ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

 配達

2012-11-07 15:06:10 | 木の記憶

 現在87歳の方の森林鉄道に乗った記憶です。

 彼は安芸市内で清涼飲料水の製造販売を生業としてきました。

 まだ森林鉄道が走っていた頃のこと、かれは馬路村魚梁瀬にある商店から注文があると、安芸市の工場から商品を運んでいたのです。

 届けていた商品は「みかん水」、「ラムネ」、「ミルクコーヒー」等でなかなかに重かった筈です。現在のような紙パックはありませんからね。当然のごとく全部瓶です。

 午前8時前には家を出て、奈半利の取引先に顔を出し、用事を済ませてから、商品を森林鉄道の客車に積み込んで魚梁瀬まで運んでいたのです。

 その当時には魚梁瀬にも若者がたくさんいて、多くの人たちが生活しており、賑やかな場所だったそうです。

 もちろん奈半利町の町中にも何軒かの取引先があって、配達仕事があり、結構忙しかったのです。良い時代です。

 現在は大手の製造業者がいて、総販売責任者がいて、大型スーパーで販売をしているのですが、かつては地元業者の製品を地元の小売店が販売をして、消費していたのです。
 
 そのまんま「地産地消」だったのです。



 そうしたことを語る表情は和やかで、私の突然の質問に、若かりし日の思い出探しをしてくれました。
 「よう売れた。」彼の実感です。

 彼にとって、森林鉄道は配達の手段だったのですが、それが廃線になる頃には、奈半利町樋之口の業者が彼に代わって彼の商品を運んでくれるようになったそうです。

 昭和40年に魚梁瀬ダムが完成すると北川村や馬路村の奥地に住む方々が、少なくなってきたのでしょう。そして奈半利町の業者が他の食料品と共に運んでも事足りる量になっていたのです。

 森林鉄道は、木材を運んでいた鉄道だったのですが、山の暮らしを支える生活物資の運搬手段でもあったのです。

 鉄道がなくなると、軌道敷は道路となり、トラック輸送の時代が始まったのです。
 昨日も北川村方面からの木材運搬車に出会いましたが、直径が20cmにも満たない小径木を何十本も積んで走っていました。

 搬出する木材の中身が変わってしまったのです。
 山が変わったのです。

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田野貯木場開設とその時代

2012-10-11 01:45:28 | 木の記憶
 最近、隣町(田野町)で何やかやと取材をしている。                資料を読み、現場で確認をして納得がいかないところ等は現場取材です。「~~はどうでしたか?」「こんな可能性は?」思いつくままにこちらが質問すると結構いろいろと教えてくれる。最初は胡散臭い感じでとっつきにくいのですが、理由をしっかりと説明をすると急に饒舌になる。人は面白いものだ。

 今日の題材は田野貯木場開設と当時の物流事情です。

 「田野貯木場は明治30年(1897)に魚梁瀬事業区字千本山国有林官行事業開始に伴いその製品貯蔵場として設置されたものの、一時中断、明治35年(1902)に官行伐採事業開始と同時に復活し奈半利川を流送した木材を海浜で水中貯材する小規模なものであった。」と資料にある。

 その水中貯蔵場所については、森林鉄道の写真集「林鉄」の撮影作者 寺田正氏の記述に「運河跡」についてのものがあります。運河をつくってそこで筏を組み、船でその筏を引き、室戸を回って関西方面へ向かう、そうした計画があったようなのですが、途中で計画が頓挫して海上運送に向かっていったのです。その「運河跡辺り」だったろうかと私は思っています。筏での運送はリスクがありすぎたのでしょう。
 寺田正氏曰く「あほう掘」です。

 ホンの一部だけは例外があったようですが、ほとんどの木材は切り出された場所から奈半利川の水の流れに木を浮かべての「川流し」をして海岸部まで運んだのですから、そうして田野岸側にあったのですからあの場所しかないのです。





さて、馬路から田野間の森林鉄道が開通する前年、明治43年(1910)に田野貯木場が完成し、木材を陸揚げして貯蔵する事になるのですが、当分の間はトロッコで海岸まで運んで、波打ち際で木材を海に浮かべて船に乗せて運ぶような状態が続いていたのです。まだまだ陸上交通が未成熟な段階だったのです。
 
