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http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140426/plc14042603180002-n1.htm 以下全文
立ち向かうときがきた 4月26日
幕末から明治にかけて住友の経営トップとして辣腕(らつわん)をふるい、「東の渋沢(栄一)、西の広瀬」とうたわれた広瀬宰平は、さまざまな事業に取り組んだ。別子銅山の近代化だけでなく、製鉄・化学事業、さらには海運業にも乗りだした。
▼当時、西日本の大動脈は、瀬戸内航路だったが、外国汽船と日本の汽船会社が入り乱れ、安値合戦が過熱。どこかの国のように安全性がおろそかにされ、事故が相次いだという。
▼事態を憂えた彼は、渋る中小汽船の船主を団結させ、大阪商船を設立。初代頭取となった広瀬は、海運によって交易を盛んにし、「国家文明の万一を裨補(ひほ)(助け補うの意)せん」と開業式で高らかに宣言した。
▼大阪商船は、日清・日露戦争を経て急成長し、日本屈指の海運会社となった。
後に三井船舶と合併、商船三井となったが、創業130周年を迎えた今年、とんでもない災難が降りかかった。戦後に吸収合併した会社が日中戦争直前に結んだ契約をめぐる紛争で、大型運搬船が突然、中国当局によって差し押さえられたのだ。
▼結局、40億円もの供託金を払って差し押さえは解除された。このままでは中国での事業が立ちゆかなくなる、という苦しい事情は察するが、「戦後賠償で日本企業を脅せば簡単にカネを払う」という前例をつくってしまった。
言い掛かりをつけたヤクザに法外な「みかじめ料」を払って商売をさせてもらうようなものである。
▼広瀬の嘆きが聞こえてきそうだが、日本政府は、裁判所が29億円もの損害賠償判決を下してから7年近くも何をしていたのか。
中国が戦後賠償を放棄した日中共同声明の精神に反する、となぜ主張しなかったのか。
中韓が仕掛ける「歴史戦」にまなじりを決して立ち向かうときがきた。
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つぶやき
いつまでも「ご無理 ごもっとも」では際限なくたかられる。敢然と立ち上がり立ち向かわないと国の存在感すらなくななってしむ。過ぎ去ったことを言ってもしかたない。
これからはこのようなことには当然 立ち向かわなくてはならない。憲法9条支援の方々はこのまま泣き寝入りを勧められる?この40億さえ憲法9条保持の方々に支払って欲しいくらいだ。
平和ボケに付け込まれていることさえ分かっていない。
今後 このようなことが発生すれば報復処置として在留中国人の財産没収 等の処置も必要だ。
現中国共産党政府は在日在留中国人の財産など目でもないかも?然しやらねばならぬ。 在留中国人の財産没収の上 中国への強制送還もありうる。
そのくらいの覚悟が必要だ。
平和ボケの芽を摘むには断固とした処置が必要な時代に来た。ことの始末は全て中国・韓国の仕業と思うべし。
こんなことを書いたら大変だろうね?戦争が好き?と「爺 いい加減にしろ」とかコメントがわんさか入るかも? でも国を守ることの重大さは分かってもらいたい。その覚悟は必要だ。
苛められっ子が苛められるのは抵抗しないからだ。チャンスを見て死ぬ覚悟で相手に噛みつけばいい。
つまり戦うのだ。「戦い」こそ苛めから「おさらば」する最後で唯一の手段だと思う。
子供のころ広島から岩国の国民学校に転向したが転向当時 まもなく学校で少々やられたことがあり掴み合いの喧嘩になったが相手の腕に噛みついて離さなかった。
相手が泣いても喚いても噛みついたままだった。 私の口の中は相手の腕の血で真っ赤になっていた。
国際問題と子供の喧嘩を一緒にしてはどうかと思うが中身は同じだと思う。
然し 相手からも学校からも文句は来なかった。私の祖父が土地の顔役だった所為かも? 以後 私は喧嘩は一切 しなくなった。いわゆる自分からバカになった。
社会に出て現場で一瞬 土方(ドカタ)から絡まれたが相手の目を見て動かなかった。
「やるなら相手はするぞ」と言う気持になった時にボウシン(土方の親方)が飛んできて相手を叱り飛ばした。
「監督に手をだしたら後がどうなるか分かってるのだろうな! 飯場でどうなっても知らんぞ」 と凄んだ 。
飯場のリンチは凄まじいとは聞いていたが どのようなものかは知らない。
社会人になってからは喧嘩らしきことはこれだけだった。
国民学校 6年生の時に学校 始まって以来という大事件を起こしたが祖父が学校に乗り込んで無事に収めてくれた。校長も祖父に相当 脅されたらしい。
然し 祖父からは何もいわれなかった。国民学校の卒業も無事おわり私は広島の私立中学の寄宿舎に入った。
やがて原爆で寄宿舎はなくなり岩国から列車通学となった。
「広島」⇔「岩国」 間の列車通学 「山陽線下り」が同級生との繋がりとなりベンさん達 との交友も始まった。当時の懐かし仲間も今は半数にへったようだ。
今 岩国の八幡神宮の神主さんは当時 広島の山陽中学?か広陵中学?の生徒でよく同じ列車で帰校の時に一緒の列車になったが話を交わすことはなかった。然し見かけは かなりの不良学生だった感じを受けていた。
私の弟の結婚式で神妙な顔でお払いや祝詞を上げる彼を見たときはホントに驚いたものだ。
神主さんも中学生当時は悪ぶっていたのかも?
