ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

痕跡が残っています。

2012-07-29 19:48:31 | 森林鉄道物語
 先日、田野町の地元の方と田野貯木場の確認に行ってきました。

 9月にご案内をする方々への準備です。いまだ隣町の町中は情報が少なすぎるのです。

 最初からどうも記憶があいまいで、貯木場の境がわかりずらく、あとで確認をやり直したほどです。一人の人間の記憶は時々??がついてしまいます。こんなときには複数のそして公的文書に頼ると案外早期解決となります。



 田野町の東南端付近でしょう、トロッコが走った橋の橋脚台がありました。9月にご案内する方々にはご紹介できるはずです。



 レールの現物も残っていました。
 かつてはこのレールのうえを木材を満載したトロッコが走っていたのです。

 この場所にもご案内しましょう。

もう少し確認をして10箇所程度の話題を見つけることにしたいものです。
出発点から2時間ぐらいの午前中の話です。


 田野や奈半利の町史を比較しても、何となくイメージが違うのですから、「すり合わせ作業」が必要です。


 ただ、現場で確認する方が文字情報よりいいようですね。
 私の勝手な想像が味付けになりますから話が膨らむのです。
 ときどき精査する必要がありますがね。


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252年前の訴訟問題

2011-07-13 17:19:56 | 森林鉄道物語
 宝暦9年11月(1759)のことです。土佐藩は田野浦の岡徳左衛門から御用銀400貫目を、年1割5分の利息、期限1年間、で御留山の木材を担保にすることで調達するのです。
 しかしながら、土佐藩は宝暦10年と翌11年に利銀を払ったのみで以後支払うことが出来ずにいたのです。

銀400貫目とは66,666両にもなる大金です。岡家にしても安易に調達できたはずはないのです。今の金額で50億円を越える額かと思います。

 そこで藩は岡家に対し、安永3年(1773)に元利銀の支払いに代えて期限内の伐採権が与えられたのですが、岡家側の都合でそうすることはしなかったと言うか、出来なかったのです。

 確かに土佐藩は御用銀の調達の為、山を抵当に入れていたのですし、完済することが出来なかったのですが、明治4年にはその状態のまま藩籍奉還となったことから、訴訟問題が発生してしまったのです。

 大正3年2月23日(1914)に原告岡嘉文の敗訴となりました。岡家は元利金合わせて1064貫目360匁の権利を失う事になりました。伐採をしなかったのは岡家の都合だとされたのです。裁判所は、山の所有権を移転することではないとしたのです。

155年後の決着でした。

 国有林か民有林かで争われた安芸郡馬路村明所山(あきしょやま)訴訟問題で国側が勝訴となり、昭和4年から魚梁瀬森林鉄道の奈半利川線の工事が始まったのです。途中何年間かの空白を繰り返し、昭和17年11月に奈半利~釈迦ヶ生間が開通、安田川線と合流して、合計84Kmもの循環鉄道が完成したのです。 

 勝手な解釈かと思いますが、この訴訟問題がなければ、魚梁瀬森林鉄道は奈半利川線から先に建設されたのではないかと考えています。なぜなら逆勾配の場所がなくなるからです。

 野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。岡家が土佐藩に資金調達をした2年後のことです。

 参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。

 一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽、幕府の巡検使に道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。

 全国の大名家では、藩財政の悪化に四苦八苦していたのです。当然ですが、藩の財政が悪化すれば、一般民衆への税負担は厳しくなっていたのです。不平不満が蓄積されて、先行き不安な状態になったのです。

 そうした状況も幕末に向かう大きな流れを生み出す基となっていったと考えています。

 こうした時代に資金調達をして、幕末を経て明治にも出来ずに、さらに大正になってはじめて決着がついたものの、さて岡家はどうしたのか。どうなったのか興味があるところです。
 さらに、どうした理由で木材の伐採をしなかったのだろうか。

 調べてみましょう。その岡家の住宅は、今も高知県安芸郡田野町にあります。

 「岡御殿」として多くの観光客を迎えているのです。


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辞退する

2011-06-18 08:18:36 | 森林鉄道物語
 結論を先に書くことにします。

 魚梁瀬森林鉄道の開通100周年を記念する事業をする実行委員会委員を辞退することにしました。
 ここ1年程度の期間、事業検討会で結構思い入れをもって活動をしてきたのですが、これから2年ほどの時間をかけて、事業を実際にやっていくことについて納得が出来ないことになりましたので辞退するということになりました。



 森林鉄道は山の魅力や郷土史の課題としては必要不可欠な研究分野ですから、これからもこのブログでも書いてゆく事になるのでしょうが、イベントについては一線を画すことにしたのです。

