ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

尾根道

2009-09-24 22:13:47 | 野根山街道物語
 野根山街道は、1200年ほど前に官道にとして開かれたのですが、野根山山系の尾根を道として利用していたのがよくわかります。

 この場所は、何時行っても感心します。幅は人ヒロ弱程度、尾根を多くの人たちが歩いて踏み固めた道なのです。そして左右ともに下方に傾斜しているのです。雨粒が右に落ちるのと左に落ちるのとでは、流れ落ちる川が違うのです。山の背中を歩いている実感があります。人が歩いていた後に道が出来たのです。人間がいないときには獣も歩いているかもしれませんがね。
 
 向こうから、ちょんまげをつけた人たちが走ってきても不思議ではないように思えてしまいます。
 しかしこの道を参勤交代の折、駕篭を担いで歩いていた人たちがいるのです。信じられないほどの体力です。

 野根山山系の中には多くの獣道や作業道もありそうですが、この道は多分最も起伏がなく、単純に歩きやすい道なのです。

 野根山街道の中で私のお気に入りベスト10に入る場所の一つです。

 名前??別に付いてないんじゃあないのかねえ。知らないなあ。
 お話を作りたい場所としては、NO1です。

忘れておりました。

2009-09-24 11:59:24 | 野根山街道物語
 2009年8月30日に野根山街道に分け入ったときの写真をやっと見ていただけます。

 「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ俳人がいましたが、こんな感じなのでしょう。歩きながら、ふと口から出た俳句です。山頭火が分け入った場所もこんなところだったのか、単に目的もなく歩かざるを得ないとしんどいのですが、友人と共に楽しく歩くのには良い場所かと思います。
 
 ここは藩政林の近くで、樹のサイズが大きくなっています。一抱え以上の木々が並んでいるのです。樹齢130~140年程度とされているのです。
 もちろん付近に人家などはなく、イノシシや鹿、そうした獣のホームグラウンドなのです。
 今回の旅は、ちょっと行こうかなといった気楽さから、そしてすこし写真画像がほしくて出かけたのです。
 最近は撮影技術の未熟な私でも、それなりに写るカメラの性能がすばらしいですから、なんとかなったように思います。

 見晴らしの良い場所、うっそうとした木々に囲まれて昼でも暗いところもあるのです。
 スポーツとしてのトレッキングコースとしても検討してよさそうな場所です。

 来年の正月にもまた行ってみたくなっております。

 

無事帰還

2009-08-30 16:34:39 | 野根山街道物語
 どうなることかと思っていたのですが、無事帰還しました。

 35Kmの野根山街道のホンの一部でしたが、運動不足から心配しておりました。

 朝8*30に出発して、12時ごろに宿屋杉に到着。お昼を食べて帰ってくるだけだったのですが、途中で膝はがくがくになるし、足は上がらなくなって、大変でした。
 帰りになると雨が降り出してしまって、41人が歩いた後はぬかるんで、すべって転んで大変。

 しかし、行って良かったです。明日になると足が痛くなるのでしょうが、満足しています。何人ものすばらしい出会いがありました。豊かな自然が待っていてくれました。自分なりの写真が取れました。

 いのししのヌタバがありましたよ。普段はイノシシたちの遊び場でしょうから今日は彼らにとっては、迷惑だったでしょうね。

 今日は行きも帰りも最後尾でしたが、41人が無事に帰ってきたのです。
 よかった。
 面白い形の木もたくさん探してきました。恐竜みたいな木とか、ビールジョッキみたいな木、倒れた木から枝が伸びて櫛みたいになっている木。神様が創る造形は何より勝るかも知れません。

 気力をもらったような気がします。

 また生きたいね。行きたいね。よかった。
 ほんの往復13Kmということは、片道6.5Km。
 全長35Kmですからね。まだ入り口です。

ジェ-ン台風で倒壊。

2009-08-28 11:21:15 | 野根山街道物語
 今度の日曜日。8月30日に宿屋杉まで歩きます。

 昭和25年のジェーン台風で倒壊するまでの宿屋杉は目の高さほどで、周囲16、6mで高さ32m、樹齢1000年以上とされていました。残念ながら倒壊したのですが、未だにその残骸はその場所にあります。
 残っている根幹は、中が空洞になっており、空洞の中でゆっくりと休むことが出来るのです。かつての宿屋杉は、空洞内の広さが4,5畳程もあり、3~4人は休むことが出来たそうな。無賃の臨時宿泊所だったのですが、残念なことです。

