ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

レコード

2012-03-30 16:53:38 | 昔話
 そういえば、いつの頃からかレコードを聴かなくなった。
 我が家にも結構な枚数のレコードが在ったのですが、引越しを繰り返すうちに、なくなっていた様に思っていたのですが、ひょっこりと突然登場です。



 なにやら懐かしく見入っていたのです。

 プレイヤーがないのです。

 壁にでもかけて楽しみますか。
 LPレコードのジャケットはなかなかいいものです。

 写真はCARMEN McRAE。私が最も好きなJAZZのVoです。
 うまいよなあ。

 最近聞くのはもちろんCDなのです。
 彼女が、ブログの更新を催促しているのかもしれません。



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収集

2011-12-20 16:11:03 | 昔話
 最近古い写真を集めています。
 特にご近所の物を探しています。



 先日手に入れた写真です。
 我が家から50Mぐらい西に行ったところの写真です。
 時期はいつの頃なんでしょうか。昭和の30年代でショウかね。
 50年ほど前ということになります。

 今は歩いている人を探さなくてはならないのですが、この写真では賑やかです。
 こんな時代があったのです。

 先頭の男性の誇らしいこと。
 左の着物姿の女性に抱かれた男の子はじっとその男性を見つめています。
 観客も多いですね。

 なにやら「よっちょれ、よっちょれ」と音が聞こえそうです。

 「料理 西山」は今も営業をしていますし、奥の2階建ては青果店です。
 我が家はその向こうなのですが、残念ながらこの写真には写ってはいません。

 この熱気どこにいったんでしょうか。
 いい時期だったのです。

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向かい地蔵。

2011-10-12 22:18:50 | 昔話
 高知県の東、奈半利川の東と西、田野町と奈半利町に2体のお地蔵さんが祀られています。名前を「向かい地蔵」と言います。ただ奈半利町のほうには別に1体のお地蔵さんが祀られています。今日はそんな話です。

 もう随分と昔の事になりました。まだ刀を差して歩いている侍がいた頃の話です。

 田野と奈半利は何かと仲たがいをして、大人でも、どこかで出会うと口争いをするのです。子供たちまで川を境に、互いに石を投げて喧嘩三昧といった日々でした。

 山内の殿様が来る前は奈半利の方が地域の交通の要衝として栄えていたのですが、山内の殿様が着てからは、殿様と共に掛川からやってきた商人達の住居を田野にしたり、商人としての様々な特典を彼らに与えたことから次第に田野の方が繁栄していたのです。

 あるとき、川で泳いで遊んでいた両方の町の子供達が、川の中で出会ってしまったのです。殴り合い、石をぶつけたりと大喧嘩となりました。互いに無事に済むわけもありません。
 怪我をするもの、さらに気を失って川に流されて、溺れ死ぬものまで出てしまったのです。当時、川は子供たちにとって、本当にいい遊び場だったのですが、突然惨劇の場となってしまいました。

 そうなると「子供の喧嘩」というわけも在りません。郷庄屋・浦庄屋・老・双方からみながが集って評議をしたのです。悪いのは双方です。大人も普段から仲が悪いのですし、やったのは子供達です。もちろん相手を殺す気などなかったのですし、事故だったのです。互いに傷を負い、心を病んでしまったのです。

 「なんとかしないと、いつか何かが起きる。」と、皆がそう思っていたのです。
 考えないようにもしていたのです。

 田野と奈半利。両方に向き合う形で「お地蔵さんを建てよう。」
 もう仲たがいをするのも「止めよう。」

 と言ったとか、言わなかったとか・・・・。
 そうしてできた「向かい地蔵」。



 それがいつの間にか、奈半利のお地蔵さんは、高札場の隣で南を向いて立っていますし、2体もあるのです。なにかそっぽを向いているようにも見えます。



 道路整備か何か、理由があるのでしょうが、南を向いています。

 田野のお地蔵さんは東を向いて、池谷川の傍で、相変わらず奈半利の方をむいて立っています。



 長い間、子供達を守ってくれているのだけは、確かです。

 そして平成16年ごろ、互いに古くなった祠を田野のお地蔵さんの分は、地域の方々の善意で、そして奈半利のお地蔵さんの分は「なはり浦の会」と高知県立工業高校の生徒さん方の好意で再建されました。

