北沢猛さんが亡くなった。その死亡を伝える記事は、肩書きを東大教授としているが、私にとっては、横浜市都市デザイン室の北沢さんである。北沢さんは、若いときから自治体学会等で活躍していたが、最初に仕事の相談に行ったのが、1980年代の終わり、サウンドスケープの事業をはじめるときに、洞窟のような都市デザイン室を訪ねたのがはじめてである。その後、私が、都市計画局の企画調査課に移ったとき、北沢さんは隣の都市デザイン室の室長だった。いくつか仕事を一緒にしたが、その当時から、大人(たいじん)の雰囲気であった。その優れた仕事ぶりは、多くの人が知っているだろうから、ここでは訃報に接して、思い出したエピソードを書くことにしよう。
北沢さんは、当時から、どこかの大学で非常勤をやっていて、私も同じく非常勤をやっていたことから、学生の話になったときに、「この人は学生が好きなんだなあ」と感じたことがある(私は、当時は教育よりも研究のほうが面白かった)。東大に出向のようなかたちで移るときに、「給料がだいぶ減る」ようなことを言っていて、当時は、大学教授といえばお金持ちと単純に思っていたので、とても不思議な感じがしたことを覚えている(今は身をもって、大学教授=金持ちではないことを実感している)。
その後、私は他局に移り、関西の大学に移ったので、北沢さんとはお会いすることはなくなったが、横浜市を舞台に多くの仕事をしたようだ。中田前市長の参与というのは、ややミスマッチのような気がしたが、北沢さんらしい折り合いをつけて、横浜の街づくりに大いに寄与されたのだと思う。今年も、一緒に仕事をした人が、ぽつぽつと亡くなった。さびしいことである。
北沢さんは、当時から、どこかの大学で非常勤をやっていて、私も同じく非常勤をやっていたことから、学生の話になったときに、「この人は学生が好きなんだなあ」と感じたことがある(私は、当時は教育よりも研究のほうが面白かった)。東大に出向のようなかたちで移るときに、「給料がだいぶ減る」ようなことを言っていて、当時は、大学教授といえばお金持ちと単純に思っていたので、とても不思議な感じがしたことを覚えている(今は身をもって、大学教授=金持ちではないことを実感している)。
その後、私は他局に移り、関西の大学に移ったので、北沢さんとはお会いすることはなくなったが、横浜市を舞台に多くの仕事をしたようだ。中田前市長の参与というのは、ややミスマッチのような気がしたが、北沢さんらしい折り合いをつけて、横浜の街づくりに大いに寄与されたのだと思う。今年も、一緒に仕事をした人が、ぽつぽつと亡くなった。さびしいことである。