 現在のように高速道路を走るトラックなどというものは想像だに出来なかったのです。

 ただ森林鉄道のトロッコが走り始める少し前、明治41年には高知市から徳島市に至る道路整備が順調に伸展して甲浦まで開通していました。現在の国道55号です。安芸市から奈半利までとか、田野から北川までといった短距離交通便が運行を開始していたのですが、重量物の長距離運行に耐える車両の開発が待たれていたのですが、それは昭和の時代まで待たなければならなかったのです。

 まだまだ当時、物流の多くを海運に依存していたのです。
 高知県の東部地域では土佐商船とか藤村商船といった沿岸海運会社が運行を始めてしのぎを削っていたのです。
 土佐商船(社長 野村茂久馬)の明治32年の記録があります。船は2~3百トンの汽船で、高知から赤岡、手結、和食、安芸、伊尾木、安田、田野、奈半利、と寄って羽根、吉良川、室戸、津呂、椎名、佐喜浜、野根、甲浦まで寄港していたのです。

 これはまるでバスです。

 あの頃の中芸地域の経済人は頑張っていたんです。
 明治の土佐の男達はエネルギッシュです。
 御維新以来40年余、新しい時代が高知県東部地域に到来したのです。
 現在から100年ほど前のお話でした。

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山の音楽会 IN 千本山

2012-09-29 11:40:46 | 木の記憶
 楽しそうなイベントが開催されます。
 ご案内しましょう。




 馬路村の魚梁瀬、千本山の木立の中でギター演奏会が開催されることになりました。

 もう何年も前からやりたいことの一つだったのですが、やっとというか実現することになりました。森林鉄道の100周年記念事業として開催する予定だったのですがね。

 行くかって?。

 もちろん参加です。
 ただ募集人員が25人ですから、少ないねえ。

 来月の27日(土)AM10*00集合、PM5:00解散という事になっています。
 申し込み締切りが19日です。

 主催は魚梁瀬山の案内人クラブさんです。
 興味のある方は0887-43-2211へ是非どうぞ。

旅の記憶

2012-05-16 09:45:01 | 木の記憶


 今日は久しぶりの「木の記憶」シリーズです。

 思い出の引き出しを出してくれたのは、現在86歳の女性です。時期は彼女が23歳ごろの事です。私もまだ生まれていないのですし、行った場所は馬路村魚梁瀬、千本山です。

 多分その頃の高知県東部地域には今以上に豊かな木々が、天然木が林立していたのでしょう。山にも多くの人々の暮らしがあって、賑やかだったはずです。

 彼女はその頃、田野町の今の中芸高校がある場所にあった青年学校で教壇に立っていたのです。時折魚梁瀬の話を、そして地域経済を支える森林の豊かさについて教員仲間で話していたそうですが、機会を見つけて2~3人の友人達と出かけたのです。

 出発は奈半利町樋之口の駅です。トロッコに乗せていただいて一路北へ北へ向かったのです。ゆっくりゆっくりと進む機関車の印象としては、とにかく「怖かった。」のだそう。
 教員として地域理解を深めようとしたのです。

 なにしろ木材を積むトロッコの上にそのまま板を敷いて乗っていたのですから、川の流れに目をやると、引き込まれそうだったそうです。

 馬路に着くと若い営林署の職員が中川、西川千本山と案内をしてくれたのだそうです。
 何を聞いたのか定かではないようですが、植物について誠に詳しい方だったようです。

 宿泊は石仙だったか中川だったか、営林署の作業小屋のようなところに泊めていただいたのだそうです。「電気はまだついてなかったように思う。」山歩きに疲れてすぐに就寝だったのです。

 帰途はもちろん木材満載の森林鉄道の車両群の最後尾にまたトロッコを連結していただいて帰ってきたのです。「イワタバコをトロッコにのったまま採った。」
 ゆっくりゆっくりと帰ってきたのです。



 木材を伐採する山の中から、森林鉄道でトロッコに乗り、大きな木材とともに下りてきたのです。

 そして当時の田野町海岸ではこうした作業が行われていました。
 木材を気帆船に積み込んで、主として関西方面へ・・・。

 高知県の東部地域が最も活力に溢れていた当時の記憶です。

 魚梁瀬森林鉄道は海岸部に住む学究の徒の好奇心も文化も運んでいたのです。

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セピア色の縁

2011-06-17 22:26:27 | 木の記憶
 昨日の午前中のことです。一本の電話がかかってきたことから外出したのです。
 出かけた先で一冊の本と元気な地域史研究の大先輩に会うことが出来ました。