 いまでも近隣の方々が、前を通るたびに頭をたれ、手を合わせています。
 いつも花やお菓子が祀られています。

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自転車事始

2011-08-12 21:03:40 | 昔話
 明治の時代の話です。
 奈半利川にまだ橋もかかって無うて、川を船で人や荷物を渡しよった頃のことです。
 奈半利の町中で繁華に商売をしよった包国可治(2代目)さんが、なにを思うた
かしらんけんど、自転車を買うてきて乗り始めたがです。みんなあ見たこともない
ような物やったし、乗り物やき、あちこちから見に来て、「おんちゃん。早よう乗らんろうか。」といって、乗るのを待ちゆう人がおったぐらいやった。その年、明治37年の暮、奈半利の片町から北川に行く9尺の郡道が出来たがです。それまでは町中には野根山街道しか広い道が無かったもので、それより広い道が出来て、みんなあが、喜んだそうです。




 「包国のおんちゃん」も、この右の道を自転車で走ったろうと思うね。その当時は当然,自動車はまだ一台も奈半利の町には入ってきてないがです。それからじきに畠中兼次郎さんと言う人も、包国さんに負けられんと思うたか、便利なもんやと思うたか、わからんけんど、自転車を買うてきて乗り始めたらしい。けんど、そのころ自転車はえらい高うて、なかなか買えるもんじゃあナカッタがです。

 ほとんどの人が歩きよったがです。高知へ行くにも普通は弁当を腰に付けて、脚袢にわらじがけ、丸一日かかったらしいがです。女の人や足の遅い人は赤岡で泊まっていったがです。2日もかかって高知へ行きよったがです。

今は、車で1時間30分もあったら着くけんどね。

それに、「広い道」って言うけんど、野根山街道も今行ったら狭い道ながです。

一回、奈半利に来てみたらいかがでしょうか。
高知県の田舎もなかなかいいもんです。

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赤い川

2011-08-01 08:30:25 | 昔話
 もう随分と前になりました。高知新聞に「赤い川奈半利川」と題された連載が発表されました。中々に力の入った連載で、以後地域の環境問題を論ずる際の物差しとなりました。

 今日の写真です。



 赤茶けた水が流れています。水量は元に戻ったのですが、凄い色です。



 これは、台風6号が通過した際の写真なのですが、水の色も水量も圧倒的に見るものに迫っていました。
 多分これから、この濁った水が当分の間、流れ続けるのです。子供達も夏休みにこの川で泳ぐことなどちょっと無理といったところです。

 情けない話です。
 奈半利川に建設された3つのダムの影響で、当分の間こんな状態が続くことになります。
 ダムが出来て、対策本部が作られ、清流を取り戻す運動を続けている結果が、これなのです。

 ダムの無い川は、既に濁りを取って清らかな水を取り戻しています。



 昭和20年代以前のダムが出来る前の奈半利川は、流域全域でこんな感じだったはずです。
 戻せないものかな。
 人間が自然に水に入れる川になればいいですね。

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夢の共有

2011-06-11 05:40:35 | 昔話
 昔話です。

 随分と前の話です。そして新しい話です。

 こんな題がつけられた新聞記事を随分と前に読みました。

 題は「夢の共有」。未だに最も印象に残っている新聞記事です。

 昨日、実行委員会の発足式についての感想をブログに書きました。
 書いた後考えたのが、そして思い出したのがその記事のことでした。

 その記事のコピーを読んで改めて、色々なことを思い出しておりました。
 こんな記事です。

 世界的な企業の現状について紹介したあと、
 「全社員が共有できる夢を失った企業の凋落は早い。全社員や得意先、得意先すべてに、共有できる夢を提供し続けることこそが経営者の役割である。」さらにこのように続きます。
 「経営者の夢は言葉や経営方針だけではなく、実際の日々の言動やその一挙手一投足から、社員は敏感に感じ取る。それに共感して人生を賭ける人材がどれだけ集るかが企業の命運を決する。」という。

