待った!
へぼ碁の楽しみ
待った!は後悔の元!
我輩が日本棋院の故松本七段から囲碁の初歩の手ほどきを受けたのは、今から30年か?40年?も昔のことである。
社内に囲碁部があり囲碁指導は毎週の決まった曜日の6時から8時までの2時間である。
2時間は短いがクラブの部屋は10時まで使える。
松本先生が指導されるのが2時間で初心者は3面~5面打ちで最初の1時間が初心者の指導の時間だ。
この囲碁部の上級者にはA さんと言うK大の囲碁部に居たというアマチャ7段もいた。
7時すぎになると、このAさんと先生との2子の対局が始まる。
他に6段の上級者との二面打ちである。
我々初心者はそれを見るのも楽しい。
何故?あそこに打ったのか?どうして手を抜いたのか?いつも疑問?だらけの布石である。
余り殺し合いは見たことはない。大体が地合いの勝負である。
我々初心者の対局はいつも“殺し合い“ で、やれ ”死んだ!“ ”やったぞ!“と喧(ヤカマ)しい。
時に殺されて ”おゥ~!“ と思わずうなり声を上げる。
40歳前後のいい輩(ヤカラ)が大石を殺されて堪らず ”わッ!“と叫ぶのだ。
部員の半数は管理職である!
それでも下っ端の管理職の我輩は盤面をみたまま知らぬ顔をしている。
中には“待った”と言う呟きも聞こえるときもある。
大体が声の主は通称“殿様”であるが・・・・。
碁盤の上でも仕事の上での机のある場所の影響がある場合もある。
この殿様との対局は部員もさり気なく、避けてはいるが部室に早く来た順に同じレベルの方と対局を始める。殿様は二段である。
我輩は娯楽室に行く前に電話で対局者と打ち合わせをしてゆく。
それでも時間差が生じて 殿様と対局することもある。
その時は我輩は大体 要領よく負けることにしている。
ただ、あからさまに負けると大変だ!
これは相手の狙いが分かるとそれほど難しくはない。
対局は姿勢を正し常にポーカー・フエイスで盤面から目を離さないことだ。
もしも!“待った”が掛かったときは静かに、相手が私の石を取り上げるのを待つ。
自分では石を取らない。
自分で取る時は“待った“ を掛けた相手に断り手にする。
滅多にないが違う石を取ると大変だ!
また正しくとっても“その石ではない!これだ!”と別な石を差し出される。
だから“待った”の石は自分では決して取らない。
対局者の方にとっていただくのだ。
さもなくば“この石でしたか?”と断りながら取り上げる。
そして、時にはたとえ対局者にとってもらう場合でも間違って取り上げられても一切文句は言わない。静かに対局を続ける。
大石を殺されても、黙って見ているだけである。
対局が終われば軽く頭を下げて次の方と交代である。
この様に記事にすると我輩は凄く強く見えるが当時は初段に昇進したばかりであった。
殿様は有段者としか対局しない。
・・・と言うわけで我輩も初段に昇格してから2~3度対局したことがある。
囲碁は仕事から全く別の世界に入れる。
気心の知れた仲間内と気楽に対局していると、つい“待った”がでる。
相手は「どうぞ」と言う。その声を聞き相手の石を返す。
改めて打ち直すが、“待った“をした時に勝ったためしがない。
精神的に動揺が収まらないのだ。
そのたびにもう二度と“待った”はしないと心に誓うが・・・・。
以上は昔の話である。
横須賀囲碁教室では流石に“待った”はない。・・・が“あッ”と叫ぶことは再々である。
最近は身体の調子が悪いのと耳がきこえないので囲碁教室の旅行には行かないが以前この教室の旅行に参加したときに経験したが私が対局中にお隣で対極者同士が喧嘩になり、もの凄い怒鳴り声で傍にいた我輩と対局していた方は目を白黒させていた。
多分 小心な我輩も同じだったと思う。
我輩との対局者は盤を持って部屋を出ようとされた。
我輩は碁笥を持って立ち上がった。
喧嘩をしていたお二人は、それを見たのか?静かになったことがある。
この喧嘩をされていたお二方も相当なお年寄りの方であったが・・・。
囲碁はいろんな意味でホントに別な世界に導いていただける。
作家有吉佐和子さんの「恍惚の人」では90何歳の方が町の会館で囲碁の対局中に石を持ったまま天国に行かれた場面があるが、我輩もそうなりたいと常々思っている。
ことによると軽率な我輩は 案外 天国から“待った” と言うかも?
