今日ははじめての個別指導のお仕事。
国と県から助成金をもらって行なっている事業の、高校に通っていない生徒さんのための個別指導。高卒認定試験を受験する子を指導することが多いみたいですが、今日は通信制高校に通っている生徒さんの個別指導でした。
とりたてて書くことはないし、たぶん、あまり具体的なことを書くのも個人情報の観点からよろしくないと思うのですが、でも、何というか、びっくりするほど楽でした。今やってる、調剤薬局の事務に比べて。まあもうちょっと私も、教えるのになれていかなきゃいけないとは思うんですが…
いや、だって、時給がいまやってる調剤薬局事務の2.5倍なんですよ。まあ、交通費つかないんでその分を引いて考えるにしても、2倍はある。何というか、格差を感じたのでした。
のすけちゃん。
子犬ちゃんたち。茶色いのが映ってますが、茶色い子は3匹いて、黒い子が2匹。
国と県から助成金をもらって行なっている事業の、高校に通っていない生徒さんのための個別指導。高卒認定試験を受験する子を指導することが多いみたいですが、今日は通信制高校に通っている生徒さんの個別指導でした。
とりたてて書くことはないし、たぶん、あまり具体的なことを書くのも個人情報の観点からよろしくないと思うのですが、でも、何というか、びっくりするほど楽でした。今やってる、調剤薬局の事務に比べて。まあもうちょっと私も、教えるのになれていかなきゃいけないとは思うんですが…
いや、だって、時給がいまやってる調剤薬局事務の2.5倍なんですよ。まあ、交通費つかないんでその分を引いて考えるにしても、2倍はある。何というか、格差を感じたのでした。
のすけちゃん。
子犬ちゃんたち。茶色いのが映ってますが、茶色い子は3匹いて、黒い子が2匹。
今年は例年より寒いとはいえ、だいぶん日差しも強くなってきて、お天気のいい日は気持ちいい。
犬も、晴れた日はお庭に出たら、なかなか戻ってこないです(ふだんなかにいる子は、1日1回お庭に出してる)。
のすけちゃん。お庭に出しても長いこと、何もしないで玄関から外を眺めてることがよくある。
ジジちゃんも、窓からお外を眺めてた。
物欲しそうなりくちゃん。
で、季節外れだけど、今日はフィギュアスケートのお話。「表現力」という、言葉についてです。
私、ふだん文学を考察するときに、「表現」を考察する、という言い方良くするんですけど、これ、一般の人に説明するとき結構難しいんですよね。「表現」という言葉の一般的な使い方なのかも、ちょっと自信ない。
縁語とかね。物語の表層にあらわれている、言葉と言葉の結びつきに留意して考察したい、くらいの意味なんですけど。
逆に一般的にいう、「表現」の意味がよく分からないです。
フィギュアスケートの、「表現力」があるとかないとか、音楽を表現するとか、よく分からないです。音楽を表現したいんだったら、楽譜見て演奏すればいいんで、フィギュアスケートはフィギュアスケートなんだと思うんですけど。
音楽であるとか、物語であるとか、あるいは感情とか、表現されるべきものがあってそれを表現するというのではなくて、ジャンプなりスケーティングなりスピンなり、ふりつけのちょっとした動きなり、フィギュアスケートの動きそのものが表現なんだと思うのだけど。
ジャンプ1つとっても、真央ちゃんみたいなふわっと上がるジャンプもあれば、キム・ヨナみたいなするっと跳ぶジャンプ、美姫ちゃんみたいな速い、鋭いジャンプ、ゲデちゃんみたいなバネを生かした高いジャンプもあって、それぞれが表現。表現でないものなど何もないので、「表現力がない」という言い方もよく分からない。
確かに、ジャンプミスしても構成点下がらない選手もいるけど、たぶんそれは、「表現力」と言うよりは、ジャンプの個性の問題なんじゃないのかな。例えばキム・ヨナとか真央ちゃんとかは、わりと淡々と跳ぶので、ジャンプミスしてもプログラム全体の流れに影響がない。でも、美姫ちゃんとかゲデちゃんとかは、メリハリがある感じの跳び方をするので、ミスしたときに目立つんですよね。それは音楽の一番盛り上がるところで跳ぶのか、平坦なところで跳ぶのか、ということとはまた別の問題で。
「感情」を表現する、という観念は、文学の世界では(国語教育などで)ある種のしろうとくささと結びついて称揚されるのだけれど。フィギュアスケートのような、明らかに常人とは違う人たちの演技について「感情を表現する」という観念があらわれることについては、謎としか言いようがないです。
犬も、晴れた日はお庭に出たら、なかなか戻ってこないです(ふだんなかにいる子は、1日1回お庭に出してる)。
のすけちゃん。お庭に出しても長いこと、何もしないで玄関から外を眺めてることがよくある。
ジジちゃんも、窓からお外を眺めてた。
物欲しそうなりくちゃん。