ご報告:ついにあります!日中韓の若者の直接対話。仕掛け人?はあのマイケルサンデル教授。この教授の白熱教室以来、各先生方の教室も見ましたが、さすがすごい専門家はいるものです。
残念ながらどうも衛星放送のようで、視られるかどうか判りません。とても貧しいので衛星放送受信設備はないのです。貧乏人は教育テレビでいつかあるであろう再放映を待ちます~ショボ
予告では中国の若い女学生が(えー!日本と中国では戦後処理が正式に終わっていたのですか~知りませんでした~)との場面がありました。
というわけで、将来を担う若きインテリ達が、まず忌憚なく意見を述べ合うと、どういう話の内容になるか?
当然中韓での言論統制はかなりひどいとは思いますが、いずれにせよ日本が100%正しいとも確信を持っては言えず、やはり中立のしかもメジャーな教授の授業なので、中韓政府もいやでも阻止は出来ず、放映中止~の処置が精いっぱい?
これはぜひ探して先輩に視ていただきたいと思い連絡申し上げます。マイケルサンデルで検索しましたが予告の方の画像はありませんでした。
まだソフト8,1入れてもらったばかりなのでもたついています。
草々
メカ音痴拝
今 検索しましたらこれがヒットしました。
「マイケル・サンデルの白熱教室 日中韓の未来の話をしよう」
BS1 2014年5月11日(日) 午後7時~午後8時50分
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard.html
楽しみに見る予定ですが近頃 頭がずれてきてあてになりませんが・・・。
情報 誠に有り難うございました。感謝
いつもありがとうございます^^
osamu様の武勇伝を拝読させて頂きました
男らしさが伝わって参りましたよ^^
「あの人は怒ったら怖いよ」と知らしめた訳ですね
人間、強さの意地を持たねばなりませんね
特に男性は。。苛めを受けない為にもですね。
「青年の日のパン屋さん」
つまりは~
「青年の時のパン屋のお兄さん」の姿が思い出されました
そのような時間の経過を7文字、5文字に詰め込んでみたのですが
自分勝手の句なのです^^;。
詳しい内容、伝わってきました。
勉強になりました。
ありがとうございました。
昨日も、とてもあたたかいコメント&応援ポチに、心より、恐縮、深謝、深謝です。
応援ポチ♪♪
幸いに私は怪我をすることなく終わりましましたが昭和35年代以前はそのような時代でしたね。職人に渡り者も多かったです。夏でも長袖シャツの職人は先ず全身タトウと推定しました。
「聖☆おにいさん」・・TVで放映されたのですか?こちらではないようです。
最近は喧嘩と言っても殺伐ですね~ 余りに子供の時に喧嘩をしていない所為かね?と思います。子供の喧嘩は成長期の必需品?でだと思いますが・・。
私の子供のころは全て素手でした。 噛むの違法でしたね。笑 窮鼠 猫を噛む・・・を知らないうちにやってしまったようです。
身体が小さかったので・・。理由になりませんが・・。私の前歯が子供の時の喧嘩で半分折れています。下駄で殴られたのです。笑
熱いもや冷たいものが沁みますのでそのたびに喧嘩を思いだします。苦笑 今はおとなしいものです。カミさんに苦もなくやられています。プールに逃げていますよ。