人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

映画感想:Life Is Beautiful

2014-01-26 15:47:19 | その他レヴュー
こんにちは。
最近、個別指導の教え子が映画のDVDを持ってきて見ろと言います。
今も二本借りてる状態。
この前家に犬が11匹もいる…と言ったら、そりゃあ大変だと言って、DVD見るのいつでもいいよと言ってくれました。
ちょっとほっとした。

『Life Is Beautiful』は最初に貸してくれたもので、
ちょっと時間経ったけど、せっかく見たので感想書きます。

有名なものなので、同じようなことを言っている人がいるかもしれませんが。


*****

(あらすじ)
ユダヤ系イタリア人のグイドが主人公。
本屋を開くためにイタリアのとある街にやってきたグイドは、小学校教師のドーラと恋に落ち、駆け落ちのようにして結婚する。
数年後。息子のジョズエをもうけ、ドーラの母親にも結婚が受け入れられそうな様子。
ジョズエの誕生日、イタリアに進行してきたナチスドイツ軍に家族は強制収容所に送られてしまう。
グイドは収容所でジョズエに嘘をつく。
これはゲームであり、いくつかのルールを守れば点数をもらえる、違反すれば原点。
それが1000点貯まったら勝ちで、本物の戦車がやってきて、お家に帰れる。
開放直前にグイドは射殺されてしまうが、
グイドの言葉通り、イタリアに進行したアメリカ軍によって収容所は開放され、戦車が現れる。
戦車に乗せてもらったジョズエは、帰路ドーラと再会することができた。

私が指摘するまでもありませんが、
嘘をつく→嘘が真実となる
ことは、言葉とフィクションの力を象徴しているのでしょう。

強制収容所に入れられてすぐの場面で、ナチスの将校がドイツ語で収容所のルールを説明するわけですが、
ドイツ語の分かる人は…と訊かれて手を挙げたグイドは、
イタリア語で先に息子についた嘘、ゲームのルールを話します。
相手の言葉(ドイツ語)ではなく、自分の言葉(イタリア語)で物語を語ることを象徴しているように思います。
同様のエピソードは他にもあって、
収容所の医者がかつてイタリアでホテルの給仕をしていたときに親しかった人だったことから、
グイドはドイツ人たちの夕食会の給仕を命じられ、
ジョズエをドイツ人の子供たちに混ぜてもらうことに成功します。
一言も喋ってはいけない、と言われていたにもかかわらず、うっかり「グラッチェ」と言ってしまうジョズエ。
とっさにグイドはドイツ人の子供たち全員に、「グラッチェ」という言葉を教え、ことなきをえます。


この物語、ひとつのモチーフでいくつかの場面がつながってゆく構成になっているようです。

例えば、冒頭に出てきた卵
グイドが卵をもらう→(後にドーラの婚約者と分かる)知事?の頭上で卵が割れる→ドーラの婚約パーティーであり、グイドがドーラと駆け落ちする場面で、知事?の頭上に卵が落下

や、空から何かが降ってくる、
ドーラがグイドの上に落下→鍵が降ってくる→知事?の頭上に卵が落下

何かに隠れる
家でジョズエがシャワーを嫌がって隠れる→収容所でも隠れる→開放
など。


そのなかでも特に、移動のモチーフは一貫してあるように思いました。

グイドが街にやってくる。
→おじさんの車を借りてドーラを連れ出す(しかも運転できない)。
→おじさんの馬でドーラと駆け落ち
→自転車で移動
→列車で強制収容所に
→戦車で帰る。

しかも、借り物の乗り物で移動すること。
途中、強制収容所に連れてゆかれるとき、最初はグイドとジョズエだけだったのが、ドーラが私も連れていって下さい、と言って列車に乗せてもらうんですね。
これは、ドーラがグイドに馬で連れ出してもらったことに対応しているんだろうな、と。
ドーラはグイドに連れ出してもらったから、自分もグイドについて行く。
しかもグイドが駆け落ち場面でドーラを乗せて連れ出した馬は、よろしくない人たちにいたずらで「ユダヤ人の馬」とペイントされてしまった馬でした。
そして、最初のグイドが街にやってくることと、ドーラとジョズエの街への帰還は、対応してるんだと思います。

