人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

のすけちゃんとテレビ

2013-11-29 21:34:14 | 犬・猫関連
うちは地デジ化して以来ずっとテレビが見られなかったのですが、
先日電気屋さんに来てもらって、見てもらいました。

で、きちんと見られるようにするにはアンテナを立て直さないといけないのですが、
うちにあまりにたくさん犬がいることにおそれをなした電気屋さんは、
二度と来たくなさそう…。

別に吠えるだけで、噛んだりはしないのになあ…。

で、チューナーの設定だけしてもらって、チャンネル3つくらいだけ見られるようになりました。
別にうち、そんなにテレビ見ないからいいのだけど…
と思っていたら、のすけちゃんがテレビを見ることを発見。

 
めっちゃ集中してます(背景の消し方が適当なのはどうかご勘弁を)。
NHK教育のおかあさんといっしょを見てます。


水曜日に子犬がきました。
保健所で1ヶ月いた子を、里親さんが見つかるまで預かることになっています。
あまり手がかからない子で、楽ですが、母が昨日くらいから風邪気味で、あんまり遊ばせてない。
ちょっと栄養失調気味なので太らせて、って言われてるけどあんまり食べないし、
狭いところでずっといたせいか少し足腰が弱いので、たくさん遊ばせて、
って言われてるけど、あまり遊ばない…。
ごんちゃん(まだ1年にならない若い子)と遊ばせてみようとしたけど、ごんちゃんがすごい勢いで飛びついたので、
襲われたと思ったのか、むちゃくちゃ怖がってけたたましい悲鳴を上げてました。
うーむ…
特に問題のない、楽な子で、可愛いです。

日文協2013年度大会(2日目)雑感

2013-11-23 12:46:55 | 学会レポ
こんにちは。
ここ数日ちょっと風邪気味で、もうだいぶん良くなってきたんですが、鼻がずびずびいってます。
この調子だと皮が剥けてしまいそう(くすん)。

11月17日(日)に、日文協2013年度大会(2日目)に行ってきたので、今日は感想を。
…結構忘れてしまってる部分もあるのですが。

読書日記:日文協2013年度大会関連

◎一人目の登壇者は、鈴木健さん。
「なめらかな社会と文学」
たいへん爽やかな方でした(『なめ敵』の著者近影よりは、若干丸くなられた感じも)。
お話はだいたい『なめらかな社会とその敵』をなぞるかたちで進んでいったのですが、特に文学と関連づけた部分は、パラレルワールドに関する部分かな。

鈴木さんは、
・生命にとって文学とは何か
と問いを立て、
・集団内で共通の"世界"を生きるための拡張現実の手法
と定義づけます。

拡張現実の手法としてパラレルワールドがあるわけですが、
①環境型パラレルワールド
②身体型パラレルワールド
③…何って言ったかな、ちょっとメモし損ねたの。現実のなかにオーバーレイしたパラレルワールド。
の3つに分け、

さらに、現実と虚構の関係を、
・口承・伝承の時代…現実/虚構は一体化
        ↓
・テクストの時代…現実/虚構の分離
        ↓
・AR(拡張現実)の時代…現実/虚構の再統合
と段階的に整理します。

最後に、個々が拡張現実を生きるためには物理的な制約があるので、
物理的なコンフリクトを回避する法システムや統治システムが必要、であることに触れましたが、
ここはまあ『なめ敵』のなかで詳しく述べてたことでした。


◎二人目は千田洋幸さん。近代の会員から。
「〈パラレルワールド〉を超えて―2010年代文化の世界構成」

前半はざあっと90年代から0年代の文化状況を整理した感じでしたね。
再帰的近代の必然から、「ここではないどこか」「もうひとつの世界」が欲望される、ということから、
パラレルワールドの話。
因みに再帰的近代というのは社会学の用語。
常に自分が何者か問われ続け、「本当の私とは何か」「私はなぜここにいる」という問いを問い続ける「再帰的自己」が出現する、と千田さんはまとめてます。
哲学・思想系だとポストモダンと言うんですけど、社会学的には近代は終わらないので、再帰的近代とか後期近代とか言ったりするんですね。

メインは2010年代の話かな。
〈パラレルワールド〉と化した自己/他者、こちら側の共同体/あちら側の共同体、現実/仮想現実…にどのような接続の回路があり得るか
ということで、AKB48のドキュメンタリー、『あまちゃん』、いとうせいこう『想像ラジオ』、和合亮一『詩の礫』をとりあげます。
結論としては、「二重性を生きる」とか、
「無時間性を(一つの)根拠とする乖離的主体としてのAKB48は、被災地に降り立つことによって、「声」と「互いの有限性」を分有する主体となる」あたりなのかな。

