人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

植物のイメージ:『恋せぬふたり』感想

2022-03-31 00:14:05 | その他レヴュー
 アロマンティック・アセクシュアルを扱ったドラマだということで、ずっと見なきゃ、見なきゃと思っていた『恋せぬふたり』(吉田恵里香、NHK、2022年1月10日~3月21日、全8回)、やっと見ました。

 よかったですね。最初アロマンティック・アセクシュアルの男性を、庭いじりが好きだったり、野菜が好きだったりという、植物的なイメージで語ることがステレオタイプかな、と思って少し引っかかったんですが(キャベツはキャベツ畑で子供を拾ってくるとかそういう俗信から?)、最後まで見ると、植物って基本的には動かないものですから、ずっと自分の育った家から動かずに、仕事も家のすぐ近くを選んで、家から出ないようにしていた主人公が、最後動く、という物語なんだということで納得ができます。咲子は結構ずっとアクティブで、視点人物もほぼ咲子なのですが、全体の物語としては、高橋さんの物語として筋を通しているのかな、という印象です。

 『恋せぬふたり』は、他者に恋愛感情を抱かず、性的にも惹かれないアロマンティック・アセクシュアルの男女二人が同居し、家族のかたちを模索する物語です。
 みんな恋愛するはず、という世間の風潮に何となくモヤモヤを感じ、それまでの恋愛にも違和感のあった兒玉咲子(岸井ゆきの)は、アロマンティック・アセクシュアルについて書かれたブログを読み、自分もアロマンティック・アセクシュアルだと気づきます。でもこれは別に自分のセクシュアリティを自覚していなかった人間が、セクシュアル・アイデンティティを形成する物語ではない。偶然そのブログを書いているのが自分の勤めている会社の系列スーパーの店員高橋羽(さとる)(高橋一生)であることに気づいた咲子は、高橋に話を聞いてもらい、他人に恋をしないからと言って、性的に惹かれないからと言って、一人はさみしい、誰かと一緒に生きていきたいと思うことはわがままではない、と言われたことをきっかけに、恋愛抜きの同居生活を提案します。

 これは私自身にとってもかなり切実な問題で、私は結構孤独が好きな人間ではありますが、このままずっと一人で生きていくのかなと考えると、まあ不安しかないですよね。わんこと一緒に暮らせないし。

 最後高橋さんは、同居していなくても家族でいられるんじゃないかという咲子の提案を受けて、自分がずっとやりたかった、野菜を育てる仕事をするために家を出ることになります。
 倒れているときに気づいてもらえるとか、わんこと一緒に暮らせるとかのために同居人の欲しい私としては、うぅむそれじゃあやっぱりちょっと不安、と思ってしまうんですが、それまでずっと家を守って、そこから出ないように生きてきた高橋さんの物語としては、動く、ということは必要なことだったんだろうと思います。
 考えてみれば、ヒロインの咲子のほうが名前からいうと花のイメージで、高橋さんのほうが「羽」なので、飛んでいくイメージです。でも女性に花や園芸のイメージを重ねるのはそれはそれでステレオタイプ。名前では咲子という花のイメージながら、そこからずらしているのかもしれません。

 回想シーン(第7話)での、高橋さんとかつての恋人との、
(何か種を植えたらしい植木鉢に水をやりながら高橋)「人間は進化の仕方を間違えたな。こういう風に子孫を残す方法もあったのに」
(元恋人の猪塚)「さとる、パパ願望とかあったの?」
(高橋)「今の…、そういうことになるんですか…?」
というやり取りは、花や実や種に生殖が重ねられるとか、性愛にアクティブでない男性が草食とか植物に結びつけられるとか、いろんなイメージを全部ひっくり返していて面白い。この植木鉢は、たぶん第6話で手入れしたり雨の日に家の中に入れたりしている南天だと思うのだけど。

 

『逃げるは恥だが役に立つ』「ガンバレ人類! 新春スペシャル!!」感想

2021-03-31 14:45:25 | その他レヴュー
こんにちは。

先日のKUNILABOイベント「佐藤亜紀さんと、歴史×文学で歴史小説について考える」にご参加くださったみなさま、ありがとうございます。
当日は定員いっぱいの90名のご参加があり、おかげさまでたいへん盛況でした。