馬やいろんな役に立たないものを持っている、役に立たないものこそ役に立つんだ、という前時代的なおじさんもすてきでした。




2013年度(2014年)センター試験国語について。

2014-01-21 14:18:44 | 国語教育と文学
何年後かには廃止するとかしないとか、話題のセンター試験ですが。
去年の試験問題(国語)についても記事を書いたので、今年もいちおう書こうと思います。

ただ、試験問題の分析のようなことは、予備校がさんざんやっているでしょうし、
私の専門でもないので言いません。

どうも去年にしろ今年にしろ、小説の問題文がぶっ飛んでいる、と話題になっているようなのですが…
牧野信一にしても岡本かの子にしてもそれほどマイナーな作家とは思えません。
岡本かの子についてはもっと読みにくい小説も多いと思うのですが、今回出題された「快走」は読みやすい。
国語教育においてどれほど狭い範囲のものしか読ませていないのか…ということがよく分かります。


第一問目は齋藤希史『漢文脈と近代日本』より。
『漢文脈の近代』(名古屋大学出版会)という専門書があるのですが、それを一般向けに易しく書いた本ですね。
NHKブックスだったかな、新書。
なので、非常に易しい、読みやすい文章です。

ちなみに『漢文脈の近代』、非常に評価も高くて、いい本。
院生時代に名大で学会があったときに、やる気のない名古屋大学出版会の代わりに私たちが売り子をやったことがあるのですが、
この本、よく売れました。
中世とか軍記物とかの学会だったのですが。
中世や軍記物の専門書(みんな持ってる)よりは、少し専門は違ってみんなが興味をもつ本のほうがよく売れるのかな、と思いました。

それはさておき。
『漢文脈の近代』のほうから出題しても良かったと思うのですけれどもね。
個人的には『漢文脈と近代日本』の文章は大学受験国語としては易しすぎると思います。
内容はいいんじゃないかな。


第二問目がぶっ飛んでいると話題の岡本かの子「快走」。
ですが、昨年の「地球儀」のように凝った構成をしているわけでもないので、問題としてはシンプルだと思います。
昨年の問題については、「地球儀」なのに地球儀の意味を問わなければ意味ないだろ、とケチつけましたが。
今回の問題については、登場人物の心情や内面を問う問題にも、さほど違和感はありません。
心情や内面の動きが、描かれていますからね、いちおう。
解けないことはない。
ただ、心情や内面について問うことそのものの問題については、別に考える必要があると思います。


第三問が『源氏物語』夕霧。
センター試験には教科書や過去の問題集に出題されたものは出題しない、というルールがかつてあったので、
これまでであれば出題されない類の問題です。
このルール、いつなくなったのかな?
漱石が何年か前に出題されたので、そのときにはなくなってたんだと思うのですが。
せっかく『源氏』なのに、なーんかつまんない場面出題してるな-って思います。
和歌が出てこない、っていうのはちょと珍しいかも。


漢文はまあ、ふつう?分かりやすい問題だったと思います。
どうでもいいけど、導入の部分の筍をどうやって食べ、あるいはこうやって食べ、という部分が美味しそう…とか思っちゃった。
筍好きじゃないんだけど…。


読書日記:奥村大介「ささめく物質」(『現代思想』2014年1月号)

2014-01-13 22:53:13 | 書評の試み
こんばんは。
ツイッター上で仲良しの、奥村さんの論文、とても魅力的だったので、簡単なレヴューを書いておきます。

「ささめく物質 物活論について」という題で、物をめぐる観念の歴史を振り返る論考。
物活論とは簡単にいえば、「物質にはそもそも生命がある」という考え方なのですが、詳しくは奥村さん本人の文章を読んでみてください。
 論文の結論部分では、物質と生命とをめぐる関係の、文学への可能性が提唱されます。
 著者は、「物活論」は今日では「科学ではありえない」としながらも、新たなる「物質の詩学」、「物を語る」営み、「物が語る」営み、「物と語る」「物に語る」営みの可能性として、有意義だと言います。それが震災の後で詩を書くことの可能性となる、と。
 ここで注意したいのは、論考の途中で触れられる、ディドロに関するくだり。
 「生命を与えた外因を仮定するや」「その外因を生じさせた原因をさらに想定せざるをえなくなり」「無限後退へと陥る」という部分です。いわく、「無限後退を避けるためには、超越的作用因(事実上の神)を想定するか、その現象している事物そのものに作用因を内属させなければならない」。「超越論的無限後退」としてよく知られている発想だと思うのですが、これ、単に存在論などの哲学的なテーマではなく、物理科学にも関わるテーマだったんですね。というか、この時代辺りまではたぶん、物理も哲学も分かれていなくて、その全てに関して神とどう関わるかが重要だったんだと思います。