 この大きな木の周囲の木を伐採したことで、風雨がまともに吹き付けるようになったから倒壊したとも言われておりますが、定かではありません。
 長い歴史を誇る野根山街道の中でも、多くの方々が空洞で疲れた体を休めたことでしょう。お世話になった木。
 街道を行く旅人の目印になっていた木。後どれぐらいと、元気を貰っていたはずです。
 周囲を圧倒していた当時の写真もありますが、迫力があります。

 運動不足の五体でサテいけるものか、自信はないのですが、一度いくといった以上、行かなければなるまいなあ。
 山の上で動けなくなった自分を想像すると、恐ろしいね。

 今から少々動いても、駄目だろうし、覚悟を決めてエイや!!。です。

 途中には絶景の場所が何箇所かありますから、無理をせずゆっくりと行きましょう。

 写真を撮る余裕があるかなしや。わからない。
 でも、がんばろう。ほんの13Kmですから。
 元気で行って来たよ。
 この場所で報告したいですからね。それから藩政林の良い写真がないのです。
 それだけは是非撮りたいですね。

 体力と気力のチェックです。

山へ向かう。

2009-08-22 21:37:34 | 野根山街道物語
 多くの物語の舞台となった野根山街道に来週の日曜日、そう選挙に日に行くことになりました。もちろん事前に投票には行きますよ。

 今から楽しみにしているのですが、何分久しぶりのことで、それを聞きつけた友人が「おい、大丈夫か??」「本当に行くがか。」心配してくれました。

 メタボ最前線ですからねえ。「へいきよね。」と言ってみたものの、今になって少し心配になってきた。

 当初の目的。写真がほしいってのは、もう手に入ってしまったし、どうしても行かなければならない理由など無くなってしまったんです。

 さてどうするか。ここが判断の分かれ道です。
 「行くべきか、行かざるべきか。」
 もし行って、ひっくり返りデモしたら、「それ見たことか。」てなことになりますしねえ。

 ハムレットみたいな心境です。

 あと10KG体重を落とさないとねえ。しんどいと思うんですが、ま、いいか。

 なんとかなるでしょ。
 写真にあるように、いいところですからね。
 今回は、13KMほどのハイキングです。

岩佐の関所

2009-08-12 15:12:26 | 野根山街道物語
 現在の岩佐の関所跡の写真です。
 野根山街道のほぼ真ん中に位置しているところに岩佐の関所があります。
 東海道のかの有名な箱根の関所では、重点項目は「入り鉄砲に出女」と言われたそうです。

 岩佐の関所は、いったいどんな場所だったんでしょうか。東海道は第1級の主要街道ですが、野根山街道は土佐の3大関所とはいえ、普段からそれほどに通行量があったようではないのです。もちろん官道ですから参勤交代も通りますし、幕府の巡検使も通ります。さらに公的な通信のための飛脚も通行しますが、毎日といった頻度ではなかったでしょう。また一般の住民がちょっと観光へといった時代でもないのです。さらに物資の輸送については海上運送が整備されておりましたから、これもそれほど多くはなかったはずです。遍路道は海岸線を行き来していたはずですから野根山街道に立ち入ることはなかったのです。
 主として外来者の検問、藩内の住民の脱出防止の役割を果たしていたのです。

 ここに関所が設けられたのは江戸時代の当初山内家による領国整備が進むにつれて設けられたのです。
 番士は木下氏(15人扶持28石8斗)を番所長に、川島・久武・岩崎・北川(各5人扶持8石8斗)の5人の士分を駐留させたのです。東部の重要拠点として考えられていたのが解ります。
 元禄地検帳には、「岩佐村新田10石15戸76人」とあります。あの山の中にそんな大人数が生活をしていたのかと思います。

 かの土御門上皇が暑いさなか喉を潤したとされる岩佐の清水もこの近くですし、巡検使の災難も幕末の野根山屯集事件もここが舞台でした。
 小さな事件をひらい出せばきりがないのでしょうが、たくさんの物語の舞台となったことでしょう。

 そして明治3年(1870年)10月岩佐の関所が廃止となり、明治30年をすぎた頃海岸沿いに県道が開通したことで野根山街道の歴史は表舞台から消えることになったのです。
 最近では、ハイキングコースとして、地域の内外から訪れるハイカーに「楽しむ場所」として利用されています。
 もちろん関所に番士はいません。

 

法と役職

2009-08-01 15:49:01 | 野根山街道物語
 元治元年の安芸郡志士による野根山屯集事件の際、藩の軍監として討伐隊を率いて、鎮圧斬罪をした小笠原唯八(タダハチ)の写真です。