…個人的には、AKB万歳だったのがちょっと…
というか、相当違和感がありました。


◎ということはとりあえず置いといて、3人目の登壇者、助川幸逸郎さんの話に。
「女房という無意識―テクストに向こう側はあるのか」

『源氏物語』宇治十帖、浮舟が登場して以降の部分を取り上げて考察されました。
主に、「大内記」という登場人物と、浮舟と薫が「かたみ」に「あはれ」を感じる場面、
入水未遂の場面で浮舟の記憶がないことなどを取り上げての考察。
「大内記」というのは、匂宮側に近い人物なのですが、奥さんの親族に薫の従者もいて、それで薫側の情報を得たりする。公的な官位などでは知ることのできない、私的な、密かなつながりが物語を動かしてゆくことを指摘します。
浮舟と薫とが「かたみ」に「あはれ」と思う場面では、
浮舟は匂宮と逢瀬があったことを後ろめたく思って「あはれ」と思い、薫は大君を思って「あはれ」と思う、内容は共感されていないのに、まったく別々のことを思いながら気分が共有されていることを指摘します。
最後の場面で、浮舟の情報をみんながみんな断片的にしか知らなくて、浮舟が薫のことを拒絶する文脈が理解できない、そして肝心の浮舟にしても、入水未遂の時の場面、それから僧都に発見される場面でも、意識がない。
統一的な自己を形成することのできない物語なのだということを指摘します。
そしてそこに、現代的な意義がある、と。


◎質疑応答、どういう順番でどういうふうになされたのか、きちんと覚えてないので、印象に残ったものだけ。

震災に対して文学は無力なのか、無意味なのか、という質問に対して。
・鈴木さんは、文学(研究)には文学(研究)の意味があるんだろう、と。
開かれた研究で意味があるものもあるけど、閉じられたやり方でやることに意味がある研究もある、と言ってましたね。
で、なおかつそういう研究は、お金持ちのスポンサーを集めて研究す仕組みを作っていかなきゃいけない、と。
←これ、宇野常寛もたしか同じようなこと言ってたけど。千葉雅也と西田亮介といっしょにやってた、立命の若手研究者の行く末を考える、みたいなシンポで。宇野常寛が言ってたのは、クラウドファンディングみたいな話なんで、鈴木さんのイメージしてるのと違うかもしれないけど。
・千田さんは、無力で無意味だ、と。要するに近代文学は終わった…ってことなんですが。
よく考えてみると、近代は終わらない社会学の用語使いながら、文学に関しては近代文学は終わった、って、ポストモダンなんですね、ちょっと変な気が。
・助川さんはもうちょっと複雑な答えをしてた気がします。文学そのものと文学研究とは分けて考えないといけない。無力だと感じられることも多いけどでも…という感じ。

最後に一言づつというところで、
助川さんが統一的な自己を夢見ることもできない、カタストロフも来ない、ばらばらなまま、ちょっとずつ被曝するせかいでどうやって生きてゆくか、それでは寂しいんだ、ちょっとずつ寂しさを紛らわせるもの→というところから、鈴木さんのステップでもフラットでもないなめらかな社会モデルにつなげ、
千田さんは、統一的な自己を夢見ることができない人が寂しさを紛らわせるものとしてはポップカルチャーとかオタクカルチャー万歳、みたいなことを言っていたのですが。

…それってさ、『終わりなき日常を生きろ』と一緒じゃん、と思ってしまった。
それだったらわざわざ「なめらかな社会」モデルじゃなくても。地下鉄サリン事件の後くらいに指摘されていることであって。
あれだけの震災があって、原発事故があってもまだ『終わりなき日常」なんすか、という…。確かにどうもこの社会はそういう流れになっている気はしますけど。

鈴木さんは生物学的時間のスパンで、たいへんに希望に満ちたことをおっしゃっていました。10年でも20年でも100年でも1000年でも同じことをやり続けていたらいい…と。
その割に懇親会の挨拶では、この「一週間くらい」、「文学ってなんだろうな」と考えて、大変幸せな時間を過ごしました、とおっしゃってたんですが(笑)。はい、大変にさわやかな感じでしたよ。