 そうして最後にこんな言葉で締めくくられているのです。

 「世界的企業でも日進月歩の技術進歩の世界では、誰も意見できないトップの視野が狭ければ凋落は一気である。夢を共有している企業かどうかが問われている。」

 新しく発足した新しい実行委員会という組織は、トップの委員長と私たち末端の委員との間で夢の共有ができているのだろうか。
 彼とは、ろくに事業について話したこともないのですから「夢の共有」などあるはずがないのです。

 ただ,もし私のほうに問題があるならば、だまってこの委員会から出て行かなければならないでしょう。

 組織したということはそういうことだと思っています。

 モシそうでなければ、この実行委員会。発足式の後、そのまま崩壊に向かうことになる。
 それも仕方ないことです。

 今まで30年ほど続けた地域活動の総決算がこの実行委員会で出来る、楽しめると思ったのですがね。真に残念です。



 山の神様が笑っているような気がする。
 「未熟者め!!」てね。

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 まあ、何か他にやれることがあるでしょう。
 取り組める何かがあるはずです。
 誰かの役に立つ何かが出来るでしょう。
 今日は奈半利町の街中のガイドをする予定です。

 雨、大丈夫かな?

 

思いを馳せて。

2011-05-27 23:37:09 | 昔話
面白い記録資料がありました。 本の題名は「東島文化史」。
 今日紹介するのは旅の記録です。安田町の先人達の力作です。

今でこそ旅は気軽に飛行機や汽車・バス・車で移動するのですが、ホンの140年ほど遡る幕末から明治の当初の頃には原則として旅は「歩き」ですから、命がけです。

明治初期、安芸の伊尾木から高知へ歩いての旅の記録で、一日がかりで高知まで行く費用についての資料です。
 
 赤野川橋賃 2厘、住吉手前の橋賃 1厘、和食堀の橋賃 1厘、

 (ということは伊尾木川と安芸川には橋が架かっていたのだろうか。または無料だったのか。調べてみましょう。)

 中食 1膳飯1杯1銭、副食3~4銭長谷寄や手結山・赤岡辺りでとる。
 (昼食はほぼ5銭です。奈半利辺りからだと安芸辺りで昼食です。)
 
 草鞋一足が1銭。古河橋賃 1厘。
 
 物部川渡船及び橋賃は平水2厘、出水5厘。
 (雨でも降って、水量が増えると費用は倍以上になったのです。)

 下田川より高知まで船賃1銭。赤岡より乗馬すれば下田まで平均10銭。

 (こうした記録は当時の物価なり地域の状況を想像するいい資料です。
  ただ、銭とか厘とか、現在の経済活動では使われていない単位ですから、少し分かり  にくいことから、現在の価格に置き換えましょう。)

 明治初期の米1俵(60Kg)が2円程だったようです。現在では14,000円程度ですから、当時の1円は米価から考えると7,000円ということになります。
 さらに1円は100銭ですから、1銭は70円。昼食代は5銭ですから350円ということになる。草履が70円。まあそんなものでしょう。また1銭は10厘ですから、橋の渡し賃1厘は7円ということになります。

 現在ほど移動の自由がほとんどなかった時代だったのですし、旅そのものを楽しむことなど出来なかったのです。
 遍路の巡礼や、金毘羅さんへの旅などが、大衆にとっての貴重な旅の目的だったのです。そして多分旅に出るときは、一張羅の服を着て出かけていったのでしょう。

 こんな資料集、奈半利の町にはほとんどありません。
 誰か頑張っていただきたいですね。
 


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遺跡?

2010-09-18 23:48:04 | 昔話
 かつて、この場所に慎太郎窯という、陶芸の窯がありました。中岡慎太郎館から50Mほど南です。

 誰でも気軽に会費さえ払えば入会できる場所でした。



 久方ぶりに行ってきました。
 跡形もなく、ただ雑草が生えて、どうということもない場所になっていました。

 夢の跡です。

eco応援団

2010-09-12 12:13:48 | 昔話
 テレビをつけるとECO応援団という番組が始まりましたが、山の中でピザ窯をつくって楽しんでいる方がいるというのです。
 どこかで聞いたことがある話だと思い、見入っていると旧知の方が出てくるのです。
 テレビ映りもいいですね。