 「ディドロは後者を選」び、それが物活論なのですが、この、物に内在させる発想って、文学における作者の意図の扱いに非常に似ているなあ…と。つまり、作者に意図があって書いているのではなくて、物語のなかの言葉の一つ一つに意思があって、関係し合っているんだ、という発想に似ている気がしました。

 ついでに言っておくと、日本語における「心」はたぶん今で言う意味よりはずっと意味範囲が広くて、今で言えば意味内容とか、何かに内在する論理過程とかを意味する言葉でもあったようです。「○○とかけて○○と解く、その心は?」みたいな。
 もちろん今で言うような「心」の意味もありました。「魂」も似た意味がありますが、ちょっとニュアンスの違う言葉。「息」と関わる言葉で、より生命に近いもの。このへんは結構研究がありますので、気になった方は調べてみてください。ドイツロマン派の小説に出てくる「影」などは、この魂とニュアンスが近いと思ってます。奥村さんがディドロに否定されていたものとしてあげていた「生気論」に近いのはたぶん、心じゃなくて魂のほうだと思う。

 作者の意図ではなく、文学に内在する言葉そのものに意思や関係性があるのだという立場は、読みに関するものでしたが、もう一歩進んで、書くことや語ること、そして語ることによって言葉と物とのありうべき関係性が創出されれば…という可能性は、一文学研究者の私としても、とても魅力的に思えました。

 何だかまとまらなくなってきました、ちょっと酔っているのかもしれません…

新年の抱負

2014-01-09 20:59:49 | 日記
いまさらですが…
明日、たまたまお休みなので、少し気持ちに余裕ができたので、
今年はちゃんと勉強も研究もしなくちゃ!…という気分になりました。

去年はほんとに勉強しない一年でした。
こんなに本を読まない年はない…というくらいに本を読まなかった。

お仕事はそれほど多かったわけではないんですが、二種類に増えましたし(ほんとはひとつは辞めるつもりだった)、
子犬がいた時期もありますし、おじいちゃんわんこは要介護になりましたし。

実家暮らしって、楽といえば楽なんですが、色々細切れに用事ができるので、
あまりひとつのことに集中できないんです。

そういう生活の中でも、きちんと勉強や研究をやってゆく、というのが今年の目標かな。

研究ってやりたいことがなくなってしまえば、無理して続けていかなくてもいいものだと思うのですが。
また、それが研究に向かう上での誠実さだとも思っているのですが、当分やりたいことはなくなりそうにありません。

自分の人生がどうなるのか、また、どうしたいのかはよく分からないんですが、
ひとつだけ分かっているのは、研究だけは続けていくんだろうな…ということ。
しかも、細々とでも続けて行ければいい…というのではなく、研究中心で生きてゆくだろうということです。
それは必ずしも仕事でなくてもいいのですが(仕事を中心に生活していない人もたくさんいます)。
少なくとも、研究以外のことを仕事にする場合、割が良くて負担にもならない仕事を見つけない限り、
研究を中心にした仕事はできないという…


謹賀新年

2014-01-01 10:51:49 | 日記
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年も宜しくお願いいたします。

今年はわんこ状況がどうにも先が見えないので、
就活的には一回休み、という感じですが、その分研究のほうで頑張りたいと思います。
とりあえず単著!…目標にしなきゃダメですよね。
さしあたっては3月9日(日)に研究会で発表します。古代文学研究会、京都です。

本年がみなみなさまにとってよりよいものでありますように。


今年ものすけちゃんはストーブの前でぬくぬくとしてます。