新城市において、公開政策討論会のための準備会がはじまった。話が出てから、すでに2か月近くたった。
今回の準備会のメンバーは、自分の時間使ってのボランティアで、その労は多とするものである。その点については、感謝しつつ、それでも、準備会の公開については、もうひと踏ん張りしてほしかったというのが私の率直な思いである。
準備会の公開について、その必要性を何度か書いてきたが、結局、「会議は、最終的に結論を公開するとしましたが、途中の経過を公開しても市民にはわかりにくいとの判断で、非公開で進めることになりました」(白井さんのブログ)ということになったようである。
残念というか、もったいないというのが、率直な感想である。
これまでの経過は、
ア.公開政策討論会の進め方を決めるという準備会は、市民の関心も高く、公共性も高い。それゆえ、今日の水準でいえば、当然、公開されるものだと思いこんでいた。むしろ、私の関心は、新聞記者や一般市民の傍聴は当然として、ネット中継までやるのだろうかなどだった。新城市の場合、これまでのいきさつもあるから、決める過程から、徹底的に公開しよう、ネット中継もやりかねないと思っていた。ところが、会議の傍聴は認めないという前提で、話が始まっているとのことだった。
イ.次に出たのは、委員氏名の公開である。会議そのものは公開しないとしても、委員名は当然、公開だと思っていた。ボランティアでみんなのための制度づくりで委員をやるのだから、ほめられこそすれ、非難される筋合いはないから、名前を伏せる必要はないからである。ところが、委員氏名は公表しないということだった。これについては、いろいろあるのだろうと、納得することにした。
ウ.会議は公開せず、委員名も公表しない。しかし、毎回、そこで議論したことは、当然、発表されると思っていた。私の関心は、スポークスマンは誰がやるのだろう、ネットに出すのは当然として、会議後、速やかに議事内容を出すのは相当しんどいなあなどと考えていた。ところが、「会議は、最終的に結論を公開するとしましたが、途中の経過を公開しても市民にはわかりにくいとの判断で、非公開で進めることになりました」とのことである。「あっ」と驚くとともに、「もったいない」と思った。
これでは、有権者のための公開政策討論会をつくっていくという、市民にとって大切なことが、準備会の内輪どまりになってしまって、ちっとも市民と共有されていかない。
非公開の理由は、「途中の経過を公開しても市民にはわかりにくい」とのことである。今から30年以上も前、当時、私は、この言葉はよく聞いた。情報公開を進めようという私たちに対して、それに抵抗する人(偉い人)たちが言ったのが、「途中の経過を公開しても市民にはわかりにくい」という言葉だった。しかし、事実は全く逆だった。
①公開のほうがいい内容になる。
公開政策討論会準備会は、人に聞かれて悪いような話は一つもない。むしろ、オープンの場で話をしたほうがいい議論になる。中には、公開政策討論会に消極的な守旧派の人もいるだろう。しかし、オープンの場になると、そんな後ろ向きなことを言いにくくなる。みんなで前向きに知恵を出すようになる。いい意見が出て、いい結論になる。
②公開のほうが、みんなの関心が高まる。
新城市の市民で、公開政策討論会が開かれようとしていることを知っている人は、ほんの少数だろう。この制度は、市民を当事者にする仕組みなのに、肝心に市民が知らないというのはまずいから、折に触れて、市民に知ってもらわないといけない。準備会がオープンならば、新聞等にも載るし、あるいは会議自体が非公開の場合でも、会議結果と議論の内容が毎回すぐに発表されれば、新聞にも載るだろう。
なによりも、今、どんな議論が行われてるのか、何が難しいのか、市民一人ひとりが自治の当事者となって考えることができる。市民間で議論も起こるだろう。途中経過も音沙汰なしでは、市民は知ることができないし、それまで関心があった人も忘れてしまう。みすみす、市民に周知するチャンスをつぶしてしまっている。
③むしろ結論だけでは市民はわかりにくい。
途中のプロセスがあって、はじめて結論の意味が分かる。それが結論だけしか示されないと、今度は、あらぬ誤解や行き違いの原因になる。そもそも、結論のなかには、長い議論と逡巡の末に、ようやく決まったものもある。侃々諤々、大げさに言えば、51対49の僅差で、なんとか51のほうに決めたというものだってある。逆に、49だから、あきらめたものだってある。しかし、その逡巡や検討の過程が外に見えないと、たいして考えずに決めたのだろうといった誹りや、一方的に決めたなどといったトンチンカンな批判を受けることになる。委員の人たちは、悩み、苦労して決めたのである。それが市民に理解され、きちんと評価されてしかるべきだと思う。
④新城ならではの事情もある。
新城の場合は、市政の決定事項の非公開性が問われ、住民投票や市長リコールになった歴史がある。その体験を踏まえて、同じ轍を踏まないようにしようというのが、みんなが学んだことである。とりわけ、なぜ密室で決めたのだという批判は、特に注意しなければならない。さまざまな犠牲を払って、みんなで学んできたことを、これでは活かせていないように思う。
準備会の委員さんの労はもちろん多とするが、せっかくのチャンスをみすみすもったいないことをしたと思うので、あえて書かせていただいた。
これは委員さんというよりも、スタート時に、立候補予定者の方たちが最初に心すべき問題だったのかもしれない。公開することの意義や新城の事情等を考えたら、依頼するときに、「こんな事情で、公開でやりたいので、申し訳ないが、一肌脱いてくれないか」と声をかけてほしかったと思う。
せめて、最終的な結果公開の時は、市民がよく理解できるように、結論だけでなく途中経過も含めて、分かりやすく、報告してほしいと思う。
公開政策討論会は、立候補予定者に、直接問いかけ、話しを聞けるよい機会です。
新城市のこと、自分たちのことですので、聞きたいこと、疑問に思っていることがあれは、直接、聞いてみると、いいですね。
私も、〇〇公民館の書き込みを見ました。「え」と驚きましたが、私は、嫌がらせとは感じませんでした。
嫌がらせならば、わざわざ自分の名前を出さないだろうからです。匿名か、名前を騙ればよいからです。
旧来のしがらみが残り、加えて、前の投稿の方がいうように、ブログやフェイスブックで質の悪い情報を発信する人がいて、顔を出して、自由に発言しにくくなっているのですね。
その意味でも、「笑顔や握手」ではなく、政策を堂々と議論しあう、公開政策討論会は、新城に、新たに文化をつくる、きっかけになりますね。
穂積派は市長に相応しいかどうかより、やはり家柄、特に穂積七郎さんやご家族のかつての恩恵なども含めてのサラブレッド信仰であるので、市民の村社会感覚を引きずっているのが新城市の実情です。
これをあえて利用してるのが穂積派だと思います。
かなり体質は古い政治ですね。