岩手県立大学の高橋秀行先生から、「住民投票に関する実証的な研究報告書」をいただいた。高橋先生は、毎年、全国で行われた住民投票を取り上げ、発端から展開までを詳細に検証し、報告書を出している。その論証の中で、小平市や新城市における住民投票に関連した私のブログを毎回、批判的に取り上げていることから、できあがるといつも報告書を送ってくれる。ちなみに高橋さんとは、20年くらい前から、私が横浜市にいた時からのお付き合いである。自治基本条例では、声をかけていただいて、一緒に講演・シンポジュームなどをさせていただいている。
住民投票については、高橋さんは積極的であるのに対して、私は消極的である。ただ、よく見ると、両者は議論の場所が違う。私の議論の中心は、住民投票による決定の部分で、世のなか○か×といった単純に決められるものなどはそうはないはずなのに、それを二者択一で決める方式に大いに異議があるのである。実際、地域や社会で暮らしていれば、AかBかの選択以外に、それらを止揚したCという選択があるということくらい皆知っているし、実践しているはずだからである。そこから熟議の民主主義の可能性を考えている。
これに対して、高橋さんの立場は、民意と首長・議会の乖離である。市民の思いと離れたところで、政策が決定し、それに対して、最後の手段としての住民投票を行うというところに、住民投票の意義を置いている。たしかに、いくつかの住民投票を見ると、たしかに首長や議会による強引な決定で、考え直したほうがいいというものもあるので、この点については、私も高橋さんの意見に賛成である。
基本的認識はさほど違わないが、ここから私が向かうのは、住民投票の積極的導入ではなく、民意と首長・議会の決定に乖離が起こらないシステムの構築である。両者の乖離を防止するために、徹底した情報提供、市民参加、決定過程の公開、熟議の決定ルールの提案と実践している。
残念ながら、それが必ずしも、成功していないのは、先に述べた新城市における庁舎の建設である。何重もの市民参加手続きを重ねて、政策案が決定されていたが、それでも住民投票が起こってしまった。
ただ、新城市の住民投票から明らかになったのは、住民投票の性質には、政策テーマに関する住民から異議申し立てという住民投票の本来の姿と同時に、政策テーマに仮託して、政治的な運動の手段として、住民投票が使われるという側面があることである。
新城市の場合は、市長選挙に絡む政治性の強い住民投票という側面があり、結局、市長とその判断を是とした多数を占める議会側が、自らの非を認めて、提案をすべて撤回するか、あるいは職を辞さない限り、決着しない非妥協的な運動になっていった。
実際、住民投票結果を踏まえて、両者の間をとる案で市長側が提案したが、それでも「民意を聞かない」として、市長のリコール運動にまでなっていった(この例では住民投票の手続きや内容の非民主性を問うのならば、それを決定した議会の解職請求に向かうべきであるが、矢は市長の解職請求に向かったこと、このリコール運動は、とにかく市長をやめさせることが重要で、解職後に、どのような自治をつくっていくのか、自分たちは、どんなまちをつくろうとしているのか、その展望を示せない運動となった。それを示すと、運動が分裂してしまうという理由からである。2点目については、リコール運動の条件という点でも興味深い)。
私が、この新城市の住民投票にこだわったのは、そこに悪しきポピュリズムにつながる危うい兆候を感じたからである。
本来、民衆の声として、民主的なものとして生まれた反知性主義やポピュリズムが、今日では、民主主義への脅威になっている。こうした現状に対して、民主主義の学校である地方自治が、最後の砦として、踏ん張らないでどうするというのが私の問題意識であるが、地方自治における住民投票の政治的利用という禁じ手が、悪しきポピュリズムを加速させて、さらには、民主主義の学校である地方自治をも揺るがすことになるという懸念からである。
EUの国民投票やトランプ現象のように、たしかに首長や議員といったエスタブリッシュメントに対する漠然とした不満や不信が市民の間にあり、あるいは市民が漠然と思っている思い込みなど(職員は豪華庁舎で高給をもらってのんびりしているといった都市伝説)に働き掛けて、良いか悪いか、単純にわかりやすく、二者択一で迫る住民投票は、悪しき反知性主義やポピュリズムを加速させるものになってしまうからである。
こうしたなかで、本来、政治的リーダーたちの自制が求められるが、同時に、こうした潮流に対しても、AかBかの選択以外に、それらを止揚したCという選択があることを、市民自身が、立ち止まって考え、熟議する仕組みや機会の構築が急がれる。それが熟議の民主主義であるが、市民にとって身近なテーマを取り扱う地方自治ならば、これができるというのが、私の考え方である。私の研究は、まだまだ道半ばであるが、政治的リーダーたちや研究者は、その道を切り開く役割があるだろう。
なお、住民投票の正当性に絡み、もうひとつ、今後検証すべきテーマがある。「住民投票を熱心に主導し、支持する人は熱心に投票に行くが、反対の人、どちらともいえないという人は投票に行かない」という仮説である。投票結果のゆがみである。
例えば、大阪の都構想では、世論調査(毎日新聞大阪版2015年 3 月16日)では、都構想に賛成は43%、反対は41%と拮抗していたが,「必ず投票に行く」層では、賛成50.7%、反対40.3%になり、他方、「たぶん行かない」層では,賛成18.8%,反対49.3%となっている。ここでも、「住民投票を熱心に主導し、支持する人は熱心に投票に行くが、反対の人、どちらともいえないという人は投票に行かない」という傾向が見て取れる。
ということは、こうした歪みを是正して、民意を正しく判断できるシステムの開発が必要だということである。私の提案は、たとえば住民投票を行う場合は、マスコミがこうした世論調査を行い、投票結果の検証に役立てるシステムをつくるというものである。住民投票の前には、第三者であるマスコミが、こうした調査を行い、その結果も参考に、その後、首長や議会が最終決定する際の判断材料を用意するというルールができれば、〇×ではない、熟議の民主主義をつくることができるのではないか。
繰り返しになるが、悪しき反知性主義やポピュリズムの流れに対して、民主主義の学校である地方自治から、自分たちの民主主義をつくっていくために、みんなで大いに知恵を出そうではないか。
まず、庁舎の市民参加手続きですが、当時としては、丁寧な市民参加手続きだったと思います。
しかし、実際には、住民投票が起こりました。ということは結果的に、この市民参加手続きにはどこか問題があり、そこで、熟議の決定ルールは、「必ずしも成功していない」と書きました。
次に残された問題は、どのような市民参加手続きならばよかったかですが、新田さんは、どのような手続きならばよかったと、お考えですか。
先生のおっしゃる『市民参加手続き』がどういうものであったか、詳細に調査してから言ってほしいものです。
先生の言う「熟議」が、あの『市民参加手続き』にあった、と言えるのですか?
それから、このブログの記事を明日の試験に出そうかと考えています。
つくば市でつい最近、住民投票運動の中心となった団体が記録集を出したという話がありました。
購入したいなと思っているところです。
〈常陽新聞FBより〉
https://www.facebook.com/joyonews.jp/photos/a.711284578903631.1073741829.707674155931340/1224704004228350/?type=3&theater