その33 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ
2009年12月23日(水)
初めての寝台バスに乗る。靴を脱いで乗るタイプだった。三列の8列プラス3の席数だ。合計で27寝台の造りだ。乗り込んだときに強烈な匂いがする。そうなんです、足の匂いが強烈なんです。ムワアッと、脳天を突く。
大理客運汽車站(南站)を出た寝台バスは暫らくは幅広の国道を走っていたが、30分もしない内にごく普通の曲がりくねった田舎の道を走る始めた。田舎道といっても、四川の山奥の様に数キロに渡って家一軒無い田舎道ではないが、二車線も無いごく普通の田舎道である。大観光地大理から南の大観光地景洪へ行く幹線道路とは思えない。
寂れた幹線国道の趣だ。
団体客が居るからだろうかほぼ満席だ。前の空いている場所に汽車站を出たところで乗り込んできた四人が座っている。何時もの客に違いない。
本当に寂びた田舎道を寝台夜行バスは走る。夜中の一時過ぎに本当に寂れた山の中の峠に着いてトイレ休憩になったが、その30分の間に一台の車も通過しなかった。そんな田舎の道を走る。真夜中なので何処をどう走って居るのか皆目見当もつかない。
運転手に休憩の度に何処を走っているのか地図を見せて説明を求めるがトンと要領を得ない。地図が読めないのだ。現在地を地図の上にトレース出来ないのだ。途中の主だった街の名前を言うが、発音が怪しいのか殆んど通じない。本当に何処に連れて行かれるのだろうかと思う。目が覚めたら、異国の知らない街で人買いに売られていたと言っても不思議は無い。
2009年12月24日(木)
中国マジック その2 (緊急)の事件が起こる。12月26日のブログ参照
その後
夕方にモンラーへ移動する。物の本には景洪からモンラーへの道は山道の凸凹で未舗装で、かなりの中国を感じられるとの事だが、今は残念ながらそういった状況ではない。高速道路が完成し、ほんの数時間で着いてしまう。余りにあっけなくて、先の旅行者には申し訳ない。景洪発13時20分、モンラー着16時20分、40元也。
モンラーの客運汽車站で翌日のルアンプラバン行きの国際バスの乗車券を求める。7時50分発 98元。実に簡単にラオスに抜けられてしまうようだ。
宿は昨夜の事も有り、初めて大酒店と名の着く汽車站近くの天奕大酒店にするが失敗だった。表通りの入口しか注意しなかったが、ホテルの裏はモンラー口岸市場だった。
チェックインした時は夕方だったので余り五月蝿くはなかったが、深夜近くなってからの方が却って五月蝿くなった。市場で若者が集まり歌い踊っている。それでも、2時頃には静かになった。しかしその2,3時間後には、本来の市場への荷物の運び込みでトラックや人々の話し声で騒々しくなった。
2009年12月25日(金)
モンラー0800 モーハン 0920-1000 国境 1000-1020 ボーデン 南塔とウドンムサイの別れ 1040-1110 カスタムチェック 1100-1140 ウドンムサイ 1405-1420 パクモン 1625 ルアンプラバン 1830頃 現地時間午後5時30分頃着、約10時間の旅だ。
何をしているのか解からない停車が多くあり、実質の走行時間は6時間も無い位かと思われる。
モンラーから乗車したルアンプラバン行きの国際バスは、前日に昆明を出発し、朝にモンラーで多少の人間を入れ替えして行く寝台バスだ。バスは既に午前7時には汽車站の所定の場所に駐車していた。縦3列の寝台大型バスの座席はは30席位か。
あっさりと国境を越えてしまった。中国の国際バスに乗ってアット思う間にボーダーを越えてしまった。中国側の立派なイミグレとラオス側のプレハブ小屋のイミグレとが余りにもかけ離れている。
何処がボーダーなのかが解からない様な感じで、気が付いたらラオスに入国していましたと言う雰囲気だった。
ラオスに入って変わった事は、急に貧しくなった事だ。住宅の壁が、竹で編んだいわゆる蔀の様な物に変わった。道路が悪くなった。人々の服装が乞食に近い。道路の両側にわずかに開けた土地にバラックが建っている。子供や鶏や豚が遊んでいる。
