犬が吠えるのが聞こえ、それから門の軋る音」が聞こえ、朝には「庭で犬が吠え、地面を引っかき、門に身体をこすって吠えていた」(113頁)。
この犬をアンナとチェンツォ・レーナは結婚後連れていき、大切に世話をする。この犬を誤ってひいてしまうのが、後にジュゼッペに射殺されることになるドイツ兵である。
ある日アンナとフランツが台所でじゃが芋の皮を剥いているとチェンツォ・レーナが入ってきて、犬がどこにもいないと言った。アンナがすわったままだったので怒った。(226頁)。
二人が犬を探しに行き、フランツだけになったところ不意に血だらけの犬を抱えたドイツ兵が入ってき、オートバイで犬を轢いてしまった、ブレーキをかけたが間に合わなかったと言う。戻ってきたチェンツォ・レーナは
床の上でヒクヒク震えている犬をじっと見て、身体をかがめ、灰色の毛が血に染まった腹にそっと触れた。(227頁)
チェンツォ・レーナは彼にドイツ語できみはぼくらにとってこの犬がどんなものかわかるまい、ぼくらの家族同然だった、長いつきあいだったと言った。(同)
チェンツォ・レーナはアルコールはもう必要ない、犬は夜どおし震えて苦しむだろうからすぐに死なせてやったほうがいいと言って、ドイツ兵にきみのピストルで犬の耳に撃ちこんでくれと言った。ドイツ兵は犬をつれて外に出て、ピストルの音がした。そしてチェンツォ・レーナとアンナは家の前に穴を掘り、犬はその中に埋められた。(同)
ドイツ兵も射殺された時、松林に遺体を埋めるための穴を掘るが、穴が小さすぎて入らない。チェンツォ・レーナにはそれ以上穴を掘る力がなく、急流に運んで流す(241頁)。結果、川下で発見されることになる。
生前イッポーリトが自らの意思で飼い、遺した犬を、彼を救えなかった、意地悪くしたと後悔するチェンツォ・レーナは大事にする。イッポーリトはピストル自殺し、犬は轢かれた後に苦しみを長引かせないために銃殺され、誤って轢き、銃殺したドイツ兵も射殺される。チェンツォ・レーナはドイツ兵を射殺したと名乗り出て銃殺される。犬はイッポーリトの代わりであり、ジュゼッペがドイツ兵を殺したのは犬の復讐として機能する。だから(構造としては)チェンツォ・レーナは自分がドイツ兵を殺した、として銃殺されたのだろう。
3.燃やされた回顧録とアンナが語ることの意味
物語の最後で、アンナは生き残った人々と再会し、亡くなった人々の最期や、今までの出来事を語り合う。物語はアンナの視点で語られる。
物語の冒頭で父は『真実のみ』というタイトルの「分厚い回顧録」を書いていたが、死が間近になったある日「最初から書きなおさねばならん」と言って暖炉の火にくべて燃やしてしまう(17頁)。チェンツォ・レーナが回顧録なんて意味がないと言ったことが、彼と父との仲たがいの原因だったことが後に明かされる。また、物語の前半で反ファシズムの地下運動にのめり込むイッポーリトとエマヌエーレが、ダニーロの逮捕によって身の危険を感じ、地下文書をすべて暖炉で燃やす場面もある。
けれどもアンナの語りは完成する。
アンナはチェンツォ・レーナから、「ずっと虫の群れのなかで虫のように生きてきた」(176頁)と言われ、「結局ぼくはまだきみを一人前の人間にしてやっていないから、結局きみはまだ虫のままだから」「ぼくはきみにとって大きな葉っぱにすぎなかった」「ぼくはきみに飛ぶことも息をすることも教えてやれなかった、ぼくは一枚の葉っぱで、ほんのちょっと休ませてやっただけだ」(212頁)とも言われる。「虫のよう」でない生き方をするためにはどうすれは良いかというアンナの質問に彼は答えないが、彼が「攻撃的で自由な気分」だったという、結婚を決めた日、アンナも「少し寒気がする」と言い、床屋でいっしょに鏡を見たときにはいっしょに笑い、その前日に子供のことを話したときにも、アンナは「言葉を探す必要がなかった」(124頁)。