西原は引き続き4月期もKUNILABOで「『源氏物語』を読む」の講師をいたしますので、どうぞよろしくお願い致します。
(詳細、お申込みはこちら)。

さて、少し時間が経ってしまいましたが、2021年のお正月に放送されていた、『逃げるは恥だが役に立つ』の新春スペシャルについて、
いくつか思ったことがありましたので、書いておきます。

最初に思ったのは、ああ、みくりちゃんって本当に「普通」の子なんだなあ、ということ。
ふつうに就職して結婚して出産して、という、マジョリティな存在。
考えてみれば、キャッチコピーも「普通のアップデート」だったので、まあ「普通」ですよね。

ただそれが本編のほうではまだ、就職活動に失敗して、派遣先でも派遣切りにあって、ということで、
就職がうまくいかない人たちには共感を呼んでいたのだと思いますが、
新春スペシャルのほうではどうやら正社員として働いているので、完全な「勝ち組」マジョリティ。

確かにみくりちゃんいろいろ有能そうだし、価値観も今の会社などで重宝されそうな感じだし、
マッチングさえうまくいけば就職できないはずないんですよね。

本編のほうでも、ちょうど私が見たのが授業の都合があって2019年度の、研究所広報をやっていた時で、
ああ自分のやってる仕事は、みくりちゃんみたいな人が必要とされてるんだな、
それに引き換え自分は全然向いてない、と思いながら見たので惨めな気持ちになりましたが…。
今回はみくりちゃん、お仕事にも困ってないから、完全に自分とは違う世界の人間のお話だな、という感じでした。

そして主人公たちは勝ち組マジョリティだけど、
周辺の人たちの描き方で、ちょっとマイノリティに配慮しているところを見せることで、
バランスをとっているんだと思います。

とは言え、百合ちゃんの、高校時代同級生だった「花村」に対する、
「それがどんな好きにしろ、好きになってくれてありがとう」というセリフは、
やはりどうもかなりずるいし中途半端な感じがしました。

私自身の立場としては、そういう曖昧な感じが一番良いとは思っています。
近代社会においてセクシュアリティはあまりにも大きな意味を持ち過ぎです。

でも、同級生の「花村」にとっては、それが「どんな好き」かが、
決定的に大事で、曖昧にすることなんてとてもできなかった。
だからもう何十年も経っていて、今はもう一緒に暮らすパートナーもいるのに、
百合ちゃんに、「好きだった」と告白するわけです。
それが自分のセクシュアリティを、初めて自覚したときだったから。

それを「どんな好きでもいい」というのは、どんな好きでも受け入れると言えば聞こえは良いけれども、
自分だけ安全な場所で物を言っているという感じが、どうしてもしてしまいます。

百合ちゃんだって男性と付き合ったのは、50歳くらいになっての1度だけ、
それも「頑張れなかった」とか言ってすぐ別れてしまっているのに、
どうして自分はマジョリティの異性愛者だと信じて、少しも揺るがず物を言えるのか。

「どんな好きでもいい」のなかに、
ほんの少しでも、自分は異性愛者ではないのかも、
相手が異性であれ同性であれ、どんな好きなのか、
曖昧にしておきたい人間なのだ、というようなためらいがあればまだよいのですけども。

もうひとつ、百合ちゃんの子宮体癌の話が、あまりにも早く終わってしまうのも、
中途半端な印象を与えてしまう原因だと思います。

百合ちゃんの子宮体癌は、手術のときに
みくりちゃんがつわりがひどい時期でつき添えない、
という設定からも、みくりの妊娠と対比されていることが分かります。

妊娠と子宮体癌は、どちらも子宮のなかに異物が宿って、
ほうっておけばその異物はどんどん大きくなるものです。
子宮体癌は放っておけば宿主の生命を危うくしますし、
妊娠の場合は順調にいけば出産によって自然に体外に排出されるけれども、
そうは言っても未だに健康な若い女性が死ぬこともあるものです。

でもみくりが出産するよりだいぶ前に、百合ちゃんの手術は無事終わってしまうんですよね。
そしてみくりの妊娠・出産においては、
つわりがひどいとか、出産後の子育てに対する不安は描かれているものの、
妊娠・出産そのものへの恐怖はないのかな、というのが疑問でした。