AKB万歳に対する違和感についても書こうと思っていたのですが、
ちょっと長くなりそうなので、また日を改めて書きたいと思います。
適当なブログの文章とはいえ、まとめて書くのはちょっとしんどい。

では。

 
新宿にて。ひとの顔の消し方が適当なのはどうかご勘弁を。






論文掲載情報:書き換えられる〈父〉―森茉莉『甘い蜜の部屋』と「しんかき」―

2013-11-18 21:04:55 | 研究・発表・イベント等情報
こんばんは。学会から無事帰宅しました。

私の子どもののすけちゃん
が大変寂しそうにしていたらしく、帰ったら大歓迎を受けました。

今日は1日おやすみ…だったのだけど、
朝からおじいちゃんわんこが廊下にうんちして踏んづけたり、
夕方にはうんちした場所で転んで立てなくなってしまったりしたので、
何かかんか用事はあったかなあ…たくさん昼寝したけどまだ眠いです。

学会に関しては、いくつか思ったこともあるのだけれど、
また気が向いたら感想書きます。

私の論文「書き換えられる〈父〉―森茉莉『甘い蜜の部屋』と「しんかき」―」が、
『名古屋大学国語国文学』106号に掲載されました。

森茉莉『甘い蜜の部屋』における書字(エクリチュール)に着目した論文。
書物や文字に関する記述を拾い上げ、整理した上で、
女主人公モイラの芳香を喩える植物の比喩に用いられる「しんかき」(筆の名前)に着目し、
森茉莉のエッセイ「しんかき」との関係を考察します。
「しんかき」は『甘い蜜の部屋』においては父が用いた筆の名前、
エッセイ「しんかき」においては、父が原稿を書き、茉莉が夏休みの日記を書いた筆の名前。
面白いのが、茉莉が書き間違いをすると、お父さんがとんできて、
書き間違いの上に水を垂らし、上から「しんかき」の軸でトントンとたたいて、それを消してくれた、ということ。
『甘い蜜の部屋』における「父」のことばは、ロゴス的なものではなく、
書き間違いを何度でも書きなおすことができる機能だ、と結論づけます。

学会誌なので、大学にしか入らないと思いますが、手にとっていただけると嬉しいです。

読書日記:日文協2013年度大会関連

2013-11-10 13:52:31 | 学会レポ
こんにちは。
日文協の大会に行くつもりにしてるんで、いちおう関連書籍読んで予習してます。
去年書いたんで、今年は学会印象記頼まれることはないと思うけど…

文学の方のシンポは、2013年11月17日(日)13時~
於:青山学院大学渋谷キャンパス
テーマは「流動化する世界と文学」。

* * *

◎ひとりめの報告者は鈴木健さん。『なめ敵』で話題の人。
いちおう、「なめらかな社会と文学」という題目が出てるんですが、「発表要旨」は未定(笑)。
まだ比較的若い方なんで、要領よくなんとかはしてくるんでしょうが、ちょっとどんな話になるのか、想像がつきません。

なめらかな社会とその敵』、システムの話なんですよね。
境界を区切って敵と味方を分けるような「個」的発想を否定しながら、
2000年以降流行ったような完全にフラットな世界像もまた否定し、
なめらかに変化するような社会像を提案します。
で、そのためのいくつかのシステムを提案する…貨幣、投票(民主主義)、社会契約に関して。
数式が登場するような本は久々だったし、とりわけ順列組み合わせは苦手だったので(爆)、
詳しい内容は省略します。

で、これが文学の話とどう結びつくのか。
単純に考えれば(そして企画者側の意図としてはたぶん)、
近代文学は「個」を前提とするから今の社会にはそぐわないし、
フラットな社会像も商品として消費されることと結びつくから問題があって…
というところで、鈴木氏の提案する「なめらか」な社会像に希望を見出したのでしょうが。
どうも読んでいてそういう発想の人ではない気がします。

個人的なポイント。「核・膜・網」の比喩。
論理の過程は省略しますが、核は意思や脳、制御の比喩、膜は境界、網は(そのまま)ネットワークで、
「なめらかな社会」は網のイメージで捉えられてるんですね。
で、気になるのは、私たち文学の世界には、(膜的なものである)皮膚=織物=テクストという比喩が存在することです。
これは必ずしも統一された主体に制御されるようなものばかりを指すのではなく、
切り刻まればらばらになった、あるいは、微妙なバランスでつながっているような皮膚=テクストを表象することもあります。
さらにこの比喩は、網=編み物とも結びつく。