 幸いなことにまだ何も決まっていない時期でもありますし、辞退してもどなたにも迷惑はかからないとの判断でもあります。

 人間の世界はよくわかりませんが、自然界は何時行っても泰然自若。そこにあります。あのようにありたいのですがね。無理ですね。

 5年、10年と継続できている事業もありますが、今回の事業は始める前に、頭の中で「止めた方が良い。」ということになりました。

 私の結論です。
 無理をすると、後で痛い目にあいますからね。

 仕方なし。
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こんなので良いはずがない。

2011-06-10 21:42:16 | 森林鉄道物語
 こんなやり方で良いんだろうか。

 今日は午後3時から奈半利町で魚梁瀬森林鉄道の100周年記念事業実行委員会発足式が開催されました。

 実行委員会の発足式なのですが、なにやら不透明感があって欲求不満状態になっております。

 明治44年に中芸地域の奥地にある森林資源の搬出を目的として森林鉄道が敷設されたのですが、閉鎖されて以後ほとんどの軌道が現在は道路として利用されています。
 地域密着型の歴史資産なのです。

 このたび魚梁瀬森林鉄道の開設100周年を記念して事業を実施することから、なぜだか私も実行委員として選任されていたのです。それで今日の発足式に参加していました。

 それが、事業内容も、予算も分からず役員人選をするだけの会だったのです。その人選も私の提案は無視され、勝手に採決、さらに採決での結果まで誤魔化されてしまいました。

 進行役がカウントもせず、決定してしまいました。いかにも行政的というか、お役所的というか、困ったことです。

 進行役の「過半数ですね」アノ発言は当分の間、忘れないでしょう。

 5ヶ町村が協力して事業遂行するべき事業の役員を奈半利町だけで独占するとは、よくわからんね。

 意図が見えない分だけ、事業遂行に不透明感を感じています。
 事業遂行の役員は名誉欲だけでなるものでないと思うのですがね。

 閉会の言葉が後の懇親会の時間の話ですから、後は推して知るべしなのです。
 この発足式に出て、皆、どのような事を思い描いたのだろう。
 そうしたことを他の人に聞く必要もないのですが、なにしろ100年に一回の記念事業ですからね、少し気になります。

 事業内容について色々と考えていたことが、急に色を失い、熱も冷めたような気がしています。
 もちろん後の懇親会は欠席です。

 ま!!。自分の仕事に専念できるというものです。

 60年も生きているといろんなことが起きるものです。

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突貫工事

2011-05-30 01:19:33 | 森林鉄道物語
明治42年9月高知県知事石原謙三より森林鉄道敷設の用地提供の要請文を安田町中村の竹内代吉氏が受け取っていることから、その頃に田野町の貯木場から安田町不動を経て中山から馬路にいたるルートを決定しているのです。それ以後,設計等の準備に係り明治43年に工事を始めて、明治44年には田野から馬路にいたる24Kmの工事を完了させたのです。トンネルや橋梁が連続する安田川沿いの難所続きのルートなのです。トンネルだけで馬路まで7ヶ所必要だったのですし、桟道、橋梁まで含めると一般国道の建設以上の難工事だったはずなのですが、1年ちょっとの工期で完成させるのです。

 明治の新政府の国策事業だったのです。
 一体何人の作業員が動員されていたことやら。
 岩石と爆薬で戦い事故が起きたこともあったとされています。
 
 さらに大正4年には魚梁瀬まで、大正6年には石仙まで延伸したのです。
 本来、魚梁瀬の豊富な木材資源を搬出するための森林鉄道だったはずなのですが、奈半利川沿線より先に安田川線を着工したのです。

 もちろんナゼそうなったのか、理由はあります。
 明治32年に制定された「国有土地森林原野下戻法」により奈半利川沿いの国有林が係争の対象となっていたことから、こちらを断念して、釈迦ヶ生から馬路間が逆勾配になることを承知の上で、安田川沿線に決定したのです。

 現在のような重機もなく、コンクリート工法もない時代、人海戦術と熱意で作られたのでしょう。新しい日本という国づくりに、みんなで参加していたのです。





 トンネルはすべてこうした石積みの隧道で、全線川沿いですから、ほとんどの隧道がゆるやかな曲線を描いています。優秀な石工さんがたくさんいたのです。そういえば山の斜面をきって路面を造っていますから、ほとんどの場所で石垣が延々と築かれています。
 ただただ唖然とする仕事振りです。「良い仕事してますねえ。」
 この隧道、海岸から数えて7番目の五味隧道です。既に新たな橋梁建設のために半分埋められています。



 この場所は、安田町明神口橋の上から川面を撮りました。
 ダムのない川の水は澄んでいて、何時見てもキレイです。



 現在の明神口橋の写真です。
 橋の上から川面がそのまま見えるようになっています。
 明治44年には木造で建設されたのですが、機関車が導入されたことから鋼製鉄橋に昭和4年に架け替えられました。



 勾配、カーブがきついうえ、逆勾配もある危険な鉄道だったのですが、地域の住民にとっては、これしかなかったのです。

 明治44年ですから、今年で100年経ったことになります。
 24Kmを1年ちょっと。
 現在でも出来るかどうかの長さです。

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森の伝説 1

2011-04-26 01:38:32 | 森林鉄道物語
 写真を見比べてください。
 一枚目は

 