 音声を大きくして、見入っているとピザ窯に使うレンガは北川村の慎太郎窯の廃材だとのこと。またまた縁がありますねえ。

 慎太郎窯を作ったときのメンバーの一人としては、あの窯に思い入れがあっただけにうれしくなりました。

 レンガを積み、耐火モルタルをつめて成型。屋根を葺く作業にも参加して、7年ほどだったか、遊ばせていただきました。
 2月本当に寒い日でした。一人で36時間ほど窯と向き合い、薪を投げ入れ続けたことがありました。窯に向かっている方は暑いぐらいなのに、背中は寒い。妙な経験をしたのもあの時でした。
 温度が上昇すると、火の色が変わるのです。そうした経験も慎太郎窯でのことです。

 そうか、あのレンガが、ピザ窯になったのか。

 きっと出来上がったピザはおいしいに違いない。
 テレビの中で、皆おいしそうに食べていましたねえ。

 また、陶芸をやってみたくなったが、今は殺人的な忙しさだけに、ちょっと無理かな。

 いつかやろう。手が粘土の感触を覚えているうちに。

資料雑感。1

2010-06-16 11:08:48 | 昔話
 県史やら、町史等をぺらぺらとめくっておりますと、時々??と思うときがあります。
 結構楽しい時間なのです。
 歴史好きには推理することが出来るのですから、楽しい時間なのです。
 下記の資料は、明治当初の人口調査の報告です。


明治3年(1870) 高知藩戸口調査
     男    女     計
1等~3等士族 3,931  4,292   8,223

4等~5等士族 11,207  11,076   22,283

卒   族     10,901 8,007   18,908

農人・浦人 184,669 161,033   345,702

諸 工人匠    13,697 10,457     24,154

諸  商  売   39,812 35,104     74,916

    計    264,217 229,969   494,186

 1~3等士族とは、イワユル上士でしょう。
 4~5等士族とは郷士です。
 卒族というのは、地下浪人やら、小者といったところでしょうか。
 農・漁・林の第一次産業の労働者が最も多いのです。
 工人は大工やらの職人集団でしょうか。
 明治になると商売にかかわる人達が多くなっているように思います。
 7万4千人は少し多いかな。
 江戸時代の中期には、山で仕事をしていた方々が、全労働人口の40%を占めていたことがあったのですから、商売人の数が急増したことになります。

上級の士族だけ女性の数が多くなっているのです。
また、この数字には、神官等一部の特殊業種の人数は入っていないのです。

高知藩の人口は当時49万4千人ほどだったようですね。現在が80万人弱ですからね。それぐらいだったのでしょう。

 上士格の1等から3等士族だけが、女性が多いですね。概ね男女平均して生まれてくると思うのですが、調査した結果そのようになっていたのです。

 1等から3等士族の男が少ない理由、それは戊辰戦争等、幕末から明治新政府の誕生に繋がる争いの中で、多くの人材が失われた結果だろうと考えております。

 ただ、貧困層になればなるほど、男が多く、女が少なくなっているのです。

 これは何でしょうか。伝説なのですが、老人を、働くことが出来なくなったものを間引くことはあったようです。でも、それでは男も女も同様に年をとり、概ね女性のほうが長生きをするのですから、合計数も女性が多くて当たり前かと思うのです。また農人浦人のグループでは男女間に2万3千人以上もの人数差があるのです。高知藩から逃げ出したにしても、男だけがそうしたという記録はないのです。

 貧しい時代には、より貧困層において労働量が期待できない女の子を乳児の時代に「マビク」行為があったそうなのです。一生涯結婚も出来ず、ということは家庭も持てず一介の労働者としてだけ生きながらえた男子が多かったことになります。

 土佐藩は貧しかったのです。一部の権力者を除いてはね。
 ??土佐藩だけでもないか??。日本全体が貧しかったのです。
 自分の子供を殺さないと自らが生きていけない世界だと考えれば、維新が起こって当然なのです。
 しかし、明治の時代になっても、士族は特権を標榜するのですから、概ね平等な今がいいですね。上士はぼんくらでも士族ですからね。かつては職業選択の自由すらなかったのです。

 結婚しない女性が多くなった昨今、いいのやら悪いのやら。
 生きていけるだけでも、よしとしなければなるまいなあ。

 各行政の長の方々は何を考えているんだろう。わからん。
 公務員の子弟は公務員になりやすいとか、教員の子弟も同様だとか・・・。
 そんなことはないよなあ。