物語の最後まで、アンナが「虫」の生き方ではなく人間になれたのか、飛ぶことや息をすることが覚えられたのかは明示されない。それでも物語がアンナのものとして語られ、
そして自分たち三人がいっしょにいて、死んだすべての人たちを、長かった戦争と苦しみと喧騒を、そしていま自分たちの目の前にあり、自分たちがどうすべきなのかわからないすべてのことで満ちている長く困難な生のことを思っているのがうれしかった。(259頁)
と語り終えられることは、アンナが虫のようではなく人間として、自分の言葉で生きてゆこうとすることを意味するだろう。
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現在里親探し中のわんこたちです。うめちゃんもこちゃん、どんどん育っています(今は写真とだいぶ違います…)。
空ちゃん
→2016年6月にもらわれていきました。
もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→募集を終了しています。
夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。
さちちゃん→6月からいったん募集を終了しています。
この作家のものは、『ある家族の会話』、『モンテ・フェルモの丘の家』、『マンゾーニ家の人々』を読んだことがありますが、それらに比べて読後感が暗い。『ある家族の会話』と同じ時代を扱ってるんですが、『ある家族の会話』はユーモラスだったんですが…
文章は淡々としていて読みやすい。装丁もきれいです。
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1.梗概と登場人物、特徴
『わたしたちのすべての昨日』は第二次大戦前後のイタリアを舞台とし、弁護士一家の末娘アンナを中心に語られる家族の物語である。
母親はアンナを生んですぐに亡くなり、一家は反ファシズムの父、父の言いなりの長兄イッポーリト、男友達がたくさんいる姉コンチェッティーナ、次男のジュスティーノ、主な視点人物となる末娘のアンナ、家族同然の乳母のシニョーラ・マリーアによって構成される。向かいに住む石鹸工場一家――後妻マンミーナ、長女(前妻の娘)のアマーリア、長男エマヌエーレと次男のジューマ、居候のフランツ――、イッポーリトの友人ダニーロ、父の友人で旅行好きのチェンツォ・レーナが主な登場人物である。イッポーリトとエマヌエーレ、コンチェッティーナはほぼ同じ年ごろと思われ、ジュスティーノとジューマは同年、アンナはそれよりほんの少し年下であるらしい。アンナは大人しく、手がかからないため、あまり構われていない。
一家が住むイタリア北部の町、休暇を過ごす郊外にあるらしい「さくらんぼの家」、チェンツォ・レーナの自宅のある南部の村サン・コスタンツォを主な舞台として物語は展開する。
一家の父親も前半で亡くなり、長兄イッポーリトは向かいに住むエマヌエーレ、友人のダニーロ(当初はコンチェッティーナの求婚者として登場)とともに反ファシズムの地下活動にのめり込むものの、開戦後絶望してピストル自殺する。姉のコンチェッティーナは結婚しほどなく妊娠、アンナは隣家のジューマとつきあって妊娠してしまう。アンナの窮地を救ったのが父の友人チェンツォ・レーナであった。チェンツォ・レーナは自分と結婚して子供を生めばいいという。
アンナはチェンツォ・レーナの自宅のあるイタリア南部のサン・コスタンツォで子供を産む。ファシズム体制の崩壊後、イタリアは連合国側と休戦協定を結ぶが、ドイツが侵攻。チェンツォ・レーナは地下室に元曹長や反ファシズムの農民ジュゼッペ、ユダヤ系のフランツ(アマーリアと結婚したがトラブルがあって逃げてきた)を匿っていたが、女中がうっかりとドイツ人兵士に口を滑らせたために、ジュゼッペがドイツ人兵士を射殺することとなる。ドイツ人兵士の遺体が発見され、チェンツォ・レーナは自分が殺害したと名乗り出て、ついてきたフランツとともに銃殺される。