妊娠が分かったときも、
みくりは「平匡さんはそもそもうれしくないのかな?」とか不安に思っていて、
妊婦はひたすら嬉しくて、男の反応が何かよく分からない、
みたいな妊婦表象って、すごく不思議です。
生命を危険にさらすのは妊婦の側なのに…。





『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』感想

2020-12-30 10:51:23 | その他レヴュー
 少し前になりますが、『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』見たので感想書いておきます。

 私はもともと『若草物語』の中では三女のベスが一番好きで、父の帰還を待つ最初の話では猩紅熱から回復するけれど、姉妹たちがそれぞれ結婚したり、自分の世界を切り拓いたりする続編では、自分の小さな世界を守ったまま死んでいくところがとても好きでした。

 子供のころはジョーが好きだったんですけど、ジョーの生き方は、戦っているように見えて、お金を稼ごうと思うと編集者の求めるものを書かないといけなかったり、妥協して、(資本主義)社会の中で求められる枠組みの中で生きていくしかないんですよね。

 それに比べてベスは、内気すぎて学校にも行けない、ピアノが好きなのも誰かに聞かせたいわけではなくて、
自分のために弾いている(聞かせたいのは、せいぜい家族とお隣のローレンスおじさまくらい)。
 社会で戦うことはしないけど、その分自分の小さな世界を守っていくことができる(おうちの中から姉妹が出ていってしまうと、死ぬしかないですけど)。
 そういうところがいいなあ、と思っていました。というか、自分はジョーではなくベスだな、と。

 今回の映画『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』は、姉妹たちの時間が失われた時点から始まって、姉妹たちの時間が振り返られ、重ねられるかたちで作られています。

 例えば、ベスが猩紅熱から回復する朝と、亡くなってしまった朝。
 マーチおば様のところに預けられているエイミーが帰ってくるのと、マーチおば様といっしょにヨーロッパに滞在していたエイミーが帰ってくるのと。
 ジョーが自分の髪を売ってお金を得たところと、原稿(ペンネームで書いた刺激的な内容のもの)を売ってお金を得たところと。

 猩紅熱をまだやっていなかったエイミーが、マーチおば様のところに隔離されたときには、ローリーがいろいろ連れ出してあげるよ、と言って結構相手してるんですよね。
 続編のほうではそのローリーと結婚して帰ってくるわけで、そのあたりも重ねて展開してるんだな、という構造に、映画を見て気づきました。

 エイミーは本当によかった!
 演技が上手で、「私が支えるから世界一の女優になってよ」というジョーに対して、「私は普通の幸せが欲しいの」と言ってブルック先生と結婚するメグ、
 社会と戦って小説家になるジョー、
 ピアノが好きで、自分の小さな世界のなかだけで生きていて、姉妹たちが大人になるころに死んでしまうベス、
 絵が上手だけど、「私は中くらいなのよ」と言って画家になることはあきらめ、ローリーと結婚するエイミー。

 『若草物語』の中では、姉妹のそれぞれが、才能を持ちながらも、当時の社会の構造とどう向き合うかが描かれているのだと思いますが、今回の映画では特に、エイミーとジョーとのライバルでもあり、理解者でもある関係が際立って描かれていたと思います。

 エイミーは『若草物語』の最初の話ではまだ半分子供で、ある程度自由に動くことができるのですが、
 映画の現在時点でローリーとのやり取りが描かれるあたりでは、大きなフープの入ったスカートをはいて、本当に不自由そうで(動きが抑圧されていて)、自由にひょいひょいと動く(美しい)ローリーとの対比が際立ちます。

 一方でジョーは大人になった後も、大きなフープ入りスカートをはいたりしないので、自由に走ることができます(でもそれって社会と戦っているからで、着るものから全部社会と戦うのは本当にしんどいことなんですよね)。

 エイミーはローリーに「私はジョーの代わりじゃない」と言いますが、実はエイミーにとってのローリーは、「ジョーの代わり」だったところもあるんじゃないかと思います。

 最初の話(映画では過去の回想)の中で、一緒に連れて行ってもらえなかったエイミーが恨んで、ジョーの原稿を焼いて、ジョーが激怒するというエピソードがありますが、エイミーはジョーの原稿がどうでもいいと思っていたわけではなくて、他のものではジョーにショックを与えられないと思って、原稿を焼いてしまうんですよね。
 ちゃんと理解してる。