それでも少数民族の正月行事なのだろうか、小さな広場や一寸した場所で、民族衣装で綺麗に着飾った女性達が鞠のようなものを投げ合っている。十人位の娘たちがはしゃいでいる。
悲しいかな、路線バスはこんな時にも止まってくれない。こんな貧しい中に如何してあんなに綺麗な衣装が揃えられるのか不思議に思う。写真を撮りたいが、カメラは盗まれて無いし、バスも止まらない。バスはバスの都合だけで止まる。給油や、荷物の積み下ろしや、人の乗降や、提携している食堂とかの前にしか止らない。
夕方のまだ明るいうちにルアンプラバーンに着いた。
2009年12月26日(土)
昨夜は市内の主だった数件のGHを廻るが何処も満員だった。年末の今頃に、国際観光都市ルアンプラバーンに簡単に泊まろうとするなんて少し甘く見ては居ませんかとでも言っている様だ。仕方が無いので、バスの到着した汽車站(南站)の敷地に会った中国系のGHに泊まった。
6時頃に起きて、朝の托鉢を見ようとトクトクで行こうとするが、いちいち値段の交渉が面倒くさい。幾らだと聞くと一人30000kipだと言う。相場はもう知っているのにいつも此処からスタートする。最終的には一人5000kipで収まるのだがそれまでに十数分以上が掛る。俺はもう何度も交渉済みなのだからもういい加減にして欲しいと思う。。乗るたびにこの繰り返しだ。
朝の托鉢を見ながらGHを探す。
可愛い子がGHのデスクに座っている。即決だ。しかし空きは無いと言う。主人が出てくる。一週間ぐらい泊まりたいと言うと、やっと部屋を見せてくれた。
部屋などはもう如何でも良い。値段なども如何でも良い。あんな可愛い子がいるのなら決定だ。
宿の娘だと言う。何かの美人コンテストで準優勝したときの写真がデカデカト飾ってある。両親の小さい写真と息子の写真がその下に在る。主人の自慢の娘の晴れ姿だ。
今年二十歳でビエンチャンの大学でフランス語を学んでいると言う。正月休みで二日ばかり前に帰ってきて手伝っているようだ。
街の北外れのそんなGHに替える。
2009年12月23日(水)
初めての寝台バスに乗る。靴を脱いで乗るタイプだった。三列の8列プラス3の席数だ。合計で27寝台の造りだ。乗り込んだときに強烈な匂いがする。そうなんです、足の匂いが強烈なんです。ムワアッと、脳天を突く。
大理客運汽車站(南站)を出た寝台バスは暫らくは幅広の国道を走っていたが、30分もしない内にごく普通の曲がりくねった田舎の道を走る始めた。田舎道といっても、四川の山奥の様に数キロに渡って家一軒無い田舎道ではないが、二車線も無いごく普通の田舎道である。大観光地大理から南の大観光地景洪へ行く幹線道路とは思えない。
寂れた幹線国道の趣だ。
団体客が居るからだろうかほぼ満席だ。前の空いている場所に汽車站を出たところで乗り込んできた四人が座っている。何時もの客に違いない。
本当に寂びた田舎道を寝台夜行バスは走る。夜中の一時過ぎに本当に寂れた山の中の峠に着いてトイレ休憩になったが、その30分の間に一台の車も通過しなかった。そんな田舎の道を走る。真夜中なので何処をどう走って居るのか皆目見当もつかない。
運転手に休憩の度に何処を走っているのか地図を見せて説明を求めるがトンと要領を得ない。地図が読めないのだ。現在地を地図の上にトレース出来ないのだ。途中の主だった街の名前を言うが、発音が怪しいのか殆んど通じない。本当に何処に連れて行かれるのだろうかと思う。目が覚めたら、異国の知らない街で人買いに売られていたと言っても不思議は無い。
2009年12月24日(木)
中国マジック その2 (緊急)の事件が起こる。12月26日のブログ参照
その後
夕方にモンラーへ移動する。物の本には景洪からモンラーへの道は山道の凸凹で未舗装で、かなりの中国を感じられるとの事だが、今は残念ながらそういった状況ではない。高速道路が完成し、ほんの数時間で着いてしまう。余りにあっけなくて、先の旅行者には申し訳ない。景洪発13時20分、モンラー着16時20分、40元也。