 一冊の本はこれです。



 1952年
 講和記念

 奈半利営林署

 と標題があります。

 開いてみると、古い写真がたくさん盛り込まれていました。
 この本が出版された年は、私はまだ1歳です。その頃の本です。



 木のサイズがでかいですね。4mに玉切りされた木材の外周を縁取りしてあります。
 基本的に人力で動かしていた「ひよう」さんの仕事風景です。



 木材をトロッコに乗せて、海岸部の貯木場に向かっています。
 線路の脆弱な感じが、いかにも森林鉄道です。
 頻繁に記録に残っている「脱線」。予感できますねこの写真。



 奈半利貯木場全景の写真です。
 遠景なのですが、木の太さがわかります。さらに海岸に堤防がないのが驚きです。
 あって当たり前なものがないのは、妙に変です。



 森林鉄道が運んでいたのは木材だけではなく、人も運んでいたのですが、さらにこんなものも軌道を使って運んでいたのです。これは証拠写真です。
 これは木炭です。
 森林鉄道が出来るまでは、木炭の搬出については馬の背に乗せて、さらに自分でも肩に担ぐしか方法のなかったのです。トロッコに積まれた木炭の俵の量は圧倒的です。物流の改善は生産能力の拡充に繋がったことでしょう。

 お目にかかった郷土史研究の大先輩は、土佐山田からお見えになった方で、私の父にも面識があるということから面談の機会を得たのです。

 郷土史といっても膨大な研究テーマに質と量もありますからね、ちょっと追いつかない感じでした。
 ただ話,自体は楽しかったですよ。長宗我部から吉田茂まで、かっこよく言えば時空を越えてどんどんすすんでいました。

 先ほどのセピア色の写真より縁を感じる話でした。
 本はまだまだたくさんの物があるのでしょうが、人は、ご縁がないと会うことが出来ないですから、時間をいただいたことはありがたかったですね。

 昔の話は真に面白いのですが、研究活動エリアを拡大する予定はありません。
 私に残された時間は歴史研究には少なすぎると思っているからです。


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山の生活。

2011-04-22 17:49:46 | 木の記憶
 今日紹介するのは、元営林署で働いていた職員の記憶です。

 彼の父親も営林署の職員でした。彼は高知農林高校(現在の高知農業高校)を卒業後、昭和28年に営林署に入ったのです。最初の赴任地は野根営林署管内の竹屋敷事業所でした。野根営林署から竹屋敷に向かう方法は、東洋町野根から室戸岬を回って奈半利町まで来て、そこから魚梁瀬森林鉄道奈半利川線にのって二又まで、ここまでは定期便に乗っていく。さらに竹屋敷作業所に連絡をして迎えに来てもらうのです。そこから安倉、尾河、菅の上を経て竹屋敷まで、奈半利からの距離だけでも40Kmほどです。

 さすがに営林署の職員さんはルートが違います。以前に紹介した竹屋敷の学校に通う教員は野根からダイレクトに山に登ることで、分校に到着していたのですがね。

 初任給は6千円ほどだったようですが、当時の山仕事をしている方々の給与が2万円ほどだったそうですから、山仕事の方々の3割程度だったことになります。
 休日は月に一回。「定木(じょうもく)」と呼ばれる休日があったそうで、当時流行っていた映画を見るために、トロッコに乗って海岸部まで出かけたのです。

 各事業所ごとに配給所があり、日用品のほとんどが手に入ったのですし、手元に現金がなくとも「ツケ」で品物を受け取ることが出来たのです。そして給料から天引きされたのです。自分が勤める事業所以外の配給所で買い物をしても同様なシステムで決済が出来たのですから、当時としては画期的だったのでしょう。
 最も売れていた商品ってのは、「酒」だったのだそうです。よく飲んだのでしょう。

 海を見たことがない子供達がたくさんいたところですから、閉鎖社会で不便だったのです。そして危ない仕事だったのでしょう。
 面白い記述がありました。

 「山の仕事で最初に覚えなければならないのは、雨でも火を焚けるようになること。」
 なるほどね。



 現在の竹屋敷の写真です。ここにかつては分校があり子供達の声が山間に響き渡っていたのです。
 いま住んでいる人は3人の老人だけです。住めば都なのでしょうかね。

 海岸部に生活している私達とは、日常が違っていたのです。

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2011-03-20 15:41:53 | 木の記憶
 今朝、安芸郡北川村宗の上(花の谷)に行ってきたのですが、もう既に春が来ていました。