 彼も維新の大波に呑まれ揺られていたのです。

 明治44年7月22日に史談会の席上での板垣退助の談話があります。

 容堂の側物頭で小笠原唯八というものがいるが、私も知己として相許した仲であったが、私や小笠原が役人であったという理由で吉田東洋の側の人間であったとされるが、そうではない。
 武市派の50人ほどが容堂に謁見を願い出た時も「生首を持参して主君を脅迫したり、意見が入れられないと脱藩する旨を藩主に対して迫るとは、不埒千万。といった。実に快男子であった。

 野根山屯集の際にも、武市半平太の赦免を哀訴するというので、武器を携えて野根山に立てこもったので、これは不埒だということだった。兵をひきいて取り押さえ、藩主の命令で23人の首を奈半利川原で切ってしまった。それが理由で小笠原は未だに賞されることが出来ない。

 さらに、江藤新平と共に江戸の南・北町奉行の役をしていたとき、自分は板垣と生死を共にと誓っているのに、板垣は戦場に出ている。こんな仕事はいやだとして、町奉行はやめて、改めて官軍の軍監になったのである。こんな意気盛んな人物であった。

 小笠原も23士も共に靖国神社に祀られている。

 板垣退助は小笠原唯八を絶賛しているように見えるのです。

 明治新政府の大総督御用掛に就任し、さらに政府軍監となり上野戦争や東北諸藩との戦いにおいて活躍するが、1868年(慶応4年)会津戦争で弟と共に戦死しているのです。
 会津城攻めにおいて部下の士気を高めるためによさこい節を歌ったといわれています。40歳でした。
 
 後の研究でも、小笠原唯八の野根山出張日記の23士処刑当日の筆跡は大きく乱れて、当事者としての苦悶がしのばれていた。そうな。

 佐幕派とか勤皇派といったことではなく、体制の中で翻弄された一人の官吏の姿が見て取れるような気がします。 法を守るべき役職であっただけなのです。
 哀しいかな、そうした時代だったのです。

 

 

幕末の女性

2009-08-01 14:34:04 | 野根山街道物語
 名前を清岡静。
 幕末、元治元年(1864年)野根山街道岩佐の関所で安芸郡の志士23人を集めて、武市瑞山以下の解放をもとめて屯集した首領・清岡道之助の妻です。

 男達は自らの意思を持って、命を懸けて時代を生きていたときも、女達はひたすら家を守り、子を育てて次の世に系譜を繋いできたのです。
 夫が勤皇運動に熱中しており、さらに前年北川郷大庄屋中岡慎太郎が脱藩して、中央で運動に邁進していることは聞いていたことでしょう。さらに土佐勤皇党の武市以下が捕縛されてから頻繁に郎党と集って相談していることも当然知っていたのでしょう。

 身支度を整え、出てゆく夫に「この子供(邦之助)は、どうしたらよございますか」と問うと、道之助は血相を変えて「こちへおこせ」と立ち上がったのです。そのとき庭にいた下男助平が座に上がり主人の腕を押さえたのです。夫の意思を確認した妻静は子供を抱きしめて奥へ走ったと伝えられています。やがて、一人でその座に帰り頭を下げて「私が悪うございました。」とあやまり、出てゆく夫の姿が見えなくなるまで、家の門口で立ち尽くしていたそうな。

 2人が次に会うのは岡地の獄舎に入れられた時とされています。
 「どうも処刑されるらしい。覚悟せよ。証拠書類は全部焼き捨てるがよかろう。」
 「かねてから、覚悟はしています。余罪の及ばぬよう既にすべてのものは処分してあります。」
 2人の会話は短いものであったでしょう。気丈な彼女も夫の心情を思い、ひたすら子を抱き続けるしかなかったそうな。

 更なる道之助と妻の伝説は処刑された夫の首を抱き、髪を整えて杓子の柄で胴体と継ぎ合わせて埋葬したとの逸話です。道之助の首は首謀者として高知で3日間さらされていたのです。この時眉毛一つ動かさなかったといわれています。命がけの活動をする夫とその後始末をする妻の姿です。

 残された静さんは邦之助を立派に育て上げるのです。邦之助は学問に打ち込んで、慶応義塾に入ります。後年慶応義塾の創業者福沢諭吉の三女しゅん(俊)と結婚。キャリア官僚となり、中央財界で活躍することになります。さらにその子静の孫になる瑛一は慶応大学教授となり、ハワイ大学と慶応義塾大学との交流に貢献したとの資料があります。