 一方で映画の現在時点では、ジョーは病気が悪くなったベスに、「私たちの物語を書いて」と言われていて、ベスが亡くなった後、屋根裏でベスの人形を見つけて、「私たちの物語」を書き始めます。
 ベスが亡くなってしまっても、ジョーが書くことによって、小さな世界は再構成され、永遠になります。

 でもジョー自身は「大事なことを書いているわけではない」「家族の小さな物語」だと言っているんですよね。
 それに対してエイミーが「書かれることによって大事なことになるんじゃないかしら?」と言い、ジョーは「結構いいこと言うじゃない」と言う。さらにエイミーは、前から結構いいこと言ってるのよ、いったい私の何を見ているの、と返すわけですが…。
 そこがすごく良かったです。
 外見は普通のエレガントな当時の女性らしい恰好をしていて、ローリーと結婚しても、心はジョーと共にある、一緒に戦っているんだ、と主張しているように見えました。

 編集者に言われて、結末をジョーが結婚する話に書き換えた部分では、ジョーの結婚相手としてつくられた「ベア先生」が、ベスのピアノを弾くのも、良かったです。出版してもらうための「妥協」ではあるのですが、その、妥協であるフィクションによって、ベスのピアノを鳴らす、というのが。


 





 

MIU404の桔梗さんと「ハムちゃん」は新しい家族なのか

2020-11-08 22:42:48 | その他レヴュー
女性で初めてアメリカの副大統領になる、カマラ・ハリス氏の演説素晴らしかったですね。
どういう場面でどういうメッセージを送ればよいのかよく分かっている、アメリカ的に上手な演説だったと思うのですが、
実際に見ている小さな女の子たちにはすごく力強いメッセージだったと思いますし、
現在就活や仕事上で様々な困難に直面している女性たちにとっても大きな応援になると思い、感動しました。

さて、前回に続き…になってしまうのですが、『MIU404』について、どうしてももやもやしてしまうところがあるので、書いておきます。
麻生久美子演じる、警察の中で初めて女性の隊長となって頑張っている「桔梗さん」と、黒川智花演じる、元幼稚園教諭の羽野麦「ハムちゃん」のペアについてです。
この二人の同居は一見、たぶん異性愛者の同性同士、性愛によって結びつかない関係で、助け合いながら暮らすという「新しい家族」のように見えるけれども、男社会の警察の中でバリバリ働く桔梗さんと、元保育士で身の危険があるために働けず、桔梗さんの子供の世話や家の中のことをしているハムちゃんには、従来的な夫と妻の役割がそのまま引き移されているような感じがして、もやもやする、というお話です。

「ハムちゃん」は、数年前の裏カジノ事件で通報者となったことで、裏カジノの実質的な経営者であり、彼女にストーカーまがいの執着を示していた「エトリ」という男に命を狙われています。そのために警察官であり、『MIU404』の主人公たちの上司である隊長「桔梗さん」にかくまわれて同居し、家事や子供の世話などをして過ごしています。

桔梗さんについては、飲食店経営者の男性と結婚していたのですが、夫は事故死し、その後妊娠に気づいて出産し、ひとりで育てた、という過去が語られています。
桔梗さんはたぶん氷河期世代の真ん中くらいだと思います。
言わなければいけないことははっきり言いますが、4機捜を認めてもらうための条件として、初めての女性隊長として広報しろと言われた時は素直に従ってますし、上の世代のように、肩肘張って戦っているという感じではない。

この二人は、「ハムちゃん」が「エトリ」に命を狙われているという条件によって同居しているわけですが、男社会の警察(多分、急に呼び出されるようなことも多いのでしょう)の中でバリバリ頑張っている桔梗さんと、元幼稚園教諭の「ハムちゃん」の関係は、女性同士であるにもかかわらず、どうしても旧来的な夫婦関係に似ているように見えてしまいます。

幼稚園教諭という仕事は「女性」の仕事であるとされてきたことによって、専門性が必要とされ、過酷なのにもかかわらず、お給料が低く押さえられてきた職種です。また、「ハムちゃん」が「エトリ」と出会ったきっかけは、彼女が幼稚園のお給料で足りない生活費を、ピアノバーでのバイトで補填しようとしていたことだと語られていますが、ピアノバーでの演奏なども、専門性が安く買いたたかれることの多い職種かもしれません。幼稚園の先生って、楽器弾くことが多いので、楽器をそこそこきちんと習っている人が多いですが、ピアノバーでのバイトは、かなりきちんとやっていないと難しいように思います。