 野の花が満開でした。

 まあ、どれがどれやら解らなかったのですが、色が溢れておりました。

 花が咲いていると、周囲が明るくなって気分が好いのです。



 私にも梅と水仙は解ります。
 今日は好い日です。

 例の作業をしていたのですが、午後から雨が降り始めたことから急遽中止。
 沢の水はいつもどうりに、きれいでしたね。

 魅力満載の場所なのです。

 花の谷を、もう少しきれいにすると、みんなに楽しんでいただきましょう。
 少しずつ手を加えると、花の谷が徐々にさっぱりしています。
 3月も中旬を過ぎて、春だけど、少し寒い。
 今日は雨にぬれたから、風邪を引かないようしよう。

 高知県の中には、こうした場所はたくさんあると思うのですが、あまり利用されていません。ここで何が出来るか、検討です。
 こうした場所は高知県にとっての未利用資源でしょう。
 山里再生事業ですね。
 昔は材木を積んだトロッコが頻繁に動いていたところでもあります。

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森林鉄道の価値

2011-03-08 01:21:49 | 木の記憶
 今回は現在82歳の男性の記憶です。彼の生家は安芸郡北川村平鍋。父親は炭を焼いて生計を営んでいました。
 彼が小学生のときには、魚梁瀬森林鉄道の安田川線のほうは、すでに機関車が走り多くの木材が運ばれていたのですが、奈半利川線の方は未だ計画段階であったのです。そうした彼の父親は炭を搬出するのに馬の背に4俵を積み上げ、1俵を肩に担いで平鍋から海岸部の奈半利町に向かったのです。距離は5里とされていました。普通に歩くと5時間かかることになり、往復するだけで10時間です。彼の記憶では早朝まだ薄暗いうちに家を出た父親は、奈半利町の天神にあった仲買商のところで荷を降ろして精算をし、食料品から日用品を購入してその日のうちに帰ってきたのだそうです。大変な労働量だったのです。
 そして彼が通っていた学校には1年生から6年生まで、全員で70人ほどいたのだそうですが、場所が場所だけに仲間の子供達のなかには、海を見たことがない子もたくさんいたのだそうです。


 写真は昭和16年に完成した堀ヶ生橋です。このような国内でも最大級の橋が建設されたのです。この前年下流の二又橋通称めがね橋が完成していました。さらに下流の彼が学校に通っていた小島地区には鋼製橋梁、小島鉄橋がすでに昭和7年に建設されていました。橋長143Mという現存する森林鉄道の中でも最も大きな鉄道遺産として残っています。彼が通っていた学校は現在は北川温泉が建っている場所ですから、出来たばかりのあの鉄橋を毎日見ていたことになります。ピカピカに光っていたことでしょう。

 昭和16年ごろ、彼は北川村小島の北川村第2小学校を卒業して、安芸市の学校に進学することになり、北川村平鍋から出て1年間は学校の近くで暮らします。そして平成17年には北川村二又から釈迦ヶ生までの森林鉄道が竣工したことから生活サイクルが変わります。炭を馬で運んでいた父親は軌道敷きまで炭を吊り上げて、トロッコで運搬し始めたのです。運搬する時間が短縮し、一度に運ぶ量も格段に増えたのです。さらに奈半利町樋之口駅前で宿屋を始めることになります。森林鉄道が開通することで駅前には人や物が集まり始めたからです。「機を見るに敏」といったところです。

 森林鉄道は国の施策によって木材を運ぶために敷設されたのですが、周辺に住む住民の生活を一変させたことになります。

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あぶない記憶。

2011-02-27 20:45:15 | 木の記憶
 今年80歳になる元教員の記憶です。もう60年も前の記憶なのですが、彼の話し振りから鮮明な記憶として、今でも思い起こしているようです。

 彼は北川村第二小学校竹屋敷分校に教員として赴任することになったことから、森林鉄道と係わることになります。
 木材を積んで貯木場に下りてきていたトロッコに、家財といっても布団とそう多くない荷物を乗せて、一路北川村竹屋敷に向かうのです。
 昭和20年代の半ばのことです。