 魚梁瀬森林鉄道奈半利川線の北川村島の写真です。
寺田正氏の写真誌によると、昭和32年北川村島駅との記述があります。
 明るい笑顔が印象的です。

 ここには商店や旅館が軒を連ねて、商店街を形成していたのです。
 旅館を経営していた方の記録を見てみると、自分達家族の寝る場所までなくなるほどのお客が引きもきらずに押しかけていたのだそうです。来ていたのは山師(山の立ち木の売買人)や行商、セールス関係、ダムの工事関係者たちであったらしい。
 それも、道路がつくとバスが走り始めて、客は減っていったのです。

 

 そうして現在の北川村島地区の森林鉄道の軌道のあった場所です。
 歩く人もなく、寂しい限りです。
 森林鉄道が疾駆していた頃のような、かつての賑わいを取り戻すことが出来るんだろうか。
 
 

 道路を歩いていると納屋に見たことがないものがありました。かぼちゃを縄で括って吊るしてあります。とはいえ、そのかぼちゃは、干からびて細っていました。保存のためというよりも、種を取るのかと考えてみたのですが、よくわからないままです。

 現在の北川村島は柚子生産の拠点になっています。
 それと林業で生計を・・。そうした時間が経過している場所です。
 

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本当なのかな。

2011-02-28 14:22:08 | 森林鉄道物語
 今年は魚梁瀬森林鉄道が開通して100年がたったことから、記念事業がいくつか行われます。
 その中で注目しているのが、山の中の音楽会。
 場所も千本山でやるのです。
 圧倒的な迫力を持つ木々に囲まれて、音楽を聴くことが出来るのですから、びっくりです。

                  



 どんな音楽が、場の力と合うんだろうかな。
 思い悩んでいます。
 やはりクラシックかなあ。

 これから具体的な作業が始まります。
 いつ、どんな音楽を千本山の巨樹の中でやるのか。
 どのぐらいの規模でやるのか・・・・。

 順番にやっつけましょう。
 これも実に楽しい作業です。

 300年も400年も生き続けている木々も喜んでくれるイベントになれば好いですね。

 本当なのです。
 記念イベントからはずされても、プライベートイベントとしてもやりたいですね。
 その場合、問題は国有林でも特別エリアですからね。
 千本山はね。

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記念イベント検討会

2011-01-28 10:48:19 | 森林鉄道物語
 今年2023年は森林鉄道が明治44年に馬路村から田野町の貯木場まで完成して以来丁度100年になるのです。
 保存する会の先生方は「開通100周年記念イベント」を開催したい意向のようで、検討会を続けております。

 25日の夜、4回目の検討会が開かれました。この会でイベント事業の候補が発表されたのですが、多岐にわたる内容でした。魚梁瀬ダムでコンサートだとか、100kmマラソン、小学生の絵画コンテストに山の音楽会にハイキング大会、隧道でカフェバー、チョロQ大会、・・・・。
 一見、限りなく広がっているようなのです。が・・。




 当初ですから、もっと広がっても良いのですが、真面目な方が多いものでこじんまりとまとまった印象です。

 これから、実施主体の実行委員会を組織し、事業内容を確定しなければなりません。
 まだまだこれからです。

 かつての高知県東部地域の生活は、長い間森林の豊かさに依存していたのですから記念事業ぐらいは真面目にやりましょう。

馬路村散策

2010-11-27 09:49:15 | 森林鉄道物語
 今回紹介するのは、あまり有名な場所ではありませんが、いいところです。


 出発は馬路温泉の前の紅葉道路。もうそろそろ紅葉も終わりです。
 ここから魚梁瀬方面に、安田川を上流に向かって歩きます。

             

 ここまで来るのに、歩いて15分ぐらいかな橋を渡って、旧製材所をとおり、民家の間を抜けて、ここまで来ました。






 森林鉄道河口隧道です。いまは村道として利用されています。
 ちゃんと隧道ナンバー「Ⅷ」が入り口右側に刻印されています。

 トンネルを過ぎると、何があるかは来て実際に自分の目で見てください。

 途中でこんなものもありました。
 森林鉄道の客車の残骸でしょう。これは多分そうでしょう。そんな気がする。


 なんか、時代が分からなくなるところです。

森林鉄道の隧道マーク

2010-11-17 21:23:53 | 森林鉄道物語
 今日はちょっと変わったものを紹介します。

 明治44年に開通した魚梁瀬森林鉄道。
 田野貯木場から馬路村までなのですが、海岸から明神口まで車で走ってみました。

 今日は特に隧道に記されているマークを紹介します。

 隧道の右に南からⅠ・Ⅱ・Ⅲと順番に石壁に刻印されているのです。
 知ってましたか?

 いかにもお役所的というか、明治時代に国家プロジェクトとして開設された森林鉄道の施設らしいのです。







 重要文化財として指定されてより脚光を浴びている森林鉄道遺産の豆情報、隧道編です。