皮膚=織物=テクスト≒編み物=網

ギリシャ神話のアラクネの物語、みたいな、ね。
私のなかでは飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』ですが…。
『なめ敵』的な「核・膜・網」の比喩と関わってゆく部分があれば面白いと思います。

ちなみに、「はじめに」で書かれてるベルリンの壁のエピソード、
文章も美的でふつうに文学的で、この本が売れた理由が何となく分かります。


◎ふたりめの報告者は千田洋幸さん。近代分野の会員から。
題目は「パラレルワールドを超えて」。
『ポップカルチャーの思想圏』が関連書籍、になるのかな。

ポップカルチャーの思想圏』では、「偶有性」(たまたまそうであること)と「有限性」(時間に限りがあること)をキーワードにいくつかの作品を考察していたので、その続きで、もっと最近の作品を考察するんだと思います。
「偶有性」の感覚から、1990年代後半から2000年代には、パラレルワールドを描くものが多かったけれど、
2011年以降、どのような転回を見せたのか…ということのよう。

『ポップカルチャーの思想圏』に関してちょっと気になったのが、
一貫して男性の側に立って、なおかつ商品化の問題を無視している点。
何かオブセッションでもあるんじゃないかと思う(笑)。
例えばAKBに関して、「偶有性」をキーワードに考察する場合。
とりたてて特長のない女の子がトップアイドルとなり、
たまたまそうなったものとしてかけがえのない自己も否定されたときに起こるのは、価値の暴落です。
同じような商品を大量に売ろうとすると、暴落しますから。AKBは安すぎる。
最近のアイドルの、というか女の子そのものの、価値の暴落は半端ない。
ちょっとやばいと思う。

もう一点、一貫して男性の側に立っていることとも関係すると思いますが、読みに関して気になったことが。
『少女革命ウテナ』の考察に関する部分(「90年代アニメは「外部」をどう語ったか」)。
私見てないので間違っていればご教示いただきたいのですが。
主人公の天上ウテナが王子様となって、ヒロインの姫宮アンシーを救おうとする、というのが基本設定のようです。
しかし終盤で、主人公が逆に「王子様」であるラスボスの登場人物に惹かれていることを察し、
「あなたは私の王子様にはなれない。女の子だから」とヒロインは言います。
ヒロインは背後から主人公を刺し、倒れた主人公に対し「おせっかいな勇者様」云々、と言う場面について。
「二人の関係の変容を追いつづけてきた視聴者はすくなからず困惑せざるを得ないだろう」
「思考の一貫性や連続性、葛藤を経ての「成長」などといった内面性を決して見出してはならないキャラクター」
とあるのですが。
これを二人の恋愛として読めば、主人公は浮気したことになりますから、
どんなに尽くしていても一回相手が浮気した途端に、ひどいことをする、のは女の子像としてそんなに変じゃないと思います。
確かに「あなたは私の王子様にはなれない」の科白、拒絶とも読めるんですが、もう少し深読みすれば、
「女の子のまま女の子を愛することはできないのか」、「王子様なんかいらない、女の子のままのあなたが欲しい」
と言っているようにも読めるんですよね。
女の子はよくそういう話法を駆使します。
まあ、私は実際見ていないのでどう読んでもそうは読めない、のかもしれませんが…


◎三人目の報告者は助川幸逸郎さん。古典分野の会員から。
「〈女房〉という無意識―テクストに〈向こう側〉はあるか?」という題目です。
『源氏物語』宇治十帖の女房について考察するようです。

「精神分析を援用して、今の日本で言うべきこと 想像界的なるものへの批判」
(高木信、安藤徹編『テクストへの性愛術』所収)、が関連するようです。
この論文の最後で、「想像界的なものに救済を求める」ことの「不毛」さが指摘され、
今後の可能性のひとつとして、女房同士の結びつきを読むこと、「小さなユニット同士の結びつき」を読むことで、
「各ユニットが(中略)絡みあって、錯綜した結びつきが形成される」様子を考察することが提案されていますので、
そういう話になるんだと思います。


◎と、こう、順番に並べてみると、
「パラレルワールド」(境界のあるもの)を超えて、という部分と、
女房同士のネットワーク(網)という部分で、
核(制御)・膜(境界)・網(ネットワーク)という比喩と関係してくるのかな、という感じがしてきました。

実際にどんな話になるのかは、行ってみないと分かりません。

追記:助川さんのお名前の漢字、間違っておりましたので訂正致しました。
たいへん申しわけありません。…知っているはずなのに、ダメだなあ、私。
すみません…。