解放後、娘とともにイタリア北部の町に戻ったアンナは、生き残った人々と再会して語り合う。
物語はまだ若く「虫の沈黙」のなかで生きるアンナの視点で語られるため、全体像や登場人物のイメージを掴むのは難しく、息苦しい。例えばアンナがつきあって妊娠することになる隣家のジェーマの「狐歯」、チェンツォ・レーナの「米粒のような歯」(132頁)やレインコート、「灰色の頭」などの細部が繰り返し語られ、魅力的なのかどうか、美人なのかどうかなどのイメージは掴みづらい。他の登場人物の言葉によってイッポーリトが「美しい」ことに気づかされ(50頁)、コンチェッティーナが「けっこう美人」(82頁)であることが語られ、ジュスティーノが「とても男前」(175頁)であると言われる程度である。
アンナは誰かが分からない話をした時、ぼんやりと自分の想念の中に閉じこもる。ジューマの話を「信じるふり」をし(87頁)、一人きりになると革命を夢見る。はじめて「身体をかさねた」とき、「誰か来て、宿題もしないでと叱って、誰か、もうジューマと川岸の茂みに行ってはいけないと言って」、と思うのに「毎日ジューマと川岸の茂みに行くのだろう、毎日、巻き毛をもじゃもじゃにし、まぶたをきつく閉じたあの顔、言葉も彼女に対する思いやりもなかったあの顔を見るのだろう」(95頁)。だから、どう読んでも一貫してジューマのことを好きではないのに、「たぶんわたしたちはあまり愛し合っていなかった、家に帰るとき傷ついて不幸だったから」(125頁)と言うように、自分の感情を自分のものとして感じることができない。結婚後しばらくして、チェンツォ・レーナは「ぼくがとてもきみを愛していることが、きみがジューマでも誰でもほかの男と出てゆき、ぼくを独りにしないかといつもどこかで恐れているのがわからないのか」(189~190頁)と言うのに、アンナが彼のことを愛しているのかどうかは、ほとんど分からない。
歯やレインコート、足を引きずるなど、物語の中にはいくつか意味ありげな符牒が現れるのだが、そのいくつかをとりあげて整理してみたい。
2.犬とピストル
登場人物以外で重要な役割を果たすのが、イッポーリトの犬である。父の生前、自分の意思らしいものを発揮しなかったイッポーリトが唯一自らの意思で大切にし、亡くなるときにも家族に世話を頼んだ犬。イッポーリトが自殺する「夜中に庭で犬が吠えるのが聞こえ、それから門の軋る音」が聞こえ、朝には「庭で犬が吠え、地面を引っかき、門に身体をこすって吠えていた」(113頁)。
この犬をアンナとチェンツォ・レーナは結婚後連れていき、大切に世話をする。この犬を誤ってひいてしまうのが、後にジュゼッペに射殺されることになるドイツ兵である。
ある日アンナとフランツが台所でじゃが芋の皮を剥いているとチェンツォ・レーナが入ってきて、犬がどこにもいないと言った。アンナがすわったままだったので怒った。(226頁)。
二人が犬を探しに行き、フランツだけになったところ不意に血だらけの犬を抱えたドイツ兵が入ってき、オートバイで犬を轢いてしまった、ブレーキをかけたが間に合わなかったと言う。戻ってきたチェンツォ・レーナは
床の上でヒクヒク震えている犬をじっと見て、身体をかがめ、灰色の毛が血に染まった腹にそっと触れた。(227頁)
チェンツォ・レーナは彼にドイツ語できみはぼくらにとってこの犬がどんなものかわかるまい、ぼくらの家族同然だった、長いつきあいだったと言った。(同)
チェンツォ・レーナはアルコールはもう必要ない、犬は夜どおし震えて苦しむだろうからすぐに死なせてやったほうがいいと言って、ドイツ兵にきみのピストルで犬の耳に撃ちこんでくれと言った。ドイツ兵は犬をつれて外に出て、ピストルの音がした。そしてチェンツォ・レーナとアンナは家の前に穴を掘り、犬はその中に埋められた。(同)