モンラーの客運汽車站で翌日のルアンプラバン行きの国際バスの乗車券を求める。7時50分発 98元。実に簡単にラオスに抜けられてしまうようだ。
宿は昨夜の事も有り、初めて大酒店と名の着く汽車站近くの天奕大酒店にするが失敗だった。表通りの入口しか注意しなかったが、ホテルの裏はモンラー口岸市場だった。
チェックインした時は夕方だったので余り五月蝿くはなかったが、深夜近くなってからの方が却って五月蝿くなった。市場で若者が集まり歌い踊っている。それでも、2時頃には静かになった。しかしその2,3時間後には、本来の市場への荷物の運び込みでトラックや人々の話し声で騒々しくなった。
2009年12月25日(金)
モンラー0800 モーハン 0920-1000 国境 1000-1020 ボーデン 南塔とウドンムサイの別れ 1040-1110 カスタムチェック 1100-1140 ウドンムサイ 1405-1420 パクモン 1625 ルアンプラバン 1830頃 現地時間午後5時30分頃着、約10時間の旅だ。
何をしているのか解からない停車が多くあり、実質の走行時間は6時間も無い位かと思われる。
モンラーから乗車したルアンプラバン行きの国際バスは、前日に昆明を出発し、朝にモンラーで多少の人間を入れ替えして行く寝台バスだ。バスは既に午前7時には汽車站の所定の場所に駐車していた。縦3列の寝台大型バスの座席はは30席位か。
あっさりと国境を越えてしまった。中国の国際バスに乗ってアット思う間にボーダーを越えてしまった。中国側の立派なイミグレとラオス側のプレハブ小屋のイミグレとが余りにもかけ離れている。
何処がボーダーなのかが解からない様な感じで、気が付いたらラオスに入国していましたと言う雰囲気だった。
ラオスに入って変わった事は、急に貧しくなった事だ。住宅の壁が、竹で編んだいわゆる蔀の様な物に変わった。道路が悪くなった。人々の服装が乞食に近い。道路の両側にわずかに開けた土地にバラックが建っている。子供や鶏や豚が遊んでいる。
それでも少数民族の正月行事なのだろうか、小さな広場や一寸した場所で、民族衣装で綺麗に着飾った女性達が鞠のようなものを投げ合っている。十人位の娘たちがはしゃいでいる。
悲しいかな、路線バスはこんな時にも止まってくれない。こんな貧しい中に如何してあんなに綺麗な衣装が揃えられるのか不思議に思う。写真を撮りたいが、カメラは盗まれて無いし、バスも止まらない。バスはバスの都合だけで止まる。給油や、荷物の積み下ろしや、人の乗降や、提携している食堂とかの前にしか止らない。
夕方のまだ明るいうちにルアンプラバーンに着いた。
2009年12月26日(土)
昨夜は市内の主だった数件のGHを廻るが何処も満員だった。年末の今頃に、国際観光都市ルアンプラバーンに簡単に泊まろうとするなんて少し甘く見ては居ませんかとでも言っている様だ。仕方が無いので、バスの到着した汽車站(南站)の敷地に会った中国系のGHに泊まった。
6時頃に起きて、朝の托鉢を見ようとトクトクで行こうとするが、いちいち値段の交渉が面倒くさい。幾らだと聞くと一人30000kipだと言う。相場はもう知っているのにいつも此処からスタートする。最終的には一人5000kipで収まるのだがそれまでに十数分以上が掛る。俺はもう何度も交渉済みなのだからもういい加減にして欲しいと思う。。乗るたびにこの繰り返しだ。
朝の托鉢を見ながらGHを探す。
可愛い子がGHのデスクに座っている。即決だ。しかし空きは無いと言う。主人が出てくる。一週間ぐらい泊まりたいと言うと、やっと部屋を見せてくれた。
部屋などはもう如何でも良い。値段なども如何でも良い。あんな可愛い子がいるのなら決定だ。
宿の娘だと言う。何かの美人コンテストで準優勝したときの写真がデカデカト飾ってある。両親の小さい写真と息子の写真がその下に在る。主人の自慢の娘の晴れ姿だ。
今年二十歳でビエンチャンの大学でフランス語を学んでいると言う。正月休みで二日ばかり前に帰ってきて手伝っているようだ。
街の北外れのそんなGHに替える。