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http://mainichi.jp/opinion/news/20140427k0000m070076000c.html 以下全文
余録:「母が亡くなった時は忙しく立ち回るのに精いっぱ…
毎日新聞 2014年04月27日 00時04分(最終更新 04月27日 00時05分)
「母が亡くなった時は忙しく立ち回るのに精いっぱい。今になってふと母のことを思い、悲しみが下りてくる」。夜のFMから歌手の森山良子さん(66)の言葉が流れてきた
▲聴き入っていた女性(56)は自分の母の時と同じだと感じた。
急死した母の葬儀はわけがわからないうちに終わり、意識的に母のことを考えないようにした。しばらくして急に母のことが頭に浮かび、悲しくなる時があるという
▲ラジオからは森山さんが歌う「家族写真」も流れ、心に染みた。
<ひとつの屋根の下で/喧嘩したり泣いたり/それでも最後は/夕御飯を囲んだ/変わらないところに/帰ってゆける場所がある/忘れないでぬくもりは/どこにもいかない>(松井五郎作詞・森山良子作曲)
▲心理カウンセラーの根本裕幸(ねもとひろゆき)さん(41)によると、大切な人を亡くした喪失感は時を経て大きくなることがあり、それが高じると無意識に感情を抑え込もうとする「心の防衛本能」が働き、抑うつ状態に陥る場合もある。
その人を思い浮かべ、心の内を声に出したり手紙にしたりすると押し殺していた感情が解放され、癒やされることがあるという
▲森山さんの母陽子さんが94歳で亡くなったのは一昨年11月。1年後に納骨を済ませてから無性に寂しさがこみ上げてくるようになった。
「ただいま」と帰ってきて気づく。ああ、お母さんはもういないんだと
▲これまでの人生のほとんどを一緒に過ごした。めったにほめてくれなかったが、亡くなる1週間前「あなたもよくやってきたわね」と言ってくれた。
写真を見つめ「ありがとう」と話しかける。母のぬくもりがよみがえってくる。
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つぶやき
誰でも歳をとればやがて母を失う。私も40歳前に母が心筋梗塞で急逝した。
勤めていた社に岩国の家から連絡があった時 丁度 会議中で会議が終わり母の急病の連絡を受けた。
支社長の上司に報告・上司は直ぐに担当部に飛行機の手配を指示して頂いたが既に夜遅く 航空券は手にすることはできなかった。
社宅に帰ったが翌日の朝の新幹線まで待てず夜10時 車をだした。家まで1000Km 安全を見て帰宅時間は14時間を予定して翌日 お昼の12時前 までには着くつもりだった。
翌日の朝 一番の新幹線を利用すればお昼を過ぎ家に着くのは14時すぎとなる。
ところが途中 東名の工事とぶつかり渋滞・また渋滞で家に着いたのは14時過ぎだった。家は親戚縁者の方々で溢れていて且つ私の知らない顔の方々で家の中は一杯だった。
床に寝ている母のやすらかな顔を見た時はとても亡くなったとは思えなかった。未だ未だ元気で声をかければ返事が直ぐに返ってきそうだった。
顔に手をやると その冷たさに初めて母の死を悟った。
暫くして「○○課長って どなた?」と言う声がして電話に出た。受話器を握り占め聞きなれた社の女性の声を耳にした時 初めて涙があふれ暫く声がでなかった。
社からの連絡だった。
「明日 ○○部長・○○課長・○○さんがそちらに参ります」とのことだった。
今から40数年も前のことだった。記憶は薄れてきたがあの時代はよい時代だった。忙しい中を管理職の方々が遥々見え参列をして頂いた。今では考えられないことだと思う。
このような私でさえ終身雇用の恩恵を受けた。
私が退社してバブルがはじけ社は大きく変わった。当時 6千人いた社員も現在は2千名くらいに絞られているようだ。
当時 受注額 7千億 あったが今は2千億足らず?と聞く・・・会社名もあることはあるようだが・・・・・。残念ながら現在は某建設会社の傘下に下っている。
何故にそうなったか?私は技術系でデスク・ワークで もともと経済には無頓着だった。
退社して社会に出て初めて社会に浮く○○会社という船を見た時に自分の乗っていた船がいかに小さいかがよく理解できた。
船底の機関室で外界を見ようともしなかった自分を見たショックは大きかった。
「余禄」の記事を読みながら亡き母と同じくお世話になった長年勤めていた会社の方々を懐かしく思い出した。
1年後 母に導かれるごとく父もこの世を去った。
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