ドイツ兵も射殺された時、松林に遺体を埋めるための穴を掘るが、穴が小さすぎて入らない。チェンツォ・レーナにはそれ以上穴を掘る力がなく、急流に運んで流す(241頁)。結果、川下で発見されることになる。
生前イッポーリトが自らの意思で飼い、遺した犬を、彼を救えなかった、意地悪くしたと後悔するチェンツォ・レーナは大事にする。イッポーリトはピストル自殺し、犬は轢かれた後に苦しみを長引かせないために銃殺され、誤って轢き、銃殺したドイツ兵も射殺される。チェンツォ・レーナはドイツ兵を射殺したと名乗り出て銃殺される。犬はイッポーリトの代わりであり、ジュゼッペがドイツ兵を殺したのは犬の復讐として機能する。だから(構造としては)チェンツォ・レーナは自分がドイツ兵を殺した、として銃殺されたのだろう。
3.燃やされた回顧録とアンナが語ることの意味
物語の最後で、アンナは生き残った人々と再会し、亡くなった人々の最期や、今までの出来事を語り合う。物語はアンナの視点で語られる。
物語の冒頭で父は『真実のみ』というタイトルの「分厚い回顧録」を書いていたが、死が間近になったある日「最初から書きなおさねばならん」と言って暖炉の火にくべて燃やしてしまう(17頁)。チェンツォ・レーナが回顧録なんて意味がないと言ったことが、彼と父との仲たがいの原因だったことが後に明かされる。また、物語の前半で反ファシズムの地下運動にのめり込むイッポーリトとエマヌエーレが、ダニーロの逮捕によって身の危険を感じ、地下文書をすべて暖炉で燃やす場面もある。
けれどもアンナの語りは完成する。
アンナはチェンツォ・レーナから、「ずっと虫の群れのなかで虫のように生きてきた」(176頁)と言われ、「結局ぼくはまだきみを一人前の人間にしてやっていないから、結局きみはまだ虫のままだから」「ぼくはきみにとって大きな葉っぱにすぎなかった」「ぼくはきみに飛ぶことも息をすることも教えてやれなかった、ぼくは一枚の葉っぱで、ほんのちょっと休ませてやっただけだ」(212頁)とも言われる。「虫のよう」でない生き方をするためにはどうすれは良いかというアンナの質問に彼は答えないが、彼が「攻撃的で自由な気分」だったという、結婚を決めた日、アンナも「少し寒気がする」と言い、床屋でいっしょに鏡を見たときにはいっしょに笑い、その前日に子供のことを話したときにも、アンナは「言葉を探す必要がなかった」(124頁)。
物語の最後まで、アンナが「虫」の生き方ではなく人間になれたのか、飛ぶことや息をすることが覚えられたのかは明示されない。それでも物語がアンナのものとして語られ、
そして自分たち三人がいっしょにいて、死んだすべての人たちを、長かった戦争と苦しみと喧騒を、そしていま自分たちの目の前にあり、自分たちがどうすべきなのかわからないすべてのことで満ちている長く困難な生のことを思っているのがうれしかった。(259頁)
と語り終えられることは、アンナが虫のようではなく人間として、自分の言葉で生きてゆこうとすることを意味するだろう。
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現在里親探し中のわんこたちです。うめちゃんもこちゃん、どんどん育っています(今は写真とだいぶ違います…)。
空ちゃん
→2016年6月にもらわれていきました。
もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→募集を終了しています。
夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。
さちちゃん→6月からいったん募集を終了しています。