 北川村二又までは魚梁瀬森林鉄道の本線なのですが、そこから先は支線になるのです。時間もかかったそうで、奈半利町からだと北川村竹屋敷までは10時間ぐらいはかかったそうで、広い北川村でも奥の奥といったところなのです。

 今でも思い出す彼の記憶は2つ。一つは危ない記憶。
 学校の教員ですから4月に竹屋敷に向かい、8月の夏休みに下りてくるのです。長い休みに入ると実家に帰っていたのです。

 そうした彼が休暇を終えて竹屋敷に戻ろうとしていたところ、折からの台風によって橋が壊れていたのです。そして森林鉄道のレールと枕木が宙ぶらりんになっていたのです。
彼は食料品などを詰めたリュックサックを背負い、そのレールと枕木を腹ばいになって、ゆらゆらと揺れながら通過。そこから先は歩いて竹屋敷まで行ったというのです。

 橋がなくなっていることは、竹屋敷の営林署の職員さん方も知っていて、歩いてやってきた若者に向かってこういったそうです。
 「この若いしは命知らずじゃ。」学校で子供達が待っているのですから、何が何でも行かなければならなかったのでしょう。迂回路など結構距離があって、そのまま橋の通過を強行。少々の危険を顧みない行動は若さゆえですね。

 もう一つの記憶は、子供達の健康診断のために北川村第二小学校に子供達を連れて、トロッコに分乗して行っのだそうです。場所は今の小島地区の北川温泉がある場所だったそうです。連れて行った人数は18人。小学校6学年全員で18人だったのです。
 彼は竹屋敷分校では家庭科以外全ての教科を1年生から6年生まで教えていたのだそうで、家庭科は徳島県の宍喰から女性の先生が週に一回、山越えで歩いて教えに来ていたのだそうです。
 凄い複・複式学級というか、分校だったのです。

 こちらの記憶は、案外楽しかったのでしょう。
 今から考えると、子供達をトロッコに乗せて3時間移動ですから、アドベンチャーツアーみたいなもので、遠足気分でもあったのでしょうかね。

 今昔物語といったところです。
 
 その竹屋敷にはいま年配の方が一人、お住まいだそうですよ。
 通称「ガソ」、ガソリンエンジン動力車が走っていたのです。
 
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選挙

2011-02-17 16:52:30 | 木の記憶
 今日は森林鉄道に係わる、変わった記憶です。
 今年は選挙の年なのですが、森林鉄道が走っていた時代にも当然選挙もありました。

 北川村の古老の記憶を紹介します。
 その方は現在83歳。昭和3年生まれです。役場にお勤めの公務員だったのです。
 彼の記憶です。

 かつての北川村の投票所は7ヶ所。野友に小島。島・安倉・木積に久木、そして竹屋敷にありました。私が面白いと思ったのは当時の行政の出張にかかわる話です。

 現在だと車で10数分でしょう。和田地区でも一泊出張なのです。そして竹屋敷は2泊地区だったのです。竹屋敷にしても現在では車で1時間ぐらいかな。
 森林鉄道が1日1往復しかなかったのですから、そうした事になっていたのです。
 今のようにマイクで喋りながら流していくなどという事は無かったのです。
 

 選挙があると投票日前日にそれらの場所に前泊をしないと投票開始時間に間に合わないのです。そして投票が終わると、投票箱を借り受けたトロッコに乗せて役場まで暗闇の中を運んだというのです。

 あまり古い話でもないのです。昭和35~36年ごろ迄の話です。
 森林鉄道以外には交通手段のなかった頃の話です。




 現在の投票所は5ヶ所。久木と竹屋敷の投票所はなくなってしまいました。過疎による住民の減少が原因です。北川村の北端地区に住民がいなくなってしまったのです。限界集落となってしまいました。

 かつて森林資源が豊かで多くの作業員を抱えていた時代の話です。
 そしてダム建設を目的として森林鉄道が撤去され、道路が建設されると住みやすい場所を求めて、山間の住民は転居し、そして・・・。

 便利になった道路を使っての移転が行われました。
 利便性が向上すればするほど、人口流出に歯止めがかからなかったのです。
 そしてダム建設に係わる保証金を得た方々も地域外に出て行ったのです。
 集落がなくなれば、当然ですが投票場所はなくなります。

 かつては山間部にも住民が生活できる経済的な保証があったことになり、現在ではそれがなくなっているということになります。