彼女は裏カジノを密告したことによって、社会的な生活の場から逃げ出さざるを得ず、桔梗さんの家の中からほとんど出ることができません。この不自由さ、息苦しさは、まるで専業主婦状態の比喩のように見えました。
ハムちゃんは家の中から出ることができないために、家の中のことや、子供の世話をやっていました。ハムちゃんをかくまうつもりで、仕事をバリバリやっているためにできない部分、家の中のことをやってもらっていたことに対して、桔梗さんはどう思っていたのか。

第4話で、「遅くなってごめんね」と言う桔梗さんに対して、「全然。家の中のことくらいしか、することないし」と、ハムちゃんが答える場面がありますが、まるで夫と妻の会話です。それに対して桔梗さんは「必ずあなたを自由にする」と誓いますが、これはつまり「エトリを逮捕する」=自分の仕事をちゃんと遂行する、ということなんですよね。

確かに、桔梗さんにとってできることはそれだけです。自分の仕事をちゃんとすること。どんなに彼女が頑張っても、関係のない幼稚園のお給料をあげるなんてことはできません。最終話で、「できることを一つ一つやった先に、少しでも明るい未来があるんじゃないんですか」と言う場面がありますが、できることをひとつずつ、あきらめず、怒らず、絶望せず、やっている人物として描かれています。

ところで、『MIU404』の主人公は、綾野剛演じる、「野生のバカ」「伊吹」と、星野源演じる、優秀で明晰な「志摩」の警察官二人です。どうやら伊吹はハムちゃんがかなり好みみたいだし、志摩は桔梗隊長のことが好きそうなのですが、この二人とハムちゃん、桔梗さんの恋愛は全く進展しません。
途中、第6話あたりで伊吹は、自分とハムちゃん、自分が警察官になったきっかけとなった元警察官の「ガマさん」、の3人で、「独り者同士一緒に住もう」と提案します。旧来的な夫婦関係ではない、家族イメージの提案と言えますが、実は「ガマさん」が自分の妻を故意にひき逃げされ殺された復讐として殺人を犯していたことが判明し、逮捕されたことで、伊吹の提案は実現しません。
伊吹が提案した「新しい家族イメージ」は、性愛を中心とした夫婦の堅固な結びつきの前に敗退してしまうのです。

第9話で「エトリ」はついに逮捕され、ハムちゃんは桔梗さんに、「ありがとう、一緒に戦ってくれて」と言います。
「エトリ」を捕まえるという共通の目的による、男社会の中でバリバリ働くエリートの桔梗さんと、元幼稚園教諭のハムちゃんの、女性同士の連帯が描かれる、美しい場面のように見えます。

最終話では、幼稚園での採用が決まった、でもしばらくはお世話にならないといけないけど、というハムちゃんに対し、桔梗さんが「いつまででも一緒にいていいよ。結婚して家から嫁に行っても。行かなければ、一緒に老後を過ごしても」と返しています。一見とても理想的な関係に見えるのですがどうしても、ハムちゃんの幼稚園教諭としての立場と、桔梗さんの警察官としての立場の格差が気になってしまいます。

ハムちゃんに自由がなかった頃には、「エトリを逮捕する」という共通の目的があることによって、連帯は形づくられていたのかもしれません。けれどもハムちゃんが自由の身になった今や、ハムちゃんも幼稚園教諭として忙しくなるでしょう。忙しくてもどうしてもお給料は桔梗さんに比べて圧倒的に低い、そういう格差をどう乗り越えていくのか。
どうしても、もやもやしてしまうのです。

※保育士ではなく幼稚園教諭だと気づいたため修正しました(2020年12月26日)。




ウサギの編みぐるみ

2020-09-01 11:43:11 | その他レヴュー
こんにちは。
実家に帰ってモフモフの塊と戯れています。

   