へぼ碁の楽しみ
待った!は後悔の元!
我輩が日本棋院の故松本七段から囲碁の初歩の手ほどきを受けたのは、今から30年か?40年?も昔のことである。
社内に囲碁部があり囲碁指導は毎週の決まった曜日の6時から8時までの2時間である。
2時間は短いがクラブの部屋は10時まで使える。
松本先生が指導されるのが2時間で初心者は3面~5面打ちで最初の1時間が初心者の指導の時間だ。
この囲碁部の上級者にはA さんと言うK大の囲碁部に居たというアマチャ7段もいた。
7時すぎになると、このAさんと先生との2子の対局が始まる。
他に6段の上級者との二面打ちである。
我々初心者はそれを見るのも楽しい。
何故?あそこに打ったのか?どうして手を抜いたのか?いつも疑問?だらけの布石である。
余り殺し合いは見たことはない。大体が地合いの勝負である。
我々初心者の対局はいつも“殺し合い“ で、やれ ”死んだ!“ ”やったぞ!“と喧(ヤカマ)しい。
時に殺されて ”おゥ~!“ と思わずうなり声を上げる。
40歳前後のいい輩(ヤカラ)が大石を殺されて堪らず ”わッ!“と叫ぶのだ。
部員の半数は管理職である!
それでも下っ端の管理職の我輩は盤面をみたまま知らぬ顔をしている。
中には“待った”と言う呟きも聞こえるときもある。
大体が声の主は通称“殿様”であるが・・・・。
碁盤の上でも仕事の上での机のある場所の影響がある場合もある。
この殿様との対局は部員もさり気なく、避けてはいるが部室に早く来た順に同じレベルの方と対局を始める。殿様は二段である。
我輩は娯楽室に行く前に電話で対局者と打ち合わせをしてゆく。
それでも時間差が生じて 殿様と対局することもある。
その時は我輩は大体 要領よく負けることにしている。
ただ、あからさまに負けると大変だ!
これは相手の狙いが分かるとそれほど難しくはない。
対局は姿勢を正し常にポーカー・フエイスで盤面から目を離さないことだ。
もしも!“待った”が掛かったときは静かに、相手が私の石を取り上げるのを待つ。
自分では石を取らない。
自分で取る時は“待った“ を掛けた相手に断り手にする。
滅多にないが違う石を取ると大変だ!
また正しくとっても“その石ではない!これだ!”と別な石を差し出される。
だから“待った”の石は自分では決して取らない。
対局者の方にとっていただくのだ。
さもなくば“この石でしたか?”と断りながら取り上げる。
そして、時にはたとえ対局者にとってもらう場合でも間違って取り上げられても一切文句は言わない。静かに対局を続ける。
大石を殺されても、黙って見ているだけである。
対局が終われば軽く頭を下げて次の方と交代である。
この様に記事にすると我輩は凄く強く見えるが当時は初段に昇進したばかりであった。
殿様は有段者としか対局しない。
・・・と言うわけで我輩も初段に昇格してから2~3度対局したことがある。
囲碁は仕事から全く別の世界に入れる。
気心の知れた仲間内と気楽に対局していると、つい“待った”がでる。
相手は「どうぞ」と言う。その声を聞き相手の石を返す。
改めて打ち直すが、“待った“をした時に勝ったためしがない。
精神的に動揺が収まらないのだ。
そのたびにもう二度と“待った”はしないと心に誓うが・・・・。
以上は昔の話である。
横須賀囲碁教室では流石に“待った”はない。・・・が“あッ”と叫ぶことは再々である。
最近は身体の調子が悪いのと耳がきこえないので囲碁教室の旅行には行かないが以前この教室の旅行に参加したときに経験したが私が対局中にお隣で対極者同士が喧嘩になり、もの凄い怒鳴り声で傍にいた我輩と対局していた方は目を白黒させていた。
多分 小心な我輩も同じだったと思う。
我輩との対局者は盤を持って部屋を出ようとされた。
我輩は碁笥を持って立ち上がった。
喧嘩をしていたお二人は、それを見たのか?静かになったことがある。
この喧嘩をされていたお二方も相当なお年寄りの方であったが・・・。
囲碁はいろんな意味でホントに別な世界に導いていただける。
作家有吉佐和子さんの「恍惚の人」では90何歳の方が町の会館で囲碁の対局中に石を持ったまま天国に行かれた場面があるが、我輩もそうなりたいと常々思っている。
ことによると軽率な我輩は 案外 天国から“待った” と言うかも?
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