 いま田野町福田寺にある二三士の墓は彼女が私財を投じて修築したもので、その命日には祭祀を怠らなかったそうですよ。

 偉い人です。

 彼女は大正2年11月21日 72年の生涯を終えたそうですよ。
 

 

 

街道の騒動

2009-07-29 11:02:00 | 野根山街道物語
 野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。

 参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。

 一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。
 さらに、土地土地の長者達の気苦労は相当なものであったそうな。

 それより困ったのが、巡検使の一行でした。記録によれば野根山山中で大雨にあい、岩佐の関所で止宿することになるのです。巡検使のお付の藩の役人やら荷運びの人夫やら、こちらも100人ほどの行列であったそうな。
 山の中の小さな関所に大勢が突然、止宿する。殿様も遠慮するような身分の方々がです。緊張したのでしょう近在の住民の負担も大変であったといわれています。
 どこに止めるの、食事は??。あわてたでしょうね。

 道を譲って灘周りの殿様の一行。こちらも野根山が大雨ですから、風は吹き、波は荒れ、船は出せず、歩いての旅は遍路状態だったのです。

 こうした事件もあってか、これから参勤交代の順路は「北山越え」に変化することになります。

 天気予報はなかったのですし、普段いつもあることではないのですが、しんどかった事でしょう。お世話をする側にとっては、野根山街道は苦役の道だったのです。

伝説  鍛冶ヶかかあ

2009-07-08 10:46:45 | 野根山街道物語
 昔々・・って始まるお話は、だいたいある所にと続きますが、今日の話は野根山街道のほぼ中ほどにあるお産杉のあたりの話です。

 一人の飛脚が、急の御用で野根山街道をかけて、装束峠をこえようとしていた時、道端に女の人がうずくまっているのに出くわしたそうな。聞いてみるとどうらや産気づいて、もう痛みが差し込んでいる様子。「こりゃあいかん。」ここじゃあ何が出るか分からんと思うたがです。オオカミやら山犬やらが集ってきたら、お産どころじゃあない。
 飛脚は近くにあった大きな杉の木のかぶったの上に座れる場所を見つけて、そこへその女を押し上げたのです。そしてその木の上でお産をしたのです。

 しかし介抱をしているうちにいつも間にか暗がりになり、闇夜が辺りを包んだそうな。
 そしたら、恐ろしい獣の声がしたかと思えば、杉の下から飛び掛り始めたので、飛脚は小刀を抜き、襲ってくる狼を次から次へと切り捨ててしまったのです。あまりに強い飛脚に恐れをなして、残った狼は、「崎浜のかじやのかかあを呼んでこにゃあいかん。」といって姿を消してしまったのです。
 かじやのかかあ??。なんのことやら分からないまま、飛脚は杉の木の下で身じろぎもせずに待っていたところ、またざわざわと音がした。今度は本当に大きな狼が頭に平鍋をかぶって、襲ってきたのです。飛脚は刀の峰で平鍋を叩き割り、そのまま狼に切りつけたものの、切り殺してしまうことは出来ずに逃がしてしまったのです。

 お産をした女を岩佐の人家に預けて、急ぎの仕事をかたずけてから、崎浜へ向かったのです。昨夜あいつらあは確かに「崎浜のかじやのかかあ・・」といった。
 鍛冶屋の前で主人に、「おばんはおるか。」と尋ねると「おばんはおるけんど、ぐあいがわるうて寝こんじゅう。」という。
 奥へ案内されていくと、白髪のばばが寝ていた。人間の姿はしているが、何かが違う。これはきっと畜生に違いないと確信をして、寝間に踏み込み切り殺したのです。その死骸は、鍛冶屋の婆ではなく、年取った大きな狼だったのです。
 鍛冶屋の主人に夕べからの話をしたところ、狼が鍛冶屋の婆を食い殺して、化けていたことに合点がいったので、主人と飛脚は周辺を探したところ、床板の下からたくさんの骨が出てきたそうな。

 出産をした女は、長宗我部の遠征軍に加わっている夫を追っていたとも言うが、よくはわからん。南路志という本には奈半利の女とも書いてあるが、それもようはわからんね。
 野根山街道を舞台にこんな話があった。

そう、その大きな杉は、古株になっていますが今もあります。
 安産の「お守り」として有名となって、削り取られていますが、ありますよ。

 しかし、その杉の巨根の横にまた大きなヒノキが寄生しており、ひとつの株のようになっていることから、時々間違うてヒノキを削っていく人がいるようです。
 「まあ、安産には効かんろう。」