で、季節外れだけど、今日はフィギュアスケートのお話。「表現力」という、言葉についてです。
私、ふだん文学を考察するときに、「表現」を考察する、という言い方良くするんですけど、これ、一般の人に説明するとき結構難しいんですよね。「表現」という言葉の一般的な使い方なのかも、ちょっと自信ない。
縁語とかね。物語の表層にあらわれている、言葉と言葉の結びつきに留意して考察したい、くらいの意味なんですけど。
逆に一般的にいう、「表現」の意味がよく分からないです。
フィギュアスケートの、「表現力」があるとかないとか、音楽を表現するとか、よく分からないです。音楽を表現したいんだったら、楽譜見て演奏すればいいんで、フィギュアスケートはフィギュアスケートなんだと思うんですけど。
音楽であるとか、物語であるとか、あるいは感情とか、表現されるべきものがあってそれを表現するというのではなくて、ジャンプなりスケーティングなりスピンなり、ふりつけのちょっとした動きなり、フィギュアスケートの動きそのものが表現なんだと思うのだけど。
ジャンプ1つとっても、真央ちゃんみたいなふわっと上がるジャンプもあれば、キム・ヨナみたいなするっと跳ぶジャンプ、美姫ちゃんみたいな速い、鋭いジャンプ、ゲデちゃんみたいなバネを生かした高いジャンプもあって、それぞれが表現。表現でないものなど何もないので、「表現力がない」という言い方もよく分からない。
確かに、ジャンプミスしても構成点下がらない選手もいるけど、たぶんそれは、「表現力」と言うよりは、ジャンプの個性の問題なんじゃないのかな。例えばキム・ヨナとか真央ちゃんとかは、わりと淡々と跳ぶので、ジャンプミスしてもプログラム全体の流れに影響がない。でも、美姫ちゃんとかゲデちゃんとかは、メリハリがある感じの跳び方をするので、ミスしたときに目立つんですよね。それは音楽の一番盛り上がるところで跳ぶのか、平坦なところで跳ぶのか、ということとはまた別の問題で。
「感情」を表現する、という観念は、文学の世界では(国語教育などで)ある種のしろうとくささと結びついて称揚されるのだけれど。フィギュアスケートのような、明らかに常人とは違う人たちの演技について「感情を表現する」という観念があらわれることについては、謎としか言いようがないです。
今日はごんちゃん(訓練所)のところに行かなくちゃいけないと思ってたんですが、わんこたちがまだヘリコプターの音とか怖がってるんで、私はお留守番。母だけがごんちゃんとこに行ってます。
だからのんびり、しこしこ論文書いてる。
いま、『甘い蜜の部屋』で論文書いてます。ヒロインモイラは残酷な、悪魔的なところのある娘として描かれてるんですけど、あらためて読んでみると、夫の天上を嫌悪し憎悪するのは、十分理解できるなあ…と(論文の趣旨とは関係ない)。
だって、モイラ嫌がってても天上の愛撫は執拗だし(ダメだろう、それ)。しかも退屈でいかにも善人です、みたいな顔をしている。だったら、もう自分の身体を拒絶するか、相手を嫌悪し憎悪するかのどちらかしかないよなあ、と。
だからのんびり、しこしこ論文書いてる。
いま、『甘い蜜の部屋』で論文書いてます。ヒロインモイラは残酷な、悪魔的なところのある娘として描かれてるんですけど、あらためて読んでみると、夫の天上を嫌悪し憎悪するのは、十分理解できるなあ…と(論文の趣旨とは関係ない)。
だって、モイラ嫌がってても天上の愛撫は執拗だし(ダメだろう、それ)。しかも退屈でいかにも善人です、みたいな顔をしている。だったら、もう自分の身体を拒絶するか、相手を嫌悪し憎悪するかのどちらかしかないよなあ、と。
今日は論文を書いたり発表の準備をしたりするつもりだったのですが。ほとんどの時間、肩こり由来の頭痛のために、痛み止めを飲んで仮眠してました。論文もちょっとは書いたけど、探してる文章がなかなか見つからずに、時間を食ってしまった(そしてまだ見つかっていない)。
明日はごんちゃんのところ(訓練所)に行く予定なので、あんまり何も出来ないな。訓練所にいくの、行き帰りの電車がひどく揺れるせいか、腰やら肩やらがやたら痛くなるんですよね…。
今日ののすけちゃん。かわりばえしないので、庭の緑のなかでいるところとか、あと、他の子も撮りたいんですが、携帯を向けるとすぐ逃げたり顔を背けたりするので、なかなかです。
昨日の続きは、余裕があれば、また書きますね。
明日はごんちゃんのところ(訓練所)に行く予定なので、あんまり何も出来ないな。訓練所にいくの、行き帰りの電車がひどく揺れるせいか、腰やら肩やらがやたら痛くなるんですよね…。
今日ののすけちゃん。かわりばえしないので、庭の緑のなかでいるところとか、あと、他の子も撮りたいんですが、携帯を向けるとすぐ逃げたり顔を背けたりするので、なかなかです。
昨日の続きは、余裕があれば、また書きますね。