さて、実家帰ってくると晩御飯時にテレビがついてるんですけど、
たまたま見たTBSテレビの金曜ドラマ『MIU404』が、
ちょっと気になったのでこれまでの回の全部見てしまいました。
いわゆる刑事ものとか推理ものとかになるんだと思うんですが、
ちょっと現代的で、
ええええっ…💦って思ってイラっとしたり突っ込み入れたりしてしまって見られない、
みたいなところはない作品です。

で、ぬいぐるみとか人形の観点から気になった回があったんですよね
(ちなみに同じ野木亜紀子脚本の『逃げ恥』で、
クマのぬいぐるみの使い方が気になって考察したこともある…まだ論文にはしてないけど)。
第4回で、ウサギの編みぐるみが重要なモチーフとして登場します。

PCショップの店員で元ホステスの青池透子という女性が拳銃で撃たれて
その事件を主人公たちが追う、というのが基本的な筋で、
最終的にわかったのは以下のようなことです。
彼女はホステス時代に裏カジノにはまって多額の借金を抱えるようになり、
裏カジノ店で働いていたところを摘発され、起訴されます。
情状酌量もあって執行猶予1年の判決で、
資格を取ってようやく「普通の仕事」のPCショップの店員として就職したけれども、
そこが暴力団の「汚いお金」をきれいにして出すお店であることに気づいてしまいます。
彼女は「汚いお金を汚い私が使って何が悪い」と思ってお金を抜き出し、
それが約1億貯まったところで暴力団にばれて逃亡し、撃たれてしまいます。
薬局で応急処置をした後、
事前に目をつけていた宝石店で、二つで約1億になるルビーに換え、
自分で編んだウサギの編みぐるみの目に入れます。
その編みぐるみを持って逃げていた街の中でたまたま、
学校にも行けず、幼いうちに結婚させられてしまう女の子たちへの寄付を呼び掛ける
慈善団体「ガールズインターナショナル」のポスターを見かけ、
イギリスの本部へと、1億のルビーの入ったウサギの編みぐるみを寄付として送り、
その後空港へと向かうバスに乗りますが、その中で命が尽きます。

汚いお金をルビーに換えて寄付する、って本当に文字通りの「浄財」ですよね。
仏像であれば目を入れることが「開眼」といって、それで魂が宿るものですが、
ウサギの編みぐるみはルビーを目に入れることで完成します
(目ボタンやビーズではなくてルース状のものをぐいぐい押し込む、というのが、
ちょっとどういう(編みの)パターンなのかよく分かりませんが)。

撃たれたあと薬局店に飛び込み応急処置をしてもらったときには、
彼女は「賭けてみる。今まで勝ったことないけど」と言っていて、
最後には自分が寄付として出した荷物の便が出るまでの間逃げられればいい、と言っていますので、
ルビー入りのウサギの編みぐるみには、祈りのようなものが込められていたはずです。

さらに、彼女はそれまでひょっとしたらあまり意識してはいなかったかもしれないけれど、
ホステスとなったり、
頑張って資格とって就職した「普通の仕事」でもぎりぎりなお給料しかもらえないとか、
社会の中で女性に求められる枠組みの中で生きてきたはずです。
死を悟ったときに、「最後に一つだけ」と言って、
学校に行くこともできず、幼いうちに結婚させられてしまう世界の女の子たちの支援のために、
ルビーの入ったウサギの編みぐるみを寄付することには、
枠組みを変えるための祈りが込められていたでしょう。

しかも自分で編んだ編みぐるみなんですよね。
「ウサギ」はとても弱い生き物だけど、死ぬときには思わぬ強さを見せることがある、
というようなことが何度か言われていて、作品のなかでは彼女と重ねられる存在でもある。
だからウサギの編みぐるみは、彼女の分身として位置づけられるものです。

ちなみに、私はもうすぐ予定されている矢川澄子の発表で、
兎の表象について考察するので、
「ウサギ」であることもちょっと気になりますね。

で、彼女が編んだウサギの編みぐるみはもう一つあって、
お試しとして編んだ小さいものなんですが、
それがパソコンショップに残されていて、持ってっていいよと言われたからというんで、
主人公たちの手に渡っています(それが真相に気づく一つのきっかけになります)。
それも分身の一つ、ですよね。

そういえば第1回に登場するおもちゃ屋さんも、
「ラビットなんとか」って名前でしたし、
ひょっとしたらウサギモチーフでなんかあるかもしれません。